旅の一行が出発したのちにロスローリエンはアンドゥインの流れを挟んだドル・グルドゥアを根城にするオークの軍勢の攻撃に曝されていた。
これが初めてではなく、サウロンの復活からこれまで何度も攻め寄せている。
ドル・グルドゥアはかつて体を失い亡霊となったサウロンがその名を伏せ潜伏していた古砦。
今ではオークの一大拠点になり、そこから出撃する軍勢に度々攻撃されているため監視を置いている。
今回も攻撃の兆しを察知して即応したハルディアは素早く陣形を組み対処した。
地の利を生かして巧みに戦うエルフに業を煮やしたオークどもは、森に火矢を射かけて火災を起こしてロスローリエンの戦士を炙り出そうとするのが常套手段になっていた。
火事のひとつやふたつは戦時には往々にしておこるものだが、ロスローリエンにとって森は国そのものであり意図的に燃やされるのは捨て置けない。
戦士の頭領のハルディアは約千人の部下を指揮し、消火と応戦に人手を振り分けて今度も上手く戦っていた。
ドル・グルドゥアの勢力との攻防を何度も経験している歴戦のエルフは最適な人員の配置で森の被害を最小限に抑えることに注力する。
ほぼ同数のオークが草地を駆けるがエルフの矢は外れない。
「予備人員で風上から消火にあたれ。矢を使いきったものはすぐに交代せよ」
窪んだ扇形に弓兵を配置して森に入らんとするオークの先頭へ集中攻撃をくわえ、侵入を阻止している。
統制がとれた部下の奮戦の甲斐あって戦況は優位に進んでいる。
この調子ならいつも通りにオークを追い返せるだろう。
そう、このままなら。
森を焼く戦術を使い出したようないやらしい生き物が今回に限ってなんの細工もせずに攻め寄せるだろうか。
隠れ場所にならず格好の餌食になる平地を右往左往するのは変だ。
奴らは補給線の概念もろくにもたず腹が減れば共食いで勝手に自滅するが、推測される軍勢より二千も少ないのは流石におかしい。
何もかも上手くいきすぎている。
胸騒ぎがした。
「各部隊から斥候を一名選び南北を探れ」
こういう勘は馬鹿にならない。
ハルディアは副官に命令を下した。
オークは残酷で狂った忌まわしい生き物だがトロルのように単純ではなく、獲物を殺すときに悪知恵を働かせる知能がある。
モルドールから指揮官を派遣されてなにかの策を練っていてもおかしくはない。
「思い過ごしならよいが……」
気を揉んでいたハルディアに帰還した偵察兵から最悪の知らせが入った。
「左右からオークの伏兵が現れました!」
ロスローリエンの結界に弾かれて辿り着けずカラス・ガラゾンには立ち入れなかったが、大回りしてハルディアたちの側面に出ることには成功した。
「数はいかほどか?」
「右翼にトロル二十を含めたオークが八百! 左翼にワーグとオークが千余り!」
正面の千のオークと足して約三千、ドル・グルドゥアに集結するのが観測された通りの動員数だ。
侮っていなかったと言えば嘘になるがそれでもここまで大回りをする戦術を使う前例は無かった。
防御を考慮していなかったがら空きの横っ面を思い切り殴り付けられた形だ。
「三方を囲まれたか」
「一度下がって体勢を立て直しましょう!」
副官が進言するが首を横に振る。
「ならぬ。退路はない」
即座に退却すべき窮地であるが、ここから撤退すれば隠れ里のカラス・ガラゾンまで追跡されてしまう。
結界に守られていてもその力は有限のため、包囲されひっきりなしにぶつかられたら旅人を迷わす守りはいずれ破られてしまう。
かといって半端に潰走しても部隊の再編をする間もなく背中を刺される。
退くに退けない袋の鼠だ。
「踏み留まれ! ロスローリエンを守るのだ!」
ハルディアは厳に命じた。
マルローン樹を遮蔽物にしながら矢を射かけられる優位は損なわれ、今度はオークが逃げ場を無くしたエルフに十字に矢を浴びせる。
山なりに飛来したオークの矢をハルディアは打ち落とした。
他のエルフたちも器用に払いのけるが、全員が無事とはいかない。
追撃を視野に入れ素早さを重視して軽装備で編成した部隊であるがために鎧に身を固めた歩兵はごく少なく、矢を防ぐ盾も足りない。
矢が掠める者や手足を射抜かれた負傷者も目立ち始め、整然としていた隊列は櫛の歯が欠けてゆくように防衛線に穴が開く。
正面の戦域で角笛が吹かれる。
エルフの部隊ではなくオークが吹き鳴らしたものだ。
それに呼応して三方のオークが一斉に突撃を行った。
エルフの戦士たちは弓を置いて剣に持ち替え突撃を破砕せんと肉弾戦に挑む。
千のエルフと三千のオーク混成軍団が入り乱れる大乱戦にもつれこみ、ついには陣の中央部で森がやや開けた場所で指揮をしていたハルディアの元まで敵は来た。
「臆するな! 戦うのだ!!」
浮き足立つ部下を鼓舞するハルディアも剣を抜いてすれ違いざまにワーグに乗ったオークの首を飛ばす。
流麗な剣技を操るが内心は焦っていた。
オークが伏兵と挟撃を使う。
それ自体は珍しいがあり得なくはない。
問題は絶妙な時機を弁えて兵を動かせる何者かが指揮をしていることだ。
それはすぐに判明した。
おぼろげな人影が戦場を練り歩き、側近の精鋭をやすやすと討ち取っていく。
それは黒いマントの下に灰色の長衣を纏い、頭には銀の頭全体を覆う兜を被って顔は見えず、やせさらばえた手には鋼の剣が握られていた。
縦長に開けられた兜の切れ込みでは鋭い無慈悲な目が燃えていた。
冷たい視線は獲物を捉え、次々にエルフの戦士たちを突き刺した。
それはそこにいるだけで周囲に甚だしい恐怖を与える。
サウロンの意志と指輪に従属する恐るべき幽鬼である。
「ナズグルめ。きゃつがオークを動かしていたか……」
疑問は氷解した。
生前は高名な諸侯やまじない師であったナズグルならば機を逃さず勘所を押さえる狡猾な指揮を執れたのも頷ける。
苦楽を共にした部下が司令部への侵入を防がんと果敢に挑みかかっては一刀で倒される。
「私がやる! 誰も手出しするでないぞ!」
ハルディアは指揮を中断してでも我こそナズグルを倒すべしと決意した。
部下を預かる身として鍛練を欠かさず、ひとかどの使い手たる自負がある。
第一にナズグルと間近で接触した者は黒の息と呼ばれる呪いに冒されることがあった。
ナズグルは実体を持たないため尋常の武器では傷つけることはできず、逆に斬りつけた剣は朽ちてしまい、斬り付けた者は腕から黒の息に冒されてしまう。
兵の数が多ければ倒せるというものではない。
ハルディアを見つけたナズグルはとげとげしい兜を向けてこちらへ進んだ。
「でやあああああ!!」
気迫を奮い立たせ、一騎討ちを仕掛ける。
名工が打った美しき鋭剣を携え魔力を剣と体に纏わせ加速する。
オークを操るナズグルさえ討ち取ればあとは雑兵。
狙うは大将首のみ。
「他愛なし」
人とは思えぬ剛力に剣を弾かれた。
毒々しい気配の鋼の剣を片手で操りハルディアの全力を受け止め、受け流し、反撃の剣が閃き舞う。
速く、重い。
技の完成度で僅かに勝るのみである。
尋常でない怪力と鋭さにも負けじとハルディアは食い下がる。
「むうっ!?」
馴染んだ剣を危うく取り落としかける。
何合かの打ち合いをしただけで四肢に力が入らない。
黒の息が恐ろしい早さで活力を奪っている。
直接体を傷つけたらと思うだに恐ろしい。
よもやこれほどに蝕む勢いが強く、地の力まで怪物じみているとはハルディアにも計算違いであった。
こうなれば悠長に丁々発止と斬り結ぶ猶予はない。
ただでさえ敗色が濃い実力差に加えてこれでは後手に回ればまず勝てぬと見切りをつけた。
逆転の一撃をナズグルの首に狙いを定め大胆に跳んで一か八かの賭けに出た。
「はぁああ!!」
もう一度魔力を行き渡らせた剣で首を左から薙いで右へ斬り抜ける。
窮地にも曇らぬ見事な技の冴えをしていた。
しかし、ナズグルが一枚上手であった。
乾坤一擲の掩撃は惜しくも見破られて高速の体捌きと首の捻りでかわされ、逆に胴を斬られた。
「仕損じた、か……」
ハルディアはその場に倒れた。
鎧を着ていたハルディアの傷は浅いが傷口から侵入した黒の吐息が猛烈に体力を削り、立つこともままならない。
体勢を建て直そうと這いずり、それでも剣を離さずにいた右手をナズグルは踏みつけその場に縫い留める。
「往生せよ。今際の時だ」
「おのれ……!」
ナズグルを睨み付けハルディアは迫り来る死を見据えた。