「さて、いい加減話して貰おうか。バルログのことだ。遠くで揺らめく陽炎にすら俺は恐れた。お前が人間離れしているのは百も承知だが、あんな化け物をどうやって殺せたんだ?」
口の周りを脂だらけにしたボロミアが肉塊を頬張りながらオーザンに水を向けたことが切っ掛けだった。
太古の英雄伝説にその悪名が遺る魔神バルログ討伐の功名話を本人から聞ける機会など二度と無い。
戦士たる男共はこぞって聞き耳を立てた。
「そんなに聞きたいか? じゃあ教えてやろう」
敵を皆殺しにするのが当然だった為に手柄を誇る習慣が村には無かった。
ただ淡々と狩りの経験に加えて伝承する。
エルフの基準で五十歳前後の少年へ教えていた事もあった。
「まず初めに断っておくと、ご存知の通り俺は剣にかけては少々自信があった。地元じゃ化け物退治を生業にしてたもんだからな」
肉を食い尽くした兎の小骨を剣に見立てて縦に振る。
思い出されるのは縄張り争いの相手達。
生活域を侵すものは化け蚯蚓だろうが鉱石の巨人だろうが死ぬまで斬り刻んで殺してきた。
「だがバルログはどこをどう斬ってもすぐに繋がって回復するもんだからあれには弱った。モリアの中で上から下まで転げ回りながら取っ組み合って、地底の湖に落ちるまで並の生き物なら百遍は殺したのにピンピンしてやがったよ。酷いインチキだぜありゃあ」
骨を噛み砕いて飲み込む。
爆ぜる焚き火の焔にバルログの幻影を視て、オーザンは少し険しい眼をした。
「でも殺したよな。それも五体満足で。まあ、耳は多少無くなっちまったが」
エルフらしさを更に減らしたことについてギムリが真剣半分、笑い半分に触れながら称える。
「これだけで済んで御の字だ。ガンダルフの魔法が俺を守ってくれなかったら一瞬で消し炭にされてらぁ。それでもなんとか奴の再生の限界まで斬り刻んで戦いを続けた。止めを刺せたのはたまたまだ。実力では負けてる」
あの膂力と体力に敵うだけの技量ではなかった己がよく勝てたものだ。
ひどい馬鹿をやったものだと自嘲的に笑って一口呑む。
「ちょっとやそっとの魔法でバルログを倒せるなら過去の英霊もその功績で天の座に召し上げられたりはせぬ。山火事を一人で消し止めるようなものよ。それを成したのは、ひとえにお前の力じゃ。もう少し誇ってもよかろうに」
神話の人物がどれだけバルログ軍団の餌食にされたか、当時を経験したガンダルフはそのまま覚えている。
アルダを蹂躙した忌まわしい絶望の影。
それがバルログというもの。
しかし、やはり手柄を否定するように頭を振り、腰から抜いて肩に立てたセレグセリオンに首を預ける。
「俺一人じゃない。こいつだ。この魔剣はとんでもなく強力なんだ。俺には……指輪よりも危険に思える」
「具体的には?」
「敵を斬れば斬るだけ敵の体力を吸い上げて、使い手の力を高める。感覚は研ぎ澄まされるし、子供でもオークを殴り殺せる」
「魔法の剣か。武器としては悪くはないな」
ボロミアの戦士としての見解はあながち間違ってもいない。
どうしても負けられない一戦を制するにはどんな無理を押してでも、という気構えは武芸者には必須なのだ。
だが限度はある。
危険性をいち早く察したアラゴルンは胡乱げに腕を組む。
「……そんな力を無理矢理出して、人の体は耐えられるか?」
「御名答。この剣は意思があって人を操る。力を与えるついでに頭に靄を掛けて死ぬまで敵を殺す奴隷にしちまう。そして傷を癒したりはしない。俺は体質のお陰でたまたま治ったが。戦いながら体を壊して死ねば、そのままより強い者へ渡る。どいつもこいつも破滅へ一直線のふざけた呪いさ」
「お前は平気そうじゃないか」
「俺は元が頑丈だからな。こんな剣、旅が終わったらとっとと海に投げ込んでやるよ」
腕の中で不機嫌そうに震えて抗議する剣を言葉とは裏腹に抱きしめる。
バルログの厚い外皮と核はセレグセリオンでなければ貫けなかったに違いない。
恐ろしくも素晴らしい剣だ。
「そもそもなんであんな大きな化け物が地下に居たんだ?」
「バルログはわし同様にエルフよりもずっと古い存在じゃ。アルダが創造されたより遥か昔、光の渦より生まれた。わしらは兄弟のようなものじゃった。同じように生まれて彼の御方に仕えてアルダを組み立てた。しかし傲れる初代冥王に服従してからは魔の道に堕し、燃える化身を纏い地上を蹂躙せしめた。力の戦いや宝玉戦争といえば、レゴラスやオーザンは判ろう。そうして世界を巻き込んだ争いをわしらマイアやヴァラールは始めた」
「神々の争いなど想像もつかんな」
心を蝕む叫びを撒き散らす獣に跨がり呪いを吐くアングマールの魔王すら、現代を生きるボロミアには超常の化身に思える。
神話のスケールには啞然としてしまうのだった。
「山は没し、新たな大陸が海底より隆起した。力ある者が権能を振り翳して何もかもが変わっていった。あの光景はこの世の終わりと呼んでも過言ではなかろう」
「城の書庫で読んだが、あれはおとぎ話だろう?」
「俺の爺さんも同じような話をした。上古にはバルログがうようよしてて、山より大きい竜も居たとかなんとかってな」
「左様。アンカラゴンのことじゃな。しかして混沌の末にわしらは勝利し初代冥王は闇の帳の彼方に追放された。モリアのバルログはひっくり返った大地の下に挟まれでもしたか、うっかり動くに動けなくなって誰にも気づかれず眠っておったのじゃろうな」
「それを揺り起こすまでせっせと掘り進んだんだから呆れちまうな。掘り過ぎだ」
「上の方の鉱脈は粗方掘り尽くしちまったんだ。仕方ねえだろ。鉱石が無けりゃ俺達も武器が打てねえ」
ドワーフが積み重ねた欲深さがミスリルの芸術を重ね、数々の業物で人間を救ってきたのだから一概に悪し様に言えたものでもない。
「それで、バルログを追いかけて地底の湖からまたモリアに戻ったのか?」
すっかり脱線した主題をレゴラスが戻した。
「ところがどっこいモリアはそれきりだ。あの大広間が納屋に見えるようなとんでもなく長い螺旋階段が地底の隅にあってな。戦いながら天辺まで上がったら山頂の物見櫓に直接通じてたって訳だ」
「なにぃ!? ど、どこにあった!」
大事そうに抱えていた遺品の日記を放り出したギムリが凄い剣幕で詰め寄る。
「何をそんなに興奮してるんだ?」
「ドワーフの無限階段は造られた時期があまりにも遠い昔のことでな。先祖らを神格化するための逸話というのが近年の定説となっておった。いつしかその所在すら忘れられ今では誰も知らなんだ。まさか、いやはて石の土台まで通じてたとは……」
ドワーフ史に大きな変革を齎す発見の興奮を冷ますようにしきりに髭を撫でた。
「しかも下から上まで踏破したとな。では、彼らを見たのじゃな。光無き世界に蠢く、祝福授かりえぬ者共を」
「ああ。地底には妙な住人が沢山いた。うまく例えられないが、生皮をひっぺがした奇形の蛙というか……とにかく明らかに俺達とは違う系譜で誕生した不気味な生き物だった」
黒ずんだ燃えさしを使って
「確か、こんな風だったか……」
バルログと戦うのに必死でまじまじと観察はしていられなかったものの、それなりの精度で思い出して筆代わりの枝を走らせた。
出来上がったのは一つ目の黒い人影の大雑把な落書きながら、異形の生き物という点は克明に伝わる姿絵だ。
「うっ、実際に見たらしばらくは夢に出そうだ」
「こういうのが地底にうじゃうじゃ居て、そこに落ちた俺とバルログにたかってきたんだ」
「ぞっとするな」
歴戦のレゴラスも未知の生物がそこらじゅうから寄ってくると考えたら鳥肌が立つ。
「しかし、この二人が御馳走と酒の匂いで起きないなんてよほどだな」
「オークに何日も小突き回されて生きてるだけ御の字じゃて。朝まで寝かしてやろう」
残念ながら大まかな血抜きしかしていない兎の足は明朝には傷んでいる。
死んだように眠る二人は揺すっても起きなかったので食べられなかった。
「しかしきつい酒だ。オーザンはよくガブガブ飲めるな」
「一昔前にとある岩山の中で鍾乳洞を根城にしたオークの町を潰した途中、拾った壺に入ってた酒らしきものを一口だけ舐めてみたんだが、強さに限って言えばこれに近い」
「よくもそんな物を飲んだな」
「大事に棚に仕舞われてたから滋養強壮の薬だったのかも知れんがね」
「それで、どんな味だったんだ?」
面白がるボロミアはからかい半分で聞き返す。
「舌が無くなったかと思うぐらい苦いし青臭くて不味かった」
中つ国でオークと行動を共にした時間は攫われてきた農奴などを除けばオーザンが最も長いだろう。
特にオークを殺すことに生涯を費やした貴重な知見には聞き入った。
何も毎回強襲していたのではない。
大規模な集落であれば何週間も張り付いて生態を観察し、生活様式や主食、果ては暗黒語と呼ばれる特有の言語すらもいくらか学んだ。
非常に不味くて強烈な薬草汁のような飲み物の話も皆は興味を惹かれる。
「オークが飲み薬を使うのか。初耳だな」
「奴等は下劣だが歴史の長さは侮れない。古い戦いも宝玉戦争も生き延びている一族だ。頑強なエルフも殺せる毒を作れる。裏を返したら、とんでもない薬の調合を知っていても別におかしくはないってもんだ」
「へえ、そんなものばっかり食べてたからいつも美味そうに食べるわけか」
「美味いものを美味いと言って悪い事はない。言えるうちに言っておけよ?」
言える相手が居るのは幸福なのだ。
彼女に空の皿を渡してただおかわりを頼むより、料理が美味いと伝えておけばよかった。
そんな簡単な会話も知らなかった当時の愚かさがいつも憎らしい。
「ロスローリエンの晩餐も良かったが、今のこいつはもっと最高だ」
「違いない」
全員の腹が満たされると自然とアラゴルンが音頭を取り、作戦会議が始まった。
「これからの方針を定めよう」
「ゴンドールへ行って、アラゴルンが王位に就いてサウロンをやっつけちまう。他にあるか?」
「大筋ではな。具体的には軍の指揮継承やローハンに救援の要請も必要だな。疎かにして国が割れたらいよいよ中つ国はお仕舞いだ」
「デネソール公はアラゴルンをイシルドゥアの後継と認めぬ事もあり得るか。聡明で権力に固執する人柄ではなかったが、人は時に変貌するものじゃ。その邪心が内より湧き出たものか、外から吹き込まれたかはさておき」
「俺がアラゴルンを支持すれば軍と弟のファラミアで周りを固められる。なんとかなるだろう」
「王権の継承は落ち着いてからが良かろうな。軍権を握らない事には指揮系統が乱れてまともな戦いにならぬじゃろうて」
「つまるところ、俺達は次にどうするべきなんだ?」
「何をすべきかというよりはこの小勢で何が出来るか、じゃな」
真正面からサウロンの軍団と戦っては圧殺されてしまう。
だから一貫して裏をかいてきた。
何が出来るか、の部分で揃いも揃って個人の武勇で頭ひとつ抜けたオーザンを見る。
「あのなぁ、俺は目の前の敵を殺しまくるだけで軍略なんて柄じゃないんだ。まあ、もしやるとしたらそうだな、ちょっと行ってサルマンを斬って来ようか? 少なくとも心配の種が一つは減るだろう?」
前回は見逃したが、今度は逃がさん。
以前通過した折に半端な幕切れとなった挨拶の続きと洒落こんでやるもよい。
「良いじゃねえか。お高く留まった魔法使いの鼻を明かしてやろうや」
サルマンのような迂遠な謀略を嫌うドワーフらしくギムリは鼻を鳴らした。
統率者が消えたオークは暗黒の軍勢から危険な害獣程度まで脅威度が下がる。
包囲殲滅、各個撃破の餌食だ。
発言を求められても、殺戮しか能がない自分に出来る提案はこの程度だ。
以前より補強されたアイゼンガルドが鉄壁の要塞となろうが闇夜に乗じれば一人で潜り込むくらいは易いもの。
寝込みを奇襲して、ちょいと首を刎ねればそれで済む。
「それが身の程知らずな蛮勇であれば良かったのじゃが。はてさて、困ったことにお前は本当にやりかねん」
一瞬だけぎらついた眼差しを見せたオーザンを牽制するようにガンダルフは逸る雰囲気を抑える。
「成し遂げられぬ、とは言わぬ。しかし強行軍で疲れた身では余りに危険じゃろうて。それにサルマンを倒したところでローハンを建て直さねばゴンドールの救いにはならぬ。ここは順序が肝要じゃぞ」
追放の沙汰を下した老王の身を未だ案じ、髭を梳いて紫煙を吐く。
「ローハンの王都エドラスへゆくのじゃ。まずはそこで敵と味方を見極めようぞ」
ガンダルフはそのように締めくくり、仲間は思い思いの場所で横になった。
洞窟の入口で交代で見張りを立てるが、オーザンは持ち回りの時間を長めに受け持った。
あと何度見られるかも分からない、この雄大で厳かな世界を目に焼き付けておきたくて、ただ眠ってしまうのが勿体なかったのだ。
「……」
セレグセリオンを抱き寄せる左手がじくりと疼く。
違和感は広がる一方。
弱い痺れの代わりに始まった軽い痛みは掌の半分まで来た。
次は何だろうか。
腕が腐るか、バルログに体を乗っ乗られるかだろう。
まあ、どちらでも仕方ない。
破滅の日を予感させる痛みを受け入れた孤高の剣士は、ただ静かに月の光を浴びた。
翌朝目覚めたホビットらは食べつくされた兎の骨に大層がっかりしたが、偵察がてら出掛けたエルフ二人が朝食に獲ってきた山鳥に大喜びして跳び上がるのだった。