旅の仲間たちはロスローリエンにしばらく居ることに決めた。
オーザンの合流を待つのも含めて、今の中つ国では貴重となった安心して休める場所のカラス・ガラゾンで疲れをとるのだ。
自分達の鍛練の合間にピピンとメリーに剣の稽古をつけてやるのも再開された。
剣を教えてやるには技術が違い過ぎたレゴラスとギムリはそれぞれどこかで自分の得物を整備したりしていた。
アラゴルンとボロミアは毎日のように剣と盾をぶつけ合って友情を育み、夜にはゴンドールの未来を語り合った。
ガンダルフは二人の領主と会合を重ねて中つ国の行く末やロスローリエンの目下の脅威についてイスタリとしての見識を交えた。
主人の好物を作りに調理場を借りに行ったサムは、何度も借りているうちに料理番のエルフと懇意になり、荒野でも作れるレシピをいくつも教わった。
熱心に覚え書きを記して習うサムに気を良くしたそのエルフは、それ以外にも汚ない水を飲めるように浄化する方法なども教えてやった。
これは後にフロドを大いに助けることになる。
そしてフロドは、仲間たちのようになにかをするということはないが、指輪の毒性を受けながらも聖域の成せる技か心を落ち着かせ過ごした。
裂け谷を出てから忘れていたような穏やかな暮らしに皆の心に潤いが戻った。
ピピンとメリーはここでの生活がとても気に入ったようで、隠居したらまた暮らしたいとまで言っていた。
三週間ほどそうやって過ごし、すっかり健康を取り戻したある日の夜。
その日だけ目が冴えたフロドは仲間にも秘密でベッドを抜け出した。
何かに呼ばれている。
そんな気がした。
「フロド様、どうしました?」
向かいのベッドで寝ていたサムだけが目ざとく気づいた。
心配されるのがいやで言い訳をした。
「夜風に当たりたくて。ちょっと散歩してくるよ」
「そう……ですか」
唐突に散歩をしたくなるには寒過ぎる時期だ。
きっと指輪にまつわる何かに呼ばれたのだと長年の付き合いでサムは感じたが止める根拠も無いので言い及ばなかった。
その代わりに主の様子をじっと窺った。
主従の絆を結んでいるフロドもまた同じようにサムの気持ちを読み取っていた。
嘘はあっさりと暴かれたようだ。
「お前に隠し事はできないな。一緒に行こうか」
連れだって出かけることにした。
マルローン樹の間を繋ぐアーチを上へ下へと歩いた。
エルフたちが寝静まったカラス・ガラゾンをぐるりと歩いて南側の斜面の庭に行き着いた。
窪地の底には枝を広げた木の形に彫った低い台座の上に大きくて浅い銀の水盤が乗せてあり、水差しを持ったガラドリエルがかたわらにたたずんでいた。
流れる泉の水を汲んで、ガラドリエルは水盤をなみなみとみたし、それから水面に息を吹きかける。
水がすっかり静まると、奥方は初めて口を利いた。
「ここにあるのはガラドリエルの鏡です。あなたたちをここに連れて来たのは、もしその気があれば、これを覗いてみられるとよいと思ったからです。さあ見てごらんなさい」
二人でおそるおそる鏡を覗き込み、さまざまな幻影を目にした。
ホビット庄の木々が切り倒され、フロドの家である袋枝路屋敷が掘り返される光景。
襲いかかるオークや鎖に繋がれて奴隷に身を落とした仲間たち、そして雪に横たわるオーザンのむくろ。
場面は目まぐるしく入れ替わる。
それに加えてフロドはゴンドールの前史らしき光景を目にした後、炎に縁取られたサウロンの目を見て、それが自分たち指輪所持者を探していることを感じ取った。
指輪を隠した胸元が痛んでたたらを踏む。
「じょ、冗談じゃねえ。オークとか鎖とか、ありゃあなんだってんだ!」
サムは鼻息をあらげて後ずさる。
「心を通じて私にも見えました。憤りはわかりますが慌てずともよろしい。それらは不確実な未来の可能性のひと欠片です」
「まだ起きてないってことですか?」
じめじめとした悪夢はとてもはっきりとしていて幻ではなく現実のように見えた。
「鏡は過去と今、それに時にはこれからを映し出す。あれらは指輪がサウロンの手に戻り中つ国の終局が訪れた未来。しかし悲観してはいけません」
鏡は行動の指針としては危険なものであり、賢者であっても生じた幻影が何であるかを正確に言い当てることは難しく、ものによっては幻影を防ごうとして行動することがかえって幻影の実現につながってしまうこともある。
「…………指輪とはなんなんですか? この指輪になにができるというんです?」
この騒動の発端とも言える指輪についてフロドは尋ねた。
ガンダルフも指輪の所有者であったビルボも細かいことは教えてくれなかった。
知りたいと思うのも当然だ。
「サウロンは初代冥王モルゴスの一番の部下で、それは強力なマイアでした。モルゴスの敗北と放逐を見たサウロンは己が身に同じことが起こらぬように奸知を練った。力を別の入れ物に納めて万が一の保険にしたのです」
邪智を巡らせ他の指輪を統べることで敵を減らし、ナズグルという手駒を増やしたことは言うまでもない。
滅びの山の麓でイシルドゥアに指輪をはめた指を切り落とされ、肉体が崩壊して討たれたかに思われたがしぶとく生き延びた。
三千年の潜伏を経てモルドールに舞い戻ったサウロンは堂々と名乗りを挙げ再び覇を唱えた。
「その指輪に残されたのは言わばサウロンの半身。それと比べればモルドールのバラド=ドゥーアに座するやつなど残りかすも同じこと。半分であっても途方もないものです」
指輪さえあれば、ヌーメノールが没落しエルフも衰退した中つ国の自由の民など凪ぎ払われてしまう。
待っているのは悪夢の殺戮だ。
「指輪が欲しいんですね」
首から鎖を外して手のひらに乗せる。
ボロミアが散々向けてきた感情と同じものがガラドリエルの声と視線の揺らぎに混ざっているのを察した。
上のエルフの王族とて誘惑からは逃れられない。
「あなたが指輪を得たら何をしますか?」
ガラドリエルもボロミアと同様に力そのものへの羨望があった。
より強くより美しくより幸福に。
当たり前の欲求であるがそう願えばすべからく指輪を求めてしまうのは万人をして絶ちがたい。
幽界のガラドリエルが魔力を解き放ち恐ろしく変貌していくのが指輪を所有しているフロドには見え、質問したのを後悔した。
「神代の力はあらゆる闇を祓える。オークもサルマンも恐れるに足りません」
神々しさは消えて吹きすさぶ魔力が輝きガラドリエルをまったく別の怪物のように見せた。
魔力の津波に膝を折られそうになるのをフロドは耐えたがサムは腰を抜かして尻餅をついてしまった。
「指輪に溜め込まれたサウロンの魔力を使いこなせば、穢れた大地を葬り砂漠を森に生まれ変わらせることも容易い。そしてその強さに誰もがひざまずく新たな王になり、妾が中つ国を永遠に統べるのだ!」
ボロミアから指輪を取り上げても傍目には影響されなかったオーザンが危惧していたのはこれだ。
力あるものが指輪に触れれば欲望をくすぐられてしまう。
力とは責任が伴う。
責任が心を狂わせる。
何もかも失ったオーザンだから指輪に誘惑されてもさして響かなかったが、それは例外だ。
神代の者は強靭にして清廉であるがゆえに毒される。
「さあ渡すがよい! ホビットよりよほど上手く扱えようぞ!!」
「渡せない。これは僕が捨てなきゃいけないんだ」
おぞましい形相で歩み寄るガラドリエルにフロドは断固たる決意を示し首を振った。
指輪は誰にも渡してはならない。
力あるものでは増幅される力も増える。
中つ国でもっとも力なき素朴なホビットが持っていなくてはならないのだ。
最上のエルフがひとつの指輪の虜にされてしまうのはサウロンが取り返し復活を遂げるのにも並ぶ最悪の筋書きだ。
もし正気を失ったガラドリエルに力ずくで奪われたなら、仲間たちやケレボルンを呼んでなんとしてでも取り返すつもりであった。
対峙しつつも逃げ出せるように身構えたフロドであったが、その懸念は取り除かれる。
これまで指輪の影響を受けた者との差異は支配に逆らうだけの地力がエルフの中でも格別なガラドリエルには備わっていたことだろう。
「う……はぁ」
ガラドリエルは指輪に手を伸ばすのをはたとやめて踏みとどまった。
守り導かなくてはならないはらからたち。
日増しに勢力を強めるオークの軍勢。
広い視野を持つガラドリエルが心を痛めるそれらにつけこんで誘うサウロンの魅了を押し退けた。
奥方は強い意思で顔を背けて下がり、忌むべき指輪を視線から外す。
「指輪の誘惑に打ち勝てた……」
栄華を極めその威光は光のエルフに比肩した絶頂期のヌーメノールの王でも抗えず操られてアマンに攻め込む愚を冒した囁きを、打ち破った。
しかしガラドリエルはこれを潮時と考えた。
「エルフの時代は終わりを迎えます。私はアマンへ去りましょう」
神秘が薄れゆくこれからの時代の主役はエルフではなく、きっと人間たちになろうと予見した。
「綺麗な瞳。これからあなたは多くの破壊と再生を見届ける。力あるものだけが大役を果たすのではありません。勇気は万人に等しく眠っています」
ガラドリエルはフロドの頬を撫でた。
あなたに幸福のあらんことを。
古きエルフ語でささやく。
「あなたの言うとおり、それは私達には背負えぬもの。でも支えることは出来ます。旅を助ける贈り物を用意いたしましょう」
肩の荷が降ろせたガラドリエルは柔らかく微笑み草葉を揺らさぬ軽い歩みで白いベールの向こうに去っていった。
「おっかない人でしたねぇ。おれ、取って食われるかと思ってちょっとちびったかも」
震える膝をなんとか立たせたサムが恥ずかしそうに言った。
「僕もだ。バルログよりよっぽど怖かったね」
冗談めかしたフロドの脚もガラドリエルの重圧から解放されると笑っていた。
月明かりにあたり漏らしていないのを各自で確かめ、天幕に帰って眠った。
そして翌日。
ガンダルフから出立の日取りが伝えられた。
「でも明日なんて急すぎない?」
ピピンはもう少し居てもいい気がしたが、もう三週間近くも滞在している。
「いや、最善じゃ。東のドル・グルドゥアの廃墟にオークが集結しておる。何をしでかすかわからん。待てるのもこれまでじゃ」
ロスローリエンの国境の見張りからオークの軍団が動きつつあると知らせが届いたからには絡めとられる前に囲みを出なければならない。
それに、いつ来るのかもわからない、もしかすると死んでいるオーザンをいつまでも待ってはいられないのだ。
期日になっても現れないオーザンへ、アンドゥインの下流、ゴンドールの都にて待つという伝言を生きていると信じる仲間たちは頼んだ。
モリアでは何もかも放り出して逃げたために荷造りはしなかった。
水と食料を荷袋に放り込めばそれで終わりだ。
いざ出立の朝、それぞれは思いがけずたくさんの贈り物を授かった。
まず全員にミナス・ティリスまで十分な量のレンバスというエルフの焼き菓子。
エルフの携行保存食だ。
一枚食べるだけで一日たっぷり歩けるほど活力が付き、走りながら食べることもできるほど扱いやすく、非常に美味い。
軽く持ち運びに適し、また葉に包まれたままで割れなければ何日でも効能が落ちない。
しかし中つ国にあっては常に貴重なものであったため、エルダールの間にあってもこれは困難な長旅を行く者や、怪我・苦痛で命が危険な者にのみ与えられる。
エルフから愛された個人が必要に迫られた際に与えられた僅かな例があるのみで、レンバスは基本的に人間には与えられなかった。
これはエルダールがレンバスを有限の命の者には広めないよう命じられていたためであり、有限の命の者が頻繁にレンバスを食すると、その命に倦み疲れてエルフたちの間に留まりたくなり、禁じられたアマンへ行くことを望むようになるからだと言われていた。
このレンバスをさらにしっかりと調理したものが、初夜のパンだ。
アラゴルンが驚くほどみんなの元気が出るのも道理であった。
次に自前で着ているガンダルフを除いた者にマントを羽織らせた。
聞けばガラドリエルとその侍女たちが手ずから織ったものだという。
軽くて暖かい、保温性に優れて快適な、絹のような布でできている。
色は一見灰色だが、光の加減で保護色のように周囲の風景に同化して見え、姿を隠すのに役立てることができた。
橅の葉のような形状に銀の葉脈が入った緑の葉のブローチが付いており、これで襟元を留められる。
エルフの衣服に慣れていたギムリもこの美しく整った仕上がりには唸らされた。
「もしかして、これみんな魔法のマントですか?」
不思議な手触りと気配がするマントを感に堪えないようにしげしげと眺めながら、ピピンがたずねた。
「どういう意味でそういわれるのか、わたしにはわかりませんが」
ピピンに着せてやっていたエルフが答えた。
なんと宴で宮廷楽士をしていた者だ。
「これは織りも上等で美しい衣裳です。この土地で作られたものですからね。葉と枝、水と石、われらの愛するロリアンの薄明りの下でのこういったものの色と美しさがこの衣裳にはあります。魔法が宿ったとするなら、われらは愛するすべてへの思いを、作るものの中に吹き込むからでしょう」
そう言ってまた微笑んだ。
「ありがとう。大切にするよ」
へそのあたりに抱きついて礼を言うピピンに呆気にとられたが、やがて彼もはにかみながら小さな友人を抱き返した。
モリアで鍋を捨てて逃げたサムは料理番から友情の証として特別に、重なって小さくしまえる大小の鍋、平らなフライパン、フライ返しとお玉を一式、なんでも切れる包丁、蝋と漆で防水した木箱に入れた岩塩の塊をもらって感激した。
ガラドリエルがフロドに贈り物として与えたのは水晶の小瓶。
ガラドリエルの泉に映じたエアレンディルの星の光が集めてあり、暗闇の中で望みを求める心に応えて光を発する。
ガラドリエルは小さな水晶の瓶をかかげた。
その手の動きにつれて、瓶はきらきら輝き白い光を発した。
「この瓶には宵と明けの明星、エアレンディルの星の光がわが泉の水に映じたのを集めてあります。あなたの周りを夜が包む時、これはいっそう明るく輝きましょう。暗き場所で、他の光がことごとく消え去った時、これがあなたの明かりとなりますように」
星となったエルロンドの父エアレンディルの光を留めた、二つとないノルドールエルフの至宝だ。
いかなる財宝もこれに勝るものはそうはない。
ガラドリエルは惜しみ無く手渡した。
「ドル・グルドゥア討伐に加われず申し訳ない」
「致し方ない。そちがいなくともハルディアなら上手くやれようぞ。壮健でな、ガンダルフ」
「ケレボルン殿も」
新しき友にも古き友にも別れの言葉を交わす。
一行がアンドゥインに通じる銀筋川の支流に案内されると三艘の小舟を浮かべてあった。
ピピン以外の泳げないホビットたちは引けた腰で別れて乗った。
この小舟もエルフが手ずから作ったもので、漕げば意のままに操れる。
「ではさらばお二方。此度の計らいまことに感謝いたします。何から何までありがとうございました」
アラゴルンは深々とお辞儀をして最後に小舟に乗りこんだ。
「落ちるなよ、泳げないんだろう」
「分かってるよ」
川が曲がってまでエルフたちが見えなくなるまで手を振っていたピピンと同じ小舟に乗ったボロミアは、金づちのホビットが落っこちて溺れないように気をつけて揺らさないように漕いだ。
波に揺られるギムリは今朝食べ残してしまったパンが今になって食べたくなって、ぼんやりそのことを考えていた。
「悪い所じゃなかったろう?」
ドワーフの事を理解し始めたレゴラスにはそれが哀愁のひとつだとわかった。
「ま、まあな」
図星をつかれてあたふたしながらギムリは返した。
「さらばロスローリエン。再びまみえんことを」
呟くアラゴルンを先頭に漕ぎだした小舟は流れに乗ってすいすいと川を下っていった。
主人公おいてけぼりで一部は終盤へ。
評価感想にいつも感謝!
同時展開の
エログロ全開ハードコアチャンバラ破戒武侠伝
「剣戟魔界都市」もハイよろしくぅ!
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