Pseudépigrapha D'Ange Vierge-Au Nouveau Monde- 作:黒井押切町
ナツナが住宅街を一巡する頃には、西の空が赤くなってきていた。学園では放課後になる頃だ。ナツナは姉の顔を思い出すと、反転して学園に向かった。今学園に行けば会えるかもしれない。そう考え、正門前の緩い坂のところでバイクを停め、そこにもたれかかってタバコを吸いながら、下校していく者たちの顔の中に姉の顔を探した。そうしていると、姉の顔ではないが、よく知る顔を見つけた。その彼女の方もナツナに気がついて、連れの手を握り、走ってナツナの方に駆けつけてきた。
「やっほーナツナ。ナツナもこっちに来てたんだね」
「はい、ルルーナ先輩! 一緒の学び舎で過ごせるなんて感激です!」
ナツナとルルーナは、手を取り合って喜び合った。その一方で、ルルーナの連れのリーリヤ・ザクシードは、不満そうに眉をひそめていた。この二人はパーソナルカラーの制服を着ることを許された統合軍の若きエースで、二枚看板で広告塔でもある。それゆえ、統合軍のポスターには大体この二人の写真が載っているので、G・Sで彼女らを知らぬ者はいない。ナツナとルルーナは仲が良いが、これは何度か同じ作戦に参加したことがあり、話をしてみると気が合って、一緒に遊びに行ったりするうちに大の仲良しになったという次第だ。そのルルーナと仲が良いリーリヤとも仲が悪いわけではないが、彼女もナツナも、その扱いはルルーナほどではない。それどころか、リーリヤはナツナをどこか敵視しているきらいがある。それに関してはナツナも何となく察してはいるが、肝心のルルーナが全く気づいていない様子なので、ナツナとリーリヤはぎくしゃくした関係を続ける羽目になっている。
「そうそう、ナツナ。外ならいいけど、学園の敷地内は禁煙だから気をつけてね」
「え、そうなんですか。面白くない」
ルルーナにそのように言われて、ナツナは口をへの字にした。
「まァ、青の世界の国家ではタバコを吸えるのは20歳以降というところもありますから、仕方ないと思いますよ。でも、我々も初めはぶーぶー言ってましたが慣れましたからナツナも大丈夫ですよ」
リーリヤは澄ました顔で言い、ナツナの持っているタバコの箱から一本取り、それに火を付けて吸い始めた。あまりに自然な動作だったのでナツナはボーッとしていたが、すぐにハッとして大声を上げた。
「あーっ!? リーリヤ先輩、私のタバコ勝手に吸わないでくださいよ!」
「あとでラーメン奢ってあげますから目を瞑ってください」
「え、あ、じゃあ、一本だけですよ?」
ナツナの心の中で、タバコを取られた怒りよりも、久しぶりの地球らしい食事ということもあって、ラーメンを奢ってもらえることが勝ってしまった。
「ナツナ。お姉さんならまだ美術室に残って絵を描いてると思うよ」
ナツナは浮かれていたところに、ルルーナが突然そのようなことを話したので、思わず目をぱちくりさせた。
「よく分かりましたね、私がおねえ……姉に会おうと思ってるって」
「出待ちしてる時点で分かるって。行って来なよ。それで、もしよかったらお姉さんと一緒にラーメン食べよっか」
「はい! そうしましょう!」
ナツナは満面の笑みで頷いた。これに対してルルーナは気分良さそうな表情を浮かべる一方で、リーリヤは真顔だった。
「何、リーリヤ。もしかしてラーメン奢る相手が増えて不満?」
「そういうことではないです。っていうか何で私がナツナの姉の分まで払わないといけないんですか。流石にそこまでは」
「え、違うよ。ナツナとナツナのお姉さんと私の三人分払うんだよ?」
「はァッ!? 何でそうなるんですか!」
ナツナの目の前で、ルルーナとリーリヤがいがみ合い始めた。これに対して離れづらくなってしまったナツナは愛想笑いを浮かべつつ、少しずつバイクに近づいた。
「じゃあ、私行きますね!」
三歩ほど離れると、ナツナはバイクに跨って一目散に坂を登った。そうして校門をくぐると、ナツナは吹き付ける秋風の中に春の匂いを感じた。
***
いがみ合うのをやめてリーリヤとルルーナの二人はナツナの背中を見送った。その後、二人並んで帰路につきながらリーリヤはひとつ唸った。
「どしたのリーリヤ」
「いやその、ナツナは大丈夫でしょうかと思って。姉と会ったことでG・Sを裏切ることになるかもしれませんよ」
「いや、それは無いでしょ」
リーリヤの懸念に対して、ルルーナは即答した。リーリヤは彼女のその答える速さが不可解だった。リーリヤは彼女ほどナツナのことを知っているわけではないので、自分が知らないナツナの事情があるとしても、彼女はナツナを信用しすぎではないかと思わざるを得なかった。
「何でそんな風に即答できるんですか」
「だってナツナ、G・Sに婚約者いるし。知らなかったの?」
「それだけじゃ、私はまだ納得できませんよ」
「あとね、今日のナツナはあまり機嫌良さそうじゃなかったし、イラついてる感じもしたから。私は、あの子が一番守りたいのはG・Sにあると見たね。だから大丈夫だよ」
ルルーナは諭すように言った。リーリヤはまだ何となく蟠りがあったが、もう反論する材料は尽きていた。また、これ以上何かを言うのも見苦しいように思えたので、リーリヤはナツナに関しての話題はやめた。別の話題に切り替えてルルーナと歓談する間、リーリヤは一度、一瞬だけ学園の方に振り向いた。丘の上に聳えるその姿は、夕陽の陰で真っ黒だった。
***
ナツナは駐輪場にバイクを停め、部活でか様々なスポーツが行われているグラウンドを尻目に、特別教室棟に足を踏み入れた。比較的賑やかな外とは違い、その中は静かなものだった。事前情報によれば、特別教室の種類の割に教室の数はかなり多く、中等部と高等部のそれぞれの学年に教室を割り当ててもなお空き教室が出てくるほどだ。噂では、その空き教室の多さを利用してそこで性欲の有り余っているアベックが情事に励んでいるとのことだった。これに関しては流石に実在はしないだろうと思っていた矢先、奥の方から淫らな嬌声が聞こえてきた。その声はかなり大きく、廊下の端にいるナツナにまではっきりと聞こえるほどだった。声が高く、なおかつナツナの他には誰もいない廊下でよく響いているということもあるが、それにしても配慮がなさ過ぎだとナツナは思った。
(お姉ちゃんの方に行く前に、様子見しよう。気になってしょうがないし)
ナツナは今さっき湧いた好奇心に打ち勝つことができず、抜き足差し足で廊下の奥に向かう。ちょうどその教室まで半分の距離に来たところで、嬌声が止んだ。ナツナがそれでも足を止めずに進むと、汗だくの男女が例の教室から現れた。男の方は身長190cmはあろうかというほどの大柄の大和民族らしく、女の方は小柄で右肩だけから翼を生やした金髪碧眼の天使だった。ナツナは先に天使の方と目が合った。すると彼女は顔を真っ赤にして、男の影に隠れた。対して男の方は全く恥ずかしがっていない様子で、女がすがりついたままナツナに歩み寄り、顔を数秒ほど凝視して口を開いた。
「お前、ここで見たことないがアレか? ここを破壊しにでも来たのか?」
「何でそうなんの!? 明日からここに通うの! 編入生だよ編入生!」
いきなり正解に近いことを言い当ててきた男にナツナは驚きはしたが、そのことは表に出さず、一般人らしく反論した。すると、男はがははと豪快に笑ってナツナの肩をバシバシと叩いてきた。
「何だそうか! そうならそうと言ってくれ! 俺は篠谷壮太郎! あんた日本人だろ? なら俺の名字にピンと来るはずだ!」
「いや何もないけど」
ナツナは壮太郎の馴れ馴れしさに辟易しながらぶっきらぼうに答えた。ナツナは早くこの場から離れたくて仕方がなかった。はっきり言ってあまりにもうざったい。先ほどの嬌声の正体は今目の前にいる二人に違いないが、ナツナはこのような男に体を許す天使の気が知れなかった。
「マジかよ。お前日本人なのに俺の名字聞いて何も連想しねェとかありえねェだろマジで」
「あのね! 私は確かに日本出身だけど、八年前に緑の世界に飛ばされて、そこから生徒として来てんの! 日本のことなんか全然覚えてないから、あんたの名前なんか聞いたって何も思わないの!」
ナツナの堪忍袋の尾が切れた。壮太郎の後ろの天使は完全にナツナの剣幕に萎縮していたが、壮太郎自身はよほど神経が図太いのか、澄ました顔でけろりとしていた。そして、ああ、と一人で声を上げ、今度は照れ笑いを浮かべて頭を掻いた。
「そりゃ悪かったな。すまんすまん。実は俺の親父は日本の現陸軍大臣なんだ。ところであんたの名前は何だい?」
「ナツナ。ナツナ・トオナギ」
「遠薙? もしかして遠薙深雪となんか関係あんのか」
ナツナはどきりとした。彼としては何気ない疑問だったであろうが、ナツナにとっては、日本人が姉の名を口にしたという事実が、己が地球にいるという事実をこの上なく実感させた。
「お姉ちゃんと知り合いなの?」
「知り合いも何もクラスメイトだ。しかし、ははァ、妹か。言われてみりゃ、顔立ちは確かに遠薙に似てるな。あいつなら高等部三年用の美術室にいると思うぜ。案内してやろうか?」
「いや、いい。それだけ教えてくれりゃ十分。じゃあね」
ナツナは踵を返して、早足で壮太郎と天使から離れた。階段に足をかけた時に天使の名前を聞くのを忘れていたことに気がついたが、軍からもらったファイルを見れば分かることだとして、ナツナは先を急いだ。
***
「おいレミエル、いつまで隠れてんだお前。もういなくなったぞ」
ナツナが見えなくなった後、壮太郎は未だに後ろに隠れるレミエルの方に振り返った。一方、レミエルは眉間にしわを寄せ、小声で呟くように言う。
「普通にバレたじゃないですか。だからこんなところでセックスなんてするものじゃないって言ったのに」
「いや、三ヶ月くらい続けてたがバレたのはこれが初めてだったろ。そういうのは、初めての時にいきなりバレた時に言うもんだ」
「私は、壮太郎さんみたいに開き直れるわけじゃないですから。もうここでするのはやめにしましょう?」
「分かった。済まなかったな」
壮太郎は涙目になったレミエルの頭を撫でてやる。すると、レミエルは機嫌がすぐに直ったらしく、猫のように心地良さげにしていた。
「ところでレミエル。さっきのナツナとは仲良くできそうか?」
「無理ですよ。私は壮太郎さん以外とは口をききたくないんです。他人なんてロクなものじゃないです。壮太郎さんさえ私の隣に居てくれたら、私は満足です」
「そうか」
壮太郎は短く相槌を打って、レミエルの頭を撫で続けた。レミエルの人間不信は度が過ぎているが、これは彼女の過去に起因するものなので仕方がない。壮太郎は彼女に一目惚れして、猛アタックの末に恋人同士になれたが、そこまでの道のりは猛吹雪の剱岳の如き厳しさだった。クラスメイトの日向美海のように、彼女に過去と決別させるべきだと言う者もいるが、壮太郎はそうは思わなかった。何故なら、彼女自身がそれを望んでいないからだ。本人が心から過去の克服に挑もうとしなければ、レミエルの人間不信を助長するだけで、何も意味を成さない。
壮太郎は、撫でられる恍惚感に浸るレミエルを見つめる。壮太郎しか映せない傷付き濁りきった青い瞳さえも、彼にとっては至極の宝物となる。彼にそれを綺麗にする気はなく、むしろずっと愛でる気でいるのだった。
***
遠薙深雪は、夕焼けに染まるカンヴァスの前に佇んでいた。右手には描画用の木炭があるが、それはピクリとも動かせなかった。窓から見える風景ともう一、二時間は見つめあっているが、どうしても手を動かすことが出来なかった。今日は不思議と気が散って仕方がない。生理も何もない日のはずなのに、もやもやしたものが朝からずっと深雪の胸に去来している。
「スランプ、なのかな。デッサンも出来ないなんて変な日だけど、とにかく今日はやめよう」
カンヴァスは置いたままにして、深雪は他の絵画道具を片付けて、美術室を後にした。すると、その直後にライダースーツを着た少女とばったり出くわした。自分とよく似た顔、天真爛漫な瞳、ツインテールにした銀の髪——深雪がその姿を見た刹那、彼女の体を美杉の風が吹き抜けた。