ゴラムに監視されているとは夢にも思わずしっかり眠っていた二人が朝日に反応して岩のベッドから起きた。
夜明け過ぎの冷たい風にぶるりと震える。
「おはよう。今朝は格別に寒いね」
「まったくです。こんな所じゃ温かい料理もできやしませんし」
食事を楽しむホビットの流儀に反した、レンバスと干し肉で腹を満たすだけの侘しい朝食になりそうだ。
残念そうにするサムは決して不機嫌ではなかった。
食事の伴にぴったりのものが見つかったのだ。
「でも、オーザンがくれた荷物を開けたら代わりに良いものがありました」
コルクの栓をされた革袋。
水を入れる一般的な容器だ。
朝一番に鞄の中身を整理していると、同じ水筒が二つあるのが気になって調べたのである。
片方は水が入っていた。
そしてもう片方は。
「ところがただの水筒じゃありませんよ」
しっかり閉じたそれを引っこ抜くと、芳醇な葡萄の薫りが広がった。
ワインだ。
この薫りは、裂け谷で飲んだ上物に違いない。
出発前にこっそり持ち出した逸品を快く渡してくれた事に感謝して木のコップに注ぐ。
「エルフの里でワインを盗るなんてとんでもない奴ですねぇ。胆がふてえや」
「いつの間に……」
蔵からくすねたにしては堂々とエルロンドと面会していたオーザンにフロドは呆れる。
「朝から酒なんて、お前の親父さんに知られたらこっぴどく叩かれるだろうね」
「もしとっつぁんがここまで追ってきたらびっくりですよ。ナズグルより恐ろしいや!」
からからと笑う。
ホビット庄の思い出で雑談し、朝食を始めた。
塩気の強い肉に合う甘味のレンバスを食べ、コップを飲み干すころにはすっかり眼が覚めた。
酒好きのホビットもこんな僻地で酒盛りをするほど命知らずではなく、この一杯だけでやめておいた。
冷たい寝床で固まっていた体も酒精と旨味で解れ元気が湧いた。
荷物をまとめ、二人は今日こそはと意気込んだ。
霧がかった岩の道なき道をえっちらおっちら進む。
周囲をすっぽりと包み込む厚みの霧は光すら遮り太陽の方向すら定かではなく、何度も方位を見失った。
時たま現れる切れ目を手がかりに登っては降りてを繰り返し、二人は昼過ぎには疲労困憊になってしまった。
半日を費やした成果は足の重さのみで景色はまるで変わらない。
「気のせいじゃない、ここはさっきも通った。一周したんだ」
「……迷っちまったみたいですね」
遅まきながら、認めたくなかった事実を言葉にした。
「一休みしましょう。お茶を淹れます」
歩きながら勤勉に拾い集めていた枯れ草と小枝を燃やせば少しのお湯は作れる。
小さな焚き火にやかんを載せて、沸かす間にチーズを切り分けてささやかな昼食にする。
フロドに切れ端を渡す瞬間、手を捕まえてそっと耳打ちする。
「フロド様、気づいてますか? 何かが後をつけてます。さっきから、いや……もしかしたらもっと前からです」
サムは目端が利く。
行く手の他にもあちらこちらへ気を配っていてゴラムの追跡を発見した
「モリアの出口に居たあれか?」
「オークじゃないでしょう。どうせ指輪を追っかけるろくでなしだ、やられる前にやっつけちまいましょう」
フロドは考え、松の葉のお茶を口に運ぶ。
沸かしきれなかったお茶はぬるい。
「ガンダルフは誰にでも役目があると言った。指輪に取り付かれているからといって簡単に殺していいのかい?」
「フロド様は人が良すぎるんです。それじゃいつか食われちまう」
「お前が守ってくれるんだろう?」
「それはそうですがね……」
急速に冷めつつあるお茶をちびちび飲んでチーズをかじり、結局なにも決まらないまま出発した。
危害を及ぼすならば捕らえるなりしてから考えればいいかとぼんやり思い、夕刻には今夜の宿の方が心配になっていた。
サムの不安は的中し、日没前にやっと平らな場所を見つけた。
またもや岩辺で休む事になってぼやきたい気分であった。
雨が降っていないことだけが救いだ。
日が沈むと辺りは真っ暗になる。
これがギムリだったら熟練の勘に任せて斧を研いだりもしたろうが、この二人では寝る他にできる事はない。
トマトと干し肉をレンバスで挟んだものを退屈しのぎにサムは拵えた。
美味いものを単純に合わせて不味い訳もなく、トマトの汁気と干し肉の塩気が空腹を癒してくれた。
ナズグルに代わる謎の追手に狙われていて寝入ってしまう度胸は無いので、ワインは飲まずにおいた。
食べ終わり、敵襲に備えて寝ずの番をするどころか二人は揃って横になった。
行くも帰るもままならぬ現状、ならばいっそ追跡者を誘きだして正体を暴いてやろうという腹積もりであった。
丁寧に寝息まで偽装してその何者かを待った。
冷たい風が吹き付けて妨げるので本当に眠りこけてしまわないか懸念する必要はない。
ここからは我慢比べだ。
指輪によってすっかり正気を狂わされているゴラムは自制心を要する我慢が苦手だった。
苦しくて苦しくて、胸が抉られるような喪失感を癒すことだけが目的の哀れな存在だ。
永らく浸り唐突に奪われた幸福を取り戻す絶好の機会に、巨漢のエルフや魔法使いの猛威は記憶の彼方へ消え去る。
「盗人、泥棒め……薄汚いちびのこそ泥……あれはどこだ……どこにある……」
薄い月明かりの中を四つん這いで静かに動き、ぼんやりとした意識で高台から二人の岩場へ吸い寄せられる。
指輪を提げているフロドへ一歩、また一歩と迫った。
「わしらから盗んだ……おれのいとしいしと……」
炎に集まる羽虫に近い習性は警戒心すらとろけさせて飛び付かんばかり。
冷たい岩壁をひたひた這って恋い焦がれた指輪の魔力を探る。
欲望の命ぜられるままに手を伸ばし、かっさらおうとした。
「わしらのもんだ……わしらに返せ……!」
独り言は風に乗り、忌々しげな調子がゴラムの居場所をしっかりと教えていた。
この餓鬼が頭の直上へ来たのを見計らった。
「いやああ!!」
マントをはね除けて二人が飛び起きる。
ここまで迫られてはどんな怪物でも構うまいと半ばやけっぱちで異様に節くれ立った手指を捕まえた。
小兵であったのを幸いに、岩から引き摺り落とす。
このまま取り押さえてやりたいところが、そう易々とはゴラムも諦めない。
「うぅううやああ!」
妄執の産物たる腕力は小柄なホビットに輪をかけて小さい体ながら二人を振り払い、押し倒した。
そして見た。
もんどりうったフロドの首元から零れる鎖が通された指輪を。
一も二もなく獣のように飛び付いて奪わんと挑む。
「ぐぅぅ!」
止めようと足を引っ張るサムが殴り飛ばされる。
指輪に取りつかれた姿には理性の欠片もない。
ビルボが裂け谷で見せた執着の成れの果てのおぞましさに面食らうもフロドは抵抗した。
「このやろう!」
後方からサムが首をぐいぐいと絞めて今度こそゴラムを剥がした。
しかしフロドの胸元を握っていた枯れ枝並みの細い腕でなんと投げ飛ばして岩に叩きつけた。
牧歌的なホビット間では滅多に喧嘩も起きない。
喧嘩慣れしていないフロドは背中を打った痛みに息が詰まる。
サムを振りほどいたゴラムはその隙に岩に登り、高さを生かしてもう一度フロドに襲いかかる。
狙いはあくまで指輪だ。
じりじりと指輪に指を押し込もうと血走った眼でにじり寄る。
「離れろってんだ、この化け物やろうめ!」
サムは得体の知れない生き物に指一本も触りたくない気持ちを今だけは忘れ、ゴラムを抱え上げて主を守った。
その代償に肘打ちを鼻っ面に食らった。
髪を掴んで天を仰がせたサムの喉にゴラムはかじりつく。
「うわあああああ!!」
逢瀬を遮る邪魔者から始末してやろうと矛先を向けたのだった。
二人はもつれて倒れる。
骨をへし折って息の根を止めてやろうと首を捏ね繰り回してサムを苦しめる。
起き上がったフロドはこの騒動を収めるべく、しゃらんと短剣を抜き放つ。
すべすべとした太古の名剣を先端でゴラムの喉を狙うように突きつけた。
「このつらぬき丸を見たことがあるか! お前を一突きで殺せるぞ!」
白い刃の清廉な輝きに狂乱のゴラムも指輪の欲を引っ込めた。
「彼を離せ。切り裂かれたいのか!?」
降伏する他に打つ手はない。
大人しく力を抜いてお手上げをする。
「うぅぉぁぁぁ!」
悲しき狂人は、あと一歩のところで悲願の達成を阻まれた悲憤を添えた言葉にならぬ唸りを挙げた。
「やっぱりこんなやつはさっさと殺しちまいましょう!」
ゴラムの腕をほどいて立ち上がるサムの首は噛まれた所から血が出ていた。
もう少し傷が深かったならば命に関わっていてもなんら不思議ではない。
怒るのも当然であった。
「噛みやがってこのやろう!」
お返しにぽかりと殴り付ける。
「よさないか。僕らには道案内が要る。そう決めただろう。それに……」
モリアを出たばかりの時にフロドは殺害を主張した。
それがどうか。
今では庇護者の立場を取る。
慈悲からではない。
この奇怪な人物につらぬき丸を向けても刃は青くならなかった。
つまり生来の悪しき生き物ではない。
「それに、なんです?」
「……いや、なんでもないよ」
ビルボの症状が深化した立場の被害者だとしたら、なおさら責める気にはなれない。
滅びの山まで持ち歩く自分もまた、明日は我が身だ。
ゴラムを罰そうとする熱量も資格もフロドには無かった。