エミン・ムイルの山越えにフロドが汲汲としているのと時を同じくして、オーザンと別れた四人の仲間は岩山を疾走していた。
早朝の冷たく乾いた風の中で白い息が四つ連なる。
正確には脚の速い順にレゴラスとアラゴルンが行き、そのやや後ろにガンダルフ、大きく離された最後尾にギムリが息をぜいぜいさせながら走っている。
三日も走り通しで、口にしたのはレンバスと水。
それでもまだ急ぎ足りない。
四人はオークと戦った事は山ほどある。
戦えるのなら二人を奪還する勝算もあるものの、天気が崩れてしまえば草を踏み均した足跡と行進の遠い地鳴りも消えて御破算だ。
アイゼンガルドの近郊で待ち伏せるにも急がないことには始まらない。
「三日三晩休まず追いかけて、手掛かりは裸の岩に訊く以外無いときとる……!」
短期なドワーフがとても苦手な行動を強いられる不満を漏らしながらもギムリはなんとか走る。
その苦労も有って午後には切通の泥の中にきらりと光るブローチをアラゴルンが見つけた。
「二人が着けていたロリエンの木葉だ……!」
拾い上げたそれは、旅の一行に贈られたエルフのマントの留め金のブローチであった。
「二人はまだ生きている!」
「そのようじゃな」
そうでなければオークがエルフ製のマントを持ち帰ったりはしないだろう。
ブローチは勝手に外れたりはしない。
二人のどちらかが、意図してここに落としたのでもなければ。
見当違いな方へ来たのではないと知ると俄然力が満ちてきた。
「急げギムリ! 二人は近いぞ!」
気勢を上げるレゴラスが遅れがちなギムリを呼ぶ。
「だぁぁぁっ!?」
大振りの斧を二本も携えて重い体と短い脚が災いして足場を跳び損ねたギムリが岩場を転がるようにして滑落した。
「うげっ! ぺっぺっ!」
砂を吐いて起きると節々が痛んだ。
「でええい! ろくすっぽ食わん上に休み無しときてまともに走れるか!」
少なくなった水筒の水でゆすいで拭った口で鬱憤を怒鳴る。
「休みを入れたいのはわしも山々じゃが……」
さしものガンダルフも疲れた顔で帽子を外し、乱れた白髪が垂れる額を袖で拭く。
「ウルク=ハイは恐ろしく健脚。その一休みが命取りとなるぞ」
「ドワーフは走るのは苦手なんだ! 言っておくが、俺が今日まで走った長さはドワーフの歴史でも一番だぞ!!」
ギムリが言うとおり、一万年遡ってもこんなにも長い距離を全力で走ったドワーフは彼だけだろう。
ヌーメノール直系のアラゴルンと純血エルフのレゴラスに食い下がる速度もドワーフの常識を外れた頑張りを見せている。
そうは言っても事態が事態である以上、下手に休みを入れようものなら結果的に世界を滅ぼしかねない。
「走らねば我々を待つのは破滅だ」
ギムリを残していく選択肢は取りたくない。
百を超すウルク=ハイを捌いて二人のホビットを救出するのは四人でも困難であり、それが三人では限りなく厳しくなる。
疲労困憊で追い付いたとしても、ウルク=ハイとの戦闘が始まれば息を吹き返すだろうとアラゴルンは信じていた。
「指輪を持っていかれたらそのドワーフの歴史だって白紙に戻されちまうってんだろ。走るさ。走ってやるさ!」
兜を斧の背で叩き、やけくそ半分の気合いを入れ直した。
ギムリとて、人類最後の戦いの敗因の汚名は死んでも被りたくなかった。
頷いてまた走ろうとするアラゴルンをガンダルフが止める。
「待て、きゃつらとの距離とわしらの速度を計算したが、これではアイゼンガルドまでに追い付けん」
「追い付けない? ではどうする?」
灰色衣の賢者らしからぬ弱音にも聞こえた台詞をアラゴルンは反芻した。
「やり方を変えるのじゃ。こんな荒れ地では気が進まんが仕方ない、彼を頼る」
「
「会えば分かる。来てくれると信じよう」
追跡を速めてくれるような人物が居ただろうかと疑問を抱くアラゴルンににこりと微笑み、帽子を抱えたガンダルフは長々と口笛を吹いた。
その音色は岩場と丘とそのまた向こうの草原まで清らかに響き渡る。
丘陵が大空と交わる境界、地平線の彼方からそれはやって来た。
白磁の毛並みを躍動させる駿馬。
ガンダルフが愛する友。
名馬の中の名馬。
メアラスの一騎。
「あれは……メアラス! 王にのみ許された馬ではないのか!?」
冷静沈着なレゴラスが興奮気味に口走った。
「左様。名を飛蔭という。縁があって友となった。今はローハンを離れた身じゃ」
メアラスとはローハンの門外不出の馬の一族の総称である。
表舞台に現れることはほとんどなく、半ば伝説として噂話になっていた。
メアラスは人間と同じほどのとても長い寿命を持ち、ローハン王とその親族以外は誰も背に乗せようとしない。
あらゆる馬が敵わない俊足を受け継ぎ、凛とした姿は馬の中の王とも扱われる。
メアラスの先祖は西方の彼方のアマンからヴァラールのオロメが連れてきたという言い伝えは中つ国においてあまりに名高い。
最初のメアラスは初代ローハン王の青年王エオルの愛馬となりメアラスの名を一躍轟かせた。
その血を持つ飛蔭はローハンに逗留したガンダルフと交流を重ねて心を通わせた友となり、初めてローハン王以外の者を背に乗せた。
ガンダルフは彼と呼ぶほど対等な友人として付き合っている。
間近に止まった立ち姿はますます雄々しく純白の毛並みは粉雪のように美しく、波打つ鬣にアラゴルンは眼を奪われた。
いの一番に頬を擦り寄せてきた飛蔭の首を撫でて魔法使いは旧交を温める。
「久しぶりじゃな友よ。ローハンの外まで来てくれて嬉しいぞ。早速で済まぬがこやつを乗せてくれるか?」
メアラスが王以外の者を、それもドワーフを乗せるなどあり得ないことであったが、他ならぬガンダルフたっての頼みとあらば満更でもない風に鼻息を吹いた。
「願ってもない幸運だぞ。古いエルフでもメアラスには乗った事はない」
「へっ! そんなよく分からんもんに乗れるか!」
折角の厚意をギムリは拒絶した。
石と鉄に彩られた地下で飼い葉が要る馬を走らせた知り合いは居やしなかった。
勿論乗馬は素人だ。
関わりもなかった生き物に急に跨がれと言われても出来かねる。
「うおっ!?」
後ろ足の強烈な蹴りが兜の上を掠めてギムリはまたもやひっくり返った。
顔に当たったら死んでいる。
鼻を鳴らす飛蔭の瞳には言葉を理解している深い知性が感じられた。
「こ、この馬っ公! 俺を蹴り殺そうとしやがったな!?」
「馬鹿者、飛蔭を馬公と呼ぶとは何事じゃ! 彼は気高く賢いが無礼には寛容ではないぞ。これに懲りたら野卑な物言いは慎め!」
緊張感の欠けたやり取りにレゴラスも険しい顔を崩して噴き出した。
「優しいじゃないか。彼が当てるつもりでいたら顔が無くなっていたぞ?」
枯れ草まみれになったギムリが起きるのを笑いを湛えて手伝ってやった。
一息だけ鼻を鳴らした飛蔭は脚を折って背を縮めた。
それでもギムリの背丈より高い位置に鞍の天辺はあったのだが、鐙を足掛かりにすれば登れなくはない。
王になるものであるも今はさすらい人の身であるアラゴルンはこんな気品のある愛馬が欲しくなり、吐息を漏らした。
「ほう、彼は乗って良いと?」
「弁えるならば、じゃがな」
「……侮った訳じゃない。ちょっと、心の準備がな……」
「四の五の言わずに乗らんか。他に手は無い」
「おい、押すなって!」
ガンダルフの手で半ば無理に鞍に乗せられたギムリは尻を前後させて不安そうに座り心地を確かめる。
飛蔭が立っても揺れず、馬が良いのか思っていたよりは安心感がある。
「…………悪かねえな」
「初乗りにしては様になってるぞ」
神々しい白馬に砂だらけのドワーフがおっかなびっくり乗っているちぐはぐさをレゴラスは軽くからかった。
「うるせえやい。俺は馬の走らせ方は全く分からねえぞ?」
「わしも乗る。心配無用じゃ」
アラゴルンとレゴラスの俊足には劣るガンダルフも飛蔭に乗れば全体の速度の上昇にも繋がる。
ギムリの不安も解消される。
合理的だ。
ギムリの後ろにガンダルフがひらりと跨がって手綱を握った。
「ゆこうぞ飛蔭、オークどもに追い付くのじゃ」
滑るようになめらかに、颯爽と走り始めた途端にギムリの安心は吹き飛んだ。
人間用に調整されている鐙に足が届かないので踏ん張りが効かない。
接触している股だけで体を支えていないと細かな振動でずるずると鞍から落ちてしまいそうになると今さら悟ったのだ。
「うへぇっ! 足が届かねえ! 落馬で死ぬなんて俺は御免だぞ!」
「鞍にしっかり掴まっておれ! さすれば飛蔭は落としたりせぬ!」
速足程度の揺れで疾走する能力もまた名馬の証しと言えようか、ガンダルフの言葉通り、飛蔭は岩も急勾配も乗り手に負担を強いる走りはしなかった。
丘を登りきると地形は岩場から草原へと急変した。
背の低い草の地平に岩石が点々とする広大な世界、ここがローハンである。
「ローハン、馬の司の国……何か邪悪な力を感じる。オークを勢い付かせ、我等に敵意を剥かせている……」
見渡す限りは平穏な景色に隠れた邪心がアラゴルンには感じられた。
「サルマンじゃ。よほど力を蓄えたと見た」
ローハンを腐らせる間に版図を拡大させてオークを飼い慣らすサルマンの魔力は風に乗って国境まで漂っているのだ。
ガンダルフもサルマンの虜囚から逃れてこの地域を離れた隙に、よもやこれだけ悪化するとは想定していない。
何かの動きを見つけたレゴラスは優れた視力で遠方を注視した。
「レゴラス! エルフの眼には何が見える!」
「見つけたぞ! あの方角は……奴等はアイゼンガルドに運ぶ気だ!」
「やはりか」
ウルク=ハイの隊列から立ち上る砂煙が見えた。
幸いにして、飛蔭の脚を考慮すれば追い付ける距離にいる。
話し合いの結論通りにサルマンの配下であったことが確定した。
ローハンに入ればアイゼンガルドまでは近い。
「夜になる前に叩く。ガンダルフ、案内を頼めるか」
「先回りして待ち伏せるか。追い付けるのは間違いなくなったが、問題は場所をどうするかじゃな?」
たった四人で百のオークへ挑む。
愚行で終わらない為に、アルダで千五百年を過ごしローハンを度々訪問していたガンダルフならではの知恵を借りる。
夕刻の薄暗闇に奇襲をかけて混乱が起きた隙に突撃し、電撃的に救出する。
暗すぎると二人を見逃し、明るすぎても反撃を受ける。
無謀だがやらねばやられる。
この戦争に勝つか負けるか。
早くも大きな分岐点がやってきた。
「月並みだが、賽は投げられた、だな」
レゴラスも真剣な面持ちで弓の弦に触れて得物に不備が無いか調べる。
ここが賭けどころだ。
「うずうずしてきたぜ」
飛蔭の上で体を休められたギムリは疲れも忘れ戦いの気配に高ぶって不敵に笑う。