「許してくれ、誘惑に負けた……弱い男だ……!」
「いやボロミア、立派だったぞ。名誉を守った。流石はゴンドールの大将だ」
涙ながらに詫び入るボロミアをアラゴルンは手放しに讃えた。
ひとつの指輪の誘惑に飲まれてなおも誇りを失わず、己を取り戻した非凡なる男を失うことは、人類にとって大きな痛手であった。
「すまない。俺がつまらない欲と野心にとらわれたばかりに……!」
「いいや違う。お前の心は、体を巡った血はこんなにも温かいではないか」
手を伝う鮮血にはまだボロミアの真心が溶けた温かさが残っていた。
きっと寛大さと優しさも混ざっているのだ。
これが善なる心でなくて、なんであると言うのだろうか。
数日前まで続いたロリエンの泉での語らいは二人の間から足早に過ぎ去り、ひどく寂しい。
「これが野心か? 野心とはもっと冷たく残忍で、後ろから忍び寄るものだ。正しい勇気から起こした行いを責めたりなど私はしない」
そこに一欠片の傲慢も強欲も有りはしない。
美しいものは零れて消えゆき、儚さと侘しい情動だけが残ってしまうのだろう。
「冥王は無敵だ。世界は破滅する。何もかも終わりだ……」
指輪から漏れた底無しの邪念と悪意を直視したボロミアは現世の終わりを予見した。
人の身には抗い難い原始の妄執にアルダは焼かれ、西方世界のみならずあらゆる地平が戦火に巻き込まれて歴史の終焉ととこしえの夜が訪れる。
夢か現実か、そんな恐ろしいものを見た。
相手はマイアでも最上位に位置するものだ。
ヴァラールにすら近しい力を秘め、奸智にも長けた冥王を只人が敵うものなのか。
勝ちたい。
だが、希望は持てない。
「私の血にどんな力があるかは知らんが、この血に誓おう。この世を必ず守り通す」
アラゴルンは野を渡る
王の血筋に生まれたことは重々承知している。
だが、王になるかは別のことだとして一兵卒に身をやつしていた。
しかしそれも今日この時までだ。
彼に代わり迷える民草を導こう。
唯一の真なる王として、執政から王権を返還される者として、アラゴルンは覚醒した。
アラゴルンが紛うことなきイシルドゥアの後継者たる証明の義憤と勇気は、絶望に沈んだボロミアを照らす。
「まことの救い主、あなたと見たかった。ゴンドールの再興と栄華を。我が兄、我が王よ……どうか祖国を、ゴンドールを……」
今生の別れを悼みアラゴルンは動かなくなっていく彼を抱きしめた。
やっと分かり合えたのに、心安らぐ語り合いは一月という短い間しか許されなかった。
非業の最期を遂げさせない男が一人。
血が染みた砂を踏み潰す男は終焉に歯向かう。
ボロミアの腹に刺さる矢を、深く肉が絡んだそれを力任せに引き抜いた。
「ふざけなさんな。お前の家はお前が守れ」
「ぐああああっ!」
はらわたを抉る苦痛が絶命の間際に瀕したボロミアを苛み悶えたさせる。
「やめろオーザン! これ以上苦しませるな!!」
アラゴルンの制止を無視して布切れを傷口に押し当てて包帯を巻く。
唇に跳ねた血からは体に回るオークの毒の味がした。
凄惨で、あまりにも望みが薄い手当てから仲間たちは目を背ける。
「もういいんだ、やめてくれ!」
介錯してやりたいとすら思いすがりついてくるアラゴルンを片手で弾き飛ばして転ばせる。
オーザンの知る闘いはそのように甘いものではない。
闇の勢力と人間は血で血を洗い、骨肉合い食む絶滅戦争をやっているのだ。
死ぬまで戦う。
死んでいても怨念と宿業が突き動かす肉体は敵を貫く。
「まだなにも終わっちゃいない。楽には死なせん。苦しんでも泥にまみれて生きてもらう」
アラゴルンがミナス・ティリスで名乗りを挙げ王の凱旋を知らしめても、それを執政が認めなければ、王権を競い合う馬鹿馬鹿しいお家騒動が始まる。
目と鼻の先に冥王軍が迫っている最中に指揮権の移譲で揉めようものなら、いよいよゴンドールは瓦解する。
アラゴルンの即位を補佐する役目を遂げてもらわねば困るのだ。
理屈の上ではそんな考えがあった。
されどそれはあくまで理屈を捏ねたもので、真相は異なる。
オーザンは目的のためならあらゆる犠牲を払う。
外道の狂人とも味方殺しとも罵られようが構わない。
愛した家族の死を見て、苦境を分かち合った友の死を見て、青々とした若き教え子の死を見て、狂気の旅は始まった。
人道などとうに捨てた。
故郷で同胞に開戦を告げた時、荒野へ向かう道より他に見える標はどこにもなかったのだ。
これまでも、これからも。
穏やかな気持ちを感じても、凍りついた魂はどこかでその先の悲劇を予感してしまう。
それでも、美しいと思えるものが世界にはある。
無様で滑稽な醜態を幾度晒そうと、無駄な努力と周囲に嘲笑われようと、足掻きを止める理由にはなり得ない。
「死はいつでも選べる。生きて、生き抜け」
生きることは死ぬことよりずっと勇気がいる。
意思に反して生き残ったものには特有の苦しさと罪悪感が残り、懸命に生きるものは美しいと感じるのは、その勇気を無意識で賛美しているからだ。
事実、息を引き取らんとしているボロミアは今、これ以上ないほどに輝き生きている。
とにかく、かつてなく気高い志を掲げた男を死なせたくなかったのだ。
幸い手段はある。
脈と共に出血が減り、押さえる意味が薄れた傷口から手を外して鞄から水晶瓶を出し栓を抜く。
掌の半分しかない小さな瓶のさらに半分だけボロミアの口に流し入れる。
「ガッ!?」
ボロミアの胸が跳ねる。
そして動かなくなった。
「ボロミア!」
「眠っただけだ。奥方から貰った霊薬を飲ませた。これから体は毒と戦う。負ければそのまま死に、勝てば蘇る。どうなるかは気力次第だ」
血に混ざった毒はかなり体外に出せた。
霊薬の助力を得た肉体は傷と血に残った毒とせめぎあう。
太古のエルフの薬は強力過ぎ、人間が服用すれば赤ん坊に蒸留酒を一気飲みさせるようなものだ。
しかし、生きようとする意志があれば体は応え、人間にはとてつもなく強烈な劇薬をも御するはずだ。
「信じろよ。ボロミアを」
この場で出来ることはもう無い。
手の血をマントで拭い、心配そうに見守る仲間たちを見回した。