まともな手段で己を倒しうる者はこの時代この中つ国には少ないだろう自負がオーザンにはある。
ましてやオークでは皆無と断言もしよう。
余程したたかな個体でない限り、困難な戦いだと感じた事はない。
それだけの修練と実戦を積み重ねてきた。
何日逃げ回られても狙った獲物は執念深く追い詰め、崖で、谷で、沼で、川で、暗殺し、虐殺し、膨大な数の敵を斬った。
首も胸も腰も、どこでも深く斬ればオークは殺せる。
実った麦の穂を刈る農夫と大した差はない。
一度に幾房も刈り取れる
それが朝な夕なとオーク狩りをして抱いてきた感想である。
朝日を浴びるまで不死身であった亡霊や黒鉄の鉱床が丘ごと暴れる巨人といった、辺境に生息した気味の悪い怪物には神秘も強度も劣る。
連戦で潰れた刃でも、無理矢理に斬り込めば死ぬ。
殴っても蹴っても殺せる。
奴らは野蛮な知恵と悪意があるだけで特別に死ににくいとは言えない生き物だ。
オークを狩る度に心は躍る。
嬉々とした内心はおくびにも出さないで斬りまくり、それで過去の精算など出来よう筈もないが千切れ舞う肉片の花火は慰めになった。
オーザンは家族を愛している。
愛していた。
だからどこまでも残虐で冷徹になれる。
オークに限らず取り返しのつかない失態を晒した自分に対しても。
「……来たか」
逆殲滅の終盤に剣を使う腕に違和感が起きた。
なんとなく動きが悪い。
左腕、特に手首から先が。
誤魔化せる範疇の程度でも、感覚が変われば尋常でない速度で振る剣の制御がごく僅かに荒れる。
怪我もしていないのに、こんなことは初めてだ。
しかし何故かは知っている。
その昔、バルログを何体も打ち滅ぼし名を轟かせた超級の英雄が単なる数の不利に押し潰される筈が無い。
鋭すぎる刃の魔性に心と体を狂わされたのだ。
エルロンド卿にセレグセリオンの由来がグアサングにあると知らされた瞬間から何かを失っていく覚悟はしていた。
魔剣と踊るほどに戻れなくなっていく破滅への序章。
半エルフの己でこれならば使い手に選ばれなかった只人がセレグセリオンを持てば即刻干からびるのではなかろうか。
ぎしぎしと嗤う魔剣はまったくろくでもない末路を辿らせたがる。
かつてグアサングであった時代から数えて三代目の所有者にあたるオーザンもまた、その餌食となりつつあったのだ。
純粋なエルフでない肉体は朽ちるのも早い。
ふと流し見ると、左腕自体が黒ずんでいる中で左手の指先が灰色の石のようになっていて言うことを聞かないのだ。
しかしその程度とオーザンは一蹴する。
腰の切り方を変えたり握る位置をずらせば対応は可能。
今はさしたる問題ではない。
呼吸を整え体内の魔力を練って活気づかせる。
百を越したウルク=ハイも気がつけばあと十体。
活性化した瞬発力で瞬く間に殺してゆく。
夜の闇に溶け込み戦慄の剣風で次々と命を攫っていくとあっという間だ。
そしてギムリと鍔迫り合っていた最後の一体を突き殺し戦いを終わらせた。
残心を残しつつ伏兵を警戒するが気配は無い。
二人のエルフの目と耳から隠れられるオークは居ないだろう。
血振りをしてオークの服から千切った雑巾で刃を拭いた剣を納める。
たっぷり血を吸った魔剣はご満悦で真っ直ぐに仕舞われた。
艶を消したイシルディンの防護服にはところどころに返り血が付いてしまっていた。
血と汗に汚れた手でパイプを取り出して一服する支度をゆるりと始めた。
手早く火種を熾したらさり気なく腕を組んで指先を隠すのも忘れない。
「見てくれよ。ロリエンで仕立てて貰った素敵な一張羅が台無しだ」
オーザンがわざとらしく顔を顰めて血染めの襟を開いて仲間達の緊張感を解すが、あわや全滅の恐怖に包まれていた疲労を隠せなかった。
「まったく、平地で射られるなんて冗談じゃない。これだから見通しが良過ぎる地上は嫌なんだ……」
各々で水を飲んだり、ギムリすら人目を憚らずレンバスを齧ったりと体を労った。
「乗り切った……あれを……」
士気の不足、戦術の失敗、不運、どれか一つが有っても全滅し、連鎖的に中つ国も滅亡していただろう。
一手も誤れぬ緊張から解放されたアラゴルンの体は汗の粘つきの中で改めて震えていた。
胆力に長じた王族の末裔をして、生涯でも一二を争う恐ろしい綱渡りの経験となった。
息を整えたアラゴルンは終生の友と認めた男を見つめる。
「ボロミア……」
連戦に備えて武器の点検を済ませた仲間たちは自然と顔を合わせて再会を喜び合い、瀕死のままで別れたボロミアを暖かく迎えた。
「なんと言えば良いのか、私はまだ信じられないのだ。きっと、もう二度とは会えないと……」
オークの矢毒に冒されて、それも胸に二本も受けてから生還した話は噂でも流れてはこない。
それだけ絶望視された容態だった。
複雑な関係を清算し、ようやく素直になれた仲を窮地に裂かれたアラゴルンとボロミアは互いの肩に手を載せ、返り血をたっぷりと浴びたことも忘れて強く抱擁した。
「俺はここに居る。共に生きていただけるだろうか……我が王よ」
「天はゴンドールを見放してはいなかった。今度こそ共に戦おう!」
いつまでも肩を握り合っていそうな二人をギムリが分ける。
「嬉しいのは分かるがよ、アイゼンガルドは目と鼻の先だ。サルマンに見つかったら今度こそお陀仏だぞ。さっさととんずらしようぜ」
ここはサルマンの掌中だ。
遠目にはアイゼンガルドの炉の明かりも闇夜に浮かぶほどの間近。
もしサルマンの使役するクレバインが通りがかればあっという間に大量の追手が差し向けられることは間違いない。
闇が味方をしてくれると甘い気持ちでいては命が幾つ有っても足りなかろう。
「まずは逃がしたガンダルフを呼び戻そうや」
「その必要はないらしい。魔法使いってのは地獄耳だな」
オーザンは口から輪っかの煙を器用に吹いて遊びながら指差す方からは白銀の飛蔭が早足でなだらかな丘を下りてきていた。
オークの悪しき気配が消え失せたことで仲間の勝利を確信して合流に戻ったガンダルフは、大半が同一の斬られ方をした死体の山を見てひっそりと慄いた。
これだけのオークを根切りにして手傷も負わぬとは、ほとほと恐ろしい魔剣とその担い手である。
どのような生涯を送ればそんな心身が養われるのか。
魂魄からバルログの炎を揺らめかせ悠々と一服する姿はまさにそう、魔人。
侮蔑的な名称を口走ってしまいそうになるガンダルフは口と髭を撫で、すぐに考え直した。
彼が味方で良かった。
それだけで満足しようではないか。
「皆も無事であったか。彼の御方はすべてを見通し微笑んでおられるが、此度の配剤には胆を冷やされっぱなしじゃよ」
取り繕った微笑みも年の功で上手く作れた。
「二人とも体は大丈夫か?」
「ロリエンの料理は体に良いな。魔法のレシピを訊いときゃよかったよ」
一抱えもある岩の凹凸に指をかけ、右腕一本で軽々と持ち上げてオーザンは笑う。
呆れた馬鹿力で上げ下げし、岩塊を軽石のように振り回して優に十歩は向こうへ放り出した。
「……そのようじゃ」
一見して変わった素振りを見せないでいたが、パイプに添えられた左手がかすかに震えたのをガンダルフは見逃さなかった。
だが、特に何かを問うたりはしない。
彼が言わないのだから追求するのは正しくない気がした。
オーザン自身が選んだ道が如何なる代償を求めようと躊躇いの無い眼差しで今を生きているのだから。
「そっちの子供二人はどうだ? まだ起きていないのか?」
「二人とも相当に無体な扱いをされたと見える。体力はもう限界じゃ。飛蔭の上でも負担となろう」
段差や小川の上を全力で走らせても目覚めはしなかった。
特段体力に優れる訳でもないホビットの青年がウルク=ハイの強行軍に付き合わされた疲労は推して知るべし。
ただ、疲れていても目立った怪我はしていない。
走った疲れは一晩寝かせれば若者ならかなり回復する。
「走ってる途中で良さそうな洞窟を見つけた。今夜はそこで休もう」
「おいおい、あの速さで脇見してたのか? 勘弁してくれ、お前とは二度と走らんぞ」
ボロミアが苦笑する。
霊薬で下駄を履かされて死にものぐるいで走った隣で悠々と偵察していたのなら、俊足にも程がある。
「はは、薬の一つや二つで長年の稽古を超えられたらこっちが困るってもんだ」
少し老けて味が出た傷面でオーザンは笑った。
それから八人は移動した。
メリーとピピンはまだ気絶したまま、ぼんやりとして飛蔭の鞍にぶら下がりガンダルフに支えられていた。
「洞窟を掃除してくるから少しだけ待っててくれ」
先行して案内するオーザンは一言だけ言い残し、ずっと先へ走って起伏の奥に消えた。
オーザンは四半刻とせず用事を済ませて舞い戻って先導を再開した。
夜道を黙々と歩く。
誰も喋らず、飛蔭の穏やかな鼻息だけが空に吸われる。
断層がせり上がって小高い崖になっている岩場には意外と早く着いた。
「ここだ。ガンダルフ、いつもの光るやつを出してくれ」
「ふむ……しかしこれは……」
魔法使いは戸惑いがちに杖から加減した光を出すと岩壁を照らしてなぞる。
月光の陰に入っていて見えなかったが、崖の岩肌にぽっかりと空いた空洞がある。
洞窟に踏み入って少々下り、広がった空間をぐるりと見ると、それなりに居心地は良さそうだ。
大変に大柄なオーザンの背丈でも天井につかえないだけの高さもあって閉塞感も少ない。
これなら飛蔭も洞窟に入れて休ませられる。
アイゼンガルド側からは入り口が隠れているのも好条件だ。
「新鮮な風が入るし近くに水場もあった。悪くないだろ?」
しかしもっと大きな問題があった。
踏み消された焚き火跡の周りにはスプーンや鉄鍋など、使い込まれた雑貨が散らばっている。
粗雑に造られている刺々しい斧や剣が錆びるがままで転がっているのにはガンダルフも渋面を作った。
それらの意匠は到底人間が扱うものではない。
人間以外で武装する生き物とは。
当然答えは一つ。
「洞窟って、オークの巣穴じゃねえか!」
ギムリは吐き出さずにはいられなかった。
「焚き火の灰がまだ熱を持ってる。不味いんじゃないのか……」
踏み消された薪を調べたボロミアはたじろいだ。
鼻を効かせてみてオーク特有の臭気を感じたアラゴルンは剣を抜いておくべきか迷った。
「レゴラス、近くに居るのか?」
暗がりから今にも飛び出してきそうな疑心に駆られるが、人間の五感より格段に優れたそれを備えるエルフの二人と魔法使いが落ち着いていた事で冷静な声を保てた。
「分からない。臭いはしても、ここに敵意は無い」
「まあ落ち着けよ。暮らしていた徒党には丁寧にお願いして立ち退いてもらった。二度と戻らないから安心していい」
セレグセリオンを腰から外して適当な壁の窪みに尻を置いたオーザンは緊張する仲間を宥める。
そう。
丁寧に彼岸へ見送ったのだから二度とは戻って来ない。
往復に割いた時間を引くと恐るべき短時間で集団を抹殺した事実を隠そうともせず寛いだ。
落ち着かずうろうろしていたギムリが足を滑らせて尻餅をついて動揺した声を出した。
「うおっ!!」
「なんだっ!?」
反射的にアラゴルンは剣を抜いた。
「この岩、血がついてるぞ!」
「それが気になるなら灰でもまぶしてくれ。うっかり砕いちまったんだ」
強襲した際、斬って血で寝床を汚さないように撲殺したが、想定より脆かったオークの肉体はオーザンの鉄拳に耐えられず破裂してしまった。
襤褸布に纏めて遠くの岩陰に捨てるなどで手早く大掃除をしたが、なにせ混乱を起こさせるために焚き火を踏み潰して光源を無くしていたのでやり残しがあったようだ。
同じような何かの跡を見つけてしまい恐る恐る灰と砂をまぶすボロミアの傍らでギムリは小声で訊く。
「な、なにをだ?」
「本当に聞きたいか?」
わざと歯を見せるような明らかな作り笑顔を向けてオーザンは訊き返した。
「やめとくぜ……」
「賢明だな」
うっすら青くなった頬で黙り込んだギムリの隣でレゴラスはくつくつ笑った。