Pseudépigrapha D'Ange Vierge-Au Nouveau Monde- 作:黒井押切町
「ミル、統合軍が動き始めたわよ」
D・Eの政治の中枢機関、黒柩城の魔女王の間。D・Eの政治、軍事の頂点に位置する魔女王に次ぐ立場である宰相のジュリアが、そこに入室しながら魔女王ミルドレッドに話しかけた。
「知っているよ。ようやくか、という感じだがな。T・R・AとEGMAは相変わらず猫を被ってるが、我々だけでも世界にとって最善の行動を取らねばな」
彼女は腰掛けていた王座から立つと、体の各所を伸ばしながらジュリアに近づいた。世界の命運がかかった戦いを前にしてもなお彼女が持つ余裕に、ジュリアは感服していた。まさしく王者の風格だ。まだまだ未開国家のD・Eを育て上げるには、まだそれが必要だ。
「ジュリア。アシュラは帰ってきてるか?」
「ええ。研究の方もバッチリよ。裏付けも取れたし、よく働いてくれたわ」
「よし、なら次はアシュラをアルフレッドの方に遣れ。我々の為すことのためには彼の軍の助けも欲しい。ブルーフォールには間に合わんだろうから、その次の布石としてな」
「順子の方にも使い、送っとこうかしら?」
「いや、それはいいだろう。どうせアイツのことだ。何か異変を感じたらすっ飛んでくるさ」
ミルドレッドは苦笑する。ジュリアも懐かしい名前を出して、ついクスリとなった。そして、誘われるようにジュリアは歩き出し、窓から身を乗り出して、空に輝く門を見つめた。
「どうしたジュリア」
「いやね、らしくもなく懐かしくなっちゃったわ。昔の仲間の順子、辰吉、征四郎君、アルにアシュラ。岸さんや勝美さん、
「言われてみればそうだな。しかし、まだ30年か。私たちが日本にいた時から数えれば40年だが、私には何百年も昔のことのように感じるよ」
「濃い40年だったもの。そう感じて当然よ」
ジュリアは窓から身を離すと、再びミルドレッドの方に向いた。彼女とは多くの苦難を共にしてきた。先代魔女王へのクーデター未遂から、日本に流され、再起し、彼女が新時代の魔女王となるまでは背中合わせで戦い抜き、その後も二人三脚で政治を行ってきた。下部組織の十二杖はあるが、ミルドレッドが魔女王になる前からの付き合いなのはアルスメルとハイディだけだ。しかも、その二人以上に、ジュリアはミルドレッドとの絆が強い。自分こそがミルドレッドの最高の相棒であるという自負をジュリアは持っていた。
「ねェ、ミル。これから先も、濃い年月が続きそうね」
「ああ。私たちは、まだD・Eを近代的法治国家にするための準備をしたに過ぎない。日本が明治に10年でやれたことを、我々は30年もかけてしまった。難しいものだな。時代を作るというのは」
「あら、魔女王が弱音を吐いちゃっていいの?」
「お前の前でしか、こんなことは言わないさ」
ミルドレッドは柔らかな微笑みをたたえた。それを見たジュリアは、自分はやはり最高の相棒だと確信しつつ、彼女の親友として屈託ない笑顔を見られることに、密かに優越感を覚えた。
それからミルドレッドは王座に座り直し、頬杖をついて笑みを消した。
「ジュリア、頼みごとがある。ソフィーナの様子を見に行って欲しい。最近のアイツの様子を直接はよく知らんが、嫌な予感がする。私の代理と、見聞を広げさせるために奴を留学させたのは私だが、もし奴に何かあれば、それは私の責任だ。だから私が直接奴の様子を見るべきだが、今私が離れるわけにはいかんからな」
「そのくらいなら、別に私じゃなくても他の学園にいる子に頼めばいいんじゃない?」
「いや、私と感覚が近いお前にこそ行って欲しいのだ。お前なら人形を操れば政務もこなせるだろう」
ミルドレッドはいつになく焦っている様子だった。その必死な目で見つめられては、ジュリアは臣下としても親友としても、頼みを断るわけにはいかなくなった。
「分かったわ。他でもない、あなたの頼みだしね」
ジュリアは快諾すると、身を翻した。そして、ミルドレッドの「頼む」という重い声を背中で受け、軽い足取りで魔女王の間から退出した。
***
空の上、さらにその彼方にある月の都の宮殿で、その姫である月ノ宮赫夜は、御簾の向こうに人の気配を感じた。前に呼んでもいないのに誰かがやってきたのは32年前、世界接続が起きたその日だった。
(長い話なんだろうな。やだなァ、マジめんどくさい)
赫夜は動かず、目の前のノートパソコンでしていたオンラインゲームに再び意識を向けた。神通力を以ってすれば、下界の機械をコピーしたり、それによって下界と同じ風俗を楽しむことなど造作もない。女房たちはしきりに止めるよう言ってくるが、赫夜にとっては詩歌管弦などよりも、オンラインゲームの方がよほど楽しい。
しかし、女房の「姫様」と呼ぶ声で、赫夜の意識はすぐに現実に引き戻された。
「下界にて、異世界間での戦争が間もなく起こります。ゆえに、姫様には下界に降りて頂くことになります。32年前とは違って、これは帝のご命令です」
「因果関係が見えないんだけど。なんで下界の揉め事のせいで私が降りなきゃ行けないの。どうせこっちには何の影響も無いんだからいいじゃん。だいたい、千三百年前はあそこにいたじゃん、私。なんで連れ戻したくせにまた行けっていうの」
「姫様は将来、月の帝となられるお方です。それはつまり、夜の天を統べることになられるのと同じこと。この戦いの行く末を直に見届け、新たな世界の元で暮らす人々のことを知ることが、夜に安寧をもたらす月の帝の候補としての役目だと、帝は仰りなさっておりました。それに、千三百年前とは人々の暮らしも大きく異なっていることは、姫様が何よりご存知のはず」
赫夜の文句に対する反論の内容で、彼女は焦りを感じた。理屈には納得できないが、将来云々を帝が言い出したということは、抵抗したらば、帝によって無理矢理下界に送られてしまう可能性が高いのだ。ならばいっそ、自分から降りた方が楽が出来ると確信した赫夜は、放置していたオンラインゲームを一旦やめ、ノートパソコンを閉じ、御簾を挟んで女房と正面から向かい合った。
「分かったよ。今下界に行くね」
「え、いや今すぐにとは——」
「じゃあね」
赫夜は女房の慌てた声を無視して、ノートパソコンを片手に次元の扉を開いて月を去った。そして着いたのは、富士山の山頂——千三百年前、時の天皇が、不死の薬をつきの岩笠に焼くよう命じられた場所だ。今日は雲が低いらしく、眼下には日に照らされた雲海が広がる。陰影がはっきり付き、まるで雲がうねっているかのように見えるそれは正しく海であった。綺麗なものは色々と見てきたが、赫夜はその美しさと雄大さに思わず目を奪われ、息を飲んだ。
(あの薬を焼いた人も、この景色を見たのかな)
千年前のことを思い出しながら、赫夜は雪に覆われた地に足をつけた。その時ふと違和感を感じ、足元の雪をどかした。すると、そこにあったのは比較的最近に固まったと思われるマグマがあった。
「そういえば、32年前の世界接続の影響で、大噴火を起こしたんだっけ。じゃあこれも納得だ」
赫夜は、それからすぐ大きなため息をつき、適当な岩に腰を下ろした。何もやる気が起きない。月の帝から逃げるのが第一の目的だったために、一気に無気力になってしまったのだ。
(戦いがどうこうとか、面倒くさくてやってらんないね。これからどうしようかなァ)
再び、赫夜はため息をつく。ぼんやりと雲海を眺めていると、その白が皇室を連想させ、更に赫夜の頭に浮かんだのは、かつて恋した帝の御顔だった。
「はァ、こうなるって分かってたら、帝もあの薬を飲んでくれたのかな。そうしたら、もう一度——」
赫夜は首を振った。いくら願ったところで、もう会うことは叶わないのだ。しかし、それでも未練は尽きない。少し考え込んで、赫夜は「よし」と意気込んで立ち上がった。
「この気持ちに決着をつける。それが私のまずやるべきことだ」
このように思い立つと、赫夜は抱えていたノートパソコンを開き、インターネットで当時の帝の
「千里眼にも等しい効果をこんなちっぽけな機械で再現できちゃうなんて、人の力も大したもんだねェ」
赫夜は感心しながら、再び次元の扉を開いた。 そうして次に到着したのは、奈良県の某古墳のある丘に通じる道であった。足は靴越しにアスファルトの上に付き、目にはコンクリート造りの家々が映り、耳には自動車が走る音が聞こえてくる。千三百年前では、足を付けたのは土の上で、大半の民家は竪穴式の粗末な土と藁で出来たものであったし、移動手段も自動車のような便利なものは無かった。しかし、流れる空気だけは変わらない。道行く人を見ても、彼らが大和民族かそうでないかがすぐに分かる。
(千三百年、ずっと心の奥底にあるものだけは保ってきたんだね、この国は。少し嬉しいかも)
空気に満足した赫夜は、踵を返して古墳がある方角に向いた。赫夜は一瞬だけ行くのを躊躇ったが、すぐ意を決して足を踏み出した。一歩進むごとに足取りが重くなるのを感じながら、赫夜は車が行き交う道を行き、古墳のある小さな丘に着いた。そこの草は色褪せ、木はすっかり葉を落として屹立している。落ち葉を踏みながら歩いていくと、やがて簡素な柵に覆われた小さな古墳を見つけた。赫夜は近くにあった適当な木にもたれかかり、古墳に向かって話しかける。
「帝」
過去盗掘に遭って、今赫夜が目にしている古墳には副葬品はもちろん、遺骨すら残っていないということは、インターネットの記事に書いてあった。しかしそれでも、赫夜は確かに、そこに帝の魂を感じていた。
「ごめんなさい。あの時は、二度とここにお戻りできないとお思いしましたから、今生の別れのように奏してしまいました。もし、帝が私が千三百年後のこの今に参ることをお知りになっていましたら、あの薬をお飲みになられたのでしょうか」
当然、答えは返ってこない。その後、急に北風が吹き付け、木の枝を激しく鳴らし、赫夜の髪を乱れさせた。それから、赫夜はただ沈黙していた。何かを言っても、風でかき消されてしまうような気がした。
(未練を消すためだったのに、むしろ未練が強くなっちゃったかな)
赫夜は溢れ始めた涙を堪えて、木から体を離した。そして体を古墳の方に向け直したが、目は伏せて、か細い声を絞り出した。
「また、ここに参ってもよろしいでしょうか」
すると、風が弱まった。冷たいことには変わりないが、木も穏やかになった。このおかげで、赫夜は今この場を離れる決心がついた。次元の扉を開け、富士の麓に行こうと足を動かした時、ふと、ひとつの和歌を思い出した。
——いまはとて 天の羽衣 着る時ぞ 君をあはれと おもひいでぬる——
かつて、別れの時に詠んだ歌。千三百年前は、二度と会えぬという悲しみを込めた。しかし、今は違う。赫夜の心にあるのは、次に来る時に対する期待だ。言葉の重みは違ってしまうが、それでも赫夜にとっては気持ちの重みは変わらない。
「ではまた、次は木が青い葉をつけた時に参ります」
赫夜は古墳に背を向け、一歩を踏み出した。