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それは魚、あるいは蛙に似た頭部に加え、背びれや尾びれ、水かきなどをそなえた半人半魚の悍ましい化け物たちであった。肌は鮫のようにざらざらとして、その表面を生臭い、粘着質な体液が覆っている。
水かきのついた両手をだらりと垂らし、にちゃりにちゃりと耳障りな水音をさせながら数歩こちらへと近づいてきたソレは、その半分近くが眼窩の外へと剥き出しになっている大きな眼球をぎょろぎょろと動かしてこちらをねめまわすと、地の底から響くような、呻き声に似た鳴き声をあげた。
――しゅろ、しゅる、るるるぅ、いえぇ……
涎のように口元から粘液を滴らせ、ヘドロのような泡を吐くソレを直視した瞬間、ボクはまるで背中に氷を突っ込まれたかのような、強烈な寒気を感じた。
そして即座に判断する。あ、これは生理的にダメなやつだ、と。
幸い今回は前衛をアワリティア――ティアが担当しているので直接触れることはないだろうが、それでも総毛だつような不快感は残る。
「うわあ、うわあ……」
若干、いや、かなり及び腰になりながら放った妖術【雷獣】が稲光を放ちながら深き者どもを貫く。
全身から黒い煙をあげ、耳を塞ぎたくなるような悍ましい断末魔を残して先頭の一人――いや、一体が倒れるのと同時に、そのすぐ後ろで杖を構えて何やらぶつぶつと呪文を唱えていた別個体へとティアが襲い掛かる。逆手に構えた二振りの短剣が煌めき、目にも止まらぬ連撃で化け物の胸に六つの傷跡を刻んだ。
そのままどうと倒れ、ぴくりとも動かなくなった不気味な亡骸をつま先で小突くこと数度、もう起き上がらないことを確認したティアがぱっとお日様のような笑顔を浮かべてこちらへと駆け寄ってくる。
「ありがとねっ、タマモ! おかげで楽にやっつけられたよ!」
「いや、うん、それはまあいいのだけれど」
ちらりと、天真爛漫な笑みを浮かべる少女の背後を見やる。
そこでは全身がぐずぐずに溶け、蒸発するようにして消えていく化け物の姿が。
「今更だけど、よかったのかい。ボクに手を貸してしまって」
「んー? 全然大丈夫だけど?」
こてんと首を傾げ、さも当然とばかりにティアはそう答えた。それを聞いておや、とボクは少しばかり不意を突かれたような気分になる。
ボクたちプレイヤーと、彼女たち魔王軍に所属するNPCは敵対関係にあった筈だ。それは過去の公式イベントだったり、様々なクエストに登場する彼女たちの言動からも明らかであり、プレイヤーの間でもおおむねそう認識されていた。
しかしその一方で、彼ら彼女らから攻撃されず、むしろ友好的な態度でコミュニケーションをとることができたという報告も、僅かではあるがあがっている。
曰く、好きな食べ物を一緒に食べた。
曰く、一緒にお昼寝をした。
曰く、女子トークに花が咲いた(相手はオカマだったけど)。
そしてこうした報告は拡張ディスクが発売されたあとやや増加傾向にあり、一部のユーザーは運営が方針を変更しただの、プレイヤーを魔王軍へと寝返らせる伏線だーなどとあれやこれや推測しているが、真相はいまだ明らかにされていない。
まあ、ボクとしては彼女らと友好的な関係を築けるのであれば、それに越したことはないと考えているのだが。
「それじゃあ、弱っちいのもやっつけたし次いってみよー!」
えい、えい、おー。
思考の海に沈んでいたボクの意識を引き上げたのは、そんな可愛らしい掛け声であった。
軽やかに両手を振りながら、まるでピクニックにでも向かうかのような足取りで歩きだした少女の小さな肩を掴み、待ったをかける。
餅のような頬を膨らませ、爛々と輝く赤い瞳がボクを見上げた。
「むー、なぁにタマモー」
「いや、何って、いったいどこに行く気なのさ」
「どこって、んー……とりあえず下? せきにんしゃを出せー! みたいな?」
「みたいなって……」
あまりに軽いノリに、ボクは頭を抱えた。
いや、こちらとしても今回の事件の元凶、つまりはここ竜宮城に巣食う化け物、深き者どもの討伐が目的であるので、七将軍たる彼女の助力を得られることはこの上なく心強いのだが、なんというか、その、何事も心の準備というものが必要だと思うんだ。
そんなボクの心中を察したのか、ティアは頭の上に豆電球のアイコン――わざわざ運営が用意したのか、漫画などによくある何かを閃いた際のエフェクト――を浮き上がらせると、その瞳を細めながら口元を手で覆い隠した。
ぷすー、と空気の抜けるような笑い声。
「タマモ、もしかして怖いのー?」
むっと、ボクの中の負けず嫌いな部分が反応した。
「馬鹿なことを言わないでくれ。ボクはただ、キミが迷子になってしまわないか心配になっただけだよ」
「へっへーん、うっかり捕まっちゃうタマモと違って、ティアちゃんは大人だから迷子になんてなりませんー!」
えっへん、どうだと胸を張り、ティアが鼻息荒く胸を叩いた。
そのあたりが子どもっぽいから心配なんだけれど、とボクがため息を吐こうとしたその瞬間、ボクたちは呑気に口論している暇などないということを悟った。
それは、地の底から響くような、本能を揺らすような叫び声。
それは少女の悲鳴。男の怒声。すすり泣く女の声。老婆の断末魔。赤子の産声。
地獄の窯を開いたような、身体中から血の気が引くような獣の咆哮であった。
ステータス画面いっぱいに驚くほどの量のデバフが表示され、身体を浮遊感が包んだ。
足元を見る。
そこには光さえ飲み込むほどの闇、奈落が広がっていた。
「タマモ!」
ティアの叫び声が聞こえる。
懸命に手を伸ばす彼女の姿が見える。
こちらへと伸ばされたその細い手を掴もうと、ボクは半ば無意識のうちに自身の手を伸ばし――
するりと、その手は虚空を掴み、ボクはそのまま、絡めとられるように闇の中へと落ちていった。
暗転。
画面が切り替わる。ゲームが、新しいフィールドを、オブジェクトを読み込んでいく。
ポリゴンの骨子が組みあがり、現実と遜色ない精度のテクスチャがその表面を覆う。
表示されたのは、神殿であった。
どこか和風な趣があった竜宮城とは異なる、古代ギリシアの神殿にも似た光景にボクは目を丸くする。
左右には円形の柱が等間隔に並び、床には磨き上げられた大理石がはめ込まれている。
しかし建造されてから随分と時間が経っているのか、その表面にはひびが入り、角が欠けてしまっているものが殆どだった。
そして、その先。
周囲とは明らかに違う、巨大な岩が剥き出しになったそこにいた存在を目にした瞬間、ボクは腰が抜けそうになった。
ソレはずんぐりとした鯨に似た胴に海蛇の頭、そして昆虫のような節足をいくつも取り付けた、目を逸らしたくなるほどのいびつな姿をしていた。
十を超える眼球が蠢き、深く裂けた口元には人間と同じような歯と舌が覗いている。
半魚人の親玉。
そんなキーワードが脳裏をよぎった。
――■■■■■■■■■!
化け物が叫ぶ。
それは人語のようで、しかし到底理解できない言語で。例えるならば、いつぞやか聞いたFAXの送信音に似ていた。
地を震わせ、身体が吹き飛ばされそうになるほどの咆哮。
そしてそれは演出上だけのものではなく、事実、ボクのHPバーは既に半分近く削られ、尚もその量を減らしていた。
ただの咆哮だけでこの威力。間違いなくレイドボス以上。明らかに個人で受けられるクエストの難易度を超えている。
これは、安請け合いをしすぎただろか。
「まだじゃ、諦めるでない!」
これが終わったら運営に苦情でも入れてやろうかと、半ばこのクエストをクリアすることを諦めかけたその時、頭上から凛とした声が響いた。
それと同時に柔らかな光が周囲を包み、鉛のように重くなっていた身体がふっと軽くなる。
頭をあげれば、そこには九本の尾と銀の髪を翻し、小さくもどこか力強さを感じさせる背中をこちらに向けた、巫女服の少女が立っていた。
大量の呪符で結界を作り、化け物の咆哮を完全に防ぎながら少女が振り向く。
金色の美しい瞳が、まっすぐにこちらを射抜いた。
「すまぬ、少しばかり準備に手間取ってしもうた。じゃが、もう安心せい」
そう言って少女が軽く腕を振るったその瞬間、押し寄せていた衝撃はすべて弾き返され、その余波で化け物の巨大が大きく仰け反った。
鱗が砕け、その隙間から体液をまき散らしながら化け物が悲鳴をあげる。
「妾が来た!」
妖狐族たちが集うフシミの里、その長であり、ゲーム内でも屈指の力を持つと目される九尾の妖狐族、カヨウさんは不敵に笑みを浮かべると、声高にそう宣言した。
大変お待たせ致しました。