Pseudépigrapha D'Ange Vierge-Au Nouveau Monde- 作:黒井押切町
青蘭学園の生徒が二限目の授業を受けている中で、高等部の校舎の屋上の貯水タンクに腰掛ける一人の幼い少女がいた。彼女はその緑の髪を風になびかせながら、空に浮かぶ門を眺めていた。
(G・Sの動きがきっかけとなって、D・Eが動き始め、月からは姫が下界に降りた。九十九年七の月を待たずして、世界が動く、か)
彼女がぼんやりと考えていると、屋上の扉を開ける音がした。その人物が放つオーラで、彼女はそれが誰かすぐに判別がついた。
「あら、このようなところで会うとは奇遇ね。シルト・リーヴェリンゲンさん」
その人物は、緑髪の少女――シルトに微笑みかけてきた。しかし、シルトは微笑み返すことはせず、むしろ眉間に皺を寄せた。
「暁天の女神アウロラ。あなたにはまだ名乗ってなかったはずだけど」
「美海さんには名乗ったでしょう? それで分かったのよ」
「とぼけないで。まァ、そっちから来てくれたなら丁度いい。T・R・Aの主神であるあなたが、何のためにわざわざ記憶喪失したという自己暗示をかけてまでここに入学したのか、教えてもらいたいんだけど」
シルトは低い声で尋ねるが、アウロラは微笑みを崩さない。その態度が、シルトの癇に障った。
「そうねェ。ここの人たちと、一庶民の立場で接してみたかったのよ」
「何のために」
「私の目標は、五世界を含めたみんなが笑って暮らせる世にすることよ。そのためには、ここの人たちがどういう人か知らなきゃダメでしょう?」
アウロラは柔和な笑みを浮かべた。一方で、シルトは彼女の言葉を鼻で笑った。そして、そのままシルトは彼女に心底見下した目を向けた。
「そんな大層な理想は、せめてT・R・Aに住む人全てか笑って暮らせるようにしてから言うことだね。それに、自国の民に刺客を差し向けて暗殺を図るような人が口にしていいことじゃない」
「刺客? 何のことかしら?」
「寝惚けないでよ。レミエルを始末するためにガブリエラを遣ったのはT・R・Aでしょ。篠谷壮太郎に討たれたのは計算外だったろうけど」
そのように言った直後、一瞬だけアウロラが不愉快そうに顔を歪めたのを、シルトは見逃さなかった。アウロラは表情を作り直したが、シルトからすれば、その行動は後の祭りというものだった。
「まァ、何にせよT・R・Aにいた頃からずっと、あなたたちのせいでレミエルが笑えてない時点で、今のあなたに理想を口にする資格はないよ」
「勘違いしないで欲しいわ。レミエルに刺客を差し向けたのは、あの子の存在がT・R・Aにとって危険だからよ。いわば天災に対する備えみたいなものよ」
「違うでしょ。主語を大きくしないで。あなたたちにとって危険だからでしょうが。あの子――正確に言えば、あの子の中に眠ってる存在がね。それに、あの子だって一人の意思ある人間なんだから、たとえ害をなす存在であろうと、どうせ理想を謳うなら共生できる道を選ぶのが筋じゃないかな」
今度こそ、アウロラの表情から余裕が消えた。北風が強く唸った後、彼女はその表情のまま、怒気を滲ませた声で言い放った。
「何を言うかと思えば。理想の実現のためには、そうするしかないのよ」
その言葉を聞いて、シルトはため息をついた。本気でこのように思っているのであれば、為政者としての彼女の意識は低すぎる。正してやる必要さえ感じられた。
「あのね。理想は結構だけど、政治に関わる人は実現不可能なことは言うべきじゃないよ。それと、みんなが笑顔になれる世界なんて、誰もが願ってることなの。別にあなた一人の崇高な理想じゃない。口にしないのは、それができないことを知っているからだよ。為政者がやるべきは、叶いもしない理想を唱えるんじゃなくて、どうしたらその理想に近づけられるかを考えることだよ」
「諦めたら、叶うものも叶わないわよ」
「だから、それは為政者が言うことじゃないって。それに、諦めない結果がレミエル暗殺なら、少しくらい頭を冷やした方がいいよ。あの子が内に秘める存在は、必ずしも害をもたらすものじゃない。今のあなたには害かもしれないけど、ね」
アウロラは口を噤んだ。しかし納得はできていないようで、悔しげにシルトを睨みつけている。その往生際の悪さに、シルトは二度目のため息をついた。
「納得し難いならいいや。私は後腐れなく異変を終息させられればそれでいいから。そのために排除しなきゃいけない存在は排除する。例えば、そう。異変の最終段階の混乱に乗じて、良からぬことを企んでいる輩とか」
「さっき言ったことと矛盾してないかしら。T・R・Aには暗殺するなと言うくせして、自分は暗殺する気でいる」
「あなたと私じゃ、目的が全然違うじゃない。さっきも言ったように、私の目的は後腐れなく異変を終息させること。そのためなら、白昼堂々障害を叩く! コソコソやるしかないあなたとは違うんだよ」
シルトはそこまで言うと、貯水タンクから飛び降り、アウロラの背後に立った。警戒してか、アウロラはすぐに振り向きつつ、一歩後ろに下がる。その様を見てシルトはにやりと笑い、アウロラの方に一歩詰め寄った。
「安心して。私たちには今、ブルーフォール阻止という利害の一致がある。少なくとも今ここで私があなたを討つことはないよ」
「その後は?」
「あなたの行動次第」
シルトは不敵に微笑むと、風とともに文字通り姿を消した。残されたアウロラは、北風に吹かれるままその場に突っ立っていた。
***
昼休みの巡回を終えたナツナは、深雪と昼食をともにするために彼女の教室へ向かっていた。この時、すれ違う人々から向けられる視線に、敵意のようなものを感じていた。昨夜のアゲハの件であることは間違いない。G・S出身者全員が容疑者ということになっているので、敵意を向けられて当然であった。ナツナのクラスにおいてもそれは同じだった。リーナだけが全く風評を気にせず彼女と話していたが、それ以外は遠くから囁き声で噂されていた。
ナツナはそれらを意に介さずに歩いて行くが、道中で見たことのない小柄な金髪ツインテールの女を見つけた。彼女の只者とは思えない雰囲気を危険に思い、ナツナは気配を消して彼女に近づき、背後に立ったところで声をかけようとした。しかし、その前に彼女が振り向き、にやりと笑った。
「隠密としては一流以上の気配の消し方だったけど、でもそれで私の背後を取るのは甘いわよ」
「アンタ何者? 少なくともこの学園じゃ見ない顔だけど」
「ふふふ、聞いて驚くがいいわ。この私こそ、現D・E宰相、ジュリアよ! あなたは確か、征四郎君の下の娘さんの、夏菜ちゃんだったわよね」
ナツナは目を丸くした。まさか、この青蘭学園で、自分の知らぬ者から父の名を聴くとは全く予想していなかったのだ。その様子に、ジュリアはころころと明るく笑った。
「私が征四郎君を知っているのがそんなに意外? でもあなた、確か八つの時にG・Sに飛ばされたのよね。なら征四郎君から聞いたことがなくて当然かしら」
「どういうこと?」
「知らないでいるのも気の毒だから教えてあげたいけど、私急いでるから悪いけど話してあげられないわ。ソフィーナに会いたいのだけど、どこにいるか知らない?」
「ソフィーナ先輩なら、そこの教室にいると思う。いなくても、そのうち戻ってくるよ」
ナツナが後ろの教室を指差すと、ジュリアは礼を言ってそこに入っていった。ナツナは彼女の背中を見送った後も、そこをしばらく動けなかった。D・Eの宰相が、一見関係なさそうな父の過去を知っているという事実に、ナツナは金縛りにあったように動けなかったのだ。
(嫌な予感もする。何故D・Eの宰相が一軍人で、しかもアルドラでもないお父さんを知ってるんだろう。D・Eの人間なんて、青蘭島の外では接触できないはずなのに)
ナツナはしばらく頭を悩ませていたが、不意に深雪が視界に入ってきたので、一旦そのことは頭の隅に置くことにした。そして、一歩踏み出して彼女に話しかける。
「あれ、お姉ちゃん? 今迎えに行こうと思ってたんだけど、どうしたの? 何か用事?」
「ん、ああ。そういうのじゃないよ。その、待ちきれなくてね。あと、たまには学食じゃなくて、屋上で食べない?」
深雪はしどろもどろな調子だった。この様子を見て、ナツナは深雪の意図を察した。学食の空気も、今ナツナが歩いてきた廊下やクラスと同じものなのだろう。ナツナは気にしないが、深雪の性格を考えれば、彼女にとっては居た堪れない空気であることは間違いない。
「いいね。寒そうだけど、たまにはいいかも」
ナツナは笑顔で賛同してみせた。その時、深雪の顔が少しだけ晴れた。この変化で予測が正しかったと確信したナツナだったが、そのようなことは表に出さず、猫を被り続けた。