エピローグ
序章 2016年○月×日
夜――部屋で寝ていると、人肌を恋しく思う。そういうことが、時々ある。
小さなころ一緒に寝ていた、親兄弟の温もりを求めるものじゃない。
思春期の男女にありがちな、異性への関心からくるものでもない。
故郷の家族や友達のことを想ってナイーブな気持ちになることはあるけど、そういう寂しさとも違う気がする。
一言で言うなら「これ」は多分、喪失感だ。
つい先ほどまで、確かにこの胸の中に居たはずの誰かが
目が醒めるまで、確かに自分を抱きしめてくれていた誰かが
まるで一夜の夢のように片付けられる。
まるでシャボン玉のように弾けて消える。
そうして自分だけがこの部屋に置き去りにされたような、そんな感覚。
目を覚ました時にはもう、何に対して喪失感を覚えるのか。なんでこんなに一人でいる事を寂しく感じるのか。どちらもさっぱり分からずただ空しさだけが胸に残り、ベッドの上で項垂れる。
ここに――カルデアに来る前までは、無かった事だ。
――人理継続保障機関――フィニス・カルデア――医務室――
「んー……少なくともバイタルの方に問題はないんだけどなぁ。メンタルにダメージがあるのは間違いないみたいだけど、それだって別段、魔術絡みの云々があるわけじゃ無かったよ。まぁ君が不安になるのは分かるけどね。ついこの前まで七日も寝たきりで、しかも精神は監獄塔って所に閉じ込められてたって言うんだから」
手元にあるカルテを眺めながら「
本来プライベートでもない限り医者が患者の前で、それも診察中に飲み食いをするなんて非常識極まりないのだが、藤丸立香はさほど気にしていない。
ロマンの激務を知っているというのもあるが、この男の気さくかつ馴染み易い雰囲気と声色が、小さな事を気に止めさせなくしている。……と言うのは建前で、この男。頑なな雰囲気になる事が殆ど無く、緊張感も無いためか、まったく医者に見えないのだ。少なくとも、大病院の院長とかには向いていないと思う。某アイドルユニットのグッズやCDが、当り前のように医務室に置かれているし。
そんな医者要素が身だしなみと白衣だけの男ロマニは、インクが切れかけのボールペンを掴みながら藤丸立香に語りかける。
「なんだっけ? その――喪失感? を覚えるようになったのは最近の事かい?」
小さく首を横に振る。確かにカルデアに来てからではあるけれど、最近の事じゃない。あの忘れもしない最初の事件があった時から、時々ではあるけれど寝て起きた時に感じるようになった。
「『ビターエンドの恋愛映画を見た後みたいな空しさ』『小さい頃とても大事にしていた人形を無くしたような喪失感』ね。うーん。君、実はエッセイとか見る人だったりする? ああいや、ごめんごめん。両方とも詩人みたいな例えだったからつい」
ロマンは藤丸立香から聞き出した心情を、カルテにつらつらと書いてゆく。傍目に見てて思うが、どうして彼はカルテにあんな出来損ないのヘビみたいな文字を書くんだろう。後から見直す時に困らないのだろうか。
自分だけ分かれば良いというあれか? いや、確か昔通っていた病院の医者も、同じような文字でカルテに書き込んでいた気がする。医療関係者だけが分かる文字なのかもしれないし、本人達が問題無いなら良いか。
「……自分じゃ自覚していないカルチャーショックやホームシックから来る心労の類い、って普通は言うんだろうけど……なにせ君の事だしなぁ。僕達でも観測出来ないレイシフトの弊害だったら怖いよねぇ。ほら。なんたって君、世にも珍しいレイシフト適正率100%な人材だし」
アハハ、と暢気に笑うロマンに対して流石にムッときて、若干眉を潜めて睨み付けてやった。すぐさま視線に気付いて「……ごめんなさい」と謝ってきたため不問にする。
「
小難しい話を掻い摘まんで話すと、
ある魔術師の一族を中心として、魔術と科学の粋を交差させて造られた、2016年における人類の英知の結晶そのものである。(なお魔術の事を知らない人達にとっては既に未知かつ、想像を絶する超技術)
そして、何の因果かそのレイシフトにおける霊子変換(実際に人間の肉体を分解して、過去に投影出来るようにする事。滅茶苦茶危険)成功率100%というお偉いさんもビックリな数値を叩き出してしまった「一般人」こそが、藤丸立香だ。
近所でやっていた献血に気まぐれで参加した所をとある男(その時は知るよしも無かったが当然魔術師)に「頼みがある」と家の前までつきまとわれ、仕方なくその「頼み」とやらを承諾してみれば、待っていたのはアイマスクとヘッドフォンを被せられてこの標高6000メートル級の山脈にある
挙げ句の果てに、色々ととんでもない……他人は勿論、過去の自分に話しても到底信じて貰えなさそうな大事件に何度も巻き込まれ、様々な責任や重圧を背負い込む事になるのだが……。藤丸立香自身でも不思議な事に、なんとか乗り越え続ける事が出来ている。
これも偏に、Dr.ロマンや後輩の彼女をはじめ、カルデアのスタッフや『みんな』が自分に力を貸してくれた、支えてくれたおかげなのは間違いない。
間違いないのだが……。
「と、とにかくだ。精神安定剤と睡眠薬。それからリラックス効果のある薬用ハーブティーを出しておくよ。……さっきは思わず茶化しちゃったけど、本当に僕らじゃ観測できない類の異変である可能性は完全に否定出来ない。もし具合が悪くなったり、異常に眠くなったり……少しでも「変だな」って感じたらすぐに言うんだ。良いね?」
返事と一緒に頷いて、藤丸立香はゆっくりと椅子から立ち上がる。ロマンに一礼をして、医務室から出ようと扉の横にある開閉ボタンを押した時だった。
「……正直ホッとしてるんだ」
ボソリと。呟くように背中から聞こえてきたロマンの声に、藤丸立香は医務室から出ようとしていた足を止めて後ろをふり返る。
椅子に座ったまま俯いているからあまりよく見えないけれど、彼の表情はある種の愁いを帯びているように見えた。
「君に色々な物を背負わせている僕に、こんな事を言う資格があるかどうかは分からないんだけど……」
しばらくの沈黙の後、ロマンはゆっくりと言葉を漏らすように綴る。
「バイタルもメンタルも、観測上は常に平常値で問題なし。特異点に行く前も行った後も、彼らの事情や我が儘に巻き込まれた時だって、君の心と体に異常は無かった。だからかな? 逆に不安でさ……。ああいや、別に君に隠している問題があるとかそういう話じゃなくてね?」
話し辛いと言わんばかりに再び沈黙したロマンは、もう大分温くなってしまっているであろうマグカップに残っていた珈琲を一気に飲み干すと、顔をあげて言った。
「……なんの問題もなく乗り越えられちゃうんだなって、そう思ってただけだからさ。ほら、よくあるでしょ? 上手く物事が進みすぎていると、逆に不安になっちゃうあれだよ。ちゃんとした理由があるなら別なんだけど……」
あまり良く分からないが、要するに「問題が無いのが逆に問題」というあれだろうか。体の方は「みんな」や世界一可愛くて頼りになる後輩が申し訳なくなるぐらい真剣に護ってくれるし、心の方も美味しい食事やふかふかのベッド、それから謎の小動物をモフる事で毎日癒やされている。
夜遅くまでゲームに付き合ってくれる人もいれば、色々な事を教えてくれる先生みたいな人、厳しくも的確なアドバイスをくれるお節介焼きな人もいる。
未熟な自分を気に掛けてくれている人がこれだけいるのだ。異常や問題が起きなくても何ら不思議は無い。というのが、藤丸立香の見解だった。そもそも「異常」なら割と頻繁に起っているではないか。どれも外部的なものではあるが。
「……君がそう言うんなら良いけどね。まぁなんだ。兎に角、君がこうやって悩みや不安を僕に訴えてきた事なんて無かったから、嬉しくてさ。同時に不思議に思っちゃったんだよ――」
「 」
――続けてロマンが言ったその言葉を、藤丸立香はあまり良く覚えていない。
――食堂へと続く廊下――
カルデアの曲線を描いている廊下を歩きながら、藤丸立香は今日の昼ご飯について考えていた。
朝、眼が覚めると久々に、それも過去最大級の喪失感と空しさを感じたから、初めて自分以外の誰かにこの訳の分らない感覚について相談しようと朝食も食べないでDr.の元へ行ったら、なんかいつも以上に精密な検査をされるはめになってしまい、時刻はもう十二時ちょっと前。Dr.や医療班の人達が身を案じてくれるのは凄くありがたい事だと分かってはいるが、それでも少々大げさではないだろうか。むしろ今は心労よりも空腹で倒れそうになっている藤丸立香である。
「……お腹減ったなぁ」
もう腹の虫が疼いて仕方がない。某王様達ではないが、今なら特盛りの定食でも軽く食べられてしまいそうだ。帰り際にDr.がくれた小粒のチョコレートは焼け石に水どころか、食欲を邁進させてしまう結果をもたらしていた。
さて何を食べようか……カレーライス、ラーメン、うどん、パスタ、サンドイッチ……あとは――
「――あ、先輩!」
「そう、あとせんぱ……先輩?」
「先輩」と自分を呼ぶ人物は今の所一人しかいない為、声を掛けてきたのが誰かはすぐに分かる。
それは、可愛らしく淑やかな声色をしている女の子だった。
歳は……十五か十六といったところ(正確な年齢は事情があって知らない)。髪はショートロングで、色は薄めのピンク。服装は、学生服と研究者の服と女子用の私服をごちゃ混ぜにしたような感じ。黒いタイツと茶色のスニーカーを履き、眼鏡を掛けている。
まさしく年頃の女の子と言った具合だ。学校のクラスでいう「目立たないけど秘かに人気がある文学系少女」という立ち位置がピッタリ合いそうな子。
「マシュ」
名前を「マシュ・キリエライト」ちょっとした理由があってカルデアの新人である自分の事を先輩と呼ぶ、少し不思議な女の子。藤丸立香が心から誇る、自慢の後輩だ。
「はい。……あの、先輩。今日は朝からDr.の元に行っていると聞きましたが、もしかしてお体の具合が悪かったりしますか? 何か異常があったりしたのなら私にも――」
大丈夫、ちょっと相談をしに行っただけだから。はにかみながらマシュの方を向いてそう言う。
その言葉に込められていたのは、可愛い後輩に心配を掛けまいとする先輩としての意地と虚栄心。そして、「この」事情にはあまり踏み込んで欲しくないという、若干の拒絶の意。
……自慢じゃないが、藤丸立香という人間にとって、マシュ・キリエライトは特別な存在だ。一番最初の大事件。あの燃えさかる街を共に乗り越えた時から――いや。初めてこのカルデアの廊下で出会ったあの時から、彼女は自分にとって唯一無二の大切な後輩だった。
邪竜がひしめき合い、人々を蹂躙するフランス。歴代の皇帝が、自らが造りあげた王国を滅ぼさんとしていたローマ。
荒れ狂う海を、馬鹿みたいな笑い声を上げて倒破していく愉快な海賊達がいたオケアノス。魔霧に覆われ、何も見えない、何も分からない、そんな状態でも勇猛と異変に立ち向かう騎士がいたロンドン。
その他にも、宇宙にコロッセウムにチェイテ城(と言う名の何か)に鬼ヶ島にマンション(同じく、と言う名の何か)……小さな物や「みんな」の事情に巻き込まれた事を含めれば、もう数え切れないほど色々な特異点を、苦楽を共にして乗り越えてきた。
最早彼女がいない日常なんて考えられない程に、藤丸立香の中で大きな存在となっている。具体的に言うと、3割ぐらいはマシュの為に戦っていると思う。特異点の修復だとか、人の理を護るとか、未来を取り戻すとか。藤丸立香は、そんなご大層な目的を心の支えにして前に進めるような
……そんな、大切な後輩であるマシュにでさえ、今回の事を相談するのは躊躇われた。前述したように、決して彼女の事が信用出来ないだとかそういう話ではない。
自分でも上手く説明出来ないが、「これ」はあまり大っぴらに誰かに相談してはいけない物だと思う。迷惑が掛るからとか、解決出来ないだろうとか、そういう話でなく、藤丸立香の直感として、そう思う事ができた。
「……そうですか。分かりました」
こちらの言葉に含まれている物に気付いたのか、ちょっぴり残念そうな表情を浮かべつつも彼女は退いてくれた。相変わらず聡く、そして気遣いが出来る子だと思う。そんな彼女に少しばかりとは言え悲しそうな顔をさせてしまったと言う事実が、チクチクと胸を刺してゆく。
「でも、もし具合が悪いだとか、痛いとか苦しいとか――そういう事が有ったらすぐに言ってくださいね? 体の事だけじゃなくて、ちょっとした悩み事や些細な事でもお任せください。このマシュ・キリエライト。全力で先輩のサポートをさせて頂きます!」
元気よく自分に対して宣誓してくれたマシュにこちらも頷いて笑顔を返した時だった。ぐぎゅるるるるる~……と、唐突に腹の虫が鳴いた。
一瞬の静寂が訪れた後、藤丸立香の顔は若干紅く染まり、目線はマシュの顔から瞬時に逸らされる。彼女は一瞬キョトンとした表情をしてはいたが、すぐさまクスクスと笑い出した。
「ご、ごめんなさい。今の先輩にとっての悩み事は、空腹を満たす事のようですね。――食堂に行きましょうか。今日の食事当番は確かキャットさんでしたから、きっとお腹いっぱい食べられるような野性味溢れる物が――」
彼女に先導されるように、藤丸立香は食堂に向かって歩き出す。なんにせよまずはこの腹の虫を収めなければ、先ほどの恥を上塗りしかねない。
――カルデア――食堂――
「ほい! Fランチ2つとAランチ1つ上がりだぞ!! 次ぎ、T定食1とEランチ3入るのだわん!! なに? メニュー表に書いてあった小鉢と違う? 知らん。そんなのはキャットの管轄外だ」
今現在、カルデアの職員や「みんな」にとって、食事は数少ない癒やしの一つだ。こんな状況下なのだから無理もないが、自分達においしい料理を提供してくれる彼らの人気と地位はかなり高かったりする。
多少理不尽な言い分やお願いなら割とあっさり通ってしまう程度には、権威があった。(某食事が大好きな騎士王が、割と従順に彼らに従ったのが始まりである。単に食事抜きにされるのがいやだっただけとも言われている)
そんな彼らの中でも……いや、彼らどころの騒ぎではない。割と色物揃いの仲間達の中でも更に濃い、色物中の色物。赤を基調とした巫女装束(正確には巫女装束ではないらしい)を身に纏い、その上から白と黒のメイド服を着て、更にそこへフリフリの可愛らしいエプロンを装備。
それだけならまだ良いものの、普通の耳だけに飽き足らず紅い髪を丁寧に整えた頭からは二つの猫耳がピョコンと生えていて。手と足は何がどうなっているのか、動物のようにモサモサな毛とプニプニした肉球があり。挙げ句の果てには尻の付け根辺りから、犬のようなふさふさとした尻尾が生えていた。……驚くなかれ。これら全てが
名を「タマモキャット」。特技は料理洗濯掃除にご奉仕。語尾に「わん」を付けて話す、人だか狐だか猫だか犬だかよく分からない生物である。
「ん? おお! ご主人にマシュ嬢ではないか!! すまないが皆の衆、今まで受けた注文は全て一時ストップさせてもらうわん!!」
食堂にいる人達からそこそこのブーイングが上がるものの、強く彼女に物申す人物はいない。彼女に強く言える人物がこの場にいない為か、はたまた狂気を孕んだ存在である彼女に何を言っても無駄だと分かっている為か、そうでなければ彼女が優先しようとしているのが藤丸立香の事だからか。
「あの、キャットさん。毎度言いますが私と先輩が来る度に皆さんの注文を中断しなくても……」
「キャットはご主人のキャットだぞ? 他人の奉仕よりもご主人への奉仕を優先するのは当然の事だ」
毎度毎度何か言ってもこれだ。藤丸立香が関わらなければその愛らしい顔と衣装、奉仕精神も相まって結構人気が高い存在なのだが……。
一度、総料理長でありカルデアのオカンと名高い彼(彼女の誤字にあらず)と、同じく料理長補佐でありカルデアのママと名高い彼女になんとか出来ないかと説教をお願いしても、まるで効果無し。
説得(拳)まで使うはめになったのだが、哀れ膨大な魔力の固まりを7つも所持し、己の限界を超えた強さを発揮する彼女に為す術無く敗れ去った。
結論として「そこまで害が無いなら放っておこう」という事になる。なんにせよ、藤丸立香の言う事なら大体聞くわけだし。
「それでそれでご主人。何を食らいに来たのだ? ワイバーンor海魔? キャットとしては今朝活きの良いバイコーンの肉がだな……」
ビーフorフィッシュの要領でとんでもない物を食べさせようとするのは止めて欲しい。ワイバーンはまだ兎も角、海魔はちょっとシャレにならない。黒焦げになるまで焼いても普通にピクピク動くし。
お腹はすいているけど朝食を抜いているから、お腹に優しくて尚且つ沢山食べられるものを。と簡単なリクエストを告げて、マシュと一緒に空いているテーブル席に座る。
「あはは……キャットさんは相変わらずですね……特異点Fの時から力を貸して頂いている最古参の方ですけど、余程先輩の事が大切みたいです」
……そうだ。例外のマシュを除いて、自分の要請に一番最初に答えてくれた五人の内の一人。それがタマモキャット。力も知恵も無い自分に力を貸し続けてくれるどころか、身の回りの世話までやってくれようとしている彼女に、藤丸立香はなんだかんだ甘い。
本当にありがたい話ではあるのだが、一体自分のどこがそんなに気に入ったのだろう。藤丸立香がキャットの為に出来る事と言ったら唐突な無茶ぶりを聞くか、出された料理を残さず食べるか、頭や背中を撫でてやる事ぐらいしかないというのに。
まぁ野性味溢れる彼女の事だ。自分達には理解できない気ままな……それこそ動物のような感覚なのかもしれないと独り言ちる。
「あら。マシュがそれを言う?」
甘いハチミツのような。されどクドさを感じさせないその声の持ち主は、いつの間にか藤丸立香の隣の席に座っていた。
フリフリのレースが所々にあしらわれたオレンジ色のワンピースは、胸部と脚部が美しいそれを主張するように大胆に露出していて、下手に着飾ればモロに娼婦や水商売のイメージを相手に植え付けかねないが、彼女特有の程よい艶めかしさと巧みな話術。男は勿論、女でさえも手玉に取りかねないその陽の光のような雰囲気が、服の大胆な露出を嫌味無い物にしている。
かつて「陽の眼を持つ女」と言われた、人類史きっての凄腕女スパイ。
「マタ・ハリさん」
「こんにちは。マスター、マシュ。今からお昼でしょう? ご一緒させて貰っても良いかしら」
構わない。躊躇無く快諾した藤丸立香に彼女は柔らかな笑みを浮かべると、食堂に設置されているドリンクバーからオレンジジュースを三つ、グラスに注いで持って来てくれた。礼を言って受け取る。
「ありがとうございます。マタ・ハリさん」
「いいの良いの。そ・れ・よ・り・も。マスターに対して甘々なのはマシュもでしょう? 今日だってこの子が朝から具合が悪くてDr.に相談しに行ってるって分かった途端、キョロキョロと落ち着きなく廊下や資料室を歩き回っちゃって」
「な、なにを……!」
「なにをって、あなただってキャットに負けず劣らず、マスターの事を想ってるでしょうって話。良かったわねマスター、あなたを心配してくれる人は、あなたが思っている以上に沢山いるわ。勿論、私を含めてね」
ありがとう、とても嬉しい。最初の頃は彼女のこうした思わせぶりな仕草や言葉に結構惑わされたが、今や慣れた物だ。グイッと体を寄せて上目遣いでこちらを見上げてくるマタ・ハリに平然と、そして悠々と言葉を返す事が出来ている自分を褒めてやりたい。(と本人が思っているだけで、端から見ると明らかに顔が紅くなっている藤丸立香であった)
「……まぁ、沢山いすぎるのも、愛が強すぎたり個性的すぎたりするのも問題だけどね。ザ・マスター命の清姫ちゃん。「あなたの母です」でゴリ押す気しかない頼光さん。いつでもどこでもマスターを見ている(気がする)静謐ちゃん……」
「戦いの度に魔物の首を苅って献上してくる牛若丸さん。えっと……こ、好意が個性的かつ分かりにくい物が多いジャンヌ・ダルク・オルタさん。先輩をお母さんと認識しているジャックさんに、セクハラ勢筆頭のダビデさん。先輩を護る決意が強すぎるヘクトールさん。色々とその……重い気がするアルジュナさん……ど、どうしましょう先輩。先輩を心配してくださる人が多いのは良い事だと思いますが、ここまで個性的な方が大勢いると不安の方が圧倒的に……」
押しと個性が強い仲間達の名前を次々に出していく二人に対し、今更だから。と笑って告げる。あれ、何故だろう。悲しくもないのに眼から涙が零れそうだ。
「ま、まぁ何にせよ。これだけ大勢の人があなたの為にカルデアにいるんだから、どうでも良いような小さな事でもドンドン誰かに――」
「お待たせしたなご主人! キャット特性、和風ステーキ御前(特盛り)だ!! ジャポネギソースとフルーツソース。好きな方を掛けて食べるが良い!」
ドスン! という大きな音を立てて調理場からやって来たキャットが藤丸立香の前に置いたのは、0.5ポンドはあるかという巨大な肉の塊を焼いて、一口サイズに切った物だった。付け合わせとして肉と同じ熱々の鉄板に盛られているのは、よく有る皮付きのまま櫛状に切られた焼きポテトと、同じ要領で皮付きのまま焼いたリンゴ。そしてしっかりと飴色になるまで炒められているのにも関わらず、クタクタにならずに原形を保っている玉ねぎ。
それとセットで付いている味噌汁……いや、これは納豆汁だろうか。あの納豆独特の匂いが、僅かに漂ってきている。あとはキュウリ大根なすのぬか漬けに、山盛りの白飯だ。
……無言のまま、ドヤ顔を決めているキャットの方を向いた。きっと今、自分の顔は苦虫を噛みつぶしたようなそれになっているに違いない。
「……あの、キャットさん」
「どうしたマシュ嬢。ああ! マシュ嬢の頼んだサンドももうすぐ完成するからもうちょっと待っていろ! 四十秒で支度しよう」
「いえそうではなく! ……先輩は「お腹に優しくて沢山食べられるものを」と注文した筈ですが……確かにこれは沢山の量がありはしますが、お腹に優しいとは思えませんし、なにより食べきれるんですか……?」
「そうねぇ……凄く美味しそうだとは思うけれどマスターは朝から何も食べていないんでしょう? 思いっきりお腹がすいている時にいきなりこれはちょっと……」
「? キャットはこの程度朝飯前にペロリだぞ? あの騎士王達なら朝飯前前前だろうな」
「キャットさんのさじ加減!? それと、それは比較に出す人達が特殊すぎますから!!」
いや、もういいよ。キャットの事を理解していて安易で曖昧な注文をした自分が馬鹿だったんだ。藤丸立香はそう言って二人を制すると、山のような白飯を携えた巨大な肉の塊に箸を伸ばした。
「ほいマシュ嬢! キャット特製、辛ウマホットサンドだわん!! オススメは食べている途中で追いタバスコを……なに? 注文したのはクラブハウスサンドで、ホットサンドじゃない? ……細かい事は気にするな! どっちも似たような物だからな!! マタ・ハリはブルスケッタの盛り合わせと、スズキのアクアパッツァだ! ……そもそも私は何も頼んでないだと? 安心しろ。キャットの気まぐれサービス(料金は取る)という奴だ!!」
ほら見ろ。細かい事を気にしているとキリが無いぞ二人とも。
――廊下の隅にある休憩スペース――
……食べられちゃったなぁ……
「食べられてしまいましたね。それも、かなりあっさりと……」
昼食を終えて食堂を後にした藤丸立香とマシュ、そしてマタ・ハリは、廊下の端っこにある小さな休憩所のベンチに座っていた。
元々あった自販機の側にベンチを二つ置いただけの簡素な休憩所であるそこは、多少狭くとも人の交通も邪魔をする事が無く何より目立ちにくい為、こうした他愛の無い、しかし親しい間柄以外に大っぴらに聞かせる訳でもない話をするにはもってこいの場所だった。
「マスターって元々、そこそこ食べる方だったけど……流石にあの量を食べる事が出来るっていうのは知らなかったわね」
どちらかと言うと、キャットの腕が良かったからだと思う。肉の余計な脂肪や筋はしっかり取り除かれていたし、何より赤身が中心で脂肪が少ない部位だったからクドさが無かった。曰く、タンパク質分解酵素のあるリンゴの絞り汁に十五分ほど漬け込んで、柔らかくジューシーに仕上げていたらしい。フルーツソースにも使われていたが、リンゴには胃腸の調子を整える効果もあるから、一応彼女なりに自分の事を気遣ったメニューを考えてくれていたのだろう。納豆汁もぬか漬けも、文句の付けようがないおいしさだった。
流石はカルデアの最古参の一人にして副料理長。
彼女を成立させている霊基がそうだからか、はたまた主である藤丸立香を想うあまりか、もしくは彼女独自の天然か、基本的に暴走(主に人の話を聞かない)しがちな部分はあるが。
「けど大丈夫? 流石に苦しいんじゃないの?」
心配そうにこちらを覗き込んできたマタ・ハリに、心配要らない。と若干無理して笑いかける。あれだけの量をたいらげる事ができはしたが、全て胃の中に収める事ができても藤丸立香の胃の容量は変わらない。キャットが出してくれた料理はとても美味しくて食べやすく、そして量が多かった。そういう注文をしたのは他ならぬ自分なのだが、少々食べ過ぎてしまったようだ。
それに、どちらかと言うと今は……
「そう? なら良いんだけど……って、なんか眼がパシパシしてるけど、眠いのかしら」
「先輩は今日朝早くからDr.の元へ行っていたみたいですから……寝付きも悪かったって言ってますし、部屋に戻ってお昼寝などされてはどうでしょうか。丁度、良い時間帯ですし、今日はレイシフトの予定も無いですから」
そう。空腹が満たされたと思ったら、今度は睡魔が襲ってきた。頭が上手く働かず、体も、何だかふわふわとしているような気がする。食べたら眠くなるのは人間の体の構造上仕方のない事とはいえ、何だか小さな子供みたいで少し気恥ずかしい。
「ほら、無理しないで良いですから。おやすみなさい、先輩」
ああ、でもダメだ。マシュに何か言おうとしたら、今度はあくびまで出そうになった。先輩としてのプライドで必死に噛み殺したけれど、恐らく限界が近い。
二人に軽く礼を言うと、藤丸立香は一人食堂を出て自室へと戻る。今は何よりも、ふかふかのベッドが恋しかった。
「……」
「あら? 着いていかなくて良いのかしら。部屋で膝枕――まで行くかどうかはさておき、マシュなら最低でも部屋の前までは送ると思ってたんだけど」
「ひ、膝枕……ですか。魅力的ですし、正直着いていきたい気持ちは山々なのですが……先輩には予定が無くとも、私にはありますから。Dr.とシミュレーションルームの事について少々」
「あら残念。なら私がしてあげちゃおうかしら?」
「……!! さ、サーヴァントの誰かにも出来れば手伝って欲しいとDr.が言っていましたので、出来ればマタ・ハリさんにもおつきあいして頂きたいのですが如何でしょう!?」
「うふふ、冗談よ。あ、でも側にいてあげたいなって言うのは本当ね? あの子、意外と寂しがり屋な所があるから」
「寂しがり屋……? 先輩が、ですか?」
「えーっとね。正確には寂しがり屋と言うよりは……そうねぇ。深夜に寂れた酒場のカウンター席……一番端っこに座って、一人でウィスキーを飲んでるまだ若いのに老けて見える人……みたいな? そういう、ちょっと侘しげな大人の雰囲気を強く醸し出す時があるのよ、あの子」
「そうなんですか……? 私はそんな雰囲気を漂わせている先輩を見た事なんて一度も……」
「そりゃそうよ、常日頃から可愛がっている後輩の前ですもの。少しでも自分を大きく見せたい子の前でそんな弱い部分に繋がりかねない所、そう簡単には見せられないわよ。あの子にもプライドってものがあるだろうし」
「……」
「……前に一度、気になって聞いてみた事があるの。ほら、自分で言うのもなんだけど私って諜報が得意でしょう? マスターであるあの子にまでそれを向ける気は無いけれど、気付いちゃった以上は聞いておきたかったし。お茶に誘って、他愛ないお喋りをして……ちょっと良い雰囲気になった時に。「なんであなたは時々寂しそうな顔をするの?」って」
「……先輩は、なんて?」
「自分でも分からないって言ってたわ。時々、無性に悲しくなったり寂しくなったりする事があるんですって。まぁそれだけなら普通の人でも時々なるかもしれないけど、あの子の場合はちょっと違う気がするわ。だって続けてこう言ったもの
「ああでも、もしかしたら――――
「自分の側に、誰もいないからかもしれない」ってね」
――カルデア――藤丸立香の自室――
ウィイイイイン、という小さな駆動音を立てて開かれたドアを尻目に、藤丸立香はゆっくりと部屋の中へ入ってゆく。
部屋の大きさは、一般的なマンションのリビングとほぼ同程度。中にあるのはギリギリ二人並んで寝られるかもしれないという中途半端な大きさのベッドと、小さめの本棚。いくつかの書類とノートパソコンが置かれているだけの机に、数本のミネラルウォーターが入っているだけの小さな冷蔵庫という、なんとも寂しい、殺風景な部屋だ。小さい頃は親にせがんで買ってもらった人形やおもちゃ。それから自作の工作やらなんやらが乱雑に置かれていたような気もするが、歳をとるにつれてドンドンと捨てられ、部屋は綺麗になっていった。当り前と言えば当り前かもしれないが、カルデアに来てからは物を部屋に置く余裕なんてなかったから、藤丸立香の人生史上もっとも殺風景な部屋と言える。
再び自動で閉まったドアの開閉音が止むとほぼ同時。ベッドへと辿り着いた藤丸立香は、力尽きるかのように倒れ込んだ。
頭がこれ以上ないほどボーッとしている、体中の細胞が眠い眠いと叫んでいるかのように感じられた。
特に抗う気も理由も無かった為、藤丸立香はそのまま眼を閉じようとして―――
『「――――そこで、目が覚めた」』
――まるで夢から現実に戻ったかのようなハッキリとした、でもどこかまだ夢を見ているかのような感覚のまま「俺」はベッドの中で誰かを抱きしめていた――
――まるで夢から現実に戻ったかのようなハッキリとした、でもどこかまだ夢を見ているかのような感覚のまま「私」はベッドの中で誰かに抱きしめられていた――
示し合わせたかのようなタイミングで、パッチリと彼女/彼と目が合う。
綺麗に紅葉した椛みたいな紅い髪。とても高いトパーズのような、いつまでも見ていたくなる金色の瞳。自分と一緒の、カルデア式魔術礼装。しっかりとした、でもやっぱり柔っこくて華奢だと感じる女の子の体。
丁寧に整えられた濡れ羽色の髪。とても綺麗な海みたいで、奥へ奥へと引き込まれそうな蒼い瞳。自分と一緒の、カルデア式魔術礼装。みんなと比べると細く、でもやっぱり力強くガッシリと感じる男の子の体。
そこまで確認して、藤丸立香はようやっと自分の身に起きている事を自覚する。――ああ、自分は今ベッドで異性を抱きすくめているのだと。
「……」
「……」
ハッキリと言おう。今抱きすくめている、恐らくは自分と同い年くらいであろう異性の事を、藤丸立香は知らない。会った事はおろか、見た事すら無い。――彼/彼女は一体誰だ? なんで自分と同じ「カルデアのマスター」しか着る事が出来ない礼装を着ている? と、藤丸立香の脳内が当然の疑問を提唱し始める。
そもそも、ここは間違いようもなく自分の部屋(の筈)で、彼/彼女は勝手に自分の部屋へと侵入してきた不埒者に違いなく、本来であれば今すぐに飛び起きて数多の疑問と共に相手を糾弾めいた口調で問い詰めてもおかしくない。
――しかし。彼らは互いを抱きすくめた状態のまま動こうとしなかった。起きたばかりのような気怠さと夢のようにおぼろげな感覚があるとは言え、少し前までとは違い脳はシッカリと動いているのに。
何故だろう、これが夢だからだろうか。
どうしてだろう、これが現実だとしても。
彼女を離す気にはなれない。
彼をはね除ける気にはなれない。
このままずっとずっと、彼女を抱きしめていたいと願ってしまう。
このままずっとずっと、彼に抱きしめられていたいと思ってしまう。
――永遠にこの時間が続けば良い、そんな風にすら思える。理性でも理屈でも心の奥底でもなく……本能。自分の根源にすら近い部分が、これ以上無いほどにそう思ってしまっていた。
「……んっ」
ギュッっと。ゆっくり、されどシッカリと彼が私を、まるでそこにいる事を確かめるような感じで優しく抱きすくめる。理性や理屈が「いや色々おかしいだろう。こいつはうら若き女の子の部屋に不法侵入してきた素性の分からない謎の男Xだぞ」と
ポカポカと、まるで春の陽光のような優しい暖かさが全身に広がってゆく。……自覚してはいたが、私はここまで人肌という物に飢えていたのだろうか。
「……」
……つい、思わず、そうせずにはいられなくて。そんな言い訳じみた衝動と共に彼女の体を抱きしめてしまい、我に返って慌てる直前。むぎゅっと。彼女は俺の背中に回した腕に力を込めて、より密着するように抱きついてきた。それどころか、胸板部分に顔をグイグイと押しつけてくる。
その仕草がどこか実家で飼っている猫に似ていたからだろうか、背中に回していた手を彼女の頭へと移動させて、あやすように撫でてしまう。抱きしめた時と同じで、抵抗はなかった。自惚れにも程があると分かってはいるが、彼女はどこか幸せそうな顔をしているようにすら思う。……自覚してなどいなかったが、自分はここまで軟派な男だっただろうか。
カルデアに来てから――いや、今までの人生で一番と断言して良いほどに、藤丸立香は安らぎと心地よさを覚えている。
そうしてどれほどの時間が経っただろう。一時間か、二時間か。一秒と経過していないような気もするし、もう何日もこうしているようにも思える。
最初に目が合った時と同じ、まるで示し合わせたかのようなタイミングで互いの口が開いた。
「君は――誰だ?」
「あなたは――誰?」
俺は――
私は――
「「藤丸立香。人理継続保障機関・カルデア唯一のマスター」」