プロローグ ブルイネンの浅瀬にて
四人のホビットと一人の人間が川辺を駆ける。
黒馬を駈る九人の恐るべき幽鬼ナズグルから逃れて東へ東へと走る旅路だった。
「頑張ってくだせえ旦那様ぁ!」
一人のホビット、フロド・バギンスは呪いの刃を受け、従者サムワイズ・ギャムジーの肩を借りながら息も絶え絶えに走ったが限界だった。
川を渡り切ればエルフの庇護を受け、傷を癒すことも出来るだろうが、敵は近い。
すぐそこだ。
浅瀬に脚を踏み入れ水を掻き分けて懸命に急ぐ。
「奴らが来たよアラゴルン! 追い付かれた!」
「いいから走れピピン!」
ホビット仲間のペレグリン・トゥックとメリアドク・ブランディバックは悲鳴を上げた。
ついにブルイネンの浅瀬で追い付かれてしまった。
先導していた人間のアラゴルンは、これまでかと剣戟を交える覚悟を決め脚を止めて剣を抜いた。
腕には自信があるが、ナズグル九人を相手取って生きていられる望みは薄い。
「駄目だよアラゴルン!」
「止まるな! 私に何が有っても止まらず行け!!」
ぼろ切れを纏い顔も覗けない忌まわしき追手を見据える。
力を欲し、果てなき欲望を冥王につけ込まれた九人の人間の王の成れの果て。
死してなお指輪の魔力に縛られた亡霊たち。
土手の街道に並ぶナズグルと向き合った。
「ここが死に場所か」
剣を握る力を強め殿を受け持つ。
追手との距離は馬が走れば一瞬で縮まる狭いものだ。
アラゴルンは望みが薄くても諦めない。
走り始めたナズグルを睨み付け、ホビット達を守る一心で吠える。
「さあ来い、むざむざやらせはせん!」
腹を締めて剣を構える。
水面を走る音が背中に近付いてくる。
ホビットの誰かかとも考えたが、違っていた。
「遅くなった」
「何者だ!」
反射で声の主へ剣を叩きつけるが、圧倒的な技量で捌かれ元の構えに強制的に戻された。
「剣は向こうに向けておけ。裂け谷のエルロンド卿に遣わされた迎えだ。ここは受け持つからお前さんも川を渡れ」
不思議な風貌な男だった。
傷口だらけの顔は老いを全く感じさせずエルフの血が入っているように見えるが耳は少し尖っている程度。
おおざっぱに短く切った髪も黒々としているし無精髭もちらほら生えている。
それにこんなに大柄でがっしりとしたエルフをアラゴルンは見たことがない。
頭の高さはアラゴルンより二つ近く上にある。
しかし人間というにはあまりに神秘の気配が濃く力がみなぎっている。
「相手は九人だぞ!?」
「粘るだけだ。あとは姫様がなんとかする」
腰に下げた剣を一気に抜く。
「その剣はっ!?」
とてつもなく禍々しい、柄から切っ先まで真っ黒の剣にアラゴルンは絶句する。
明らかに強力な呪いや魔法が掛けられた代物だ。
中つ国をさすらう旅の最中に多くの名剣宝剣を目にしてきたアラゴルンも、ここまで苛烈で震えるような魔剣は記憶にない。
「そう無理でもない、だろ?」
ここまでの曰く付きを涼しい顔で持っていられるのだから、この男は正当な所有者なのだ。
「すまないっ!」
この男ならあるいは。
そう願って背中を任せた。
素晴らしい速さで川を駆け抜け、あっという間にホビットと並んでブルイネンの浅瀬を渡りきった。
川辺には馬を引いたエルフの美姫が待っていた。
「こちらです。彼を乗せて下さい」
「旦那様、あと少しですよ」
ぐったりするフロドをサムが甲斐甲斐しく鞍に乗せてやる。
「アルウェン、彼は何者だ?」
川の中腹では男が正面に陣取り、馬から引きずり下ろしたナズグルに剣を振るって奮戦していた。
しかも信じがたいが九人を同時に相手にして優勢であった。
たくましい腕は唸りをあげてナズグルを弾き飛ばし、時に踊り子のごとき軽やかな足さばきで、一人だけで防波堤を成している。
「それは後で話しましょう。オーザン、もう十分です!」
美しくよく通る声でオーザンと呼ばれた男は片手を上げて応えると、猛然と攻め立てた。
一人も逃さず切りつけて、川に釘付けにした。
固唾を飲んで見守っていたアラゴルンはブルイネンの上流から激流が押し寄せているのに気付いた。
エルフの結界の一部が邪悪なものを排除しようとしているのだ。
「急げ!」
男は剣戟の中でアラゴルンと目を合わせ、最後にナズグルの首魁に痛烈な一撃を加え大きく怯ませるとこちらへ走り出した。
なんたる韋駄天か。
その速さたるや馬にも劣らない。
水面を滑るようにこちらに到着するのと、川中に取り残されたナズグルらが殺到する激流に飲み込まれるのは同時であった。