早朝の山を歩かされるゴラムは地平線まで木霊するほど大騒ぎしていた。
哀れみの心が咎めてゴラムを殺せず、かといって放置もしておけない。
とりあえずエルフの小舟から持ってきた縄で首を縛ってサムが引っ立てていた。
「痛いよ! 冷たいよ!」
わざとらしく痛がっているようにも見えるが、実際に縄に触れるゴラムの肌は傷んでいる。
「エルフの
純粋なホビットであった頃ならいざ知らず、悪に染まったゴラムと光に属するエルフの工芸品は反発しあう。
余波を受ける肉体は弱火で焼かれるが如く。
「こら、静かにしろ! いい加減黙らねえか!」
叱りつけても呻いたり悲鳴を挙げるのをやめようとしない。
「どうしようもないです。モルドール中のオークに聞かれちまいますよ。縛って置いていきましょう」
役に立つどころかとんだ疫病神を拾ってしまった。
たった一夜の付き合いでサムはこの騒がしい追跡者に辟易していた。
「嫌だ! わしら殺されるよ! 殺される!」
「フロド様を殺そうとしたくせに……お前なんか殺されて当然だ!」
敵に知られるばかりか気も滅入ってしまう喚きも合わされば、ここに置いていくか、これ以上悪さを働けないよう殺してしまいたくなる。
主を襲われたサムの心証は最悪だった。
しかし怯え方は本物で火傷や鞭打ちの拷問でめくれた肌の痛ましい傷跡が残る体は説得力を増す。
フロドはサムよりは同情的であった。
「確かに当然かも知れない。でも見ていると哀れにも感じる」
これが指輪に翻弄された末路。
襲撃時の鬼気迫る様子からの変貌にはぞっとする。
「わしら優しくしてくれたらわしらも優しくなるよ。だからこの縄外してよ…………わしら誓うよ。どんなことでも言うこと聞くよ……」
「指輪に取り憑かれて何をした? お前の約束は信用できない」
おべっかにぎらりと切り返す。
ついさっき殺されかけたばかりなのだ。
薄汚れた体に満ち満ちた殺意が忘れられない。
哀れむべきか迷うと同時に、手心を期待して過剰な演技をしているのをフロドは見抜いていた。
とするも、隠せない戸惑いに漬け込みゴラムはなおも食い下がる。
「誓うよ、わしらいとしいしとのご主人に仕えるよ……そうだ、いとしいしとに掛けて誓うよ!」
「……指輪を宛てにするな。精々自分の言葉を守るといい……」
「守るよ、いとしいしとにかけて……いとしいしとにかけて……」
すり寄るゴラムの猫なで声にサムはぞっとした。
「おれは信じねえぞ!」
二人の間に割り込んでゴラムを突き飛ばす。
指輪を捨てる旅は早く終わらせたい。
しかし急いだ結果主人が害されることが心配でならなかった。
薄気味悪く濁った眼がどうにも受け付けない。
こんな狂人に運命を託すくらいなら時間をかけてでも二人だけで行ったほうがましだとすら考えた。
化けの皮を剥いでやろうと縄を引っ張り回す。
「このやろう!」
「サム!」
「騙されちゃ駄目です! 自由にしたら寝首をかかれますよ」
「それでもだ。必要なのはなんだい? 案内人だろう?」
フロドは処遇を一時保留とする。
目指すはモルドール。
こんなことに拘泥していられない。
フロドは旅に、サムは主人に焦点を当てるすれ違い。
互いの心理を読めるからこそのもどかしさ。
「縄を首から外してやれ」
「本気ですか?」
「先を歩かせないと道案内にならないだろう」
「……また暴れたら今度こそ殺しちまうからな!」
もっと懲らしめてやりたい気持ちを脅し文句だけで済ましてやり、首の結び目をほどく。
庭師をしていたサムは指先が器用で固い結び目もするすると外していった。
「案内! わしら道に詳しいよ。道案内なら任せてよ!」
戒めがほどかれたのが余程嬉しいのかぴょんぴょん跳ね回る。
指輪を追って中つ国を探し、果ては冥王軍にモルドールまで連れ去られたゴラムは地図に記されない裏道や隠れた道を知る。
案内人として同時期の中つ国ではずば抜けて優秀であった。
「それで、どこにいくの? ゴンドールでも谷間の国でもわしらなら連れて行けるよ!」
「モルドールだ」
フロドの宣告に、首輪が外れてはしゃぐゴラムは一気に青ざめた。
誰にとってもそうであるが、ゴラムにとってはよりいっそう悪夢の土地だ。
指輪の情報を求めるサウロン軍に捕まって火炙りを始めとする拷問を前提とした聴取を受けた。
ビルボの手に渡ったそれの行方など知るはずもなく、半端な情報を残らず吐かされるまでそれはそれは長い監禁であった。
「嫌か?」
狼狽えるゴラムはよこしまなことばかりに使われてきた頭脳を働かせて自身を落ち着かせる。
甦る悪夢の日々を追い払って指輪を取り戻す企みを立ち上げる。
今は素直に従った方が賢明だ。
「……わしら旦那さんに従うよ。誰も知らない裏の道、こっそり通れる道教えるよ……」
太ったホビットの懸念通り、そのいずれかで寝首をかいてくれよう。
誰も使わぬ道に死体が二つ増えたところで誰も知るまい。
作り笑顔で心を開いた振りをしてびくびくと卑屈に傅く。
面従腹背の算段を悟られぬよう、とにかく下手に出た。
不気味な変わり身に一抹の不安をよぎらせながら、フロドはそれを見逃してやった。
「……それがお前自身の為だ」
どれだけ誠実に働こうが指輪をくれてやるつもりは毛頭無い。
腹に一物を抱えているのはお互い様だ。
欲を言えば付き合ううちにゴラムの孤独が癒えて正気に戻るのが一番なのだが。
一悶着はありつつもゴラムを加えてエミン・ムイルの霧がかった山肌を三人で進むこことなった。
エルフの綯った縄は細くも強く、度々の崖下りに必要だった。
山脈を抜けられたと確信した時には、小舟から何本も持ち出した縄の束はすっかり使いきってしまった。
度重なる登り降りで二人はへとへとになった。
フロドはただでさえ陰鬱だ。
サムはサムで、蹴落とされて物言わぬ死体にされる可能性も常に考慮して先に降りさせたり、逆に登りでは最後尾にしたりとあれこれ用心して道案内させた気疲れも大きい。
首に繋がれると苦しむ素振りをしていた縄を伝って岩場をするすると降りるゴラムには、ぬけぬけと言ったものだと呆れたものだ。
ともあれ日が落ちる前には険峻な山岳を抜けられた。
「やれやれ、時間を無駄にしたかな。案内がついたらこんなに簡単に抜けられたよ」
「……間違っちゃいなかったみたいですね」
ゴラムを誉めるようで気が進まないサムも渋々同意した。
景色に緑と紅の樹木が戻ると人の生きていける世界に帰ったのだという安心感がある。
雪融け水のせせらぎや鳥のさえずりも聴こえる。
しばし生きた心地に浸っていると小さく腹が鳴った。
「今夜はこの辺りで早めに休もうか」
薪も拾えて水場もある。
草を集めてマントにくるまれば、ロスローリエンのベッドには敵わなくても石の上で寝るよりは何倍も快適だろう。
「食事にしましょう。夕御飯は久しぶりに温かいものを作れそうです」
サムの手持ちの食料は野菜や麦が中心。
材料からして野菜のスープを作ろうかと思案しているが、柔らかい肉が食べたいのが若者の本心だった。
レンバスや干し肉で腹は満たせても心は癒せない。
贅沢は言えないと自覚すると同時に主を飢えさせることが不甲斐ない。
「水を汲んできますから、フロド様は休んでいてください」
水を入れた鍋を抱えて宿営地に戻ると火口箱を使って焚き火を用意した。
ジャガイモの芽を包丁で削り皮を剥く。
適当に切り分けた人参や玉ねぎをまとめて鍋に入れ火にかけた。
後はこれにトマトを入れてとろみをつける。
「見ての通りあまり手の込んだものではありません。申し訳ないです」
「そんな事ない。お前が作るご飯はいつでもご馳走だよ」
途方もなく豪勢だったカラス・ガラゾンでの食事と比べたりせず、目の前のサムの料理を誉めた。
焚き火の反対側で腰かけていたゴラムが立ち上がる。
すわ何事かと二人は身構えた。
「スメアゴルなにか捕ってくるよ!」
藪から棒に調達係に立候補すると勢いよく飛び出していった。
「おい!」
「本人の好きにさせてやろう。どうせあいつは……」
例えフロドへの本当の誠意でも、どんなに努力をしようが欲しいものは永遠に得られない。
哀れだ。
「……そうですね」
それにはサムも同意した。
ゴラムが失せて緊張の糸が解けたのかフロドはすぐに眠りに落ちた。
サムが一晩の間焚き火を維持するだけの薪を集めて戻ってもフロドはまだ眠っていた。
旦那様はひどくお疲れなのだ。
沸騰させないよう鍋を火の真上から外し、ゆっくりかき混ぜながらフロドの寝顔を見守った。
不意に茂みが揺れた。
辺りは暗くなり、夜が始まっている。
つまり闇の生き物の時間だ。
サムは慌てて剣を探した。
マントの下敷きにしていたので手近だったエルフからの贈り物の包丁を構えてしまった。
切れ味は下手な剣より鋭くも、刃渡りが心細い。
「出てきやがれ……」
見透かそうと睨む暗闇から飛び出してきたのは、ゴラムであった。
「やったよ!」
「うわっ!!」
喜色満面の狂えるホビットの気味の悪い人相に驚いて、うっかり刺し殺してしまいかけた。
右手には立派な雄の雷鳥を自慢気に提げていた。
丸々としていて脂がよく乗っていそうだ。
「こいつ、脅かしやがって……!」
緊張して損をしたとあからさまに鼻を鳴らす。
「スメアゴル頑張ったのに殺そうとした! ひどいよ!」
「そうさ、刺しかけたとも。お前がびっくりさせるからだ!」
「なんの騒ぎだい……?」
寝入っていたフロドも言い争いの騒がしさに負けてぼんやりした視界にゴラムを入れる。
「スメアゴル捕まえた! 鳥さん捕まえた!」
「フロド様はお疲れなんだ、静かにしろ!」
「お手柄じゃないか。新年のお祝いにも負けないご馳走になる」
しつこいくらいの喧伝にもフロドは素直に感心した。
これが取り入る手管でも構わない。
しっかりと満腹になって眠れるならば。
「……血抜きもしてないじゃないかまったく……」
乱暴に受け取ると焼くために羽根をむしる。
妙な毒草でも仕込まれてやしないかも確認しながら捌き、
調理を進めつつも鍋とゴラムからは片時も眼を離さなかった。
目の黒いうちは妙な真似はさせない。
害があると分かれば次こそもっとこっぴどく叩きのめしてやる。
信じるものか。
サムは気を引き締める。
岩塩の粗い粒を刷り込んだ雷鳥が焼き上がる頃にはスープの野菜も柔らかく煮込まれてすっかり食べ頃となっていた。
「お待たせしましたフロド様」
脂が滴る丸焼きを足して文句なしとなった夕食を三人で始める。
一口目には三人とも肉にかぶりついた。
それと同時に頬をほころばせる。
フロドは言わずもがな、作った本人のサムも、そして文明を捨てたはずのゴラムでさえ。
鳥の脂を塩気が引き立てる。
温かいスープはトマトの酸味が疲れた体に染み渡る。
単純な料理は体が欲していた栄養を多分に含んでいるようだ。
スープに浸すパンがあればもっと良かったのにと、サムは悔しがった。
嵩張るパンは容量が限られた旅の荷物に入っていない。
オーザンがくれたワインも飲むのはやめておいた。
今口をつけたら、きっと酔い潰れるまで飲んでしまうだろう。
たくさんの肉とスープで腹が膨れると食器を片付けるのも面倒になって明日になってからやることにした。
だから、早起きをしなくては。
考えはうつらうつらと溶けていく。
三人は満腹感と火の温もりに挟まれ、ゴラムですらいくらか穏やかな表情で横になるのだった。