所帯を持っても具体的に日常生活にさしたる変化はない。
オーザンが住んでいた天幕にイリスが実家から家具を移して一緒に住むようになったくらいだ。
新妻に甘い言葉のひとつも言えない男と分かっていたので、むしろ靡かせられるよう甲斐甲斐しく愛を注いだ。
手の皮が無くなるまで稽古に熱中したら優しく手当てをしてやり、腕によりをかけて食事を作った。
好き嫌いはせずなんでも食べるのだが実は好きなものの順位があったりして、普段より食い付きがいいのを覚えておいた。
夜に二人で向き合って薄い塩味に整えたスープを飲む。
痩せた土地で作った萎びた芋と小さい肉片を混ぜたものでもこの土地ではご馳走だ。
黒パンを浸して食べるイリスは噛み砕いて豪快に飲み込むオーザンを見つめると視線が重なったので急いで目を伏せた。
「なんで俺なんか選んだんだ? 他にも男はいる」
「ばか」
「馬鹿って、旦那にそりゃないだろまったく……」
結婚して半年が経ってもこの手の質問には答えてもらえた試しがない。
イリスがそう言うなら馬鹿な問いかけだったのだと追及しなかった。
食事を済ませると夕刻過ぎには床に入る。
オーザンの体では一人でもやや窮屈な寝台は二人で潜り込むととても狭い。
横になって狼の毛皮をなめした毛布を被るとオーザンはすぐに寝てしまう。
寝相はいい。
いつも小さく寝返りをうって壁際に体を向けるようになるだけだ。
その夜もオーザンはそうした。
オーザンが寝ていてなんでも許してくれるような目が閉じられている時、イリスは正直でいられた。
恐らくはオーザンは茶化そうとしないで受け入れるが、それはずるい気がしてはばかられた。
だから寝息が規則正しくなった夜半にだけ愛を囁いた。
「私、嘘をついてる。怖くないなんて嘘。あなたを想うといつも胸が苦しくて目が覚める」
毎夜の夢にオーザンが出る度、遠くへ行ってしまいそうな背中を手繰り寄せようとしていた。
焦がれすぎて眠れなかったこれは、恋であり愛なのだろうと彼女は自覚しながら大人になった。
こうして寄り添って眠れる夜がとても幸せだった。
男の中でも人一倍広い、オーザンの背中に額をつける。
「あなたが好き。大きくて熱が秘められた背中が大好き」
この日も夜風に乗せて気持ちを打ち明けたのだった。
「……」
オーザンは起きていた。
孤独に慣れて心が麻痺していたオーザンは片目だけ開けて黙って聞いていたが、もやもやとした気持ちは胸に残った。
さらに半年ほどして珍しく長が稽古を持ち掛けてきた。
小川のほとりでしばらくオーザンから自由に打ち込ませた長は感心した様子で間合いを切った。
「ほう、一皮剥けたな」
「どこがだ。全然駄目だろ」
オーザンは口を曲げた。
脳天を割って殺す気でやっているのに汗もかいてくれない相手に誉められても、からかわれているようなものだ。
石を投げつけ、口に含んだ砂で目潰しまでしたのに肌を砂ぼこりで汚すのがやっとだ。
「剣の性質が根本から変わっている。鉈から剃刀に持ち替えたようだ」
「知らん」
「謙遜も過ぎれば卑屈だぞ。見ろ」
木刀の消耗度はおおむね腕前に比例する。
激しく打ち込むと半日も持たずに砕けてしまっていた木刀が、罅は入ってしまっていても昼過ぎにまだ折れていない。
そして長の方も罅は同じだ。
受け方を手加減されているとしても、格段の成長があった。
「あんたに勝てなきゃ意味ないだろ」
「たわけ。ここぞという大一番以外捨てても構わん。私など遠くで光る星のようなものだ。ただの道しるべである星に行く必要など無い。目的にいかにしてたどり着くかが問題なのだ」
木刀の背を人差し指でつるりとなぞるとひび割れが直っていき、新品同様の姿に生まれ変わった。
いつもならどこからか削りだされた棒を産み出して引き寄せるのに、今日に限って初歩的な魔法を使った。
「気が遠くなるぜ」
壊れかけの木刀を置いて小川に入って豪快に水を被る。
初秋の水は少し冷たかった。
「お前には大きな進歩だ。あの娘を娶ったのは間違いではなかったな」
長も木刀を置き満足げに頷くと水を両手で掬い頭から被った。
同じ素材のはずの服は水を弾き、跳ねる水滴まで神々しく舞い散るさまは、光のエルフとは隅々まで祝福されし者なのだといやがおうにも思わされた。
汗と埃だけを流した長は水気を払い小岩に座る。
「して、生活はどうだ? 円満か?」
知りたいのは夫婦生活の中身だった。
オーザンと長の家は隣あっているのでこっそり様子を窺ってはいるのだが、いかんせん二人とも夜に会えば静かに寝てしまうだけなのであった。
光のエルフの五感にも限度はあるし魔法を使ってまで教え子の新婚生活を覗き見するのは気が引ける。
「どうもこうもねえよ。ただ、一日が長い」
剣を振るのに雑念は拭い去るものだとばかり思ってやってきたのに、一緒に暮らしているとイリスの事を忘れられない。
無心でいられないと毎日の鍛練が途切れ途切れに目覚める夜のように長く思える。
集中はしているのに頭の深いところでは目が冴える感覚だった。
「良いことだ。濃密な一日は磨耗した百年に勝る」
無自覚な集中力の増大が鍛練の成果を後押ししていると、長は見立てた。
もとからオーザンには怪力と上手さがあった。
今ではそこに円熟した丁寧さが足されて剣を生かす事を知り一段と磨かれていた。
以前の自分と対決すれば十中八九は勝ちを収めるほどに劇的な進化だ。
そしてさらに飛躍的な成長の余地が垣間見えている。
「変わったな。良い意味で、とても変化した。良い女に出会えたのを感謝しろ」
「してるさ……飯が美味い」
答えに窮したのを冗談で誤魔化した。
「イリスを愛しているか?」
「……」
核心を突かれて喉に言葉が詰まった。
言いたいことは言わせ、したいことはさせ、手荒にも扱わない。
だが何をもって愛していると言えるのか。
只人の何十倍も生きたが愛も恋も知らなかった。
年頃になると異性に胸が高鳴ると言うがオーザンがそうなるのは戦っている時だけだ。
きっと冷たい血が流れていて、そんなだから孤独だったのだろうなと一人でに納得していた。
「真似事でいい。学びとは真似だ。繊細に感じて為せばやがてそれらしくなる。それも剣と同じ」
オーザンに人としての姿を見失わせ、一振りの剣に作り上げてしまったことに長は責任を感じていた。
だから助言は惜しまなかった。
「今日は剣の稽古はやめるぞ。お前に夫婦というものを教育しよう」
古くから、モルゴスと敵対することを選んだ一部の人間とエルフの恋愛はそれなりにあり、不幸に別れた例も幸福に添い遂げた例も見聞きした経験を存分に生かし、あれはするなこれもやめろと言って聞かせた。
されど眉間に皺を寄せて教えても一向に理解は進まなかった。
結婚するまで人付き合いもまともにしていなかった男に女心は少しばかり敷居が高い。
知っているのは殺し方ばかりで人の喜ばせ方はまるっきり無知なのだ。
回りくどい説明をされても直感的に理解しかねる。
「もっと分かりやすく言えよ。つまり、俺は何をすりゃいいんだ?」
「感謝し、歩み寄れ。突き詰めれば夫婦に必要なのはそれだけだ」
遠い目で西の雲を見つめる長は端的に言う。
子細に教えるのは諦めた。
「答えになってねえだろ」
苛立ちを隠そうともしないで無礼な態度をあらわにしてオーザンは詰め寄った。
「自分で考えるのが肝要なのだ。良心から考えた行動に怒るようなら、はなからお前に求婚などせん。大胆にやってみろ。骨は拾ってやる」
具体的には何も分からないまま追い返されて帰路についた。
それはそれは熱心に考えて夕食中もうわごとのように呟いた。
「大胆に。大胆にか……」
「何か言った?」
「なんでもない」
イリスは感情をあまり顔に出さない。
時間を掛ければ別だがすぐに気持ちを汲み取るのは難しかった。
男の戦士たちなら剣を交えれば人となりや感情は簡単に浮き彫りになるのに、女とは難儀なものだと頭を悩ませた。
寝る時間になっても妙案は浮かばず床に入った。
このまま問題を先送りにするのは性に合わないので、あれこれ下手に考えるのはやめた。
剣と同じように考える。
こちらの手の内を知る難敵を倒したくば普段しないことで不意を打てばいい。
ベッドに腰掛けて入ろうとしたイリスを後ろから取っ捕まえて腕の中に抱き抱えた。
ままよと伸ばした手は強引だが怪我をさせまいと優しい力加減で毛布に包む。
腕の中の彼女は痩せた体をしていた。
「いつもはお前が背中に引っ付いてんだ。たまには逆でも良いだろ」
「……」
どうしてそれを。
いつもイリスは先に起きる。
途中で目覚めてもイリスは気がついて離れる。
ならば残る可能性はひとつ。
明言こそなかれども毎夜の一方的な睦み言もこのぶんでは聴かれてしまっていよう。
イリスは体を固くすると丸まって小刻みに震えた。
寝ている相手ゆえに言えた赤裸々な愛の告白は筒抜けであったと知った顔は羞恥で真っ赤に染まっていた。
「すまん。嫌だったならやめる」
「やめないで」
顔が見えないオーザンは嫌悪感でそうしているのだと思い外そうとした腕を逆に捕まえられた。
二人はしばらく黙っていて、それからオーザンは囁いた。
「俺にお前を愛せるかわからん」
イリスは勇気を出して手を掴んだ。
だからそれに応えてこちらも本当の気持ちを伝えなければとても不誠実で、いけないような気がした。
「だが愛してみようと思う」
今は分からない。
それでも努力をしたい。
それが偽り無い想いだった。
「ばかね、オーザン」
言わなくてもいいことをばか正直に白状したのをイリスはくすりと笑って指を絡めて手を握る。
こんな下手な男だから愛した。
こんな不器用な馬鹿だから愛し甲斐があるのだ。
「おうよ。俺は大馬鹿だ」
くすくす笑いあって夜は更けた。
誤字報告感謝ァ!
感想と評価も感謝感激。
この後どん底まで落ちると知ってて幸せだった頃を書いててつらいです…
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