ある時、一人の神は思い出した。かつて己は人間だったのだ、と。
彼の名はネルガル。メソポタミア神話におけて太陽を司り戦神として崇められる神である。
彼にはずっと、それこそ生まれた時より神として扱われることに抵抗感があった。人では決して成しえない神としての権能を持つことに違和感を覚えた。他の神々のように人を奴隷として扱うことに嫌悪感が芽生えた。
なぜ自分が、自分だけがそうなのかネルガルには全く心当たりがなく、長いこと彼を悩ませたが、思い出せばなんてことはない。
自分は神として生まれる前に人間として生きていて、これはその名残なのだ。
しかし、原因がわかったところで何が変わると言うこともない。
そもそも思い出せたのは人間であったという事実のみ。人間だった自分はどんな名前でどんな姿でどんな性格をしていてどんな人生を歩んだかについては全く思い出せなかったのだ。
たったこれだけで人間のように生きるには、ネルガルは神として長く存在しすぎていた。
つまりそれまでと同様、彼は戦の神として人間の戦いに目を向けるだけの日々を送った。
だが、それまで人間という存在を種族や集団でしか認識しなかったネルガルは一人一人に目を向けるようになったのだ。
その多くが目を覆いたくなるような悲惨なものだった。
自分が生きるために我が子を売る親がいた。生活のために親を殺す子がいた。欲に駆られ友を裏切った者がいた。堕落に生きる為に善良な者を殺す者がいた。嫉みや逆恨みで人を貶める者がいた。
あまりにも弱く、醜く、愚かで救いようのない存在がそこにいた。
けれども、それだけではない。
自分以外の誰かの為に立ち上がる者がいた。自分も空腹なのに食料を分け与える人がいた。自らの未来を勝ち取るために戦う人がいた。助けを求める人に手をさしのべる人がいた。どんなに傷ついてもどんなに転んでもそれでも前に進もうとする人がいた。
人間の、そんなありふれた輝きをネルガルは初めて認識したのだ。
気づけば彼は人間という存在が好きになっていた。
そうしてまた長い間人々を見守り続けたネルガルだったが、ふとあることを思った。
人間が死後に向かう冥界というのはどんなところなのだろう、と。
神々の中でも冥界について詳しい者はいない。
冥界への道のりは神でも厳しく、さらにそこはただ暗く、冷たく、退屈な場所だと言われておりわざわざ足を運ぶ者はいないのだ。
冥界を治める女主人が何かと問題を起こすイシュタルの姉であることも一因だろう。
彼女がなにかしたということはないが、だからといって進んで関わりたがる者はいない。
そんな冥界にネルガルは行ってみようと決意した。
例え冥界がどのような状況であっても、地上の神としてあれこれ口出しするつもりはないが、それでも人間たちが行き着く場所を一目でいいから見てみたかった。
思い立ったが吉日とネルガルはさっそく冥界に向かう。
その道なりは高い武力を有す彼にとっても過酷なものであったが決して引き返しはしなかった。
やがて見えてきた冥界は、話に違わず酷い世界である。
しかし、とても静かで秩序が保たれていた魂の眠りを守るにふさわしい場所に思えた。
しばらく冥界を眺めていたネルガルだったが、そんな彼に近づく影が一つ。
「あなた、そんなところで何をしているの?」
その声に振り向けば、そこにいたのは一人の女神だった。
恐らくは彼女こそこの冥界の女主人こと、エレシュキガルなのだろう。
ここで、本来ならネルガルは彼女に対し、挨拶をするべきだった。本人もそうしようと思っていた。しかしできなかった。
彼はエレシュキガルに見惚れてしまったのだ。
美の女神たるイシュタルの姉妹であるだけにエレシュキガルの姿も実に美しい。しかし彼はイシュタルとも知り合いで、とにかくはた迷惑な彼女と似ている顔など警戒をすることはあっても好感を持つことはないはずだ。
だが、それにもかかわらずネルガルはエレシュキガルから目を離せなかった。
「ここは冥界です。いくら神といえど私の断りなく勝手に踏み荒らすことは許しません」
「……」
「見た所、武器はないようですね。敵意を見せぬその姿勢は評価しますが、どのような理由があってここに来たのですか?」
「……」
「先に言っておきますが、ここでは私の決めた法には誰であっても逆らうことはできません。おかしなことは考えないように」
「……」
「だから、その……えっと……」
「……」
沈黙を保ったままの何の反応も返さないネルガルにエレシュキガルはこの後どうするべきかわからず困惑した顔を見せる。
しばし沈黙が走り、ようやくネルガルが動き出した。
彼はエレシュキガルに近づくとその手を握り、こういった。
「結婚してくれ」
「……は?」
突然告げられた言葉にエレシュキガルが呆然とする。そして、その顔は徐々に赤くなる。
それは決して、恥ずかしさや照れなどではなかった。
「……何なの、私のことを、馬鹿にしに来たの? いい度胸しているじゃない!」
その眼に憤怒を宿し、彼女は魔力を貯める。
「さっさと冥界から出ていきなさい!!」
ネルガルはふっ飛ばされ、あっという間に地上へ追い返された。
地上に戻されたネルガルは己の所業を反省した。
流石に名乗りもせぬまま突然プロポーズしたのはまずい。礼を欠く行為だ。
謝罪をしなければとネルガルはもう一度冥界に向かう。
しかし足を一歩でも踏み入れた途端、またしても彼は吹き飛ばされてしまう。
めげずにもう一度挑戦する。そしてまた吹き飛ばされる。
それを何回も何十回も繰り返し、百回を超える頃にはエレシュキガルのほうが音を上げ、彼はようやく彼女に謝罪し自分の名を名乗ることができた。
それからというものネルガルの日々は変わった。
足繁く冥界に通いエレシュキガルに会いに行き、地上であった出来事を話したり、冥界に役立ちそうな物を見つけては持っていったりした。
最初こそ彼を邪険にしていたエレシュキガルだったが、地上の情報を得ようと思ったのか、それとも彼の持ってくる物は冥界にとって利益になると思ったのか少しづつ彼の存在を許容するようになった。
そう、それはただの打算。あくまで冥界の為に、冥界を管理する者としての責任故に、エレシュキガルはネルガルを受け入れたのだ。
それはネルガルも気づいていた。だから彼女に結婚を迫ることはしなかった。
きっとそうすれば冥界が良くなると判断すれば彼女は間違いなく婚姻を受け入れるだろうことをわかっていたから。
長い間、抑圧されて生きてきた彼女にこれ以上何かを強いるような真似はしたくなかったのだ。
なぜ己が彼女に惚れたのか、その理由は自分でもよくわからない。
見た目だけならイシュタルにも似通っているが、自分は彼女にそういった感情を抱いたことは一度もない。
にもかかわらず、どうしてひと目見た瞬間から惹かれてしまっていたのか。気高く聡明な光を目に宿しながら、張り詰めたような空気をまとっているところに男としての庇護欲が芽生えたのだろうか。
しかしそれだけではない。彼女を知れば知るほどネルガルはますますエレシュキガルに惹かれていった。
彼女は冥界の管理者として、その役目に真剣に向き合っていた。生真面目で何事にも一生懸命で、冥界を少しでも良くしようと、ここに眠る魂たちが心地よく過ごせるようにと常に腐心している。
尊敬に足る女性ではあるが少しドジなところがあって、そういうところが可愛くて、けれど真面目すぎで自縄自縛に陥っているのが心配で、ますます目が離せなくなった。
そんな彼女の力になりたくて、ずっと一人でいた彼女を支えたくて、今日もまたネルガルは冥界に足を運ぶのだ。
「それじゃあ、俺はもう帰るな」
「ええ、さようなら」
もう何度目かになるかもわからぬ逢瀬。
いや、逢瀬なんて色っぽいものではない。ただ土産を渡して世間話をするだけなのだから。
話だってネルガルが一方的に話して、たまにエレシュキガルが質問しそれに答えていくだけだ。
彼女の視線はすでに彼が持ってきた珍しい植物に注がれており、ネルガルのことなど一瞥もくれない。
しかし今日もエレシュキガルは美しいなとしか思えないのだから我ながら救いようがない。
帰ろうとするネルガルをエレシュキガルが引き止めたことは一度もなかった。
そのことを寂しく思いながらも、変に未練たらしい姿を見せればそれこそみっともないと思い、表面上は何でも無い風を装う。
もはや何度往復したかもわからぬ冥界と地上を結ぶ道は、今では鼻歌交じりで行き来できるまでになった。やろうとは思わないが、多分目隠しでも行けるぐらい熟知している。
そんな彼だから、遠くの気配を探れるぐらいに余裕があった。
だからエレシュキガルが自分の姿をじっと見つめていることにも気づいた。
その眼差しは強くともすれば熱がこもっているようにも感じる。
だが戦の神たるネルガルは間違えない。その視線には確かに、殺気がこもっていた。
「……俺は何かやってしまったか?」
地上についたネルガルは首をかしげる。
最初の頃はまだしも、今は良好な関係を築けているはずだ。
しかしもしかしたら、知らぬ間に何か不躾なことをしてしまったのかもしれない。それとも頻繁に訪れすぎて迷惑だったのだろうか。
「……少し、時間を置いて行くか」
そして今度はもっといろんなお土産を持っていって、それで彼女が少しでも機嫌を直してくれるといい。
そう思っていた。
「私は、あなたが憎い……」
エレシュキガルは暗い眼差しでネルガルを見つめたまま静かにそういった。
普段の彼ならば彼女に近づきなにかあったのかと問いかけたのだが今はそれもできない。
いつもどおりに冥界に訪れた彼であるが、エレシュキガルが姿を表した途端に体に力が入らず、倒れ込んでしまったのだ。
「エレシュ、キガル……」
言葉を発することすら困難となり、持ってきた多くの花や果実は地面に転がっている。
「他者と接する喜びも、誰かを待ち遠しいと思う気持ちも、もう会いに来てくれないんじゃないかという恐怖や不安も……あなたさえいなければ、私は知らずにすんだのに……」
それはネルガルが想像もしていなかったエレシュキガルの心情だった。
てっきり彼女は自分にさほど興味が無いのだと思っていたのだ。
まさかそんなことを思ってくれていたなんて。そんなふうに思わせていたなんて。
「あなたが地上に戻る時、私がどれだけ行かないでと言いたかったか、泣いて縋りたかったことか……考えたこともないでしょう」
「……それは、すまなかった」
「……ねえ、どうして冥界に来てしまったの? どうせただの好奇心か物見遊山だったのでしょう? あんな冗談まで言って……そのうち、飽きたらもうここに来ないつもりだったんでしょう?」
「違う、あれは……」
言葉を続けようとしたネルガルだったが、それを遮るようにエレシュキガルは手に持っていた槍をネルガルに向ける。
「許さない、許さないわ……私に恋というものを教えておきながら離れるだなんて……殺してあげるから死になさい! 死んでよ! 死ね! そうすればお前の魂は永遠に私のものよ!!」
まるで殉ずるように冥界の女主人であることを崩さないエレシュキガルは、それが悪いことかのように自分の個人としての気持ちを表に出さない。
この時、初めてネルガルはエレシュキガルの心に触れることができたのだ。
ならば、自分もそれに応えなくては。
「エレシュキガル……」
「黙って、何も言わないで」
「好きだ、愛してる」
「っ! またそんな、冗談を!」
「違う、本気だ」
心のどこかで関係が壊れることを恐れていた。下手に距離を詰めようとして彼女に嫌われるぐらいなら、ただの友人として共に過ごせるのならそれだけでいい、と。
だから彼女がここまで追い込まれてしまったのは自分が原因だ。
「じゃあ言わせてもらうけれど、私と結婚したらずっと冥界で暮らさなきゃいけないのよ!」
「いいぞ」
「食べ物は粘土みたいな味がするし、娯楽もないし、私以外に話し相手すらいないのよ!?」
「君がいれば他は何もいらない」
「ち、地上みたいに宴だって開けないし、人間からの貢ぎ物もないし、ずっとずっと代わり映えのない日々が続いて、絶対……絶対に、後悔するわ」
「しないし、エレシュキガルにもさせない。約束する」
エレシュキガルは唇をかみ、顔をうつむける。
それを静かに見守っていると、彼女が顔をあげた。
その眼差しは先程までの陰鬱さがなくなっていたが、迷子の子供のように心もとない。
「……もし、その言葉が嘘だったら、その時こそ本当に殺しちゃうわよ」
「ああ、いいぞ。君に殺されて、永遠に君のものになるのも悪くないしな」
体が動くようになったネルガルが真っ先にしたことは、エレシュキガルを抱きしめることだった。
「その……今までごめんなさい。私、誰かとこんなにも接するのは初めてで……どうしたらいいのか、わからなくて」
「かまわない。好きな女の可愛い我が儘を受け止めるのも男の度量だ」
「あなたって本当に、変な神ね……冥界に来たり、私と結婚しようって言ったり……」
「そうか?」
「そうよ」
エレシュキガルの言葉に確かにそうかもしれないとネルガルは思案する。
思えば今まで、中途半端に残った人間の残滓のせいか他の神々とも距離を置いていたし、友と呼べる存在もいなかった。
けれど、そのおかげでエレシュキガルと出会えたのなら、彼女と共にいられるのなら、これ以上に幸せなことはない。
「……ねえ」
「ん?」
「本当にこれからはずっと私と一緒にいてくれるの?」
「ああ、約束する。何があっても君の傍にいよう。そして共にこの冥界を支えていこう」
ネルガルの言葉にエレシュキガルは微笑んだ。
本当に美しい、花のような笑みに、ネルガルは彼女こそが冥界を照らす太陽なのだと思った。
こうして、二人は夫婦となったのだ。
ネルガルの権能により冥界の暗さと寒さは改善されたものの、まだまだ問題は山積みである。
冥界の主人の座を夫に渡した後もエレシュキガルは冥界のために力を尽くし、ネルガルもそんな妻を支え続け、二人は仲睦まじく暮らしたのだった。
ちなみに、エレシュキガルの妹が冥界に来たり、その身代わりとしてその夫が来たりしてちょっとだけ冥界が騒がしくなったり、些細なすれ違いから夫婦喧嘩が勃発しその余波で天界と冥界の全面戦争に発展しかけたりしたが、それはまた別の話である。