もう交わることのない青くさく苦い思い出、遠く懐かしい夢を見ていた。
まだ見ていたいがそろそろ起きなければ。
凍った記憶に別れを告げて目を開けた。
星が近い。
いや、星に囲まれている。
まぶたを開けても閉じても光が目に飛び込む。
目は見えるが何も聞こえない。
しばらく待つと体が動かせるようになって周囲を見るが星の煌めきの他には何もない。
服も着ておらず手元にあったセレグセリオンも無い。
ここはどこだ。
確か、山をくだろうとして足がもつれて雪に突っ伏した。
それからの記憶が曖昧だ。
山腹で雪に埋もれて末期の幻覚を見ているのか。
誰もいない。
そうか、死んだのか。
まだ夢を見ている可能性より、その結論が一番しっくりくる。
虫けら一匹がマイア殺しを成し遂げるほど体を酷使して死なないでいられる方がどうかしている。
だが勝った。
フロドを守るという誓いを最後まで果たせず早々に死んでしまったという気持ちは強い。
それでも、やっと平穏を得た安らぎは否定できない。
死者は死者らしく、後はアラゴルンが上手くやると信じて任せよう。
しかし死んだとするとひとつ気になる。
「死ねばマンドスの館に集められるんじゃなかったのか?」
アマンの海辺に建つ、殺された者達の霊魂を司るヴァラのマンドスの館は死んだエルフの霊魂が集められる場所として知られ、エルフはここで待機の時間を過ごした後、望めばここから出てきて復活することができた。
エルフが不死とされるのはこのためである。
オーザンもそう聞いていた。
だとすればもう少しにぎやかなはずだが、この場所はどうやら話と違うらしい。
「手違いなんてよしてくれよ……?」
音もしない星の間でこの世の終わりまでパイプも吸えないまま立ち往生なんてぞっとする。
もしや命が燃え尽きたせいでアマンを飛び越してもっととんでもない場所、例えば夜の扉の向こうにある虚無の世界に飛ばされてしまったのだろうか。
次元の彼方へ追放されたモルゴスと同じ境遇に陥るなど勘弁して欲しい。
マンドスの予言に詠われた、歴史の果てに行われるという最終戦争ダゴール・ダゴラスの戦いでは、無限の牢獄を破る術を編み出したモルゴスが帰還して全ての闇の生き物と光に集う自由なる民が闘うらしい。
死した者もそれに合わせて甦るというのだからいつかは呼び戻されるのだが、一体何万年待たされるやら。
散々に地獄をさ迷わせられてこれとは酷い仕打ちもあったものだ。
「結構頑張ったんだがな……」
爺さんと会うのも大分先になりそうだ。
虚空にあぐらをかいて星のまたたきを漫然と眺望し、どうやって時を過ごそうかと構えた。
上も下もない場所での時間の潰しかたを思案していると、時空が震えた。
夜の空は一面が白に染め上げられ、世界はまばゆくも柔らかな光に溢れた。
太陽ではない。
実体のない光の渦。
もっと大きく力強い偉大なる存在が現れた余波だ。
とても離れているのに大きすぎて全体像が視界に収まらない。
バルログやグワイヒアといったマイアールが芥子粒と霞む威容。
さながら地表を這う蟻が大陸の巨大さを認識したようなものか。
光に満ち、いや、光そのものであるような、ヴァラールより高位の神威に眩暈がした。
「まさか、実在したのか……?」
万物の造物主、エル・イルーヴァタール。
何もかもを産み出した至高の存在であると長から教わってはいたが、実物を拝むのはもちろん初めてだ。
それどころかアルダの一個人で対面を果たした者などいるのだろうか。
「イルーヴァタールか……」
無限の波動は恐れ知らずの男をも内心痺れさせた。
信仰心など持ったこともないのに居ずまいを正してすっくと立ち上がる。
『褒美を与えたい』
創造神の声は音ではなく、ある日受けた神託とそっくりな思念で心に直接投げかけられた。
深い慈しみと許容を併せ持った、それはそれは優しく篤い意思が伝わってきた。
「いきなり褒美ときたか」
なるほど、神託とセレグセリオンはイルーヴァタールの仕業か。
ある一件以来、神々はアルダに直接介入することをやめた。
ヴァラールが事件の収拾に手を出せば望まざる変質をしてしまうとして、助言者のイスタリを派遣するなどに留めてアルダの住民に解決を任せた。
指輪の旅路でまさしく体験したことだ。
「それは、なんでもいいのか?」
すんでのところでフロドとナズグルに割って入れたのは出来すぎだったが、イルーヴァタールの予期した通りの必然だったのなら、なんら不思議ではない。
結局、全ての運命も命の行く末もイルーヴァタールの手のひらの上で回転しているだけだ。
そんなに気にしてくれたならあの時家族を助けてくれてもよかったじゃないか。
そう言いそうになった。
「例えば、誰かを生き返らせるようなことも簡単なんだろうな……」
らしくないそんなことを言うのはつらい夢を見たばかりなせいか。
つまらない恨み言の嫌味をつい口走ってしまった。
『そうして欲しいか』
無礼千万の物言いを創造神は許した。
血と涙を流して決した結末に抗い、全滅する運命を一人だけ乗り越えた男の心境を覗き見て、千々に破れた心の傷の痛みを知っている。
「いや、しなくていい。それは良くない。懸命に生きた結末をねじ曲げて何になる」
出来ないとは言わなかった。
実際やろうとすれば出来なくはないのだろう。
しかし既に結論の出た問答だ。
「死を冗談にしてたまるか。一度しかないから真剣に生きられるのに、いくら都合が良くてもやり直しなんて認められちゃいけない」
そんな簡単に覆るものなら、なんのために仲間たちはあんな運命を背負い悲壮な決意をして死んでいったのか。
痛みも喜びも糧に乗り越えて明日へ向かって生きていくのだ。
『かけがえのない家族を取り戻したくはないのか。家族への愛を忘れたか?』
「忘れたことなんて一度もない」
もう一度名前を呼ばれたい。
抱きしめて温もりを確かめたい。
偲ぶうちに何度もそう願った。
だがそれでもだ。
「誰も過去には帰れない。死者の積もった
『……生と死の狭間を弁えるか。お前を選んで正解だった」
命は生まれ、そして死ぬ。
全ては始まり、終わる。
創世の際にアイヌアたちと奏でた理を踏みにじれば、西の果てに閉じ込めた闇と混沌は逆流してアルダは滅茶苦茶になってしまうだろう。
それを理解し、エルフの血に定められた非業の宿命を断ち切ろうと運命に縛られぬ人間の血で抗う稀有な戦士。
人間でないが故に運命にぶつかり、エルフでないが故に打ち破る力を有する。
死する末路を一度ならず切り開き、幾度砕けても立ち上がる剛の者。
可能性だけでいえばセレグセリオンに飲み込まれ闇に堕ち、更なる惡の華を中つ国に芽吹かせることにもなりかねなかった。
しかしオーザンは怒りや虚しさに踏ん切りをつけ、バルログを倒しナズグルを追い払う働きぶりをみせた。
愛を知り、強欲でない、不屈の者だから成し得える役目を任せた慧眼に狂いはなかった。
神代の象徴である光のエルフの血を引き、人間の心を得た人間との混ざりもの。
神から人へ移ろう時代にこれほど相応しい存在もいまい。
『お前はエルフであり、人である。神から人に世界が手渡される節目の守護者に相応しい』
「もういいだろう。俺を休ませてくれ」
選ばれたる使命は果たした。
ならばもう平穏を得てもいいはずだ。
憩うことを望むオーザンの背筋を骨が潰れ砕かれたような痛みが通る。
「うっ!?」
負傷の痛みよりはるかに強く、命に関わる傷にも慣れたオーザンが短くうめくほどの苦痛が襲っていた。
屈強な精神力で悶えるのを堪え無様を晒さないように耐えるが、これはまるで下半身をちぎられようとしているかのようだ。
痛みの正体はイルーヴァタールが知っていた。
『長話はお前が持たぬな。現世に引っ張られて魂が裂ける。もう送り出そう』
「俺は死んだんだろう。どういうことだ?」
『否、死んではおらぬ。死の直前に時を限りなく緩めた。時を巻き戻して死者を甦らせれば、万物の流転は滞り夜の扉が破れてメルコールが舞い戻るが、止めるだけならばそうはならぬ』
従って、深刻な問題は起きない程度に遅らせて捻出したたまゆらの時に語りかけていた。
これは今際を引き延ばした泡沫の時間。
現世ではケレブディルの山腹でセレグセリオンが永遠の虚無に呼ばれるオーザンにバルログから吸い上げた命を流し込み、必死で阻止していた。
魂はあるべき肉体に戻ろうとアルダへ墜ちていく。
それが
急速に息を吹き返そうとしている今、長々と話していると魂は真っ二つに引き裂かれてしまうだろう。
『お前は戻り、旅の果てに仇を討つ。それが褒美になればよいが』
「仇だと? 村を襲ったオークに元凶が居るってのか? それは誰だ」
神は聞き捨てならないことを言った。
身を裂かれる痛みなどどうでもよくなる。
『いずれ知る。そこへ辿り着けるはずだ』
心と、剣と、それに相手。
胸に空いたままの復讐の穴を満たす欠片は揃った。
最高の報酬だ。
「いいだろう、やってやる」
イルーヴァタールに懇切丁寧に説明する気はさらさらないのを悟り、追及を諦めた。
『さだめの剣士よ、励むがよい』
光の大瀑布は明滅すると遠ざかり、背中がアルダへぐんぐんと引かれていく。
もう一度目を開けばそこは雪の上だった。
よく晴れた空は青く、さっきのようなたくさんの星たちはすっかり見えなくなっていた。
あれも夢だったのか。
まあ、今はどちらでもいい。
起き上がり五体を調べると手足は腐り落ちることなくしっかりと残っている。
蘇生がどれだけ体に負担をかけたのか物語るように、少し伸びて目にかかった髪には白いものが混ざっていた。
何百年も変わっていなかった顔も触るとやや老けたようだ。
些細な行き違いはあってもこの剣は助けようとしてくれた。
一人でも孤独ではない。
「よう。助かった」
せっかくつまみ食いしたバルログの命を受け渡してくれた黒鞘に礼を言ってひと撫でした。
このまま永久に雪中に埋もれてたまるかという思惑があったにせよ、手当てに救われて体はすっかり快調だ。
魔剣は勘違いするなと抗議するがごとく激しく震えて罵ったが労ってくれているのか指に噛みついたりはしなかった。
晴天を仰ぎ微かな星の位置を確かめると、なんと一月近くも寝ていたようだ。
セレグセリオンに叩き起こされるまで本当に死にかけていたらしい。
道理で腹が減っているわけだ。
先に行った仲間たちに追い付けるだろうか。
「まあ、やってみなきゃ分からんよな」
パイプとグワイヒアの尾羽根を腰帯にしっかり挟み、セレグセリオンをベルトに差し込む。
片方だけ残ったブーツが脱げていたので履き直す。
「行くか」
一歩二歩と脚を早める。
また急に脚から力が抜けないか用心して段々に加速する。
速度に乗って雪が積もった斜面を疾走する。
目指すはロスローリエン。
指輪の仲間を想い、一心に駆けた。