剣が胸に振り下ろされる、長い一瞬。
歯を食い縛ってハルディアは痛みに備えた。
「無念!」
ナズグルが抱える闇より黒い剣がそれを阻んだ。
「よう、しばらくぶりだな、黒の乗手さんよ」
腰巻き程度に成り果てた衣服のエルフが黒き剣を横合いから差し込んで、伸ばしに伸ばした右腕で弾いたのだった。
すかさず間合いを詰め、胸に腕を畳んで抱えるように剣を引き絞り、二度目の刺突を射つがそれはナズグルは後ろに跳んで逃げた。
「よく分からんが手を貸そう」
「どなたか存ぜぬがかたじけない!」
「こちらこそ、見苦しい格好で悪いな」
セレグセリオンの救命で蘇生し仲間を追って駆けに駆け、ロスローリエンまでやって来たはいいが結界に守られた人里には入れずに困っていた。
とりあえず森を東へ歩いていると煙とオークの臭いが混ざった戦いの気配を嗅ぎ、異変を悟って急行した。
到着するとナズグルがオークを従えまさに今エルフに止めをくれようとしていた。
万の理由に勝る状況に、一にも二にもなく抜刀して妨害したのだ。
「貴様……あの時の半エルフ!」
ナズグルにはオーザンは主から命じられた任務が達成される寸前に横槍を入れられた因縁の相手だ。
憎々しげな怨嗟の唸りが喉を鳴らして剥き出しの首筋に袈裟斬りで迫った。
「迂闊に間合いを詰めると命を吸いとられるぞ! 気をつけられよ!」
ハルディアは警告した。
剣の腕もさることながら帯びたる瘴気も非常に危険なのだ。
「心配ご無用」
危うさなら魂まで欲しがる独占欲の魔剣も負けてない。
オーザンの体に宿る命を吸おうと黒の吐息が吐き出されるが、やすやすと男を譲るセレグセリオンではなかった。
中央の構えからせりあげて鍔の近くで受け止め、魔剣の身に黒いもやを吸い込ませる。
底無しに魔力や命を飲み込む魔剣はぐるぐると鳴くと毒も呪いも食い尽くした。
無表情な兜の下でナズグルは驚愕した。
呪いを無力化する優れた魔剣の力もさることながら、厚く重く硬い大岩と押し合っているかのような印象を受ける。
力任せに押しても勝てぬと確信した。
「おいおい、ちゃんと朝飯食ってきたか?」
「……!」
軽口に付き合うゆとりはない。
押せど折れず、引かば敗れる。
当人たちにしか分からぬ刹那の妙。
練達の武芸者は剣が触れ合えば互いの実力を測れるがオーザンの底は見えなかった。
オーザンは拮抗した剣をわざと弛めた。
ナズグルは呼吸を外されて剣が逸れる。
「らあっ!」
肩口から体当たりして
石頭が面頬をへこませる。
続けて泳がせた魔剣を走らせ脇腹をしたたかに斬る。
魔力の塊に近い存在のナズグルに刀傷としては浅くもセレグセリオンの魔力食いは覿面に効いた。
命を齧られて虚脱する。
傾いだ上体を戻さず、なりふり構わず呪いを蓄えた右の五指を差し伸ばす。
直に触れられようものならどんな病魔に冒されるかわかったものではなく、さしものオーザンも追撃を諦め飛び退いて触れ合える距離を捨てる。
指呼の間まで間合いを切った。
攻めるのは右腕を軸に頭上で天を衝く魔剣を構えるオーザン。
歩けばたった五歩の距離で八度も足捌きの幅と速さを切り替える幻惑の歩法でナズグルの眼を眩まし、セレグセリオンを迎え撃つべき機を見失わせる。
超常の手練れにとり、壱は壱ではなく、変幻自在に移ろう。
中つ国では廃れた技の猛威に直面したナズグルはまやかしもろとも串刺しにしようと腹を突いた。
ナズグルが見抜いた通り、遠近感を逆手に眼を騙すこれは、横の動きは鈍くならざるを得ない。
しかしこの技法を使うものとして、誰よりも弱点を熟知しているオーザンがその欠点を何百年も放置している道理はない。
破られる可能性も熟慮しているからこそ、奥義は奥義足り得る。
接地した両の爪先で土を蹴って膝下だけの挙動で右へ横滑りして、際どくも突きを避けきった。
「ふっ」
軽く息を吐いて上から無造作に打ち込んだ。
ナズグルは悪あがきで剣を払ったが突いてからでは一手遅い。
無垢な黒金は猛毒の白銀を押し退けて兜を掠めて闇の衣の胸ぐらを抉り取った。
闇が剣身に吸いとられる。
痛手を受けてもナズグルはまだ倒れない。
土の上を転がって這うように離れる。
無様を晒しながらも確固とした足どりで死地を脱した。
「いい根性だ。見直したぜ」
手先に囚われない芯の通った基礎が出来ている。
勘も良い。
闇の勢力らしからぬずいぶん真っ当な剣術と粘り強い肝の据わりように感心した。
黒の吐息の脅威がなくともこのナズグルは尋常ならざる使い手だ。
まとまって戦うことが少ないのかブルイネンでは連携に付け込める粗が散見されたが、一対一の戦いとなると、どうしてなかなか腕が立つ。
生きていればさぞや頼もしい味方であっただろうに、決して寝返らぬ手駒にされているのが惜しまれる。
力強い良い戦士だったのだろうなと勿体なさを感じた。
「抜かせ」
ナズグルは不愉快そうに言い捨て、剣の腹に人差し指と中指を這わせると暗く濁った毒々しいもやで刃をくるむ。
禁じられた邪法を交えてより悪しく、より黒々と。
呪詛と猛毒で塗り固めた剣の先が小指の爪ほどでも掠めれば命はない。
暗黒の刃を携え激しく斬りかかった。
さりとてオーザンは無窮の剣士。
特に恐れるでもなく華麗な受け太刀を披露して到達を遅らせ、身を開いてかわす。
磨いた剣術は人間大の敵にこそ発揮される。
「若いな」
剣が正直過ぎる。
間合いの内に入ったまま見切っていた。
「毒を塗ろうが剣は剣だ。当たらなきゃ意味ねえんだぜ」
ナズグルのそれより長大なセレグセリオンでも、反りを生かし十分に威力が乗った細やかな斬擊をしつつ前進し、体を押し付けるような接近戦を強要する。
やや大振りなナズグルは懐に入られ瞬刻に斬り込まれる魔剣に防戦を強いられた。
ナズグルが怪物なら、オーザンはそれらを狩りたてる鬼人。
剣技にしても単純な豪腕にしても、バルログを討伐せしめたこの男を越えるには神代まで遡らねばなるまい。
後ずさるナズグルを片手一本で司令部を襲っていたオークの集団にまで押し込み、逃げるか介入するか迷ったオークの首をむんずと捕まえて握りつぶす。
抑えずあえて体を流した慣性で躍動する三肢は周囲でどよめくオークのあばらを蹴り砕き、脳天を叩き潰した。
腰を据えた太刀筋から流れを途切れさせぬ流水のごとき鋭さと円やかさの両立に、ナズグルが何度仕切り直しても反撃の隙はない。
オーザンの剣技は頑丈さも膂力も圧倒的なバルログには破られたが、人間大の相手にはやはり際立ったものであった。
剣ではナズグルの相手をしつつ、残る手足でオークやワーグをくびり殺す実力差をまざまざと見せつける。
超絶の技巧を操り斬るほど強壮になる魔剣士と長期戦を演じるのはいかに魔性の暗黒騎士といえども分が悪い。
かといってオーザンにかかずらってばかりもいられない。
理性なきオークは適切に指揮せねば烏合の衆だ。
エルフとの練度の差は如何ともし難く、何かの拍子に形勢が逆転しないとも限らない。
機を急いたナズグルは勝負を仕掛けた。
「クアアアッ!」
オーザンの剣に触発されて生前を思い出したのか、ナズグルらしからぬ気合いを力と合わせて袈裟に鋼の剣を落とす。
それは踏み込みも速くとてつもなく重い。
受けごと押し斬る意気の太刀だ。
しかし、技には乱れ、すなわち静から動への力の流れに僅かに淀みがあった。
零から百の力を出すために、壱を経由したのだ。
無論、常人には見えぬ僅かな隙に過ぎないが、生憎と今戦っている男はまともではない。
対して、オーザンは技の兆しは無であった。
浴びているおどろおどろしい殺気と対極にある、意志の色を消した無欲の剣。
受けると見せかけて膝を落として大きく沈みこむのは、相対するナズグルにはオーザンの巨体が一瞬だけ消えたように見えただろう。
セレグセリオンはナズグルの剣をかわして刃先が鍔を掠めるように潜ってすれ違った。
ナズグルの剣はオーザンのこめかみを掠めて外れる。
魔剣の切っ先はナズグルの兜の装甲の隙間である喉へ。
必殺の威力とは裏腹に恐ろしく静かで、穏やかな剣であった。
いつぞやのピピンの不意討ちに応じた技を、殺害の意図を含めて昇華したものである。
「カアッ!」
されどナズグルもさるもの、体をのけぞり軌道から顔を外してのけた。
さらにオーザンは半歩踏み込み、突き上げたセレグセリオンを落として即座に兜割りに移る。
これを技で返すには力を練らねばならないが、その起点となる腰は体を無理に起こしたことで半端に浮いた。
反撃が叶わずともナズグルはまだ足掻く。
延び上がった体勢で爪先で出来るだけ後ろへ跳び、無理やり胸を張る反動で頭を逃がした。
火花を散らして振り抜いた魔剣が兜の表面を浅く撫でる。
続けて足を踏み変え左から切り上げる第三の太刀を放つが間合いがやや遠い。
息を整えて元の構えにぴたりと戻す。
やったのは兜だけだ。
胴は斬れたがやや浅い。
セレグセリオンの牙も同時に食らいついたので深手には違いないが致命的とまではいかなそうだ。
「良い勘してるぜ」
技の完成度に惜しい部分があるが機微を察する素養はとても優れている。
こればかりは磨こうとしても容易にはいかない。
踏んだ場数がものを言う。
ふと興味がおきて訊いてみた。
「どこの生まれだ?」
生気がない灰色がかった淡い青の瞳がひしゃげた兜の裂け目から一瞬見え、すぐに腕で覆い隠してしまったので確証を持つには至らないが顔つきはゴンドール人であった。
また魂の劣化も軽く、ナズグルの首魁の魔王のように肉体まで完全に霞となった亡霊になるほどの年代も重ねていないと思われ、もう千年経てば実力は逆転してもおかしくなかった才覚が嗅ぎとれる。
「…………」
ナズグルは答えなかった。
答える気がないのか、それどころではないのか。
中つ国で最も精強であるエルフたちは劣勢にあっても冷静沈着に個人で出来うる最善を尽くし、オーザンの乱入にオークの足並みが乱れた隙を逃さずものにする。
ハルディアを中心とした円形に入り交じった陣を一時捨て、外側の敵のみを攻撃してすり抜けた。
かわしきれずワーグに噛まれるなど少々の被害は被ったが、無策に殴り合いを演じるよりは何十倍も少なかった。
平々凡々な軍であれば乱戦になった挙げ句に隊列を放棄して各自で脱出を図ればただの潰走になるのみだが、ロスローリエンの兵団はまるでひとつの生き物のように統一された思考と戦術に基づいて動いた。
戦友を信じて背中の守りを捨てたエルフたちは死に物狂いで包囲の外に出ても、そのまま逃げはしなかった。
勇敢に攻め返したのだ。
すなわち、目の前の敵のみに集中して倒し、オークの包囲網の外へとすばやく脱したのちに反転し、逆包囲の陣を再構築したのであった。
人間には不可能な戦術も一対一ならオークなど圧倒する人外の能力と長年練兵を積んできた阿吽の呼吸がそれを可能にする。
こうなればオークの数の利は働かない。
段取りがひっくり返され頼りのナズグルもオーザンに釘付けにされ勝ち目は消えた。
個々の技量で上回るエルフはあっという間に盛り返してトロルもワーグも押し込めると、まとめて射かけて皆殺しにしてしまう。
「これまでか」
あわてふためき右往左往するオークに引き際を見たか、ナズグルは黒衣を翻し生き残りのオークの隊伍の向こうへ飛び退いた。
「この勝負、預けた」
ナズグルはサウロンより賜った黒馬に飛び乗り一目散に走り去る。
邪魔なオークを蹴散らす間に行かれてしまうだろう。
無駄とは知りつつオークの死体から長槍を奪って背中目掛けて投げつけたが、やはり察知されて弾かれた。
「チッ、駄目か」
必中と謳われるエルフの矢を斬り落とし、包囲網が薄い部分を正確に見抜くや馬首をめぐらせて猛然と突破するさまは、敵ながら天晴れである。
「ナズグルにしておくには惜しいな」
馬が疲れるまで追跡して追い詰め殺したいところだがその武勇に免じて見逃した。
もちろん勝利を前提としてだが、強敵には敬意を払い堂々と殺す。
それだけがオーザンの戦場の哲学だ。
それより今は目の前のオークを根絶やしにしてエルフの被害を減らすのが先だ。
それにいずれ機会もめぐってこよう。
あれがナズグルで己が指輪の一行である限り必ず。
「すまん。思ったよりやるもんで逃がしちまった」
顔を青くして樹の根に背中を預けたハルディアに一言謝った。
なにしろ敵の指揮官を討つ千載一遇の機会を私情で棒に振った。
なりふり構わず仕留めようとすればやれたのにだ。
「いや、素晴らしい腕前を見せて貰った。あれで逃げられたのなら武人として文句はつけられぬ」
ポケットから手のひらに収まる大きさの水晶の小瓶を出して栓を抜くと一息に飲み干した。
飲んですぐ死人の色をしていた顔色はみるみる改善され、浮かんでいた死相も完璧にとまではいかないが影を潜めた。
エルフの秘薬は素晴らしく効いたようだ。
「これは命の働きを強める。兵にもひとつずつ持たせてある。息のある者に飲ませてやって欲しい」
「わかった」
相互に助け合って手当てをしているエルフたちに混ざって近場の負傷者の懐から水薬を探し飲ませて回る。
かろうじて生きている虫の息の兵も見逃さず手当たり次第に飲ませ、一通り終わるとまだ呻いている者が残っており、傷口の回りが紫色に変色していた。
オークの矢に塗られた毒だ。
このままでは半日と生きられまい。
「おい、怪我人に毒が回ってるぞ」
「その薬にオークの毒は治せん。急ぎ都の癒し手に診せなくては」
ハルディアは死傷者の計算を生きていた副官のひとりに命じた。
副官はきびきびと走り回り、隊伍の生き残りをかき集めてすぐに調べ上げた。
報告された戦死者はなんと全体の二割にものぼり、傷を負っていない者はほぼいなかった。
「なんたることだ……」
壊滅的な現状にハルディアは惨憺たる気分を漏らした。
オークの矢には常に猛毒が塗ってあるので手足をかすめただけでも死に至る。
ロスローリエンの癒し手の技をもってすればそこまではいかなくとも快癒には時間を要する。
部隊の半数以上が矢傷や刀傷を負う甚大な被害が出てしまった。
ロスローリエンは守りきったが、これではドル・グルドゥアへの反撃に向かう計画は潰えたも同然であった。
エルフは全員が優れた戦士の素養を秘めているが、どうしても争いに向かない性分の者も多い。
決して大勢とは言えないロスローリエンの人口から新たに戦士を募って部隊を再編するのは困難だ。
領主より部隊を預かりながらまんまと罠にかかる失態を演じた責任をどう償うべきか頭を悩ませた。
「お互い大変だな」
オーザンもオークの矢に良い思い出は無い。
部下の死因でも特に多かった。
セレグセリオンに付いたオークの黒い血を膝の辺りの布をちぎって丁寧に拭い、鞘に戻す。
「つらいだろうがひとつ教えてくれ。ここはロスローリエンだろう。俺の仲間を知らないか? 灰色のガンダルフが一緒の筈だ」
とりあえず仲間で一番有名なガンダルフの名前を出した。
何かしらの手がかりが欲しかった。
「なんとそなたが。希望は残っていたか」
仲間、ガンダルフ、半エルフの武者。
ハルディアの中で糸がより合わさって絵が浮かんだ。
白雪の上、黒刀で業火を打ち払い屈強な戦士が恐ろしきバルログを下す勇姿だ。
「いやはや、そなたがオーザンが。なるほど、バルログを倒せたならナズグルなど赤子も同じであろうな」
ただの旅人にしては剣も風格も強靭過ぎる。
中つ国に二人といまい。
「よくぞ無事で。その若さで大したものだ」
重ねた歳はハルディアの方がずいぶんと上であるが単騎でバルログ退治など狂気の沙汰だ。
「疲れて一月も寝てたのは内緒だぜ。格好がつかねえ」
オーザンは片目を閉じて微笑んで手を差し伸べる。
オークの血が乾いたものがこびりついた手にハルディアはやや戸惑ったが、それに掴まり腑抜けた腰に渇を入れてどうにか立ち上がる。
「今世紀最大の偉業を成した勇者を誰が嗤おうや。我らを無恥と思ってくれるな」
モリアではバルログを倒し、今度はロスローリエンの守備隊を救った手柄を別段誇るでもないオーザンにハルディアはますます感心して、武骨で謙虚な人柄を気に入った。
いち武人として、畏敬の念すら覚える。
「思ってないさ。全員が勇敢な戦士だ」
柔らかくも真摯な眼差しでオーザンはそう返した。
「それで、どうなんだ? 俺の仲間は」
固まった血糊を軽く払った手でパイプを出して草を詰め、未だにくすぶるオークの火矢を拾って火をつけた。
「指輪の一行は、彼らはすでにこの地を離れた」
「……そうか」
オーザンは渋い顔で煙をくゆらせた。
薄々感じてはいたが、やはり仲間たちが発った後であった。
アラゴルンらが舟を漕ぎだしたのは、惜しくも二日前のことである。