Pseudépigrapha D'Ange Vierge-Au Nouveau Monde- 作:黒井押切町
ナツナは目を見開いたまま固まっていた。自分とよく似た顔立ちに、柔らかな瞳、ポニーテールの空色の髪。二度と会えないと思っていた姉の深雪が、今、目の前にいる。何とか彼女を呼ぼうと口を動かしたが、喜びと緊張のあまり、声が出ずにパクパクとなるのみだった。これではいけないとナツナは深呼吸をして気を鎮め、大粒の涙を流しながら叫び、彼女の胸に飛び込んだ。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん!」
「夏菜!?」
突拍子もない行動のはずだったが、深雪はしっかりとナツナを受け止め、その体を強く抱きしめてくれた。
「夏菜、本当に、夏菜なんだよね?」
「うん! 私は正真正銘のお姉ちゃんの妹、ナツナだよ。久しぶり、お姉ちゃん」
ナツナと深雪は、一旦離れて互いに顔や体を確かめ合った。共に成長はしたが、それでもナツナは目の前の女性が深雪であるとはっきり分かる。それは深雪も同じようで、今度は彼女が泣き崩れた。
「ああ、夏菜。生きてくれて、本当に良かった」
「心配かけちゃって、ごめん。だけど安心して。私は、もう突然いなくなったりしないから」
代わって、ナツナが深雪を抱き留めた。しかし、ナツナは嘘をついた。少なくとも一ヶ月以内には、統合軍は戦闘行動を起こす。ティルダイン家の権力を使えば彼女一人くらいは青蘭島からG・Sに移住させられるだろうが、露見すれば重大問題となる上、何より日本人としての彼女に恥をかかせることになる。ナツナであれば自分一人が生き残るよりは国に殉じたい。彼女もそのように考えるだろうし、そのように考えて欲しい。ナツナが提案した時に彼女がすんなりと受け入れるようなことがあっても、ナツナは彼女の破廉恥な真似をする様を見たくなかった。もしも、ナツナがそうせずとも彼女が命乞いをするようなことがあれば、その時には名誉の死を与えるつもりだ。このように統合軍が勝てば二人が別れることは確実だ。逆に統合軍が負けたとすると、三度目のブルーフォールを行うことは絶望的だ。それで、そのようになればナツナは責任を取って切腹するつもりでいるので、どの道ナツナと彼女は別れる。だからこそ、二人で居られるこれからの数週間を何としても充実させると、深雪の涙に誓った。
***
ナツナと深雪は、二人で寮の深雪の部屋に帰った。深雪が料理を振舞ってくれるとのことで、彼女が料理している間に一旦寝間着のネグリジェと替えの下着を取りに帰って、深雪の部屋に戻ってナツナは風呂に入った。取りに帰った際、ついでに先の天使の名前も確認しておいた。赤の世界出身でレミエルという名であることは分かったものの、他にはクラスが分かっただけで他の情報は一切分からなかった。例の資料の中で、学園に来る前の経歴が一切記されていないのはレミエルくらいなものだった。
(何なんだろ、アイツ。ワケありなんだろうけど、何も分からないっていうのは異常だよね。警戒するべきかな)
こうしてレミエルのことを考えているうちに、彼女の隣にいた壮太郎のことが思い出された。ナツナはもうそれだけで腹が立ち始めた。顔立ちはかなりの美形の部類に入るくらいだった気はするが、それを帳消しにするくらいの鬱陶しさを持つ彼が、なぜレミエルと性交できるくらいに慕われているのか理解できなかった。
(まァ、アイツの趣味なんてどうでもいいや。とにかく、あの篠谷ってやつ、もし戦場で出会ったら真っ先にブチ殺してやる)
ナツナは苛立ちのあまり、心の中で彼に対する怒りを吐き出した。ここで、彼女は戦場ということから、ブルーミングバトルのことを連想した。青蘭学園特有のカリキュラムのひとつで、痛みや怪我が一切無い、異能を用いた模擬戦である。模擬戦といっても兵士を育てるためのものではなく、戦いを通じて異能の使い方を掴み、成長させるためのものだ。つまり、元々軍人だったり兵士だったりする極一部の生徒を除けば、ぬるま湯に浸かってきた者ばかりだということだろうとナツナは考えた。今回の作戦では、現在学園にいる統合軍の軍人のみで行動する予定なので、戦闘する予定があるのは学園生徒のみだ。そのうちの何人が骨のある者かは分からないが、少なくとも正規軍はもちろんのこと、民兵を相手にするのよりも気が楽になることは想像に難くない。
(気になるものといえば風紀委員くらいかな。高等部の生徒だけで構成されてるくせに警察権持ってるくらいだし、組織的統率も取れてるんだろうけど)
ナツナが持っている情報では、風紀委員は志願制の百人くらいの組織で、青蘭島内の学園生徒による犯罪、つまりプログレスによる犯罪を取り締まる組織である。しかし基本平和なこの島では本業を果たす機会はあまり無いらしく、巡回と訓練くらいしかそれらしいことはしていないとのことである。ただし、訓練に関してはS=W=E軍の人間部隊のサングリア=カミュが監督しているため、他の生徒とは違って軍隊並みの動きができるという話だ。
(何にせよ、実際に見てみないことには分からないな。風紀委員、入ってみるかなァ。うん、そうしよう)
ナツナが風紀委員に入ることを決心した直後、深雪の呼ぶ声が聞こえた。それで、ナツナは急いで湯船から出て、慌てて体を拭いたりドライヤーで髪を乾かしたりした。その間、ナツナは何か忘れている気がしたが、少し考えても思い出せなかったので、気のせいということにした。
「お待たせ!」
ナツナがダイニングに駆け込むと、既に出来上がった料理が並べられていた。茶碗一杯のご飯に、鮎の塩焼きとほうれん草のおひたし、豆腐とネギの味噌汁。まさしく、ナツナが求めていた形の料理そのものだった。
「やば、ちょっと感動しちゃった」
ナツナは溢れてきた涙をぬぐって、深雪と向かいの席に座った。それから二人同時に手を合わせて「いただきます」を言い、ナツナははじめに鮎に手をつけた。特別な味では無かった。塩味のよく効いた、普通の塩焼きだ。しかしそれでも、ナツナには懐かしい味だった。一口食べただけで、拭ったばかりの涙が溢れてくる。
「夏菜、美味しい?」
深雪はナツナの涙が喜びの涙だと察してくれたようで、穏やかに尋ねた。ナツナは何度も頷いて、箸を進める。ただの白米でさえも、今は至極の一品だ。気が付けば、ナツナはあっという間に食事を平らげてしまっていた。
「ごちそうさま。美味しかったよ、お姉ちゃん」
「ありがとう。夏菜に喜んでもらえて嬉しいよ」
深雪は、食事の手を止めて微笑む。その柔らかな笑みは、八年前と何も変わっていない。この時初めて、ナツナは地球に戻って良かったと実感できた。しかし、次に気になるのは奥津のことだ。あそこが青蘭島の街並みのようになってしまっていたら、それはとても悲しいことだ。
「ねえ、お姉ちゃん。奥津って今どうなってる? 私がいた頃から、何か変わったところはある?」
「ううん、私がここに来る前の二年前までは、特に変わってなかったよ。あそこは異変の影響が少ないと言っても辺鄙だから、そうそう変わらないと思うし、少なくとも向こう十年は昔のままじゃないかな。強いて変わったところを挙げるなら、お父さんが予備役に入って、うちで農業始めたくらいかな」
「じゃあ、あそこに今帰れば、お父さんに会えるんだ」
「そう出来たらいいけどね」
ナツナの何気ない言葉に、深雪は目を伏せた。彼女のその行動で、ナツナはハッとした。学園生徒は許可が下りない限り、青蘭島の外には出られない。しかし、ナツナの聞いた話では、地球出身の者が生徒の身分で青蘭島の外に出られた例は無く、親の死に目にすら会わせてもらえないという。
「お姉ちゃんは、いつまでここにいるの?」
「私は、高等部を卒業したら奥津に帰って、お父さんの農業を手伝いながら画家をやりたいと思ってる。先生は青蘭の大学部への進学を勧めてくるけどね」
深雪は苦笑しながら答えた。しかし、その笑みはすぐに消えた。暫く逡巡し、やがて声を震わせて、彼女は尋ねる。
「夏菜。今まで、どこで何をしていたの? みんな、ずっと心配してるんだよ。神隠しに遭ったっていう話になってるけど、それでも諦めきれずに奥津に帰ってくるのを待ってるんだよ」
深雪の潤んだ瞳からは、ナツナを射抜くような鋭い眼光が放たれた。ナツナは、彼女が怒っていると感じた。そのように感じるのは初めてのことだったが、考えてみれば当然のことであっだ。突然姿を消して、再会してもナツナは自分のことを一言も話していない。これでは誠意がないと思われても仕方がない。
「ごめん。実は、緑の世界に飛ばされていたの。だから、今の私は地球出身の生徒としてではなくて、G・S出身の生徒として、この島にいる」
「G・Sに。そう、だったんだ。八年いたんだよね。辛くなかった?」
深雪のこの問いに、ナツナはどのように答えようか迷った。深雪は特定の答えを望んでいるということは無く、単純に気になって尋ねただけであろうが、もしもナツナが辛くなかったと答えれば、彼女は影で悲しむかもしれない。奥津のことを忘れるほどに充実していたという事実を隠せば済む話かもしれないが、それでも彼女がどう思うか分からない。暫く悩んだ末に、ナツナは半分くらい嘘を混ぜて答えることにした。
「辛くはなかったよ。向こうの人はみんな親切だったし、婚約者だって向こうにいる。でも、美杉の空気も、伊勢奥津駅の給水塔も、雲出川のせせらぎも、私は決して忘れることは無かった。私の心は、ずっと
ナツナは「美杉にある」とはどうしても言えなかった。しかし、この文脈なら間違いなく深雪は「あそこ」を「美杉」もしくは「奥津」と捉える。ナツナはそのように期待し、果たしてそれは的中したらしかった。
「そうなんだ。じゃあ、いつか二人で一緒に、昔みたいにあの家で暮らせるのかな」
「うん、そうだね」
ナツナは頷くのが堪えた。その日は来ない。ナツナはこれまでのやり取りで確信してしまったのだ。己の一番守りたいものは奥津でも目の前にいる深雪でもない。自分を育んでくれた大地があり、愛し合う人がいる緑の世界なのだと。これが揺らぐとしたらそれは今奥津に帰ることに他ならないが、ナツナの任務はあくまで生徒として過ごすことである故、それは敵前逃亡も同然だ。ナツナはそこまでして奥津に帰るつもりはない。するとやはり、当初の予定通り、二人で奥津の土を踏む前に別れることになる。
このように考えていると、ナツナはつい黙ってしまったので、それを誤魔化そうと何か話題がないか探し始めた。
「あ、そうだお姉ちゃん。お姉ちゃんにはさ、彼氏とかいるの?」
「いないよ。ほら、青蘭学園って男の子の方が少ないでしょ。入学直後の獲得戦争に乗り遅れちゃってね。男友達はいるから、アルドラに困ってるってことはないけどね」
「あー、お姉ちゃんのんびりしてるからねェ。でも、奥津に帰れば引く手数多なんじゃない? お姉ちゃん器量いいし、嫁に欲しいっていう人多いと思うよ」
ナツナが何気無く言うと、深雪は「そんなことない」と言いつつ、頬を緩め顔を赤らめていた。そして、誤魔化すように食事の残りを掻き込む。年頃の少女らしいその仕草は、先程までの暗い心に光を灯してくれた。ナツナがニヤニヤしていると、食べ終わった深雪は顔の色はそのままで、ナツナから目をそらしながら口を開いた。
「じゃ、じゃあ私も聞くけど、夏菜の婚約者ってどんな人?」
「とてもいい人だよ。G・Sで私を養ってくれた家の人なんだけど、優しくてカッコよくてね。ちょっと心配性だけど、それもまたいいっていうか」
「そう。羨ましいな。私なんか、絵だけが恋人みたいな人になってるから、そういうロマンスは憧れちゃうな」
深雪はどこかうっとりした様子だった。一人で居残って絵を描くほどそれが好きなのは相変わらずだが、それ以外に興味が無いわけではないようだ。とりあえず、深雪は学生生活を満喫できているらしい。このことはナツナを安心させた。彼女が学生として楽しんでいるなら、自分も楽しめる。根拠は無いが、ナツナは何故かそのように確信できた。