気を失った二人を鞍で抱えて断腸の思いを耐え忍ぶガンダルフは飛蔭を東へ駆る。
ローハンの庇護下であればサルマン軍の影響も幾らかは防げるだろう。
あの強力な兵を大量に擁するアイゼンガルドは中つ国に楔を打ち込む位置にある。
建てられた目的は地方の監視基地としてであるから地理的にはモルドールより面倒だ。
急激に悪化した趨勢に頭を悩ます魔法使いは、ふと見上げて地平線から飛び出す二つの流星を見た。
それは暮れる草の原を途方もない速さでこちらへ駆ける二つの希望であった。
あっという間に相対し、交差した。
言葉を交わしたりはしなかった。
ガンダルフは呆気にとられていて、二人もまた今為すべき行動を正しく理解していたからだ。
飛蔭を追っていたウルク=ハイの分隊を通りすがりの一太刀で撫で斬って、速度を落とさず走り抜ける。
三人を半包囲して圧殺しにかかっていた背後を突く形になった。
先手必勝。
このまま不意を討つ。
大きい方の影は脚を更に速め、一気に加速した。
そして三人が包囲されている集団を夜の帳の先に見つけると、その体で出せる最高速を用いて突撃を敢行した。
圧倒的な体重と速度で突入する巨兵を止めることなど不可能であり、オークの隊列は文字通り吹き飛んだ。
それだけで死んでいたオークがニ、重軽傷を負ったのが四。
肩まで伸びた白髪混じりの髪を
瞬間的に態勢を崩された軍団はどよめく。
「今度は何だってんだ!?」
「わからん、だが油断するな!」
舞い上がる泥土と血飛沫。
肉片と混ざった汚泥は平等に人とオークへ降り注いだ。
すわ、さらなる難敵かと、三人は身構える。
凄惨な白兵戦を繰り広げていた両陣営はつい手を止めた。
「敵だ!」
敵味方を先に見分けたのはウルク=ハイであった。
まずは殺してから死体の身元を探ればよい。
そも、我々を蹂躙する者が敵でなければなんなのか。
実に利己的で単純な判断だ。
その迅速な判断も、総身を固める鉄の武具も役には立たなかったが。
人影に凶相で飛びかかるオークの体は額に衝突した靴底で弾かれる。
野太い脚は並の人間にとっては屈強過ぎる怪物種の顔を事もなく蹴り倒し、そのまま踏み潰した。
踏まれた兜は平べったく潰れ、中身は言わずもがな土に溶けて消える。
「次に死にたいのはどいつだ」
鉄の鎧も兜も魔剣のその妖しい鋭さには敵わない。
魔剣が通らないほど接触の角度が浅かった者はむしろ不幸だ。
続けざまの豪腕に殴られて歪んだ鉄板に胸なり額なりを潰されて苦悶の後に絶命してゆくのだ。
鎧も無意味な剛剣と被弾が死を意味する四肢の暴威をどんなオークなら止められようか。
古代ならいざ知らず、そんな強者はもうほとんどアルダに居ない。
草刈りに似た気軽さで兵力を削る傍ら、その空白を拡げるが如く、もう一つの流星が着弾する。
「お前ばかり良い格好はさせんぞ!」
蘇りしゴンドール人も遅ればせながらウルク=ハイを押し退け、転がったものを片手剣で刺し殺す。
輝かしい栄光と繁栄を誇っていたかつてのヌーメノール人を彷彿とさせる活力を放つボロミアにオークの陣が後退る。
「食い放題だ。慌てなさんな」
謎は困惑と後退を誘い、その分だけ人間の陣地は増える。
結果としてやっと合流を果たした仲間たちの一撃の下に活路は拓かれた。
死んだ筈の二人と死にかけていた三人の視線は重なり、それだけの瞬間で心は通じた。
巨体を揺らさぬ無拍子の刺突。
予備動作を消した一突きでまた命を奪う。
岡目には至極単調な動作であるのに、防ぐ素振りをした時には喉からうなじを貫き、あっさりと首を獲る。
流れるように二振り、三振りと亡者を増やす超越の剛剣はそれを振るうのがオーザンであると雄弁に語った。
「おおおおおお!!!」
アラゴルンは鬨の声を挙げて攻めに転じる。
戦とは決定機に場を支配した者が勝つ。
その機とは今に他ならない。
「なんなんだあの化け物は!?」
数の上ではまだまだ残っていても急増する死傷者にはさしものウルク=ハイも浮足立った。
湖畔でのオーザンは本腰を入れていなかったことを思い知り、なにより挟まれてしまっている部分の者はたまらない。
前には三人の精兵、背後には厚く長大な黒刀で膾切りに同胞をしていく巨兵が迫っているのだから。
常識という一線を遥かに超えた何かが猛然と来たる緊張は恐れ知らずのオークにも少なからぬ波紋が起こしている。
「あんまり遅いんで死んだかと思ってたぞ!」
不屈の精神で耐え忍んでいた仲間たちは守りの陣形を捨てて乱戦へ戻る。
憎まれ口を言うギムリは溜まっていた鬱憤を晴らすかのように嬉々として斧を振っている。
「ガンダルフを追ったオークは!?」
「先に片付けた。早く終わらせて一服付けようや」
趨勢は逆転した。
ウルク=ハイはこの五人を出し抜いて俊足の飛蔭を追撃しなければならないのに対して、仲間たちは一騎当千の魔剣士が加わった。
エルフの眼を逃れて戦線を離れられるか。
無理だ。
片耳の化け物エルフの悪夢をこんな少人数で狩れるのか。
無理だ。
袋小路に行き詰まったのはオークの方となった。
「ふざけるな!」
まるっきりの不利を悟ったウルク=ハイの暫定指揮官は戦線の只中で吠え立てて部下を鼓舞した。
「嘗めるな。サルマン様に楯突く者は皆殺しだ! エルフの一匹や二匹に怯むな!」
「ほう」
ぬかるむ土すら鳴らさずするりと滑り出した巨影はその指揮官の眼前に到達していた。
その場の全ての虚をついたオーザンの先手は誰にも止められず、意識の合間を縫って一太刀。
両隣の二体を巻き添えに体を左から右へ、真っ二つに両断してのけた。
極めて強引に振るわれることに耐えうる剣の強度があっての戦果ではあろうが、その太刀筋の美しさたるや、暴風の苛烈さで満月の滑らかさを描くが如し。
「やってみろ、雑種ども」
黒い瞳がぎらりと睨めつける。
生まれたてのオークと三千年の大半を研鑽と闘争に費やしてきたオーザンでは場数が違う。
恐らくは素手であっても全員を殴り殺せるだろう。
空前の殺戮者の手に哭いて喜ぶ魔剣がある限り、鉄の鎧を着ようと薄紙も同然。
加えて、セレグセリオンはオークの血を吸えば吸うだけオーザンを強化する特性がある。
今は後を考えて祝福の行使をやめさせているが、それらを無くしても負けはしない。
冥府帰りの魔人に尻込みしないのはなるほど大した闘志であるが、格の差は士気だけでは覆らない。
この男を止められない。
何者も。
防御も回避も不能の暴力は近寄った群れから削り取るように無造作に命を散らしてゆく。
お世辞にも戦えるとは言えないホビットを避難させたことで十全の突進力を発揮した禍き力に通じる手立ては無い。
肉も鉄も一纏めにして断末魔すら千切れ飛ぶ末世の楽団を指揮する混沌の使者は歌う。
理性無き悪の徒よ、死ぬがいい。
無言にして高らかな歌声だ。
舞い踊る黒刃は血潮を吸い、狂い哭いて伴奏を添える。
聴衆はみるみる減ってゆく。
一方的に殴りつける鏖殺へ変貌した戦場は長続きしなかった。