仲間たちはやりきれない気持ちをおし殺してモリアの広間を東へ走った。
「なんで見捨てたんだ! みんなで戦えば勝てるよ!」
考えてを変えて止まろうとしたフロドの胸をアラゴルンが掴んで無理やりに走らせる。
「勝てん! 我々全員でかかっても絶対に勝てない。あれはそういう類いのものだ!」
アラゴルンは断言した。
勇敢な彼でさえ思い出すと背筋が凍る。
自分がオーザンの立場であったとき、あれだけ堂々と立ち向かえるだろうか。
「目的を見誤るな。我々は必ずや指輪を捨てねばならん。バルログに勝つことを目指しているのではない」
旅路に支障をきたさず最も多くの人数が無事にモリアを抜け出せるのがこの方法だった。
オーザンは捨て石になることを即座に理解して役目を実行した。
「彼の覚悟を無駄にしてはならん」
その勇気ある献身に報いるには誰も振り向いてはならない。
オーザンは死に立ち向かった。
悲しい眼をした傷だらけの好漢とは、もうきっと会うことはない。
あっさりし過ぎていて現実感がなかった。
ようやく理解できたフロドの目からポロリと涙がこぼれた。
「行きましょうフロド様。あいつのためにも」
足が止まったフロドの体をサムが押した。
「お別れも言ってないのに!」
「おれもです。さあ、行かないと!」
悲痛な嘆きに、レゴラスに肩を借りるガンダルフが悔しげに顔をしかめる。
磐石に思われた床が大きく揺れる。
オーザンとバルログの激闘を知らせる揺れだ。
あまりの激しさに第二広間を彩る黒曜石の柱がひび割れて欠片が飛ぶ。
「始まったか。崩れないよな?」
松明を持って先行するボロミアが見回して心配そうに言う。
「ドワーフの要塞は暴れたぐらいじゃ壊れん。たぶんな」
言いかけたギムリは続く揺れの大きさにやや自信を失い、答えを濁した。
仲間たちは広間を横切り唯一の出口に繋がる回廊を走る。
通路を飛び出したボロミアの前に、巨大な崖が口を開けて待ち受けていた。
うすら寒い風が吹く、無限に思える大穴だ。
「うおっ、と!」
あわや転落しかけたボロミアが松明を奈落に落とした。
どこまでも落ちていく松明にその身を凍らせる。
「ドゥリンの橋……ここを渡れば、外はすぐじゃ」
やっと追い付いたガンダルフがそう説明する。
非常に狭く手すりもない石造りの橋が一本だけかかっていた。
東から侵入を目論むオークに対抗して一人づつしか渡れないようにしてある防御機構だ。
もっとも、今となっては抜け道が掘られてしまい意味をなさないが。
「一人ずつだ。用心しろ」
どこかでの激闘の証か地面はまだ揺れている。
この深さでは落ちれば生きては帰るまい。
最後尾を守るアラゴルンの喚起に従って頼りない橋を恐る恐る渡っていく。
回り道してきた群れのざわめきがすぐそこまで来ている。
難所はこの細道で終わりではなく崖の反対まで伸びた急な階段を上り降りしていく。
「上にもいるぞ!」
ボロミアが機敏に動いて盾で矢を防いだ。
彼がいなければホビットの誰かは矢傷を負っていたことだろう。
二本の矢を同時に射る離れ業をレゴラスが披露した。
胸と眉間を射ぬかれたオークが横穴の踊場から暗闇に転落する。
しかしレゴラスが間引くより新手が湧くほうが早い。
このままでは上から狙われながら逃げるはめに陥ってしまう。
幸いにしてオークの弓は達者ではないが上からばらまかれるだけでも厄介だ。
「あれを抜けば橋は崩せるはずだ!」
ギムリがふしくれだった指で差す先に、一本の楔が橋の根元にある岩の継ぎ目にはまっていた。
橋が陥落した場合に使われるよりはもろとも破壊するために残された、自壊の起点となる要に打ち込んである。
「どうする。やるか!?」
レゴラスは弓を構えた。
アラゴルンはまた苦渋の決断を迫られた。
橋を落とせばこのままオークに追われることはなくなるが、同時に後ろのオーザンを完全に見捨てることでもある。
彼は残酷な選択を迫る運命を呪った。
「……やれ!」
苦しみながらもアラゴルンはまたしてもリーダーとして正しい判断を下せた。
「く……」
苦々しくうめき、殿でオークの矢を叩き落とす。
追い付くのを待っているという言を翻し約束を違えたようなものだ。
オーザンが事情を知れば笑って許すのだろうが、義理堅く潔白なアラゴルンにはそれがつらかった。
レゴラスはエルフの弓取りぶりをみせ一度目で楔を射落とした。
楔が外れると橋の基部の岩がぼろりと剥がれた。
それをきっかけにぐらつきが橋の全体に始まり各所で綻んだ石組みが外れる。
「オーザン……」
後ろ髪を引かれるアラゴルンはその上で足踏みしていた。
「橋が崩れるよ、急いで!」
飛び交う矢に身をすくめるピピンが手招きする。
「リーダーはしっかりしてくれてなきゃ困るぜ!」
一度は渡ったメリーが大胆にも橋を引き返してアラゴルンの手を引っ張り連れていく。
「っぁ……!!」
モリアにさすらい人の声なき声が無念をはらんで木霊する。
狙った通りに橋は完全に落ち、追手のオークは足止めされた。
横合いから弓矢を使う数匹もレゴラスの弓術に打ち負けて沈黙した。
崩れ行く足場を仲間たちは懸命に走り第一広間へ、そして大階段を上りきり東門に至った。
これが物見遊山なら連綿と受け継がれたドワーフの技巧に見惚れるような壮観を、見上げることなくいくつも通りすぎた。
西門とはうってかわって東の門は開け放たれたままにされていた。
オークの侵入経路に使われたのだろうか。
橋を落とした甲斐もあってオークを撒けた。
ここまで来れば一安心だ。
アラゴルンが門を出て回りの山の形から場所を判断するに、霧降り山脈の南北の峰と東に少しでっぱった連なりに挟まれた南東に出たようだ。
背の低い草が繁茂する間にたくさんの切り株が点在している。
森が途切れて開けた周囲の景色と地図を照らし合わせてよりはっきりした。
ここはおぼろ谷だ。
オークとの戦いで倒れたともがらを火葬に附す燃料として伐採した森は、以来高い樹木が育たなくなった。
ドワーフの哀しみが染み込んだ土地だ。
東門から少し離れると暗い水をたたえた湖があった。
長めの卵形で、谷の北側にある峡谷へ向けて深く突き刺さった槍の穂のような形をしている。
岩肌の割れ目から霧降り山脈の雪解け水が吐き出され、岩場からこんこんと湧きだす清水と合わさって滝をなしている。
峡谷の奥から段々の滝が湖に流れ込んでいる。
湖の名はケレド=ザラム。
湖の南の端は明るい空の下で影も届かないが、その水は暗い色をたたえている。
ランプのともる部屋から仰ぎ見るよく晴れた夕暮れの空のような深い藍色をしていた。
水の面は小波一つ立たず静まりかえる。
その周りはなだらかな草地が木一本生えていない湖の縁まで、ゆるい勾配を描いて途切れなく続いていた。
上古のドワーフ王、不死のドゥリンはこの湖を覗き込み、湖面に自分が王位につく幻影を見た。
それが切っ掛けになってカザド=ドゥームが作られたという。
以来ケレド=ザラムはドワーフの聖地として崇拝され、ドゥリンが初めて湖を覗いた場所にはこれを記念するドゥリンの石という石柱が作られた。
だが第三紀末には石柱の先は折れ、表面は風雨にさらされてひび割れ、刻まれていたルーン文字も薄れて読めなくなっていた。
雄大なるアンドゥインの大河の支流のひとつの銀筋川はこのせせらぎから始まる。
湖からいくらか下ったところで、一行は水晶のように澄んだ深い泉に行きあう。
泉の水は縁石からあふれ落ち、急な傾斜の石の水路をきらめきながら音をたてて流れていた。
「美味しそうな水だ。飲めるかな?」
「やめときな。言い伝えによると、この泉は冷たすぎて飲んだら腹を壊すんだ」
透明な水を見て飲んでみたくなったピピンにギムリが忠告した。
レゴラスは晴天を仰いだ。
「二日ほど経ったようだな」
白昼に造作もなく見つけた星の場所のずれから霧降り山脈の底で過ごした日数がわかった。
オークに追われバルログの気配に脅かされた仲間たちはもっと長く居たような気がした。
五体を地面に投げ出して休みたかったがこのあたりはアイゼンガルドのサルマンの斥候がいてもおかしくない。
長居は禁物だ。
安全なところまで重たい体を動かさねばならない。
「何者か! 姿を見せろ!!」
アラゴルンが剣を抜いて、東門に潜む輩によく通る声で命じた。
すわ敵襲かと、仲間たちが一斉に武器を取る。
こそこそと動くなにかが暗がりからこちらを伺っている。
「騒がれる前に捕まえて殺してしまおう」
情け容赦なくフロドは言った。
フロドが裂け谷から持ってきたつらぬき丸はオークが迫ると青くぼんやりと光る。
今は光っていないのでオークではなさそうだが、地下から這い出したものが良い存在であるとは考えられなかった。
「いや、待つのじゃ」
身を屈めて隠れたそれは、かつて指輪を所有したものの通りがかったビルボ・バギンズに盗まれ、すっかり気が触れた矮小で哀れな者だ。
指輪の力の残り滓に与えられた長寿をモリアの岩屋で過ごす惨めな生き方をしていた。
それがいかなる運命のいたずらか霧降り山脈に舞い戻った指輪を追って、オークも知らない抜け道を使いひそかに尾行していたのだ。
正体とそれにまつわるおおよその事情を知るガンダルフは諫めるがフロドのいらつきは収まらない。
「どうせろくでもない奴に違いないよ」
仲間を失ったばかりのフロドはガンダルフに突き放した言い方をした。
オーザンとの別れに落ち込んだフロドの心を指輪はさらに暗くしていた。
「だとしても安易に殺してはならぬ。どんな者にも任された役目がある。刺されると痛い蜂がわしらが食べる甘い蜜を集めてくれよるのと一緒じゃ。ヒトの場合はやや複雑に運命が絡んでおるがな」
その時が来るまで誰にもわからない。
そうたしなめた。
「大した悪さはできん奴じゃ。放っておけばよい」
仲間たちはガンダルフの助言を信じて渋々武器をしまった。
石でも投げてきたなら暗闇に光る腫れぼったい目玉をすぐに射抜いてやるつもりだったレゴラスも弓を下ろす。
地図と地形を見比べるアラゴルンは怪しい影のことを一旦忘れて進路を決める。
「急ごう。またオークが出ないとも限らん」
「ああ、もうあなぐらもオークも懲り懲りだ」
剣を離したボロミアが盾の表に刺さったままだったオークの矢を抜いて捨てる。
マザルブルの間で背中を託しあった二人は武人として互いに敬意を払える人間だとわかった。
アラゴルンは公明で誇り高く、ボロミアは義に篤い。
ただの上下関係に留まらず、かといって友情そのものがあるわけでもない。
戦友と呼ぶのが適当な間柄だ。
危険だと知るも指輪に惹かれるボロミアがゴンドールを守りたい一心であると知ってからアラゴルンも彼に心を開いた。
時とともに二人の確執は薄れつつある。
「腹が減ってちゃ戦えない。少ないけど食べてくれ」
なけなしの干し肉をサムが配った。
固くなってしまっているが何か食べないと肝心な時に力尽きてしまう。
自分の分を減らしてフロドには多目に渡していた。
強い顎で噛み砕いてすぐに食べおわったギムリはちっとも足りず指についた塩気を舐める。
歩きながら少しでも長く味わおうと、口の中でゆっくり噛みほぐして食べる。
水だけは銀筋川の清い水を飲めるのでそうして飢えをしのいだ。
一行は銀筋川の北側を流れに沿って南下した。
次なる中継地はアンドゥインと銀筋川が川下で交わる近の森にあるエルフの里だ。