到着するとケレボルンとガラドリエルはもう座って待っていた。
ランプに照らされるテーブルに座り晩餐が始まると、水晶を切り出したグラスを満たす、薄く輝く透明な液体が始めに差し出された。
「これは?」
「兵に持たせる水薬の中でもさらに選りすぐった上澄みよ。一年に一滴あまりしか集まらぬ」
微笑むケレボルンが説明してくれた。
「このロリエンに居を構えて以来、蔵に蓄え続けた月の雫だ」
「そんな貴重なものをどうして俺などに」
領主たちでさえ蜂蜜酒を杯に入れているのに、よそ者が飲んでいては示しがつかない。
「久方ぶりの、それも傷ついた勇士の来訪だ。今使わずしていつ使う」
「あまりにも使い所が無いもので、ダゴール・ダゴラスまで出番は無いと思っておりました。お好きなだけ飲みなさい」
そもそも生まれついて病気をしないエルフの国で劇薬を使わねばならない重傷者は滅多に出ない。
対外的な争いを除けば普通の薬で事足りた。
「……ありがたくいただきます」
月光を吸うグラスを持ち上げる。
背中を押す人たちがこんなにもいてくれる嬉しさ。
指輪の旅はこれから更に苦しさを増すであろうが、孤独ではないことにオーザンは感謝した。
豪快に一息で飲み干すと、ほのかに甘い雫が渇いた体の芯に染み渡り潤す。
とげが刺さっていたように重苦しかった胸の痛みも引いて、体の節々が軽くなる。
力を練りきれない原因になっていた足腰の怠さも消え去ると腹の底から活力が湧いてくる。
逆を言えば、そこまで体は壊れていたのだと思い知らされた。
ガラドリエルの見立ては徹頭徹尾正しかった。
給仕が入れ替わりで皿を運び、テーブルには質素で淡泊な食を好むエルフが食べない精のつく肉料理がずらりと並んだ。
アラゴルンらに振る舞った薬じみた分類のものもあるが、テーブルの大半を埋めるのは熱い脂の旨そうな湯気を立てる皿である。
体に足りていない血肉を補うようなものをとハルディアから言い含められた給仕係の料理人が厨房で張り切った結果だ。
塩味とも甘味ともつかない旨みのある柔らかく炊かれた穀物の真っ白い粥。
張りがあって焦げ目の付いた皮から脂が滴る鶏肉の香草ソテーや甘辛い赤いソースがかかった白身魚のフライ。
薄い生地を焼いたものに巻かれた葉と肉の巻物。
細かく刻まれたほろ苦い緑の野菜と子牛肉に深みのある甘い汁気を絡ませた炒め物。
これは体に良く、そしてうまいぞと胃袋が叫び、それに従って手と口と喉を動かした。
ちゃんとナイフとフォークとスプーンを使い分けマナー上の違反をせず、残像が残るような恐ろしい速さで口に運んでは咀嚼して水薬で流し込む。
数秒で大皿を空にしていく勢いであった。
「見ていて気持ちがいいほど健啖であるな」
「ふふ」
夫妻は手品のような早業に口許を隠して笑った。
見たこともない食べ物が次々と運ばれては、あっという間にその皿を空にした。
満腹感を覚えたのはそんな勢いで小一時間も食べてからだ。
終いにデザートのケーキも四人分食べて食後のお茶も貰い、膨れた腹で天幕に戻れば一袋のパイプ草が寝台に添えてあった。
しっかり保存されていたのか、傷んだり香りが逃げてしまっていたりはしない。
それになかなか上等なものだ。
古いパイプ草はここで吸いきって革袋の中身を入れ換えてしまおう。
そう決めて歩きだした。
街頭の灯籠からパイプに火を移し、人気の薄い木立へ移動する。
薬と食事の効き目で治った体の具合を確かめておきたかった。
蘇生の手順が乱暴だったことで、体も色々と変わってしまっている。
一寸の技術差が明暗を分ける繊細な剣技に感覚の狂いは致命的だ。
覆いを払い静かに抜いたセレグセリオンは以前と変わらず掌から少しずつ血を吸っている。
気力が満ちた生き血はさぞ美味かろう。
いつものように軽く上段で構え、無造作に振り下ろす。
手も足も滑らかに動く。
好調時よりも体の反応が良い。
悪い影響は今はまだそこまで出ていないようだ。
これで成長したと傲れるほど若くもない。
これは選択した未来の兆しだ。
変に力を込めずとも剣の流れに乗せて、体に刻まれた連擊へ続く。
剣の運びは滑らかで風すらも斬られたことに気づかず音を立てない。
踊る魔剣はそよぐ風にふんだんに含まれた魔力を喰らい黄金色の木の葉を千々に裂いた。
風の流れが変わった。
「眠れないのですか?」
顔を上げるとそこにはガラドリエルが水差しを携えていた。
「いえ、寝床の具合は最高ですよ。腹ごなしがてら食後の一服を少々。浅ましく食べ過ぎた。お恥ずかしい限りです」
セレグセリオンを鞘に戻す。
これは人に見せびらかすには危険な代物だ
「なにを恥じることがありましょう。磨いてきた腕を振るう機会がやっと巡ったと給仕が喜んでいました」
血を流し傷ついた体は滋養を欲し、それこそ底無しに食べた。
オーザン一人で仲間たち九人全員が食べたより多く腹に入れてしまったのだから、大喰らいも極まったものである。
「その剣はトゥーリンのグアサングの分け身ですね」
奥方は過ぎ去りし太古へ想いを馳せた。
第一紀の残り香を放つ黒き鋼は古代の記憶の欠片。
人の運命を左右してしまうものは上古の時代において、忌まわしきグアサングのみではなかった。
それらの最たるものが至高の宝シルマリルである。
その宝玉もエアレンディルとともに天へ昇り、あるいは海中や大地の底無しの割れ目に没した。
今は遠い、昔の話である。
「その剣はいずれあなたを殺すやもしれませんよ」
「こいつでなけりゃバルログは倒せなかった。普段はじゃじゃ馬ですがいざとなれば頼りになる」
どれだけ腕が優れていても、剣が折れてしまえばおしまいだ。
多少素行が悪くともマイアを相手にしても折れなかった信頼できる相棒だ。
それに、セレグセリオンの祝福でバルログに迫る格へと押し上げられねば何度死んでいたかわからない。
「であれば言うことはありません。それが一期一会というもの。あなたの心が折れない限り、定めを果たすまでその剣はついてゆきましょう」
ガラドリエルにはオーザンに結ばれた残酷な未来が見えてしまった。
火を噴き煙が渦巻く赤の大地に満身創痍で赴くオーザンの背中。
天蓋に咲くは生命が溶けた蒼き稲妻。
漆黒の長刀を携える腕は刺々しい異形を象り背中は不自然に衣服を押し上げている。
もはや人とは呼べない有り様であった。
むごい夢に僅かばかり心を乱されたガラドリエルは繋ぎ目が綻ばせてしまい、オーザンは逆流した幻像を垣間見た。
なるほど、そうなるのか。
しかし自ら望んで決めた道に後悔などない。
オーザンは不敵に笑う。
己はしっかりとモルドールにたどり着けるのだろう。
それが知れたのなら儲けものだ。
「なら、暫くは一緒ですかね。これからもよろしく頼むぜ相棒」
哀愁、愛嬌、決意。
様々な背景をにじませるも決してそれを口にしない横顔にガラドリエルは同胞の幻影を見た。
「その髪と灰の瞳。竜ごろしの魔法剣士に生き写しです」
「祖父をご存じで?」
意外な接点に驚き、口からパイプを離した。
よくよく考えればなにも不思議ではない。
中つ国に残った古きノルドールエルフはごく少なく、同じ陣営で冥王軍と戦ったなら顔をよく知っているのも当然だ。
「忘れるものですか。かのマンウェから数々の叡智を授かった並ぶものなき戦士。操る剣は竜すらも鱗を薄紙のように切り裂かれ、冥王軍も恐れをなしたものです」
英雄たちのように名を挙げる機会には恵まれなかったが、神域に至るまでに研鑽した剣技を絶賛した。
モルゴスの軍勢を破ってもアマンへ戻ろうとはせず、生まれた地のアルダでまだ見ぬ何かを探す旅に出た一人のエルフ。
オーザンの記憶を読んでその末路を知り、偲んだ。
それだけの強者も神秘が去り行く時代の流れには逆らえず悲しき結末を迎えたのだ。
しかし一人の益荒男を残した。
「多くは語らない人でしたが意図は分かります。あなたは希望です。明日へ繋ぐともしびなのです」
強く雄々しく、優しい男に育てた。
喜びや絶望の紆余曲折を経たが、今は指輪の旅路に加わり営みの連鎖の守り人たらんとしている。
彼もまた、長い旅路の果てに希望を見つけたのだ。
「アマンにてまた会えましょう」
「……きっと祖父は怒る。くたばるのが早すぎだと」
オーザンは冗談めかして湿っぽくなりそうだった空気を変えた。
長は上のエルフらしく死後の復活が確約されている。
しかし妻と息子はエルフではない。
マンドスの館には居ないだろう。
再会の望みはない。
「あなたはこれを使わずともよろしいでしょう。この水鏡は迷い人が覗くもの」
ガラドリエルは盆に水を入れず、傍らに水差しを置いた。
彼女の言うとおり、迷いはない。
故郷も家族も無いのに、その復讐に邁進することに何を迷うことがあろうか。
立ち塞がるオークを斬り、モルドールに根差したサウロンを倒すのだ。
例えこの身が砕け命が擦りきれようとも。
「あなたのような若者が悲壮な決意をせねばならない。悲しいことです」
中つ国の年長者として、ガラドリエルは無数の兵と民の死を見送ったことに胸を痛ませていた。
この争乱が鎮まった暁にはアマンへ去ろうと決めたのはその痛みに耐えかねてだ。
「深く考えるなんてやめましょう。誰かがやらなきゃいけない。その誰かがたまたま俺だった」
人がいれば不和は生まれる。
しかし人の数だけ喜びもある。
ゆえに嘆きしか生まず人を絶望へ追い落とすかの冥王とは相容れない。
これは無慈悲なる神に支配された世界に引導を渡す戦いなのだ。
虚仮の一念で遥か格上のマイアを殺した。
ならば指輪無き冥王が倒せぬ道理があろうか。
悪しき者よ。
試したくばいくらでも試せ。
笑いたくば好きなだけ笑え。
だが待っていろ。
必ずやその嘲笑のことごとくを絶望と断末魔の叫びで塗り潰してやる。
「なに、一度は死んだ身。やれるだけやりましょう」
心と裏腹に気負わず砕けた笑顔で言うとマルローン樹の根に寄りかかり、流れる小川を眺めてしばしパイプを楽しむ。
ここは居心地がいい。
風も土も柔らかい。
正直に言うといつまでも安らいでいたい。
「……」
されどそれは叶わぬ願いだ。
俺には時間が無い。
パイプを持つ左手は肌が黒ずみ、固くなったかさぶたのようなものが浮いていた。
ややあってパイプに入れた草が全部灰になると小枝と布で軽く手入れをして腰を上げた。
革袋へ丁重にしまうと懐に納めて一礼する。
「では、そろそろ休みます」
「ええ。ゆっくりお休みなさいな」
本音を明かせば、悲運の戦士を庇いたい。
いや、旅を辞めろと言ってしまえればどんなに楽か。
たった一晩の宿。
ほんのそれだけがガラドリエルのなしうる最大の手助けだ。
「失礼します」
半エルフは踵を返して力強く夜に歩き出した。
死すらも知己となった今に至り、何を恐れるものがあろうや。
「……あなたは大いなる代償を支払うと知ってなお……」
比類無き覚悟に身を固めた勇者に慈悲と幸があらんことを。
天幕に戻るオーザンの煤けた背を見送るガラドリエルは目を細めた。
エルフ飯とお薬でデバフ解除からの全能力バフ
(時限爆弾有り)
誤字報告と評価感想に感謝ァ!
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