開いた口へ牡丹餅。
まあ、棚から牡丹餅によく似た、思いがけない幸運が舞い込んでくる、といった風な意味をもつことわざの一つだ。
口は災いの元、なんて事はよく言うけれど、今回は珍しく福の方が舞い込んできたようである。
『喫茶マーブルキャピタル』
軒先に提げられた看板を見上げながら、ボクはそんな事を考えていた。
ここは王都フィーア。メインストリートからは少し外れた、路地裏の一角。
少し調べものをするために王立図書館を訪ねた後、そういえば先日モミジと話をしたお店はこの辺りだったなあ、なんて、ちょっとした気まぐれで噂のお店に立ち寄ってみたのだが、扉の下に置かれた立て札を見て、ボクは目を疑った。
なんとなんと、そこには『本日、妖狐族のお客様限定』の文字が踊っているではないか。
思わぬ幸運に巡り合い、思わず二度見してしまったのも、むべならぬ事と言えよう。
「いや、たしかに機会があればとは言ったけれど、これは驚いたな」
顎に手を添えそう零すボクの背中で、七本の尻尾がざわざわと揺れた。ともあれ、いつまでも店先でぼうっと立っている訳にもいくまい。
もう一度、立て札の文字を読み間違えてはいないかと確認した後で、ボクは扉のドアノブを捻った。ちりん、と吊るされた鈴が音を鳴らし、少しばかりひんやりした風が頬を撫でる。
「うわあ……」
そうして開いた扉の隙間から店内を覗き見て、ボクはその光景に圧倒されてしまった。
お店の雰囲気自体は、そう悪くない。
清潔感のある白い壁。天井では四枚の羽を持った天井扇がくるくると回り、その中央から下がる丸い照明が店内を明るく照らしている。
テーブルや椅子、カウンターは全て木製で、丁寧に塗られたニスが、僅かに暗い色の木目に光沢を与えていた。妖狐族に配慮してか、椅子の背もたれは真ん中が大きくくりぬかれ、尻尾が通せるようになっている。
なるほど、さながら純喫茶然とした、実にボク好みの佇まいではあるのだが、ボクが圧倒されたのはそうした部分ではなく、そこで今まさに飲食を楽しんでいる人々の姿だった。
自分と同じように着物姿の者、はたまた騎士風の鎧を着込んだ者や、ローブに三角帽といった魔法使い風の恰好をした者。服装はさまざまだが、その背では等しく数本の大きな尻尾が揺れており、それはまるで麦畑で稲穂が揺れるが如く。
いや、少し美化しすぎた表現だったとボクは自分を叱責する。
はっきり言おう。めちゃくちゃ暑苦しい。いや、ボクとてその一人ではあるのだけれど。
一人一本なら、ここまでではなかっただろうに。
平均三本から四本ほどといったところだろうか。ここが王都である事も相まって高レベルのプレイヤーが多く、一人当たりの尻尾の本数がやたらと多い。
幸い店内はわりと広く、カウンター席に座る他のプレイヤーの尻尾が邪魔で進めない、なんて面白い事態にはならなかったが、これは中々、衝撃的な光景である。
「いらっしゃいませ。お一人様ですか? どうぞ、空いている席におかけください」
思わず目頭を指で揉み解していると、白いエプロン姿の少女がこちらへと声をかけてきた。なんと、ウェイトレスさんまで妖狐族である。
ちなみに尻尾は一本。なんというか、もう、尻尾がゲシュタルト崩壊を始めそうな勢いであった。
席に着いたボクにメニュー表を渡し、栗色の短い髪を跳ねさせながら厨房の方へと戻っていく少女の背中へ視線をやりながら、ボクは小さく息を吐く。
それを見た隣の席の、赤毛が特徴的な妖狐族のプレイヤーがなにやら肩を跳ね上げ、尻尾の毛を逆立てていたが、ボクはあえて気が付いていないふりをしながら、渡されたメニュー表へ目を通していく。
どうやらここは定番のオムライスやホットケーキから、子羊のロースト、川魚の香草焼きといたものまで幅広く取り扱っているようで、そう何度も来ることができる場所でもないだけに、さてどれにしようかと、ボクはまるで子どものようにメニュー表と睨めっこを始めるのだった。
ああちなみに、妖狐族向けに用意したのであろう、稲荷寿司やきつねうどんといった、油揚げを用いた料理の名前もしっかりと連なっていた事を、合わせてご報告させて頂く。
「お悩みのようでしたら、オムライスがお勧めですよ。妖狐族限定メニューという訳ではありませんが、やはり定番であり王道。この店の料理が如何ほどのものか、知って頂くにはこれが一番かと」
柔らかで掴みどころのない、まるで雲のような優しい声であった。
不意にかけられたその声の方を見やると、ボクの左側、赤毛のプレイヤーが座る反対側で、妖狐族の青年が口元に僅かな笑みを浮かべてこちらを伺っていた。銀の髪をした糸目の、狐によく似た顔立ちの、二十そこそこに見える若者で、ゆったりとした黒いローブを纏い、背には赤い宝石が嵌め込まれた、身の丈程の大きな杖を背負っている。
ボクと同じ七本の尻尾を躍らせながら、なおもにこにこと笑う青年を一瞥し、ボクはまたメニュー表へと視線を戻した。
「おや、些か不躾でしたか。しかし、名乗りもせずにいきなり声をかけるのはたしかに礼を失していましたね。僕はテウメッサと申します。まあ、テウさんでも、ウメさんでも、優男とでも、お好きなように呼んで頂いて結構ですよ」
少し大げさにも見える身振り手振りを交えながら、そう自己紹介する青年を横目で改めて一瞥し、ボクは小さく息を吐く。
「では優男さん」
右隣から、盛大に咳き込む声が響いた。
ほんの少しだけそちらへと視線をやって、咳払い。少し締まらないが、仕切り直す。
「貴重なご意見は参考にさせて頂くが、残念ながら
こうして街中で声をかけられるのは、何も今回が初めてではない。お稲荷様だなんだと、余計な呼び名が広まり始めてからは特に。目的はパーティやクランへの勧誘であったり、女として侍らせたい、下心が透けて見えるような連中ばかりであったが、この青年からは僅かながら、後者の匂いがする。そしてなにより、纏う雰囲気がなんとも胡散臭い。実はこの青年、詐欺師の類ではなかろうか。そう勘ぐってしまう程度には。
そう思い、あえて棘のある言い方をしたのだが、どうやら優男さんは少しばかりも堪えなかったらしい。相も変わらず胡散臭く微笑みながら、やれやれと肩を竦めてみせた。
「困りましたね、これでは取り付く島もない。僕の名前に関しては申し開きもありませんが、別に
それはまあ、そうであろう。
もし彼が子どもを捕食――これは二重の意味で――する事に性的興奮を覚える危ない人間であるならば、ボクは疾くこの変態を店から蹴り出すか、脱兎の如く姿を眩ませなければならないだろう。兎ではなく狐だけれど。
「無礼を承知でお尋ねしますが、貴女はお稲荷様――失礼、タマモ様、ですよね? 同じ妖狐族を選択したプレイヤーとして、貴女のお噂はかねがね。お恥ずかしながら、一度こうしてお話をしてみたいと思っていたのですよ」
ここで初めて、優男さんの表情に少しばかりの変化が見られた。絶えず浮かべていた薄ら笑いはどこか困ったようなものに変わり、眉が八の字に歪む。心なしか、背後の尻尾をしな垂れているように見える。
ほんの少し力を無くした視線を横から浴びながら、ボクはまた溜息を一つ。メニュー表をぱたりと閉じると、丁度お冷を届けに来たウェイトレスの少女に声をかけた。
「すみません、オムライスを一つお願いします」
「オムライスが御一つですねー? かしこまりましたー」
ボクの前にお冷を置いた後、ぱたぱたと少女がカウンターの中へ消えていくのを見届けて、ボクは濡れタオルで両手を拭いながら、改めて男の方へと視線を向ける。
「とりあえず、料理が届くまでの間でよければ、用件を聞こうか」
「ええ、それで構いません。では、時間も限られている事ですし、単刀直入に……」
薄ら笑いを浮かべながら、男は懐から一枚の羊皮紙を取り出し、こちらへと差し出した。
訝しみながらもそれを受け取ると、それはどうやらチラシのようであった。
中央にはなにやらプレイヤーの集合写真らしきものが張られ、その上に赤く大きな文字でこう書かれている。
――妖狐族限定クラン『
でかでかと書かれたその文字にボクは少しばかり首を傾げ、しばらくしてそのチラシを、隣で様子を伺っていた男へと押し返した。
「すまないが、特定のクランに所属するつもりはない」
「まあまあ、そう仰らずに。実は僕、当クランの副団長をさせて頂いてまして、正直な話ですね、噂のお稲荷様を連れて来いとうちの団長がそれはもううるさくて。という事で、如何でしょう。入団するかはともかくとして、うちの
「結構です」
よくもまあ、こうもつらつらと長ったらしい台詞を吐けるものだと、変に関心しながらボクはその提案をばっさりと切り捨てた。
正直、妖狐族限定のクランというものには興味がある。しかし、どうにもこの、街角にいるキャッチのお兄さん風の、なんとも胡散臭い狐の言葉を信用していいものかどうか。ちなみに現段階では、八対二にて反対多数の為否決、といったところである。
「せめてもう少し、なんだ、まともな人員を寄こしたまえ。正直言って君が相手では、どうにも怪しげな店の勧誘を受けているように感じる」
右隣で、また吹き出す音。
再びちらりとそちらを見れば、赤毛の少女は同じ色をした尻尾で顔を隠し、ふるふると肩を震わせていた。もしや、彼の顔見知りか、クランメンバーの一人だろうか。
「お待たせ致しましたーっ!」
丁度その時である。カウンターの向こうから、料理を乗せたお盆を手に、ウェイトレスの少女が満面の笑みを浮かべやってきた。
「残念、時間切れだ。それではボクはこれから、この料理をゆっくりと堪能させて頂くのでね。無粋な話は、またの機会にしてくれたまえ」
ボクの言葉に、男は大きなため息を一つ。がっくりと肩を落としながらも、しかしその笑みは崩さず、先ほどボクが押し返したチラシをもう一度カウンターの上に置き、静かに席を立った。
「本当に、非常に残念ですが、あまりしつこい男も嫌われますのでね。この件は、またの機会に、という事で。ああ、折角ですので、どうぞそれはお持ち帰り下さい」
そう言ってまた、なんとも胡散臭い微笑みを残して男は去っていった。
なにやら最後に、料理と共に置かれていたオムライス一品分の伝票――勿論ボクの分である――をしれっとひったくっていったが、奢ってくれるというのであれば是非もない。迷惑料として受け取っておくとしよう。
そうして、白銀の尻尾を揺らしながら店を去る男の背を見送ると、ようやくボクは目の前の料理を存分に堪能すべく、銀の匙を手に取ったのだった。