Pseudépigrapha D'Ange Vierge-Au Nouveau Monde- 作:黒井押切町
放課後、ナツナは風紀委員の参加申込書を持参してその教室を訪れた。壮太郎と遭遇しないようにと祈りながら入ったのだが、その願いもむなしく、風紀委員会教室には彼一人しかいないという最悪の状態であった。彼は日本刀の刀身を打ち粉で叩いていたが、ナツナを見るなり嬉しそうにニヤニヤして声をかけてきた。
「よう遠薙妹。なんか用か?」
「風紀委員会に入ろうと思ったんだけど、やっぱやめよっかなー」
「待った待った。ぜひ入ってくれお願いだ。お前みたいな軍人の人材は貴重なんだよ。どんなシフト作っても、軍属じゃない連中は人手不足だってのに、必要性も理解しないで、もっと遊ぶ時間が欲しいだの深夜巡回は嫌だの、しょうもない文句ばかり付けてくるんだよ。お前が入ってくれればシフトに余裕もできるし、あいつらの要望を聞けるゆとりも少しはできるからさ」
壮太郎は必死な様子だった。ナツナにとって、これまで横柄な態度しか見せてこなかった彼が頭を下げるのを見るのは気分が良かった。機嫌を良くしたナツナは、意地悪な気分になってポケットに入れていた申込書を取り出し、見せつけるようにそれを壮太郎の目の前で揺らした。
「ねェねェ。これが欲しいの?」
「印鑑押すからさっさと寄越せコノヤロウ」
「それが人に頼む態度だとでも思ってんの?」
ナツナがそのように言うと、壮太郎はイラっときたのか、不愉快そうに眉をひそめた。
「ごちゃごちゃ言っとらんでさっさと渡さんかいワレ。大体テメェこそ風紀委員に入れてくださいってお願いする立場じゃねェのか? ああん?」
「そっちこそごちゃごちゃ言わないで『捺印しますから渡してくださいお願いします』って言えば済む話じゃん。さっさと言いなよ」
壮太郎の言葉が乱暴になったが、ナツナも引くに引けないので挑発せざるを得なかった。まさしく一触即発の空気だったが、その時ちょうど、リーナが入室してきた。
「あれ、トオナギさん? どうしたんです?」
「いやなリナーシタ。こいつ風紀委員に入るんだよ。今その申込書をもらう所だ」
ナツナが口を開くよりも早く、壮太郎はまるで先ほどまでのいがみ合いなど無かったかのように言った。このように言われては、リーナの手前、ナツナは申込書を渡すしかない。仕方なく、ナツナも彼と同じくいがみ合いの雰囲気を感じさせない表情で申込書を手渡した。
「にしても、トオナギさんは今日転校してきたばかりですよね? なんでまた風紀委員に」
「こいつに頼まれたの。軍属の人材は喉から手が出るほど欲しいんだってさ」
仕返しのつもりで、ナツナは壮太郎が何か言う前に答えた。しかも、嘘は言っていない。いきなり怒り出したのは壮太郎の方である。彼もそのことは分かっているようで、渋々ながらも「そうなんだよ」と肯定の意を示した。
「でもそれだと変な話じゃないですか? 緑の世界出身のトオナギさんと青の世界出身の委員長では接点が無いような」
「昨日下見に行ったときに会ったの。接点はそれ」
「あ、なるほど。それなら納得です」
リーナの顔が晴れた。そうしてそのまま、壮太郎の方に向き直って、姿勢を正して毅然とした表情で告げる。
「15時から15時半、Hー3イ地区異常なし。これからHー2ロ地区へ1分遅れで巡回に参ります」
「よし。この遅れはちょっと仕方ないところがあるから、罰は無しな。だけど出来るだけ埋め合わせてくれ」
「はい!」
リーナは壮太郎に威勢良く返事をして、教室から駆け足気味に出て行った。先の壮太郎の態度は、しっかりと風紀委員長らしいものだった。しかしそれ以上に、ナツナは記号の割り振りや1分遅れという文言が気になった。
「ねェ、質問がふたつあるんだけど。Hなんとかって、どうやって決めてんの? あとさっきの1分遅れってなに?」
「前者は学園の敷地の区分けだよ。幼年部はP、初等部はE、中等部はJ、高等部はH、大学部はU、特別教室棟はS、研究室棟はR、野外はFから始まって、数字が階層、イロハで平面的に分けてる。例えばHー3イ地区だったら、高等部棟三階の西側半分だ。もっとも、これは学校の敷地だけの話で、学校の外は普通に住所で区別してるけどな」
「じゃあ1分遅れは?」
「そのまんまだよ。ほれ。これが今日のシフト表だ」
壮太郎は一旦刀を机の上に置いて、一枚の紙をナツナに手渡した。それを見た瞬間、ナツナは目を見張った。それはシフト表というよりはバスや鉄道のダイヤグラムだったが、かなり綿密に計算されたものであることは軽く目を通しただけでよく理解できた。グラフの傾きを見ると、個人個人でそれぞれ異なることから、それぞれの身体能力も考慮されていることがわかる。それでいて秒単位で設定されているので、実は壮太郎はかなり有能な人物なのではないかという疑惑が浮かび上がってきた。ただし、あまりに細かいので、1分でも遅れれば業務に支障が出ることは間違いない。
「これ作るの大変だったでしょ。でもこんなに細かかったら、私が入って作り直しちゃ大変じゃないの?」
「そう思うだろ。だが安心しな。あと十人、どんなタイプのやつが入っても大丈夫なように3の10乗通りのパターンをもう作ってある。お前どうせ運動神経いいだろうから、スポーツ万能が入った時のパターンな」
ほらよ、と壮太郎は新たな紙を渡してきた。それを見ると、ナツナはまたもやその精巧さに驚きを隠せなかった。先のダイヤグラムと比較しても全く遜色ない出来だ。
「ま、お前が入った時点で十人の余裕作るために、結局ダイヤ作り直す羽目になるんだがな。まァ俺にとっちゃこんなことは本気出しゃお茶の子サイサイよ」
「すごいね、あんた。本気で見直したよ」
「当然だ。俺が絶大な人気を誇る理由が分かるだろ」
壮太郎は鼻を伸ばして言った。もうそれだけで上がったナツナの彼に対する評価はがくっと下がったが、このくらい馬鹿な方が面白いので、彼の人気も何となくだが納得できた。
「まァ、ね。それよりさ、風紀委員の仕事ってどんなのか教えてよ。どうせ明日からやらなきゃいけないんでしょ?」
「基本は巡回して不審者の発見か困民救済だ。ま、基本は特に何も無いがな。そんでも、プログレスが犯罪行為に走ったら手に負えないからこれは必要だ。実際、お前らが来る前にそういうことがあったんでな。この刀の錆にしてやったが」
壮太郎は、刀を見せびらかすようにして手に取り、高級そうなティッシュペーパーに油を染み込ませて、それで刀身に油を塗り始めた。その刃の輝きを見ていると、かなり大事に手入れされていることが分かる。
「そういえばさ、それすごく大事にしてるっぽいけど、いい銘柄のものだったりするの?」
「いや、日華事変の時くらいに工場で大量生産された安モンだよ。つっても出来は良くて、丈夫な上に斬れ味は抜群だがな」
そのように言いつつ、壮太郎は油は塗り終えたらしく、刀身を柄にはめて目釘を打ち始めた。その時の目には、これまでの無邪気な目とは違い、少し大人びた、感傷的な光が見えた。窓から差し込む夕日も相まって、余計にその雰囲気が強調されている。
「貰いもんなんだ。そして、これには俺の十五までの半分が詰まってる。ずっと曲がることが無かったあの背中に追いつくためにも、これを無碍には出来ねェんだ」
ナツナは言葉が出なかった。目の前の少年が、昼間の無礼者の姿と一致しない。今の彼は確かに美しかった。ゲオルグがナツナの心に無ければ、ナツナの目の前にある彼の姿だけで、彼に惚れてしまいそうなほどであった。呆然として彼を見つめていると、彼はニヤリと下品に笑った。
「今惚れたってセックス出来ねェからな。俺とセックスできるのはレミエルだけだ。ここでお前が素っ裸になっても無理というのは分かってくれ」
「あんたのセクハラのレパートリーはセックスしか無いの?」
呆れ果てて、ナツナはため息をついた。先程から、壮太郎に対する評価が上がっては下がっての繰り返しだ。黙っていれば本当に格好いいのにというナツナの思いとは裏腹に、壮太郎は口からあまりに残念な言葉を吐き続ける。
「そりゃお前がセックス言い始めたからセックスで弄ってるだけでんがな。セックス弄りが飽きたなら乳首当てゲームでもやろうぜ。お互いに服の上から乳首をつつけるかどうかってやつ」
「それはあの子とやることじゃないの?」
「え、学年の女の八割とは既に実行済みだぞ。たまにお前の姉ちゃんともやったりするし」
ナツナは、別の意味で言葉を失った。と同時に、いつの間にか近くなっていた壮太郎との距離を遠くした。
「なんかもう、なんだろ。お姉ちゃんがそうするのは、押しに弱いからまだ分かりたくないけど分からないでもないけど、学年の八割って、あんたの学年終わってんじゃない? そりゃあんたは凄いよ。才気溢れる家柄もいいイケメンな男だとは認めるよ。でもこんなに気持ち悪いやつに自分の乳首触らせるとか、私には分からない」
「その気持ち悪さがスパイスになってんじゃね? 俺には気持ち悪いって自覚全然ねェけど」
「自分で言うかなそれ。ま、私には婚約者がいるからね。天地がひっくり返ってもあんたに乳首なんか触らせないから」
「その婚約者はどんな風にお前の乳首を触るんだ?」
「そりゃもう私が感じるように、愛撫で硬くなったのをクリクリと——って、何言わせんの!」
ナツナは一気に壮太郎に詰め寄って怒鳴った。しかし、壮太郎は悪びれない様子でヘラヘラしている。それどころか余計に調子に乗っている様子だった。
「お前ノリツッコミするくらい俺のこと気に入ってくれたんだなァ。昼に比べりゃえらい違いだ」
「あんたみたいな生き方できたら人生楽だろうね」
「よく言われるよ。でも、楽そうな様子の裏にはそれなりのドラマがあったんだぜ。映画同好会に『ドキュメント・篠谷壮太郎秘話〜壮絶! 自信家の裏側〜』っていう映画を作らせてもいいくらいだ。レミエルが許さないだろうけど」
壮太郎はそこまで言うと、ちょうど目釘を打ち終えたらしく、刀を鞘に納めて机の上に散らばった書類を整理し始めた。
「そろそろ交代の時間だから、人が来る前にとっとと行きな。あと、規則上、お前の実力を測らにゃならんで、夜の八時に第七闘技場に来てくれ」
「うん、分かった。じゃあね」
ナツナは軽く手を振って、廊下に出た。日陰ゆえか、そこの空気は思ったよりも冷たく、ナツナは思わず身震いしてしまった。