眠りについたボロミアをネン・ヒソイルの湖畔まで連れ、草の上に寝かせたアラゴルンは力いっぱいに抱きしめてオーザンとの再会を心から喜んだ。
「……本当によく戻ってくれた。夢のようだ」
モリアの別れは心を締め付けていた。
足止めさせず一緒に逃げるべきではなかったかのか、答えの無い問いをずっと思い悩んでいた。
「かなり遅れちまった」
それを受け止めて微笑み顔の小皺を増やす。
若武者然とした年の頃の相貌から、人間であれば十は老けたような具合だが、胸板は厚くオークよりも野太い手足の屈強な男は健在であった。
「あんた生きてたのかい!?」
「勝手に殺さんでくれ」
「いやでもあんなのと戦って無事だったなんて……」
サムは炎の巨人を思い返すだけでも身震いがする。
目の前の男がその脅威から生還したのが信じられない反面、倒してしまいかねない底知れなさも感じていた。
「いいじゃないかサム。生きててよかった。また会えるなんて……」
フロドはオーザンの腰に抱きつき、実在を確かめるように力を入れる。
「僕も死んだと思った。ごめん」
「はははは! 俺があんな木偶の坊にやられるかよ!」
高笑いで嘯く。
幸運、練磨、執念、どれかひとつでも欠けていればケレブディルの地下で果てていた。
代償も払っている。
苦痛をオーザンは笑顔の仮面で隠した。
「驚くのは後じゃ。色々と訊きたいことがあるが、まず、バルログはどうなったのじゃ?」
魔法使いはバルログの行方を気にした。
当然だ。
大きな物差しで見ればマイアという分類に属する同族の、それも狂暴強大な一柱が今どこにいるのか。
サウロンやサルマンに並ぶ第三の脅威が誕生してしまう。
「やっこさんには山の天辺で永遠に日向ぼっこしてもらったよ」
「あれを倒したのか?」
「ああ。胸に大穴開けてやった。こいつでな」
オークを膾切りにしてバルログとの戦いでも猛威を振るったセレグセリオンの鍔を触る。
固くなった左の指先でもその滑らかさは感じられた。
オーザンはガンダルフに顔を寄せる。
「本当にあれが最後の一匹だよな?」
「……そうであると願おう」
ガンダルフは言葉を濁した。
山をひっくり返し大陸が海底から隆起しては沈むほどの混迷を極めた太古の生き残りがあれだけとは限らない。
「頼むぜ」
二度目は勝てそうにない。
「改めて謝りたい。あの回廊の瞬間まで疑いを持っていてすまなかった。そして礼を言わせて欲しい。お前は人々の真なる守護者であった」
「全部過ぎたことだ。バルログは死んだ。それでこの話は終わりだ。いつもの威厳あるガンダルフでいてくれよ。なんたって神様の一人なんだろう?」
肩を叩いて離れ、パイプを出して草を詰める。
爪先で火口に使えそうな枯れ草を探して地面をほじくりかえす。
ほどよいものが見つかったので拾おうとすると、太く短い足に踏み散らされてしまった。
跳躍したギムリが鳩尾の辺りに頑張って抱きついた。
「生きてたか! てっきり死んじまったと思ってたんだぞ!!」
「俺が死ぬところを想像出来たなんて大したもんだ」
それを屈んで抱えた。
竹を割ったような性格で情に篤い、むくつけきこのドワーフをオーザンは好ましく思っている。
ひとかどの武芸者という共通点に僅かに同族意識を持っていることも関係しているのだろう。
「まったくとんでもない奴め。エルフにしておくのがもったいない。ドワーフの嫁を貰う気はないか? オーリの仇を討ってくれた男ならそんな傷面でも知り合いの娘を紹介してやれるぞ!」
口は悪いが心から喜んでいた。
見るものによっては忌避されるほどの傷跡が残ったオーザンの顔も偉業の証しであるとギムリは思った。
「好き放題言いやがって。残念だが俺は今も嫁さん一筋なんだ」
放浪の旅をしていた頃もドワーフの女には会ったことがなかったので興味はあるが、婚姻となると話は別だ。
今でもオーザンはイリスを愛している。
別の誰かを愛せるほど器用でもない。
「そうか、それは初耳だぞ。今度ゆっくり聞かせろよ」
地面に下ろしたギムリと入れ替わりにレゴラスが来た。
流石にエルフの王子は情熱的に抱き付いたりはしなかったが、爽やかな微笑みを溢した。
「ギムリが心配してたぞ」
「別に心配なんざしてない! ドワーフの宮殿でエルフだけ討ち死になんてしたら末代までの恥だ! だから一緒に死んでやる奴が一人ぐらいいても良いだろう」
「あの時泣いていたのは誰だったかな?」
「余計なことを言うんじゃない!」
豪気な無頼を気取るギムリは涙ぐんでいたことをからかわれて赤くなり、そっぽを向いた。
「また会えて嬉しいがあまりゆっくりはしていられない。ピピンとメリーがさらわれた。すぐに追うんだ」
「待て。まずは水でも飲んで一服しろよ」
少しの休憩を挟むべきだ。
多勢と戦い疲弊し、この時間なら腹も幾らか空いてきた頃合いだ。
言い出しっぺのオーザンがどっかりと小岩に座った。
レンバスを鞄から出して包んでいる緑の葉を外し、血なまぐさいそよ風の下で一気に大きく頬張る。
焼き菓子の外見をしたレンバスはほのかに甘く、しっとりとした食べ応えがある。
噛み砕くと溶けるように柔らかく喉を落ちていった。
カラス・ガラゾンから走り通してきた脚も、信じがたいことに活力が漲り始めている。
一枚で一日中走れるほどの滋養があると言われるのも頷ける。
水筒を煽って流し込み、二口で一枚を食べきった。
残りを包み直し丁寧に鞄に入れ、火打ち石を代わりに出す。
枯れ葉に火種を落とし、消えないように慎重にパイプの草に移す。
深く一口。
ハルディアに頼んだものはとても香りが良かった。
良いパイプ草を貰った。
銘柄を訊いておけば良かったかもしれない。
撃退したとはいえここは戦場であり、そこらじゅうにオークの死体とねばつく血の臭いがある。
真似できないくつろぎぶりに興奮冷めやらぬ仲間たちは呆れ、アラゴルンも困惑した。
「何をしてるんだ!?」
「優先順位を考えろ。俺達の旅の目的は指輪を捨てることだ。経路は変更が利く。フロドの護衛も俺がやれる。だから慌てることはなにもない」
最も重要な事項は指輪がこちらの手にあることだ。
それは誰が捕らえられて犠牲になっても変わらない。
少年でも老人でも、指輪に勝る価値はないのだ。
その為に必要とあらばどんな危険にも身を投じ、指輪に虜にされた仲間でも斬ってしまえる覚悟がある。
これは苦い経験と鋼の心を要する判断だ。
アラゴルンのように善なる人物にはそれが恐るべき冷徹であるように思われ、優しく深い友愛を持った男であるという認識を裏切る発言に動揺した。
「見損なったぞ。みすみすあの二人をオークの餌にするのか!?」
「見捨てるなんていつ言った? 話は最後まで聴け」
まるで射るようなオーザンの鋭い眼光に、言い募るアラゴルンが足を縫い留められる。
「今のは最低で最悪を想定した計画だ。実際にはフロドや進路の情報を持った二人を見捨てて進むのはあり得ない」
あのエルフとの約束もある。
守れるならば破りたくはない。
オーザンは紫煙を吐いてまたパイプを吸う。
「俺達はかなり不利だがそこまで負けちゃいない。二人をさらったやつらはアイゼンガルドに向かうはずだ。ならば到着するまで餌にはされない」
「どうしてアイゼンガルドに行くと言い切れるんだ? オーザンは暗黒語が判るのか?」
オークやその他の闇の生き物は、中つ国に広まっている西方語とは異なる言葉を話す。
そしてオークは残虐で狂っているが愚かではない。
奴隷を扱ううちに人の言葉を覚えるものもいる。
人と掛け合わせたウルク=ハイともなれば一層の知恵をつけてかなり流暢に喋れるものもいた。
しかし別に聞き出した訳でも暗黒語が判る訳でもない。
「霧振り山脈の南を抜けるときにアイゼンガルドを通ってあれと何度かやり合った」
仲間という負担が無いオーザンを止めるには増強途中の部隊の百や二百ではとても足りず、轢き殺すようにアイゼンガルドの守備隊を食い散らかして西へ抜けたものだ。
オークが来た黒い鎧に白手形を塗ってあったのがサルマンの紋章なのだろう。
辺境と違い生存競争が厳しくない中つ国にしては大柄なオークがちらほらといたのも覚えている。
「あとな、オークが餌を捕まえるときはもっと根こそぎ奪っていく。あの数で食うのが子供二人じゃ弁当にもなりゃしない」
すぐに食うつもりならもう殺されている。
今さら慌てても意味がないのだ。
憎いほど良く知っている。
「一理ある。あれはオークをまじないでさらに歪めた化け物のウルク=ハイ。鎧に付けた白の手形もサルマンの紋章じゃ。おそらくサルマンも指輪を持っておるのはホビットのうちの誰かという事しか知らなんだ。奴らがホビットの顔の見分けがつくとも思えぬ。まとめて引っ立てさせることをあやつは選ぶじゃろう」
ガンダルフが説明を補強してくれた。
「四人の内難を逃れた二人にフロドがいるのは幸運であるが、メリーとピピンにとってはそうではない。アイゼンガルドで指輪を持っていないことが露呈すれば二人を待つのは地獄の拷問と確実な死じゃ」
二人はとても耐えられずフロドのこととこれからの旅路について残らず言ってしまうだろう。
そののちにどうせ殺されてしまうのだ。
「時間はあまりない。まずは二人を助けねばな……」
額に刻まれるしわを深くして魔法使いは口ごもった。
悪い方向に転がり出してしまった事態をどう収めたものか全員で思案する。
「……提案がある。上手くやればフロドは比較的安全に進めるし、二人も助けられる」
オーザンらパイプから顎髭が覆う唇を離して切り出した。
火を分けてもらい一服やり始めたギムリもパイプを外して疑問を口にする。
「そんな都合のいい話があるってのか?」
「モルドールと挟み撃ちをするつもりだろうが、俺たちがどの道を何人に別れて進むのかサルマンは知らん。派手に暴れたら目はこちらに向く。嫌でも向かざるを得なくしてやる」
手慰みに弄んでいた小石を湖面の波打ち際に投げる。
冷たく青い流れに小さい波紋が起きた。
続いてもう少し大きな石をやや遠くへ投げ込む。
するとさらに大きな波紋がそれまでの波を飲み込みかき消した。
「む……」
「囮か」
ガンダルフは唸り、水面の波に計画の全貌を重ねたレゴラスは理解を示した。
「そうだ。奴らが支配するテーブルを引っ掻き回す。二人を取り戻して反撃開始だ。サルマンにたんまり吠え面かかせてやろうぜ」
「ボロミアはどうするのじゃ。ここに置いては行けぬ」
「俺が看病する。ピピンとメリーはそっちで追ってくれ。明け方にはボロミアも動けるぐらいに回復する筈だ」
幸運にも胸に刺さった矢に塗られた毒は少ない。
雑に量産された装備の質から見て、そこまで大量に用意する時間はなかったのだろう。
あとは意思と毒の根比べだ。
「そうか……すまん。さっきはつい考えなしに口走った」
「詫びはいらん。オークに囲まれて一人が倒れて二人が拐われたなら気が動転して当たり前だ。長生きしてると手が汚れるのも事実だ」
勝利は最悪を想定して力と執念を叩きつけてもぎ取るものだ。
気持ちの良い理想論だけで足元を掬われないように暗がりを覗きこむ役割は俺がやる。
アラゴルンは一点の曇りもない錦の御旗であってもらいたかった。
「さて、今のがどういうことか分かるな?」
「……それが一番なんでしょう?」
「そうだ」
フロドにオーザンだけが着いていくのは一見素晴らしいように思えてもかなり不味い。
オークを斬って昂った精神が指輪に少しでも誘導されたら、ホビットなど一瞬で殺しかねない。
ただでさえ魔剣とその後遺症という懸念材料を抱えているのだ。
フロドの本音ではこの大男から離れたくない。
並み居るオークを薙ぎ倒す懐にいればまったくの安全であるように思える。
しかし敵が千とも万ともなれば別だ。
必ずというものはどこにもなく、これが最善なのだった。
「ならやるよ」
決断の時である。
第二第三のボロミアを出さないためにも孤独な旅に出ることをフロドは決めたのであった。