あたたかい。
穏やかに、こぽこぽと湧き上がる泡の音が聞こえる。
静かな気分で目を開けると、目の前に腹を上にして浮かぶ紫の魚がいて、俺は思わず声を上げる羽目になった。
……死んでるのか?
「うわっ」
「んー?」
目の前の魚は死んでいるわけではなかったようで、俺の声に反応してもっそり動き出す。ウソだろ、あれで寝てたのか? 水槽で死んだ金魚そっくりだったってのに。
その、なんともいえない人面魚のような顔のそいつは、俺を見るとそこはかとなく嬉しそうな顔をして、俺の「ヒレ」をつついた。俺は得体の知れない存在を警戒して、思わず「ヒレ」を引っ込める。
すると、そいつはさっきまで浮いていたとは思えない俊敏な動きで泳ぎ始めた。なんだこれ。
「海賊王が目を覚ましたよ!」
「は?」
お姫さんの声だ。どこから? いや、どう考えても目の前の魚からだ。だが俺は現実を受け入れたくなくて、必死にお姫さんの姿を探す。もちろんいない。
きょろきょろしているうちに、お姫さんらしき魚の声に釣られたのかやたらと人相の悪い人面っぽい魚の群れが……部屋、なんだよな? 当然のように水に満たされた部屋らしい俺のいる場所に流れ込んできた。
なんとなく、見覚えのあるような顔をした魚たちだ。はは、マジかよ。
しかも、俺も魚かよ。
「お頭! お怪我の具合はいかがっすか!」
「お頭! やっと目を覚ましたんすね!」
「お頭!」
人相の悪い人面魚たちに口々に心配されればなんとなく思い出しもする。あのひでぇ嵐の中、俺たちは……どうやったのかわからないが、どうなったのかもわからねぇが、助かったんだと。
そんで、お姫さんもろとも元気にピチピチ魚になってると。お姫さんはどことなくニコニコしながらそのへんを嬉しげにスイスイ泳ぎ回っている。
あれは……鯉なのか? いや、鯉があんな顔をしてるものか。なんなんだあの魚は。
なるほど。あれは他人、いや他魚だよな? 他魚の空似に過ぎないんだよな? 嵐の中投げ出されると人が魚になるのか? 意味がわからない。
だが事実、俺の体から生えているらしいヒレは動くし、ヒレを野郎どもが突っつくと確かに感覚がある。おいおい、そんなにつつくな。
「海賊王! あのね、僕たち海底王国の女王様に魚にしてもらって無事だったんだよ、それでさ、」
「……あぁ悪い、最初から、一から説明してくれないか」
他魚の空似ではないらしい。確かに紫の魚からお姫さんの声が聞こえてきた。魚の喉でどうやって喋ってんだ?
だが、だよな、もう顔がなんともいえないレベルでお姫さんだしな。あの目、あの表情。たしかに。だが、なんだか丸くねぇ?
それからお姫さんは、俺の周りをクルクル泳ぎながら説明した。
嵐の中、結局投げ出されたのは結局二人では済まなかったらしい。というか、誰ももはや真実はわからないが、全員ここにいることからあの船は最終的に沈んだんじゃないか、と。
そんで、助かった理由といえば、お姫さんは「大樹の愛し子」という存在らしく、つまり、言ってみれば、それはローシュ伝説の勇者の力みたいなものだと。腹にある不思議な紋章を見せてくる。人間の姿だと左手にあるやつか。
お姫さんが大樹の愛し子。これは周知の事実だな。ユグノア王家に伝わる大樹の至宝とは、美姫という意味よりも、むしろもともとはそのことだ。本物が生まれたのはローシュ以来らしいが。
十六年前は世界に何も異変がないのに「勇者」が生まれたのかと随分騒がれたらしいな。勇者がいるなら魔もどこかで……ってな。邪神の復活か? ともな。
だが、大樹のお告げとかいう言葉が聖地ラムダからもたらされ、世界に危機は起きていないし、邪神亡き今、起きるはずもないのでお姫さんは単なる大樹の愛し子な若葉ちゃんであることがわかったと。
若葉ちゃんはその後、きちんと王子としてぬくぬく大事に育てられ、そしてこんな好奇心旺盛なお姫さんになったわけだ。世界は平和なこって。
とはいえ、俺も当時三つかそこらだ。詳しくは知らねぇが、時代が時代ならお姫さんは本物の勇者さまだったってわけだな。
大樹の愛し子、もとい「勇者」は生命の危険にさらされた時、なんらかの「奇跡」を起こして助かることがあるらしい。
そして、まさに俺たちには「奇跡」が起き、あの嵐で流されそうになっていることを、今俺たちがいる海底王国ムウレアの「女王」は手遅れになる前に知ることが出来た。
ムウレアってなんだ、海底王国なんて体力の限界が来て死にかけてる船乗りの戯言じゃねぇのか。言いたいことは山ほどあったが、とりあえず今はお姫さんから引き出せるだけ情報を引き出したい。
曰く、「女王」は水があるところをどこでも見ることが出来るとか。 すごいんだよ! 美人なんだよ! それからお胸がとてもぱふぱふでとってもでっかい! とお姫さんは主張した。王子への情操教育というか、慎みの心っていうのは教育できていないみてぇだな。
お姫さんも、なるほど立派な男児らしい。しかし俺はそれはスルーした。お前、顔に似合わずそういうとこあるよな。……今は、お姫さんの趣好に構っている暇はない。それよりも、気になるのは。
「女王」が俺たちを救った理由だ。いくら人間が溺れてると知ったからって救おうとするだろうか? 海底王国の女王なんて人間じゃないだろ。愛し子を救うのは俺には伺いしれない深い事情があるのかもしれねぇけどよ、俺たちまで救うなんて。
……だから「奇跡」か。水があるところなんてごまんとあるんだ、そもそも俺たちのことを知ってなきゃ、助かってないよな。
海底王国の「女王」は、大樹の愛し子には特別お優しいらしく、マヤは救ってくれなかったのに、海の藻屑と消えかけた俺たちをまず魔法で魚にして、水の中で呼吸できるようにしてから人魚たちに回収させたとか。
そして海底王国で保護されて今に至る、と。お姫さんは話し終えると目を覚ましてよかったと言った。
そしてそれがもうひと月は前の話、なんだと。いくら水の中で呼吸ができて死なないようにしてくれたとはいえ、あの嵐の中、揉みくちゃにされ、船の破片とも接触したかもしれないから……とお姫さんは言うと俺のことを突っつき始めた。
また生存確認か。もうなんともねぇって。
「本当になんともない? じゃあ女王のところに行こう。話したいことがあるんだよ、海賊王に」
「話したいこと?」
「きっとすごくビックリするよ。……すっごくね」
魚になんてなったことねぇから、よたよたとお姫さんの後ろを追いかける。しばらくもすれば体に泳ぎ方が染み付いているのかしゃんとしたが。
人相の悪い人面魚に囲まれ、青い目の魚を追いかけながら俺は人魚が泳ぎ、魚の顔をした人形の生き物が歩き、魚たちが通り過ぎていく、この世のものとは思えない光景をこっそり目に焼き付けた。
サンゴ、貝殻、時折光るのは宝石か?
それは美しく、まさにお宝と言える光景だった。
麗しき人魚の女王の隣。青い髪の少女を見ると、海賊王はまぶたのない目を剥く勢いで見開いた。
「マヤ……?」
やっぱり知ってるんだね。海賊王によく似ている彼女はマヤというんだね。僕のこと、魚の姿がうまそうだって追っかけ回す女の子。
「よう兄貴、やっと目を覚ますなんてネボーしすぎじゃねえの? ……シシッその青い鱗、似合ってるぜ!」
今の海賊王はキラキラ青く光るアジ。確かに似合ってるよね。俊敏に動き回りそう。
「お前、五年前に海に身を投げたんじゃ……いや、生きてたのか!」
海に身を投げた? 五年前?
海賊王の親しい人。兄貴って言ってたから、多分妹だと思うけど、よく似た顔立ちの少女。ロングブーツがかっこいい。男勝りで気が強くて、到底海に身を投げるような感じじゃないけど。追い詰められてやったんだろうか?
人は見かけによらないな。それにこの子、歩けないんだ。周りが水だから腕の力で泳いでるし、今は半分浮いてるから一見問題ないように見えるけど。
うーん、海賊王について詳しくは知らないけど、何かが違うような気がする。
でも、再会できて良かったね。僕の方までぽかぽかしてくる。それくらいわかりやすく喜んでた。
「あー、それ、それな。オレが自分の意思で海で死のうとするわけねーじゃん。まだまだ人生楽しみたいのに。
なんか、アヤツラテル? ってヤツ。なんかよくわかんねぇけど、呪いかなにか」
「呪い?!」
女王そっちのけの兄妹の再会。とはいえ女王の咳払いでやっと海賊王も我に返ったみたいだ。
「恩人に……失礼を。王子に助けていただいたと伺いました。あの嵐の中、船員全員を生かしてくださったこと、なんと言えばいいか」
こんな時だけ王子扱いか。僕は抗議したかったけど黙ってくるくる泳いだ。なんとなく水が重苦しい。
「礼には及びません。私は愛し子を救っただけ。愛し子が貴方を救おうとしたので、共に助けたというだけのことです。貴方の妹の件についてもこちらの打算として助けたにすぎません。その件については少し後にしましょう」
「ありがとうございます。……それでも、助けられたのです」
あっ。あの日のことがバレてる。怒られるかも。
「……お姫さん」
「なにかな」
「そういやあの日、なんで部屋から出て俺を引っ張りあげようとしたんだ?」
声が低い。
「えっ、君が落ちると思ったから」
魚の姿でスイスイ泳ぐのは気持ちいい。魚だから表情もわかりにくいよね。目をそらしながら言うと、脇腹を鋭く突っつかれそうになって慌てて避けた。
「もう、いいじゃないか。みんな生きてるんだ」
「……」
「言っておくけど、落ちるのが海賊王以外なら助けてなかったと思う。なんでだろうね、不思議だね。助けなきゃいけないって思ったんだ」
「……ま、今はいいか。助かったんだ」
逃げ回って泳ぎ回ってたらポンっと女王に人間の姿に戻されてしまった。丁重におじぎすると、海賊王も、船員の皆さんも次々と戻されていく。久しぶりの手をにぎにぎして、調子はバッチリだ。
相変わらず黒いコートをバッチリキメた海賊王は、もどっても少し不機嫌そうだったけど、今は妹の方が気になるよね。
意識がそれて助かった。なんで助けたかなんて、自分でもわからないんだから。
「マヤ、帰ろう。みんな待っている。お前の居場所はちゃんと残してある」
海賊王はどこか懇願するように言った。
「兄貴、オレ、地上に戻れねぇんだ」
妹は当たり前のことを言うように言った。五年って言ってたね。ここにずっといたんだよね。でも、それで、兄よりここを選ぶんだろうか?
僕は彼らにとっては他人に過ぎない。だから何も言えないけど、目をそらすことも出来ない。なにか、根拠もなく彼らに出来ることがあるような気がして。
「もしかして、この海底王国からは人間が入ったら最後、帰れないのですか?」
「そんなことはありません。あの船から落ちた皆さんは地上にお返ししましょう。ですが、彼女は戻せません」
女王はきっぱりと言い切った。
海賊王は、再会した妹の腕を離すまいと掴んでた。妹は困り顔をして、振り払えないけど戻る気もないという感じ。
「何故でしょうか?」
剣呑な目だった。妹のことを愛する君なら仕方ないと僕は何故か納得する。
女王は寛大で、何も気にした素振りはなかった。お母様とおじい様もこんな感じで、お父様なら怒ったふりをしながら自分の至らないところがあったのだろうと悩んでいるんだろうな、と早くも懐かしく思い出す。
「先ほど彼女が言ったように、海に見を投げるという行為をしたのは呪いのせいです。すくい上げた時点で既にそれは進行しています。
このまま地上に戻れば、彼女は物言わぬ黄金の像になるでしょう。そしてそれは周りの人間をも巻き込む可能性があるのです。私が彼女を助けたのは放っておけば海の民たちも黄金の像になってしまうと確信していたからにすぎません。
彼女のその足は、既に黄金となり、動かすことはできません。邪悪な呪いがどこから来ているのか……推測はできますが、解く方法はわかりません。
この呪いは不完全であり、進行は止められても解くことはできず、不完全ゆえに私の加護のもとにあれば生きながらえることができるのですよ」
「足が黄金に……?」
彼女は黙って掴まれていない方の手でロングブーツをずらした。肌色の足は、あるところから、金色に輝いていた。
だから歩けないんだ。
「私たちは彼女のそれを黄金病と名付けました」
首飾りをしていない少女は、赤い石のついた腕飾りをした腕を兄からそっと振り払った。
飾り石の外れた金色の首飾りをした海賊王は、しばらく何も言えなかった。