「すまない、失礼する」
「おう、後は任せとけ」
日が少し傾いたあたりの時刻にティルが執務室を去る。毎度毎度女々しいとは思うが寂しくなってしまう。
「何かあったのかねぇ」
普段から生真面目な彼女にしては珍しい早退の要望。その理由を何となく考えていたが、これといったしっくりくる答えは思い浮かばなかった。どうしても気になって彼女に直接訊いてみたが、彼女曰く「野暮用だ」との事。野暮用……更に不可解である。
暫く休憩がてらうんうんと唸っていたら、執務室に来客が。
「指揮官様、少々お時間をよろしいでしょうか」
「ああ、何か用か?」
規則正しいノックを鳴らした彼女はベルファスト。俺の性……いや、好みであるメイドの姿及び振る舞いをする艦船だ。容姿は無論のこと、メイドとしての腕も一級品だ。些細な仕草から身の回りの世話に至るまでを完璧にこなせる彼女に
「失礼します、
と凛とした声で呼ばれるのが、ティルとの毎日を過ごすことに次ぐ俺のささやかな楽しみであった。彼女がご主人様と呼ぶたびに顔が弛緩するのを自制しなければならないほど、それは心地よいものなのだ。ご主人様……いい、ね。彼女が来てからというもの、某電気街のメイド喫茶に足を運ばなくてもよくなった。
「んで、どうした?」
「ご主人様に明日贈るチョコレートを作るため、お好みの味を教えて頂こうと……迷惑でなければ、ですが」
「いやいや嬉しいよ!!……そうだなぁ」
彼女からの魅力的な提案に思わず声が上ずる。
そういえば、明日はバレンタインデーだったか……すっかり頭から抜け落ちていた。何せ、今まで女気なんてものはなかったもので、2月14日で意味するチョコレートとは縁がなかったのだ(一度士官学校にいたときに男に貰ったが受け取りを丁重にお断りしたので、これはカウントしないこととした「縁がない」という言葉である)。
そんな俺にも、ついにチョコレートを貰う機会が与えられたらしい。その上、ベルファストが、メイドさんが、チョコレートを俺の好みに合わせて作ってくれるというのだ、これを受け取らずしてなんというのか。
「そうだなあ、苦めのが好きかな」
「かしこまりました。それでは、失礼します」
「楽しみにしてるぞっ!」
「はい。ご期待に添えられるよう、尽力を尽くさせて頂きます」
メイドからチョコレートを貰う、俺の死ぬまでにやりたいことリストの一つが埋まった。
……それにしても、俺の好みを聞くためにわざわざ執務室まで来たのか。なんというか、尽くされているようで男冥利に尽きる、というか。彼女にはしっかりとお返しをしなければならない。
「それにしても……はぁ」
貰えたりしないだろうかと、淡い期待とそれに対する打消しの推量を込めたため息を一つ小さくつく。ベルファストから貰えるという確約があるのにも関わらず、ティルから貰うことを望む、というのは些か欲を張りすぎな気もするが、純情を守り続けている男としては好きな人からチョコレートを貰いたい、という思いはやはり拭いきれないのだ。
「……書類を片付けるとしますかね」
仕事を熱心にこなしたらご褒美としてティルから貰えるかもしれない、という希望的観測と呼ぶにも足らないくだらない妄想を糧にして、執務を終えて帰宅した。……明日が楽しみだ。早く帰ってベッドに横たわり、明日を早く迎えるとしよう。いや早く迎えたところで、実際の始業時刻は普段通りであるから結局何も変わらないのだが……そこは気分、というやつである。
X X X
「指揮官、そわそわしていないで仕事に集中してくれ」
「そわそわなんて……してないぞ?」
バレンタインデー当日。俺は貰えることが分かっているものと、望んでいるものに期待をはせていた。昨年までは今日という日を
「ならペンを動かしてくれ」
「了解了解っと」
仕事をすること数時間が経ち、昼時。ついに待ち望んでいたものがやってくる。俺にとっての、遅刻したサンタクロースがやってきたのだ。
「失礼します、ご主人様。チョコレートを……いえ、ここはそうですね……ハッピーバレンタイン、ご主人様」
普段は少し固い彼女が、くすりと茶目っ気を含んで微笑みながら手を差し出す。この時点でもうすでに俺の感情のボルテージは高ぶっているのだが、その上ピンク色の包装があることにより、
「ありがとう!ベルッ!!」
ゲージは壊れて感情があふれ出して声を張り上げる、という形によって放出されることとなった。仕方ないだろう、女性から、それも美女からチョコレートを貰うことがこうも嬉しいことだとは知らなかったのだから……感激である。
「ご期待に添えられたようで光栄です。それでは……あ、それと無礼を承知で。私から一つお願いがあるのですが、よろしいでしょうか?」
「おう!何でも言ってくれ!!」
「もう一つだけ、受け取ってほしいものがあるのですが……申し訳ございません。忘れてきてしまったようです……また後程お持ちいたしますので、待っていていただけますか?」
なんだと……チョコレートはさることながら、その上さらに俺にプレゼントを……俺は明日死ぬんではなかろうか。死亡要因が他殺になることは想像に難くない。
「そ、そうか……!ああ、待ってるよ!待ってるとも!!」
「ありがとうございます。では、失礼します」
一瞬ティルのことをちらりと見やり、彼女は執務室を後にした。
「人生初めてだ……うへへ」
今俺の顔を見たら9割9分9厘顔がニヤついてて、気持ち悪いことになっているだろう。自制したところですぐに顔が緩んでしまうため、もう諦めることにした。人生、初の、チョコレート……その事実と、ベルの茶目っ気ある渡し方を反芻して心を豊かにしていた。その甲斐あってか、今日の仕事は凄く早く終わった。因みに彼女のチョコレートは俺の要望通り、というか俺が望んだ味がそのまま体現されており、非常に美味しかった。美味しくて、嬉しかったのだが……
(結局、もらえずじまいかなぁ)
一番貰いたい相手からは未だに貰えずにいた。
X X X
そうして仕事が終わってもずるずると引きずって、執務室にいること数時間。遂にティルが執務室を去る時刻が来てしまった。
「も、もう帰る時間だな、ティル?」
淡い期待なんて抱くもんじゃないとは分かっていても悲しいかな、畢竟俺は人であり、それをやめることはできない。……今日は自棄酒をするとしよう。幸い明日の仕事は少ない、酒を浴びるように飲んで今日のことを水ならぬ酒に流して忘れることにしよう。二日酔いの頭痛は恐らく忘却を助長させてくれるだろう。
「ああ……そうだ、指揮官。忘れものだ」
やはり、期待というのは裏切られることが多いようだ。
「えっ……あ、えっ、これ……」
「また明日」
暫しの思考停止。そして再起動。情報を整理。
ダークブラウンの包装がされた四角い箱。
ピンク色のリボン。
少し漂う甘い匂い。
速足でここを出る彼女。
これらを統合して判断するに。
ティルが、チョコレートをくれた。俺が一番貰いたいと思っていた相手から、愛している彼女から、チョコレートを貰えた。そしておそらく、ベルが渡したいと言っていたものは……恐らく……!!
「ィィィィィィィィィィィィイヤッホォォォォォォォオオオオオオアアアアア!!!!!」
この俺の魂を全力で込めたシャウトは鎮守府に木霊し、小さな女王陛下がたいそう驚いたそうだ。その日の夜は結局、ティルのチョコレートを肴に酒を浴びるように飲んで、翌日は二日酔いの頭で出勤することになった。だが気分はそれはそれは良いものだった。……頭痛さえなければ。
「あ゛ー……頭痛ぇ……」
「酒は飲んでも飲まれるな、という言葉があるだろう」
「そうはいってもよ、嬉しくてつい、な……へへ、ありがとうな、美味かったよ、凄く」
「……私に礼を言う暇があったらペンを動かせ」
あぁ、酔っていてもわかる。顔を背けるのは彼女が照れたときにする癖だ。少しずつだが、距離が縮まっているようで非常に嬉しい。やはり、俺は彼女に心底溺れているようだ。以前よりも彼女という底なし沼にどっぷりとつかっているらしい。このまだ酔いが残っている状況に任せて
(愛している)
なんて言えれば更にいいのだが。
「うーい」
出てきたのは酔っぱらいの間の抜けた返事だった。外の桜はそろそろ咲きそうな気がしないでも、ない。