プロローグ
轟音が鼓膜を貫通していき、脳髄に叩き込まれる感覚が彼を襲った。長年、この戦場に身を置いてきた彼にとって、それは痛みではなく一種の心地よさすら感じさせるものだった。
一射、二射、三射。激震が絶え間なく狭い車内を駆け回り、その度に火薬の匂いが鼻腔を擽っていく。油と鉄の香りに混ざって、独特の匂いを漂わせるが、それはこの戦場にいる者すべてを酔わせる媚薬のようなものかもしれなかった。
魂を燃やすような熱と、心が焦げるような高揚感。それに身を浸しながら、戦のタクトを揮う。味方は整然と流れるように隊列を組み、相手は一両、また一両と沈黙していく。そして演奏が終わった時、この戦場に残るのは心地よい静寂。それが彼の心を静め、確かな快感が全身を包んでいく。
それが、彼の当たり前であり、必然だった。
今日、この日までは。
「ぐぅっ!!じょ、状況を報告しろ!」
振動に耐えるように体を支えながら、怒鳴りつけるように彼は通信手へと指示を飛ばす。
その間にも敵の砲弾は戦車付近の土壌を抉っていく。暴力的なまでに飛来する砲弾は、幸いにもまだ彼の戦車に一度たりとも傷をつけてはいなかった。
「第三小隊、依然敵と混戦状態!!完全にこちらの指揮下から離れました!!偵察隊、通信途絶!ぜ、全滅の可能性アリ!!」
「ぐ、ぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!!!」
通信手から告げられた不愉快な、そしておそらくは間違いのない事実に彼は腹の底から唸るようにし、歯を食いしばった。
「ふざけるな……さきほどまでは此方が圧倒的に優勢だった…!戦力差も歴然、隊員の練度は此方が遥かに上回っている!なのに……なぜだ!!」
怒りをそのまま拳へと伝達し、彼は衝動的に鉄板を殴りつけた、鈍い音が響き、そしてそれに呼応するように敵の砲弾が、彼の戦車の装甲を捉えた。
至近弾とは比べ物にならない振動が彼と乗員を襲い、僅かな悲鳴が操縦手から漏れる。
「車体上部に被弾!!損害は軽微!!しかしこのままでは……」
「うるさいそんなことは分かっている!!」
いずれ何発もの弾丸が彼の戦車を貫き、そして間もなく沈黙する。頭に過るビジョンを振り払うようにして、彼は指示を飛ばす。
「第二小隊に救援を要請しろ!!敵の背後を脅かすようにして、陣形を乱せ!!その隙に我が隊は離脱する!」
「こちら隊長車、第二小隊応答願います!救援要請、敵主力部隊の背後を急襲せよ!繰り返す――」
彼は視察口から外部の様子を伺った。広がる視野の大半を支配したのは、威風堂々と横一列に並び、火砲を此方へと向ける黒鉄の車。全員が一つの意志のもとに統率されているかのように、一種の美しさすら感じさせる横陣形だった。鋼鉄の群れ、その名はVK3001(P)、通称「動く棺桶」と大学選抜内で蔑まれていた駄馬―――のはずだった。『彼が彼女たちに与えた』のは、スペックで大きく劣る欠陥品だったはずなのに。
「なぜ、こちらが押し込まれる……っ!!火力では此方が上のはずだ!!」
現状、不愉快の極みであるが、優位なのは相手だった。彼の部隊は、全体の三分の一が機能不全に、戦場の目となるはずの偵察隊はあっけなく潰され、主力が集まったこの場所もジワジワと削られつつある。悉くが彼の予想の真逆をゆき、このまま何もなく時間が過ぎていけば、屈辱的な二文字をその身に受けるのは、彼の方であった。
敗北か、勝利か。それは別の場所で戦っている第二小隊にかかっていた。
そして―――
嫌な汗が頬を伝い、滴となって床を三度濡らした時、その報はやってきた。
「だ、第二小隊……敵に包囲されました……!身動きがとれません……救援は、不可能です…」
通信手が人智を超えた怪物を見たかのように、瞠目して声を震わせた。やがて彼を除く乗員全員が、感情と表情を同じくしたとき、彼は骨が軋むほどに拳を握った。瞑目し、全身を震わせるその姿は、マグマを蓄えた火口そのものであり、そして数秒の後、必然だったかのように怒りの激情を吐きだした。
「――――ふざけるなぁ!!」
あまりの怒気に乗員たちが身を竦めたが、彼は迸る感情を抑える術を失っていた。
「第二小隊は数の上では敵部隊より勝っていたはずだ!!何をどうすればそれが、敵に包囲されるなどという愚鈍な結果になるというのだ!!第二小隊の隊長は、昼寝でもしていたか!!」
第二小隊の構成は、戦車道で使用可能な戦車の中で、新しい部類に属しており、性能も一入である。また乗員も彼直轄ほどではないが、準精鋭といっても差し支えない練度を持っている。相手の戦車の数、スペック、その他を考慮したところで、圧倒的優位は覆らないはずだった。
それが包囲されるとは、彼にとって青天の霹靂であった。またほんの少し前、『我、優勢』という通信が第二小隊から送られてきていたため、勝っているとばかり思いこんでいたら、この始末である。もはや事態は、彼の思考の外にある。
「なんとしてでも突破させろ!!数で劣っている敵の包囲網だ、抜けんとは言わせんぞ!!」
「第二小隊隊長から通信!『敵の包囲は極めて巧妙。地の利を活かした用兵の防御は堅く、突破は困難。指示を乞う』……との、ことです…」
通信手の顔色はもはや、外の抉れた土と同じ色だった。
対照的に、我慢の限度を超えた彼の顔色は紅蓮に染まっている。
「―――どいつもこいつも私の足を引っ張りおって!!なぜ敵を倒し、私に勝利を持ってこない!!なんのために甘い汁を吸わせてやったと思っているのだ!!どいつもこいつも使えん役立たずどもが!」
「お、お言葉ですが監督!私たちは普段と同じ実力を発揮しています!特別私たちが相手より劣っているとは思えません!!」
開いた瞳孔が、ゴルゴーンさながらの眼光を放ち、反論した乗員の身体を竦ませた。そしてかの怪物に立ち向かった数多の勇者たちと同じ末路を乗員に辿らせる。
「貴様、それがどういう意味か分かったうえでの発言か……?」
戦車内の空間がもう少し広ければ、彼は乗員に掴みかかっていただろう。さきほどと同じ、いやそれ以上の怒りが、目に見える形となって彼の全身から立ち上るようだった。
やがて硬直から解けた乗員が、絞り出すように言葉を述べる。
「わ、私たちは模擬戦で彼女たちに負けたことは、ありません……今日も、普段通りなら勝てるはずです。ですが、今日は普段と異なる点が二つあります……」
彼が歯を食いしばる音が、絶え間ない轟音が響く車内でも良く聞こえた。それほど認めがたい事実が、彼女の口から語られようとしている。だが彼にそれを止めることはかなわなかった。そして純然たる事実が明らかにされる。
「貴方がここにいること。そして、『あの人』が相手にいるということです……」
既に彼の怒りは限界だった。だがしかし、一定の値を超えた液体が気化し、空気中へと霧散していくように、彼の怒りもまた行き場を失い、やがて消えようとしていた。
彼は立ち上がり、砲弾が飛んでくるのを構わずに戦車から身を乗り出し、上半身を外へと露出させた。
綺麗に並ぶ戦車と、青い空、そしてどこまでも続く大地が彼の眼前に広がっている。しかし彼の焦点は、その遥か先にあった。
「――――あの男…!!!」
目視することはできない。それほどまでに、遠い遠いところにその男はいた。だがしかし、彼はその姿をはっきりと両眼に写すことができていた。その男こそが、彼を敗北へと誘った死神の遣い。
天上から全てを見通す双眸。悠然とした立ち振る舞い。そして軍神からの寵愛を独占したかのように湧き出る軍才と、芸術的なまでの作戦指揮。
掲げられるは、赤地に刻まれた『大翼をもって遥かなる高みを征く有翼獅子』の旗。
「絶対に許さんぞ………!!」
彼から全てを奪っていった男は、凪いだ眼で虚空を見つめている。
三下。何も知らない小僧。彼がそう呼び蔑んだ男。
「神栖渡里ぃ!!!!!!」
表情一つ変えない冷酷さで、神栖渡里はそこに立っていた。
その日、一つの噂が生まれた。しかしそれは世に広められることなく、一年半という時間をただ一人歩きしていくことになる。
やがて誰もがそれを忘れた頃、それはとある港町へと辿りつき、そして新たな伝説を創っていくこととなる。