Pseudépigrapha D'Ange Vierge-Au Nouveau Monde- 作:黒井押切町
初登校の朝、軍人らしく午前5時55分ぴったりに目を覚ましたナツナは、癖ですぐにベッドのシーツを整えて制服にアイロンをかけて着用した。ここまで要した時間は5分で、G・Sでの暮らしと殆ど変わらない。ただひとつ違うことは、着ている制服が軍のものでなく、青蘭学園のものということだ。ナツナはこの制服を着るのは初めてだが、すぐに気に入った。カッターシャツにも高い生地を使っているらしく着心地は良く、デザインも可愛い。一応制服は着ても着なくてもよいことになっているが、着る生徒が多いことに納得できるくらいだ。
「さてと、ご飯ご飯。まだお姉ちゃんとこ行くには早いから、食堂使うかな」
ナツナはそのように呟き、ローファーを履いて外に出た。秋の朝の風は冷たい。これは緑の世界と変わらぬ空気だ。学生手帳を片手に握り、軽い足取りで階段を駆け下りて食堂に入る。青蘭学園の学生手帳は便利なもので、これを見せるだけで青蘭島で最低限の衣食住は無償で保証される。衣は制服で、住は寮。そして食が寮と学園の学食だ。
まだ早すぎるのか、食堂には調理場で働く婦人以外には、人影は奥のテーブルにいる二人の他には認められなかった。そしてその二人については、ナツナの顔見知りだった。
「おはようございます、ジェミナス中尉」
ナツナは盆に、白米を盛った茶碗、目玉焼き、そして合わせ味噌の豆腐の味噌汁を載せて、二人のいるテーブルに座った。その二人、ユニ・ジェミナスとアインス・エクスアウラは特務隊の同僚で、ナツナとは仲はそこまで良くないが、悪いわけでもない。
「おお、トオナギ少尉か。確か少尉は今日が初登校だったな。何か不安は無いか?」
ナツナを無視して盆いっぱいに載せたドーナツを食いまくるアインスとは対照的に、ユニは普通にナツナに応対する。
「いいえ。別にそこらに地雷が埋まっているわけでも、テロリストが潜んでいるわけでもないのですから、何の不安もありませんね。それに、私は社交的な性分。特に怪しまれることもないでしょう」
「それもそうだな。アインスでさえ違和感なく溶け込めている。況や少尉をや、だな」
ユニは隣で全くペースを落とさずにドーナツを頬張り続けるアインスを一瞥して苦笑する。しかし、ナツナは目の前のアインスに違和感を感じていた。彼女の知るアインスは、このような微笑ましい一面は決して見せることのない、冷酷そのものな女だ。G・Sにいた頃は、趣味など一切持たず、暇さえあれば訓練しているといった様子でもあった。
(かぶれたのかな、ここの空気に。まァ、禁欲的な人間ほど欲に負けた時に物凄いって言うし。珍しいことでもないか)
ナツナはそのようなことを考えながら、箸を進めつつアインスを眺める。すると、彼女は盆をナツナから遠ざけてキッとナツナを睨みつけた。
「あげないから」
「いやいや、別にいらないし」
ナツナは苦笑して首を振ったが、アインスは彼女を睨みつけたままだ。ナツナが何なのかと思っているうちに、彼女は再び口を開いた。
「ドーナツを欲しがらないなんて、人間じゃない」
「めんどくさいね君!? そんなキャラだっけ?」
「トオナギ少尉こそ、そんな普通な人だっけ。もっと気難しかった気がする」
ナツナが大声を上げると、アインスは心外だと言わんばかりに眉をひそめて呟いた。それで少し冷静になれたナツナは、気を取り直して彼女に答える。
「オフの時はこんなもんだよ。アインスは仕事モードの私しか見たことないから分からなかったろうけど」
「そういうことなら同じこと言える。オフの私はこんな感じ」
「いや、そういうことではないと思うぞ。監督役の私でも、お前がドーナツを初めて食うまではオフの貴様なんぞ見たこともない」
「そうなの? へえ」
アインスは興味なさそうに相槌を打った。その普通の人間らしい仕草に、ナツナはだんだんと嫌な予感がしてきた。彼女はG・Sにいた時よりも、明らかに人間らしさを身に付けている。彼女の受け持つ使命を考えると、これは非常にまずいことだ。彼女は後天的に異能を付与されたエクスペンドなる存在であり、基本的に課せられる任務は非人道的なものである。それを良心の呵責無く実行するために、彼女はロボットの如き人間になるように調整されている。その彼女が人間らしさを得ては、彼女自身のことに疑問を持ち始めるのは自明だ。
(中尉は報告してるのかな、このこと。してると思うけど、私からも報告しておくか)
ユニはアインスの現状に、危機感を抱いていないように見える。ナツナは胸にもやもやした思いを抱きながら、箸を進めた。
***
朝の8時になって、ナツナは深雪を迎えに行った。彼女の部屋の前に立ち、インターホンを鳴らそうとしたところでちょうど深雪が出てきた。
「あ、夏菜おはよう。迎えに来てくれたんだ」
「うん。ちょうどいいしこのまま行こう。はいこれ」
ナツナはバイクのヘルメットを深雪に手渡した。しかし、深雪はピンと来ていないようで、それをまじまじと見つめるだけだった。
「バイクだよバイク。どうせモノレール混むでしょ? この島は交通量少ないらしいし、こっちの方が良くない?」
「そう言えば、昨日再会した時はライダースーツだったし、帰りもバイク手で引いてたね。それどころじゃなくて気にしてなかったけど」
「さ、早く行こうよ」
ナツナは深雪の腕をぐいと引っ張る。この時、ナツナがふと思い出したのはかつて深雪と遊び回った記憶だった。深雪は外出がそこまで好きでなかったにも関わらず、今のようにナツナが腕を引っ張ると、彼女はいつも付き合ってくれた。この郷愁の念と共に、ナツナは胸にこみ上げるものを感じた。これは深雪も同じようで、彼女は困ったような、それでいて楽しそうな笑みを浮かべていた。
バイクのもとに着くと、深雪はそれを物珍しそうに眺めていた。駐輪場に停めてある他の二輪車を見ても、殆どが自転車で、バイクは見当たらないので実際珍しいようだ。
「二人乗りすることになるからちょっと心配だったけど、大きいバイクだね。いきなりこんなの買って大丈夫だった?」
「G・Sでもこのくらいのに乗ってたし大丈夫だよ。早く早く」
ナツナはバイクの収納に鞄を突っ込みながら深雪を急かす。しかし、深雪はその前に鞄から携帯電話を取り出した。
「待って。その前に二人で写真撮ろうよ。今度奥津に送る手紙に同封するの」
どことなくうきうきしている彼女の提案に、ナツナは弾けるような笑顔を以って頷く一方で、内心では締め付けられるような悲しみを感じていた。この仮初めの回帰した日常に、奥津の人を巻き込むのは好ましくなかった。しかし、ナツナの事情を知らぬ深雪にとって、ナツナが彼女の提案を断る理由が無い。
「はい、ちーず」
結局、ナツナは深雪に乗せられてツーショットを撮った。写真写りを確認すると、自分が自然に笑えていることが確認できて、ナツナはホッとした。表情を自然に偽る技術は特務隊の訓練で身につけたものだが、このような場面で役に立つとはナツナ自身にも思いもよらぬことであった。
「ごめんね時間取らせて。じゃ、行こうか」
深雪は申し訳なさそうに言って、ナツナと同様に鞄をバイクの収納に入れ、ヘルメットを被った。ナツナも気を取り直してバイクに跨り、深雪が後ろに座ったのを確認して、エンジンをかけた。
「お姉ちゃん、振り落とされないように、しっかり掴まっててね!」
ナツナは大声で言うと、勢いよくバイクを発進させた。G・Sではゲオルグ相手に二人乗りもよくやっていた。それゆえ、ナツナは殆どその時の感覚で、しかも道路が空いていたことも相まってかなりのスピードを出して走っていた。信号に一回も引っかかることがなかったため、学園の駐輪場に着くまで深雪の具合を確認する余裕が無かったが、そこで彼女の方を見てみると、すっかりへろへろになってしまっていた。
「な、夏菜。次はもっとゆっくりね」
目を回しながら、深雪はヘルメットを外した。ナツナは引きつった笑いを浮かべて、頭の後ろをぽりぽりと掻いた。
「は、はは。ごめん、ごめんね」
「ううん、いいの。すぐ治るから」
深雪は気丈に振る舞うが、顔色を悪くしており、足取りもふらふらしている。仕方がないというのと、自分の運転でこのようになってしまったという負い目から、ナツナは深雪の遠慮を押し切って彼女に肩を貸した。深雪も、結局はそれほど遠慮することはなく、ナツナの好意に従った。
校舎の玄関まで来ると、ナツナから見ても分かるくらいに深雪は回復していた。それで、ナツナは彼女から体を離して、抱えていた彼女の荷物を手渡した。
「ありがとうね。ところで、教室がどこにあるかとか分かる? 案内しなくても大丈夫?」
「大丈夫だよと言いたいけど、ちょっと不安かな。ということで、お願い!」
ナツナは手を合わせて、少し頭を下げた。ナツナは、本当は校内の見取り図は完璧に頭に入っているので、教室の位置が分からないということはあり得ないのだが、深雪との時間を大切にしたかった。
「ふふふ、いいよ。どこのクラス?」
深雪は嬉しそうに笑った。すぐに、二度と見ることは無くなるであろうその笑みは、昨日から見てきたものと同じように、ナツナの胸にすぐに刻み込まれた。
***
深雪に自分の教室まで送ってもらった後、彼女が見えなくなってから、ナツナは職員室に向かった。実は最初からクラスに向かわずにそうしなさいと指示されていたのだが、深雪に職員室まで案内させると、彼女がホームルームに遅れてしまうので、黙っていたのだった。
職員室に着いてから担任の教師に挨拶をし、そのまま折り返して彼と共に教室に入った。そして、新たなクラスメイトが見つめる中、ナツナはチョークで「ナツナ・トオナギ」と黒板に記した。「遠薙夏菜」としようかとも考えていたが、あくまでG・Sからの留学生であることを示すために、敢えて片仮名で書いた。
「ナツナ・トオナギです。G・Sからの留学生です。まだまだ分からないことがたくさんありますが、よろしくお願いします」
ナツナは愛想笑いを浮かべつつ定番の文句を並べて、軽く一礼した。クラスメイトも拍手で迎える。その後、ナツナは用意された奥の席に向かいながら、クラスメイトの顔を確認していった。1クラスの人数は40人程度で、その中に各世界の出身者がバランスよく割り当てられている。男、つまりαドライバーはその中でも5人しかいない。平均的には一人が一度にリンクできる人数は最大4人とのことなので、明らかにαドライバーの数は足りていない。しかし、もちろんあぶれるプログレスは多いが、αドライバーもパートナーを見つけられない者の方が多いのだという。この話に関してはナツナは半信半疑であったが、クラスメイトの男の様子を見て納得した。見た目が好青年なのは2人で、残りの3人からは魅力が全く感じられない。寧ろ近寄りたくないし、陰口を叩いても誰からも文句を言われなさそうな雰囲気だ。彼らとリンクするなら壮太郎とリンクした方がマシだと言える。
ナツナが椅子に腰かけ、一限目の数学の教材を鞄から取り出していると、前の席の青髪の女子が振り向いて話しかけてきた。
「トオナギさん。何かお困りのことが有りましたらぜひ声かけてください! あ、私、リーナ=リナーシタといいます! どうぞよろしくお願いします!」
「じゃあ、困ったら頼らせてもらうね、リーナ。こちらこそよろしく」
ナツナは、リーナが手を差し出してきたのに応じて握手を交わした。ナツナは、彼女のことは既に名簿で確認済みだった。S=W=E軍機械化部隊の中で、人型のロボットであるジャッジメンティスを駆るパイロットで、風紀委員会にも属している。つまり、近い将来で死闘を演じる可能性がある。
(この子はぬるくない戦いを知っているはず。この子みたいなのは他にもいたはずだから、手の内を晒すのは控えた方がいいな)
愛想笑いの下で、ナツナはリーナと戦う前提で思考を巡らせた。戦いは既に始まっている。統合軍所属の学生以外は全員が敵だ。ナツナは、つかの間の学園生活は楽しむつもりだったが、彼ら彼女らの中に本気で浸かる気は毛頭無かった。