負傷者を連れ立つハルディアに案内されてロスローリエンの結界を抜け、オーザンはカラス・ガラゾンに到着した。
領主の館へと歩いていく筋骨逞しく背丈も並外れた異邦人へ住人たちは物陰から奇異の目を向けた。
破れた服から覗く全身の痣や裂傷や火傷に留まらず、エルフの個性である耳も片方を失って、落武者然としたむごい有り様だからではない。
それでも精悍さを損なわず毅然とした足取りで、黄昏に染まる黄金の木々にかけられたアーチを堂々と進んでいたからであった。
「着るものを用意させよう」
謁見にさしあたって身なりを整えさせてやろうとハルディアは思った。
鎧に貼り付いた血糊を拭うハルディアは従者に指示して服を持ってこさせた。
「助かる。お偉いさんに怒られちまうところだった」
靴は無いし、体のほとんどはもろ肌を見せている。
流石に裸まがいの格好で中つ国を代表する高位者と謁見をしては不味かろう。
小部屋に入り盆に貯められた水で顔や手の血を流し、いそいそと着替える。
縦にも横にも規格外な大男のオーザンにはエルフの柔軟な織物でもやや窮屈で布地に筋肉が浮き彫りになってしまったが、取りあえず身なりは繕えた。
丈は合っているので無理に動かなければはち切れたりはしないだろう。
「まったく、大男め。それが一番大きいものなのだ。明日の朝一番までには体に合った大きさが作れよう。それまで待て」
生地に負担をかけないようにぎこちない歩き方になったオーザンを見て鎧を脱いだハルディアは苦笑した。
控えめな刺繍が施された純白の生地が貼り付いて筋肉が浮き彫りとなったさまはまるで大理石の彫刻のようだ。
「ありがたい」
服があるだけ上等だ。
みずみずしい蔦を編んだサンダルまで貰えた。
セレグセリオンにも覆いの布を被せて隠し、足早に領主の元へと向かった。
オーザンの第六感は玉座へ近付くほどにいや増す魔法の息吹を感じ取った。
イルーヴァタールという無限の泉を見てしまった後では小さく思えるが、それでもこの時代の一個人が蓄えているものとしてはあり得ないほど強い。
天に愛されたる者の証明か。
「連れて参りました」
ハルディアはうやうやしく報告する。
領主は礼儀にのっとり立ち上がってオーザンを出迎えた。
厚みはさておいて目線はほぼ同じで、オーザンに近い背丈をしていた。
邂逅したガラドリエルは美しく、ケレボルンは年期を重ねた威厳があった。
故郷の荒野に生息した亜竜など捻り潰せる本物の巨竜やバルログの軍団が闊歩していた悪夢のような時代を切り抜け、かなりの場数を踏んだ練達者。
それだけでも敬意の対象になりうる。
「指輪の旅路に参加しているオーザンといいます。後れ馳せながら、参上しました」
偉大なる先達に敬意を示して言葉を選んで粛々とこうべを垂れた。
ガラドリエルはどことなく祖父に似ていた。
顔はまるっきり違っているのに、居ずまいや気配、存在の深度がその時代に生まれた者特有の波長をしている。
馴染みある威厳に郷愁を掻き立てられた。
魔力の糸が綿毛のごとき軽やかさで肌に触れ、心へ通じた。
セレグセリオンに身を委ねて一時は肉体を魔力そのものへ変じたオーザンには、心と体に何が起きているのかつぶさに理解していたが敢えてさらけ出した。
凄惨な記憶もバルログとの死闘も余さず見せ、ケレボルンとガラドリエルと目に見えないやり取りをした。
限りないはずの命を燃やし、未来を捨ててまで亜神を討ち果たした決死の姿を領主たちは共有した。
「……此度はバルログの討伐、そしてハルディアへの助力、いずれも大儀であった」
山を下りれば必ずや暴虐を働くバルログも、明確に害する意図を持ったナズグルも、そのどちらもロスローリエンに甚大な被害をもたらす危険な相手であった。
両者を下した剣士にはロスローリエンの領主として感謝と称賛の念に堪えぬ思いをケレボルンは開口一番に述べた。
「どちらも手間取り過ぎました。もう少し早ければ助けられた兵もいましょう」
由緒正しき領主と平民では、ひざまづくなりの然るべき態度で言葉を受けとるべきなのかも知れないが、服が弾けてしまいそうなのでやめておいた。
せっかく好意で貸された服を破って織った職人に恥をかかせてしまうぐらいなら、無作法者だと嗤われたほうがいい。
「そなたはよくやった。胸を張って面を上げるがよい」
立ち尽くすオーザンのありのままの姿に美しさと気高さが映されていると認め、ケレボルンは咎めたりはしなかった。
「大いなる犠牲を払い、ここまで来たのですね」
揺るぎ無い覚悟を裏付ける過去の記憶と今の姿をガラドリエルはそう形容した。
永久の命を持ちながらオーザンのように急激に老化するのは半エルフにしても異例であり、間に合わせの補填をした魂には異物が混ざった異様な有り様だ。
「大したことありません。中つ国の行く末にはそうするだけの値打ちがあったのです」
優しい思いやりがくすぐったく、力の無い笑顔を浮かべた。
人としての生きようという甘い考えは、あの嵐の夜に捨て去った。
生き延びてロスローリエンまで来れたのは少しの幸運と、魔剣の手助けがあったからだ。
絶体絶命の危機を二度も救ってくれたセレグセリオンを悪し様に言う気にはなれなかった。
太古の大戦争で武功を残した最上級の英雄である森の奥方の存在感に当てられたか、肝心の魔剣は腰でおとなしくしている。
存外にかわいいところもあるものだ。
いつもこうだとありがたいものを、と内心で呟いて布を被せた柄頭を撫でる。
「気高く謙虚な男よ。指輪の一行もそなたを心配していたぞ」
「特にアラゴルンはあなたのことを気にかけていました」
「仲間は無事でしたか?」
「ええ。九人とも怪我なくロリエンまで来られました」
上出来だ。
頑張った甲斐がある。
「功名話を存分に聞かせて欲しいが、それは次の機会にしよう。今宵は英気を養い仲間たちの元へ行かねばならぬ。重大なる旅路の途中であるゆえな」
「お気持ちはありがたいですが、一晩と言わず一休みしたならすぐにでもここを発ちたいと思います。仲間が待ってる」
一晩も時間を割くなどとんでもない。
死にかけから立ち直ってすぐ無理を押して走り通したのも仲間と合流したいがためだ。
ぐずぐずして彼らに魔の手が及ぶのを傍観するつもりはない。
「なりません。あなたの体は悲鳴をあげています。崩れかけた積み木に精神力の楔を打って無理に繋いでいるような状態なのです。どこがとは言いませんが、心当たりがありましょう?」
ガラドリエルは若き旅人が健全とは程遠い体調を押して仲間の元へ行こうとしているのを見抜いて気遣った。
単身でバルログを討てる者が万全の体調なら、ナズグルを逃がすこともなく森の外れで倒せていただろう。
事実、バルログに打たれて折れた左腕の感覚も鈍く、骨が飛び出していた足は元通りの速さではない。
人間離れした自然治癒力でも一月もの仮死状態から目覚めてたったの数日では本調子に戻るはずもない。
だがそんな体調でも行かねばならない。
故郷では間に合わなかった。
いてもたってもいられないのだ。
「しかし……」
「言い訳無用。たまには自分の体を心配なさい」
優しくも厳しい口調でぴしゃりと一喝され、反論が封じ込められた。
ガラドリエルに叱りつけられて反発できる者は中つ国のどこを探しても居ない。
「無鉄砲は若者の特権だ。しかし、今日だけは年長者の忠告を聞いてはどうだ?」
逸るオーザンをケレボルンは努めて冷静に諌めた。
「酷な話かも知れぬがガラドリエルの言うとおり、そなたはもう少し体を労れ。今無理をしても肝心な時に力が出せねば仕方があるまい」
過去と重ねてしまっているのも承知の上で堪えどころであると、気持ちを汲みつつ取り持つ。
ここまでさせては顔を立てないわけにもいかない。
「……わかりました。お言葉に従いましょう」
この場は退いた。
ひとまずこれで簡単な謁見は終わり、逗留に際して用意されていた地上の天幕に通された。
天幕はいくつか置かれており、仲間の数だけ寝台があった。
もぬけの殻の寝台を眺めているとロスローリエンで追い付けなかった悔しさと、全員が無事であったことへの安堵が沸き起こった。
「顔を洗うか」
考え過ぎても無駄に疲れてしまう。
教えられた場所で沐浴を終えて戻るとまた新品の服が籠に置いてあった。
着てみると大き過ぎず小さ過ぎず、なんとこの短時間で体格に合わせた服を一着仕上げてしまったらしい。
採寸すらしていないのに一体どうやったのだろうか。
職人の意地に驚嘆していると、守備隊長としての雑事を済ませてきたのか、血の臭いを落とし普段着に着替えたハルディアがやってきた。
「不自由は無いか」
天幕の傍の椅子に座り皿に盛られた果実から梨を掴んで囓りつく。
たっぷりの水気を含み爽やかな甘さをしていた。
「ああ。果物もうまい」
種も避けず芯ごと丸囓りにして残らず食べきる。
腹はまだまだ空いていて梨を与えられて目覚めた腹の虫がぐうぐうと鳴き始めた。
「夕食は間もなくだ。それまで我慢してもらおう。なにか欲しいものはあるか?」
「それなら、パイプ草があるか? 無けりゃ無いでいいけどな」
裂け谷でエルロンド卿から分けてもらった分も心もとないぐらいに減ってきている。
地底湖で水浸しになった挙げ句バルログに燻され、最後は一月も氷づけになってかなり味が落ちているが贅沢は言わない。
あまり期待せずに訊いてみた。
「ふむ……我らはパイプは嗜まぬが、交易の添え物がいくらか蔵にあったように思う。後で持ってこさせよう」
ハルディアは記憶を遡り、嬉しい答えを出してくれた。
意外にも手に入りそうである。
「おう、何から何まで悪いな」
「この程度で命の借りを返せたとは思わぬ」
ナズグルとの戦いで操った剣技は生きざまや性分を鮮烈に描き出し、ものの数分でオーザンという男の人間性を深く印象付けた。
命を救われたことを加味しても、熱を秘め、ぶ厚く粘り強いこの大男をハルディアは武人として好きになった。
「相応の礼は後程させて貰う」
ハルディアはそっぽを向いて行ってしまった。
口下手で不器用な男なりによくしてくれているのだ。
好意のあらわし方はぎこちないが、内面は似た者同士であることがオーザンも薄々分かってきた。
呼ばれるまでセレグセリオンを拭いたり、鞘を分解して内部の汚れを掃除して時間を潰した。
夜になってしばらくして使いのエルフがやってきた。
背の高いエルフの女だ。
謁見で領主の脇に控えていたから二人のどちらかの従者だろう。
「お待たせしました。よろしいでしょうか」
「ああ、行こう」
少し前に鞘を組み上げて今は外側を磨いていたところだ。
椅子を立ちベルトに吊るす。
会食にこんな物騒な剣を持ち込むのは無礼だとは思うが、かといってこんな問題児を置いてはいけない。
危険な特性が有るのに放置して失くしたでは済まされない。
第一に勝手に動いて追って来そうだ。
隅々まで綺麗になったからか、ご機嫌でころころと揺れていた。
斜面を登り回廊を渡る途中、エルフが振り返った。
「あなたを希代の勇者と見込んで、身勝手な申し出をしてもよろしいでしょうか?」
声と瞳には色濃い恐れを含んでいる。
「言ってみな」
この案内人は仲間たちの歓待も対応し、特にメリーとピピンの二人と楽器を通じて親しくなった一人。
朗らかで気の良いホビットたちはオークが蔓延る地へと向かっている。
「あの方たちを守ってあげてください。どうか、どうかお願いします」
自身の半分も幅がない彼女の肩は小さく震えていた。
ネンヤの指輪を用いたガラドリエルの結界に何千年も闇から守られてきたエルフは悪意を向けられることに弱い。
友情を結んだばかりの小さな友人たちが立ち向かわねばならない魔の国を思えば身震いするのも致し方ない。
閉じたロスローリエンに吹き込んだ新しい風が人知れず息絶えるのかと考えるだに恐ろしく、ただただ無事を祈っていた。
「心配しなさんな。端からそのつもりだ」
胸の前で細い指を絡めて組んだ手を握る。
争いに耐えられない、か弱い手。
こういう手を守ることが、今の己の使命だ。
「約束する。俺の命に代えても生かして帰す」
膝を曲げて目を合わせ、エルフ語で誓いを立てた。
この誓いが破れる時は死ぬ時だ。
早くも厳しい道のりになっているがしかし、誰も死なせない。
死なせるものか。
「ま、まずは飯にしようや。早く案内してくれ。飢え死にしちまいそうだ」
手を離して口角を上げ、ひょうひょうと先を促す。
「……はい!」
いささか勇気づけられ足取りが軽くなった彼女と並んで会食場へと歩いた。