そして始まった練習試合。オリ主はいっこも喋りません。
12/2 追記 練習試合の時点でみほは「麻子さん」と呼んでいましたが、本作では「冷泉さん」呼びです。
砂塵を巻き上げながら突き進む五つの鉄塊が、双眼鏡越しにみほの目に映っている。走る姿に乱れはなく、パンツァーカイルと呼ばれる突撃陣形を少し平坦にしたような陣形は一縷の綻びも見当たらない
マチルダⅡが四両、そしてチャーチルMk.Ⅶが一両。
どこまでも美しく、綺麗で優雅な隊列に、みほは感嘆の声をあげた。あれが全国ベスト4を独占し続けている神奈川の雄、聖グロリア―ナ女学院。
イギリス戦車を巧みに使いこなし、硬い装甲を前面に押し出して進むという、騎士道精神をそのまま戦車道にしているような戦術が特徴である。
「先に発見できたのはラッキーでしたね!」
「うん、分散して偵察している分、見つかったら一たまりもないからね」
この試合、大洗女子学園の作戦は河嶋立案の『自軍に有利な地点に敵を誘引し、撃滅する』というシンプルなものになっているが、この作戦に一番に求められることは『相手より先に捕捉すること』である。そのため隊長たるみほは、多少のリスクを承知で自軍を分散し、偵察の網をより広く設けていた。一応、2:2:1という比率でチーム分けしていたが、それは敵に見つかった時のリスクを減らすというよりも、味方の練度不足を補うためのものだった。
『予想より遥かにマシ』で『理想には程遠い』。
それが今日、大洗女子が戦車を動かしている姿を見た、みほの率直な感想だった。
模擬戦の時から既にある程度動かせていたから、試合にならない程ということはないと分かってはいたし、実際『走る・止まる・曲がる』といった基本動作は問題なく行えている。その時点で驚きに値することだが、前進と後退の切り替えや、細かな蛇行運転となるとやはり粗が目立ち、聖グロリア―ナと比較すると雲泥の差である。
そんな中異彩を放つのは、Ⅳ号戦車の操縦手、冷泉麻子であった。マニュアルを一読しただけで暗記し、操縦をマスターしてしまった冷泉は、約二週間のブランクをものともせず、軽快に戦車を走らせていた。学年トップの成績を誇る頭脳が成せる技か、既に手足のように戦車を操っており、大洗女子の中で飛びぬけているどころか、聖グロリア―ナの中に混じっても問題ないレベルに達していた。
これはみほにとって嬉しい誤算であった。河嶋の作戦は誘引の都合、どうしても囮役が必要となり、それは簡単な役目ではない。キルゾーンに到達するまでに撃破されてはならず、敵の集中砲火にも動じない、冷静な動きと精神力が要求される。それは今日が初陣となる大洗女子には荷が重い役目と言わざるを得ない。
なので、河嶋の作戦を聞いた時点で、囮役は自分がやるしかないと極自然に考えていたみほにとって、冷泉の操縦テクニックは僥倖以外何ものでもなかった。
「武部さん、全車両に通信をお願いします。敵を発見、これから誘引を開始するので、作戦通り所定の位置で待機してください」
「わかった!」
「冷泉さん、前方の一番高い岩石の横に戦車を止めてください。できるだけ車体を隠しつつ、いつでも逃げれるように」
「ほい」
みほはすぐ傍の岩陰に隠していたⅣ号に素早く乗り込み、車内の乗員にテキパキと指示を飛ばす。秋山も装填手の席に着き、滑り止めの手袋を固く嵌めなおした。
「みほ!全員五分以内には着くって!」
「わかりました。では誘引を始めます。冷泉さん、お願いします」
頷き一つ、冷泉は操縦桿を握り、転輪を回し始める。揺れと音が車内に響き渡る。ここから先、地声でのコミュニケーションは取れず、通信に頼ることになるが、その点に関しては、大洗女子は何の問題もないとみほは断言できる。なぜなら練習の大半はそこに費やしたからだ、あの兄によって。
武部が平気な顔で通信機器を弄り回し、ヘッドフォンに耳を傾けているのもひとえに兄のせいである。ついこの間まで戦車のせの字も知らなかったのに、まるで携帯電話を弄るように通信機器を駆使する様は、なんだかすごい、とみほは苦笑するしかなかった。通信手としては大変結構なことだけども。
「着いたぞ」
みほ達が現在いるのは、岩肌がそこかしこに露出している荒野地帯である。道は石やら砂利やらで平らな部分がないような荒れ具合となっており、操縦手にとって簡単な場所ではないが、冷泉は何の問題もなくみほの指示した地点に戦車を停めた。障害物が戦車の盾になるような、巧妙なポジションである。この何気ない部分一つとっても、冷泉は並みではない。
「五十鈴さん、当たらなくても大丈夫。敵の注意をこっちに引き付けて」
「分かりました」
五十鈴は静かに照準器を覗きこんだ。みほもキューポラから顔を出して、相手を目視する。目測でおよそ800メートルの距離、しかも目標物が動いていて、相手は防御に優れたマチルダⅡ。Ⅳ号の砲性能を鑑みても、有効射は難しい。前日にほんの数時間砲撃訓練しただけの五十鈴では尚更だろう。
「当たらなくても」は気休めでもなんでもなく、本当のことであった。寧ろこの時みほが気にしていたのは、弾が相手の履帯に当たり、走行不能になることにあった。一両でも誘引から漏れてしまうと、結果的に不確定要素を生んでしまい、そこから作戦が破綻する可能性もある。可能な限り、まとめて撃ち倒したいというのがみほの考えだった。白旗を挙げてくれるのは、勿論大歓迎だけども。
「……いきます」
一息、轟音が響く。放たれた弾丸は真っ直ぐな軌道を描き、大気を掻き分けながらひた走る。
着弾は、マチルダⅡの進行方向の、僅か先だった。柔らかな砂の土壌を弾丸が抉り、大きな砂塵を舞い上げた。
瞬間、五匹の肉食獣が此方へと顔を向けた。流れるようにカーブし、美しい列をそのままに聖グロリアーナは方向転換する。
「五十鈴さんは砲撃を続行。冷泉さんは、相手との距離を500メートルで維持してください」
「はい」
「おうよ」
みほは双眼鏡で、状況の趨勢を見守った。やはり、というべきか聖グロに回避運動を取る気配はない。前面の厚い装甲をそれだけ信用しているのだろう。実際、五十鈴の砲撃が一発当たったが、あえなく弾かれたところをみほは見た。
硬い防御力を活かした浸透強襲戦術が、聖グロリア―ナの主な戦闘ドクトリン。あの守りを崩せず敗れていったチームはどれほどいるのか。
みほは気を引き締めなおすように深く深呼吸した。
聖グロリア―ナが放った砲弾が、四号の近くの岩を捉えたのは、それとほぼ同時だった。
着弾の振動で車内が揺れる。武部が短い悲鳴をあげた。
「わわっ、すごい近くに当たったよね!?麻子、早く逃げてー!?」
「落ち着け沙織、まだ距離がある。もう少し引きつける」
冷泉の冷静さが、心底頼りになるみほであった。
「行進間射撃はそうそう当たるものじゃないけど……ここまで近くに当ててくるなんて」
「流石聖グロです!」
慌ただしく弾を装填する秋山とは対照的に、五十鈴は静かに応射する。できるだけ高い所に位置取りし、上から装甲の薄い車体上面を狙わせてはいるが、巧く捌かれている。聖グロリア―ナの行進間射撃の精度を考えると、盾を構えているとはいえジッとしているのは危険かもしれない。
「冷泉さん、少し早いですけどキルゾーンまで逃げます。できるだけ遮蔽物を使って、後ろにつかれたら細かく蛇行してください」
みほの指示を受けて、Ⅳ号戦車は移動を開始した。流れるようなクラッチ操作でギアが上がり、スピードが乗っていけば、Ⅳ号戦車は荒れた路面を軽快に駆け抜けていく。
その間も絶えず砲弾は襲い掛かるが、辺りの岩壁を削っていくだけで、Ⅳ号の装甲には傷一つついていない。
風を切る音。砂利を踏み砕く音。履帯が回転する音。
硝煙の匂い。金属特有の匂い。五感がみほを過去に遡らせる。
みほは頭に叩き込んだ地図を参照し、事前に定めていたいくつかのルートの内、この状況に最適なものを選択。後方を確認し、聖グロリア―ナとの位置関係を把握。振り切らず、それでいて近づきすぎない距離間を保ちながら、五十鈴に行進間射撃を指示して応射する。
一発撃てば五倍になって返ってくるような状況でも、Ⅳ号は一度の被弾も許してはいない。
それはひとえに、操縦手のお蔭であることをみほは知っていた。表情一つ変えず細腕で操縦桿を動かすこの小さな天才に、心の中で拍手を送る。
冷泉がいなければ、きっとみほは囮役を買って出ることはできなかっただろう。本当に、戦車道(取得単位が三倍)を受講してくれて良かった。っていうか遅刻癖アンド留年の危機ありがとう。流石に不謹慎か。
「みほ!全員目標地点に到着、いつでもいけるって!」
「分かりました!次の分かれ道を左折してください!」
武部の声を受け、みほは引き込みを開始した。現在、彼我の距離は遠からず。聖グロリア―ナレベルの強豪校なら、静止状態では余裕で当ててくるし、行進間射撃でも楽観的ではいられない距離。
だがⅣ号が入り込んだ先は、両側に高い岩壁が立っていて、谷のようになっている。いくら聖グロでも見えない相手は撃てない。
「停止してください!」
緩やかな登り坂の中頃まで進んだのち、みほはⅣ号を停めて五十鈴へと指示を下した。砲塔が機械的な音と共に首を回し、進行方向と真逆を向く。獲物を狩るためにスタートを切る直前のチーターのような雰囲気を漂わせ、Ⅳ号は静かに銃口を突きつける。
そして、曲がり角から現れた待ち人に、容赦なく砲撃を浴びせた。
来客への派手な歓迎にも、しかし聖グロリア―ナは動じない。数の有利を活かし、攻撃をいなしながら谷へと侵入してくる。やっぱり、とみほは驚きはしなかった。ならば、とすぐさま次の手を打つ。
Ⅳ号は再び坂を登り始めた。
ほぼ一本道で、まともな遮蔽物がない此処では、流石に分が悪い。最も防御が薄い背後を常に晒し続けることになるため、正直一発でもっていかれる可能性があるし、何より道幅の都合で回避運動に限界がある。
証拠とばかりに、聖グロリア―ナの砲弾はⅣ号戦車を幾度か掠めていた。今のところ無視できる損害ではあるが、このさきずっとそうとは限らない。いつ直撃してもおかしくはなかった。
しかしこの一本道を抜ければ。
その先には大きく開けた円状の場所がある。
そして、其処こそが大洗女子が定めたキルゾーン。上から撃ちおろせる場所に他の戦車たちを伏せてあり、射程内に入った瞬間河嶋の作戦が発動することになっていた。
抉れていく岩を脇目に、Ⅳ号はついに囮役を完遂した。すぐさま射線を切り、左右にある急な勾配のうち、右側を登っていく。
「聖グロリア―ナ、射程に入るまで五秒前です――――」
通信から、各戦車の準備が整っていることが伝えられる。
あと一歩、聖グロリア―ナが踏み込んでくれば、その瞬間に集中砲火が炸裂する―――――はずだった。
「そんなお粗末な作戦が、通じるとでも?」
そんな声を、みほは聞いた気がした。
瞬間、マチルダとチャーチルの主砲が一斉に火を噴いた。放たれた弾丸が向かう先はⅣ号―――ではなく、遥か頭上。砲撃によって抉られたのは、砲撃のチャンスを今かと待ち望んで伏せていた、Ⅳ号以外の四両がいる場所だった。
「わ、わ、撃ってきた!?」
「なぜ場所がバレている!?」
「ちょ、やばくない!?」
「ど、どうすれば―――!?」
他の戦車の混乱が、挙動から見て取れた。
なおも聖グロリアーナの砲撃は続いており、その度に岩壁に穴を空けていく。
みほはその弾道に、違和感を覚えた。
いくらなんでも、無秩序すぎる。普通ある程度の位置のアタリがついているのなら、そこに砲撃が集中するはず。しかし弾痕は、縦横に広く刻まれていて、有体に言ってしまえばバラバラだった。
「相手の精度からして、あそこまで狙いがバラけるのはおかしい……」
一体どういうことか。みほの疑問は、しかしすぐに氷解した。
無線を全車へと繋ぎ、喉元のマイクに手を当てて叫ぶように声を張り上げる。
「撃ち返しちゃダメです!!相手の狙いは―――」
「バレているのなら仕方がない!!全員見えている戦車は全部撃てーーー!!」
しかし僅か一瞬早く、河嶋の絶叫がみほの声を上書きした。そして上書きされた方の指示は霧散し、伏せていた大洗の戦車たちはぞろぞろと聖グロリア―ナの前へと姿を現してしまったのだった。そしてお互い、姿を視認した状態かつ、近距離で砲火を交えることなり、轟音の協奏曲が響き渡っていく。
してやられた、とみほは歯噛みした。単純かつ、極めて有効な一手を打たれたのだ。
「……これはマズくないか?」
「え?え?どーゆうこと?」
冷泉の言葉に、みほは頷いた。
河嶋の作戦は、崩壊した。させられたのではなく、自壊したと言ってもよかった。
「向こうの狙いは、伏せている私たちの戦車を炙り出すこと……さっきの砲撃は、『位置がバレている』ってこっちに誤認させるためのものかもしれないの」
「なにそれ!?」
待ち伏せの真価とは何か。それは相手の不意を討つことができること。そしてそのまま主導権を握ることができること。この二つにこそ、絶大な威力が秘められている。
しかしそのための前提条件は、『敵に見つかっていない』ということ。ここが崩れることは、積木の土台が崩れることを意味する。
「誰だって近くに弾が飛んできたら、自分が撃たれてるんじゃないかと考える。そうなったらさっきの沙織みたいに焦ることもあれば、衝動的に撃ち返したくなることもある」
「そして一度でも撃ち返してしまったら……」
河嶋先輩の作戦は効力を失う。みほは小さな声で、秋山の言葉を継いだ。
恐らく誘引自体は見抜かれていた、とみほは考える。みほ達が囮役となって、キルゾーンに誘導しようとしていることを判った上で、ここまで引っ張られて来た理由はこの状況を作るため。こちらの作戦を逆用し、混乱の渦に叩き込むためだったのかもしれない。
「じゃ、じゃあさっきの砲撃はヤマカンだったってこと!?」
「完全に勘じゃなくて、半信半疑くらいだったかもだけど……」
いれば僥倖。いなくても僥倖。それはある種、安全確認のための砲撃と言ってもいいかもしれない。そしてそれは、残念ながら大成功してしまった。目論見通り、場所がばれていると勘違いした河嶋は砲撃を指示してしまい、不意打ちをするどころか真っ向から撃ち合うことになってしまった。
「ま、マズいじゃん!まともに撃ち合っても駄目だから、ってこの作戦になったんじゃなかったの!?」
「だからさっき言った」
「どうしますか西住殿!?」
焦ったような声を二つ、平静な声を一つ耳に取り込んで、みほは思案する。
しかしそれはほんの僅かな、呼吸二つ分ほどの時間で終わりを迎えた。もとより、みほの中には答えがあり、寧ろこの時の思案は現状とリンクしたものではなかった。
「武部さん、全車に通信を。いますぐ後退します。方向は市街地方面で、私たちが先導します」
「わ、わかった!」
通信機を操作し、武部はみほの指示を正確に飛ばす。
すぐさま返事があったのは、河嶋だった。あらかじめ、各車からの通信は武部とみほ、その両方に届くようにしてあり、間に入る人間を減らし、ラグをできるだけ小さくしようというみほの判断である。
「ダメだダメだ!相手は目の前にいるんだぞ!後退など絶対に認めん!ここで撃ち倒せば我々の勝ちだ!!撃て撃て撃てーーーーーー!!」
半ば狂乱したようなその声は、みほに一瞬「誰これ?」と思わせた。河嶋、といえば冷ややかで淡々とした声色で、声を荒げるときも理性を一定量残してる感じだったが、今は頭のネジが少し緩んでるような気がする。努めて穏やかに、みほは口を開いた。
「作戦は失敗してしまいましたし、みんな少し浮足だってます。ここは一度退いて、態勢を立て直したほうがいいと思います」
「敵がすぐそこにいる状況で背を向ける気か!?それこそ全滅の危機だぞ!」
「相手の戦車は全体的に機動力が低いですし、今しかありません!これ以上戦闘を続けると、手遅れになります!」
ヘッドフォンの向こう側では、唸るような声がした。
その間にⅣ号戦車は勾配を登り切り、他の戦車たちと同じ場所へと到達する。しかしその歩みは止めず、市街地へと続く道の入口まで前進した。
聖グロリア―ナの攻撃は、激しさを増しつつあり、既に何発か至近弾が撃ち込まれていた。待ち伏せを看過し、真っ向からの撃ち合いという得意分野に相手を引きずり込んだ彼女たちは、今この瞬間においては百戦錬磨。砲弾を弾きつつ浸透し、やがてみほ達を飲み込むだろう。そうなれば、本当に終わりである。
Ⅳ号に続いたのは、八九式が最初だった。砲性能の貧弱さを身に染みたのか、はたまた隊長の指示には従うという点に忠実なのか、理由は分からない。
次に三号突撃砲が、八九式の横につく。Ⅳ号を除けば、相手に通用する貴重な火力の持ち主。できればここで失いたくなかったみほとしては、素直に後退してくれるのはありがたい。
半数が最前線を離脱したことに気づいたM3リーが、慌てた様子でそこに加わる。指示に従ったというよりは、仲間外れを嫌がった結果のように思える。
……残るは一両。
「―――ぐ、ぬぬ!分かった分かった!!退けばいいんだな!!」
半狂乱だった頭にも、周りを見るくらいの理性は残っていたらしい。38tは一発だけ撃ち返して、明後日の方向へ飛んで行った砲弾を見送ることなく、ゆっくりと転回した。
それを見てみほは、再びⅣ号戦車を加速させる。
「移動します!私たちについてきてください!」
「わかりました!」
「心得た!」
「りょ、了解です!」
そしてぞろぞろと陣形を組んだ大洗女子学園は、後退を開始した。物理的に射線が切れたことで砲撃の脅威は去ったが、しかし別の問題が発生していた。
一つ、忘れていた練度不足。みほは後ろを振り返り、各車の様子を窺った。やはりというべきか、速やかで流れるような走行ではなく、時々ふらついたり減速したりしていて、戦車同士の速度差が顕著である。
まともに走行訓練をしていなかったことが、ここにきて若干の影響を及ぼしていたのだ。冷泉に指示し、できるだけ歩調を合わせるようにしているが、練度のバラつきから来る遅い速いは、いくらみほでも如何ともしがたい。
そして二つ、一つ目の問題と関係したものだが、足が遅いチームに歩調を合わせているため、全体の速度が下がってしまっているのだ。これは誰が悪いというわけではなく、仕方ない話ではあるのだが、それによって生じる結果は無視できるものではなかった。
「……やっぱり、タダでは逃してくれそうにない。逃げ切れるか、かなり微妙かも」
「ええ!?ど、どうしましょう!もし追いつかれたら絶体絶命です!」
秋山の言うことは大正解である。戦車の装甲が前面を厚く、背面を薄くという共通の認識に則っている以上、追いかけっこは圧倒的に逃げる方が不利である。
別に戦車道に限った話ではなく、そもそも退却戦は最も難しい作戦と言われるもの。敵の攻撃をいかにかわし、被害を抑えるかが問われる。大体が劣勢な状況から挽回するために行われるものなのだから、それは難しいというもの。
(今頃観客席で観戦してる、どっかのお兄ちゃんは名人級の腕前だけど……)
逃げ足は超一級品、というよく分からない賞賛を受けた兄を思い浮かべて、みほは頭を振った。流石に兄と同じことはできないが、それでもその姿を10年間見続け、そして戦車道の名門で生まれ育ったのだ。これくらいの難関は、幾らでも見てきた。
車内へと引っ込むと、みほは不安げに見つめる秋山に気づいた。
苦笑を一つ零して、みほは穏やかな口調で言う。
「大丈夫、逃げ切るための作戦はあるから」
みほは無線を全車へと繋ぎ、試合が始まった瞬間から温めていた作戦を伝えた。
後に『苦境でこそ真価を発揮する』と称賛を受ける、みほの才覚。その一部が、ゆっくりと姿を見せようとしていた。
○
「不思議なチームね」
悪路で激しく揺れる車内にあって、ダージリンは右手に持つカップに注がれた琥珀色の紅茶を、ただの一滴も零さず優雅に味わっていた。
その横には一年生でありながら隊長車の装填手、そしてダージリンの紅茶注ぎ係を務めるオレンジ色の髪色をしたオレンジペコ、前方には静かに照準器を覗き込むアッサムがいる。
チャーチルには五名の乗員がいるが、この三人はまとめて『ノーブル・シスターズ』という通称がつけられており、聖グロリア―ナ女学院戦車道において羨望の眼差しを独占する存在であった。
「突けば容易く崩れる脆さはいかにも初心者の集まり。しかし作戦が失敗したと見るや否や退却していく決断の速さは熟練者のソレ、と思えばその動きはしどろもどろ。初心者なのかそうじゃないのか、判断に迷うところね」
「私としては、貴方の作戦指揮が正しかったのかどうか、判断に迷いますが」
「あら、アッサムからクレームが来るのは珍しいわね」
咎めるような声色にも、ダージリンは堪えた様子はなく、寧ろ可笑しげに笑うのみである。
ため息を一つ、アッサムは照準器を除くのをやめ、呆れ顔で振り返った。
「予定では此処で二両ほど倒しておくはずでは?それがまんまと逃げられて…」
「アッサムが初心者ばかりと言うから、あれで崩せると思ったのよ。実際そうなったけれどね」
「相手は五両健在ですが?」
「それは相手が初心者とは思えない動きをしたからよ」
立て板に水、というのはこのことか。紅茶の味を楽しみながら、ダージリンは軽やかにアッサムの詰問をかわしていく。ダージリンの横にいるオレンジペコは、眉を八の字にして二人を見ている。
「冗談はともかく、これからどうするつもりですか?」
「当然、追撃するわ。相手の脚が鈍っている今なら、マチルダでも追い縋れるでしょう。――――全車、全速前進」
高貴なる者の号令に、鋼の軍馬は加速した。マチルダは歩兵戦車の名前がつく通り、歩兵の支援を主目的に造られた戦車で、その速度はお世辞にも早いとは言えない。人間の徒歩~ダッシュくらいの速さについていければオーケー、という思想の下で設計されたのだから、それはしょうがない。しかし聖グロリアーナの戦車たちは、カタログスペック以上の速度で勾配を登り切り、大洗女子学園を追いかけ始めた。
強力な支援者を背景に持つ聖グロリアーナ女学院は、潤沢な資金によって戦車にチューンナップを施しており、旧型に分類される戦車たちを一級品に仕立てているのだ。
「指揮の腕が鈍っているわけではないようで何よりです」
「無用な心配ね。今日の私はいつになくやる気に満ちているのよ?」
「知ってます。昨夜の喧騒は、隣の部屋にいた私にまで聞こえていましたから」
「盗み聞きとは良い趣味ですわね、アッサムさん?」
「そちらこそ。夜遅くまで大騒ぎなんて、素晴らしい淑女の振る舞いですわ、ダージリン様」
オレンジペコは瞑目して呼吸を整えた。
偉大なる先輩たちの名誉のために言うが、決して仲が悪いわけではない。寧ろこの二人の間には、何者も寄せ付けない絶対的な信頼関係がある。ただ、皮肉を機銃のごとく撃ち合う。定期的に。
そしてそれを止めるのは、この小さな装填手の役目であった。
オレンジペコは高純度の尊敬を二人に捧げているが、こういう時ばっかりは僅かに不純物が混じったりしてしまう。
「で、でも、それだけ今日が楽しみだったということですよね、ダージリン様」
「でしょうね。でなければ『相手の作戦を逆用して勝つ方が優雅じゃない?』なんて非効率なこと言い出さないでしょう」
火消ししようとしている所に酸素ボンベを投げつけるような真似はしないでください。オレンジペコ、心の声。
「貴女たちにはわからないでしょうね。今日という日を私と同じ気持ちで迎えているのは、ルクリリだけよまったく」
「お生憎私には、到底想像もつきませんね。――――そんなに変わるものですか、憧れの人が近くにいるというのは」
アッサムのその言葉には、ほんの僅かだが揶揄うような感情が滲んでいた。
しかしダージリンは、寧ろ勝ち誇るような表情をしていて、静かに、そしてはっきりと答えた。
「『嫉妬はひとを殺すが、羨望は誕生のきっかけになる』」
「アメリカの作家、ニール・ドナルド・ウォルシュですね……」
その通り、とオレンジペコの合いの手に、ダージリンは満足げに頷いた。
そして凛として言い放つ。
「変わるものですか、ですって?当然よ、当然じゃない。あの人は私の戦車道の、原点となったヒト。あのヒトとの出逢いがあったからこそ、今の私があると言っても過言ではないわ」
その言葉を聞いた二人の反応は、対照的であった。
金髪の持ち主は、まるで説法を何百回も聞かされた童のようにうんざりとした表情を浮かべ、オレンジの髪の持ち主は、手にもったティーポットを危うく落としてしまいそうになるほどの驚きに直面していた。
異なる反応の理由は、二人のダージリンと過ごした月日の差であった。
「あ、あの、神栖渡里さん、ですよね?私、あまり聞いたことのない名前なのですけど……有名な人なのでしょうか?」
顔色を伺うような語調のオレンジペコだった。
時にチャーチルの中では、装填手の席は砲手の後方に設置されている。これは大体の戦車で共通のことである。なので当然、装填手の席からは砲手や操縦手の後頭部は見えても、向こうが振り返らない限り表情は伺えない。
つまりオレンジペコからは、基本アッサムの表情は見えない。
なのでこの時、オレンジペコの質問を聞いたアッサムが『あーあ、やっちゃった』的な表情をしていたことに気づかなかったことも、仕方ないことであった。
「――――聞きたい?」
「え、まぁ。できれば聞きたいですけど……」
そう、と呟いてダージリンは紅茶を一口。そして……
「そうねどこから話そうかしら正直多すぎて迷うのだけどやっぱり何と言っても指揮官としての腕を語らないと始まらないわよねイギリス戦車道プロリーグの生ける伝説との試合が取っつきやすいかしらと言ってもたった二試合しかないのだけどそれでも凡百の試合に勝る100カラットのダイヤモンドより貴重な試合なのよ本当に最高レベルの指揮官同士の読み合いと戦車指揮は学ぶところが多くてその中でもあの人の防勢作戦は本当に見どころしかないのまるで戦場を上から見下ろしているかのような視野の広さ的確かつ迅速に相手の攻撃をいなしていく手腕に変幻自在の戦術が加わってもう一度見たら忘れないくらいの衝撃が――――」
オレンジペコはアッサムに救援信号を送った。
しかしもう一人の金髪の持ち主は華麗にスルー。哀れオレンジペコは切り捨てられてしまった。
「ちょ、ちょっと待ってくださいアッサム様!私を置いていかないでください!」
「貴女が悪いのよオレンジペコ。迂闊に『聞きたい』なんて言うから」
「こんなパンドラの箱があるとは思わないじゃないですか!?」
純粋な興味で聞いてみたらこの有様。紅茶で喉が潤っているのか、もうヌルヌルとダージリンの口から言葉が湧き出ている。現在進行形で。句読点無しで語られるそれはもはや呪文の類である。
「なんですかアレっ。私入学してまだ日が浅いですけど、あんなに喋るダージリン様初めて見ましたっ」
「元からよく喋るほうでしょ、ダージリンは。まぁ最大瞬間風速で言えば今のが遥かに上だけど」
「壊れたラジオでももうちょっと人間っぽく話すと思うんですけど……」
「それだけ想いが深いということよ。じゃなきゃ、昨夜あんなに騒がないでしょ」
そうなんでしょうけども、とオレンジペコは言葉を濁した
憧れの人、今の自分の原点というくらいだからそれは並々ならぬ想いが秘められているのだろうとは思っていた。
しかし今のダージリンはどう見ても暴走しているようにしか見えないのだが。
話も「あの人との出逢いは私が聖グロに入学する前だった~」とかなり過去に遡っていて終わる気配が見えない。正直試合が終わるまで続きそうまである。
「ア、アッサム様も知ってるんですよね…?簡潔に教えてくれませんか…?」
「私から聞くより貴女の横の人の話を聞いてるほうが何倍も詳しくなれるけど?」
「代償として精神が何十倍も削り取られそうなので……」
げんなりした様子のオレンジペコに、アッサムは「そうね…」と少し悩む仕草を見せた。
「とりあえず、有名な人ではないわ。『知る人ぞ知る』なんて言葉もあるけれど、あの人の場合『知る人も知らない』くらいのマイナーさじゃないかしら」
「聞 き 捨 て な ら な い わ ね」
ヒエっ。オレンジペコは一瞬呼吸が止まった。
アッサムの言葉に、ダージリンの美しい青の瞳が剣呑な光を灯す。というか声色が違う。
しかしアッサムは一切怯んだ様子もなく。
「事実でしょう。貴女が熱心に布教しても、聖グロであの人のファンなのは貴女とルクリリだけ。そのルクリリも別に布教の成果というわけでもないし。みんな一度は貴女の話を聞いたけど、リピーターは一人もいないでしょう」
「それは皆あの試合映像を観てないからよ。本当に人生を損してると思うわ」
「貴女が見せたがらないからでしょ……」
ため息交じりにアッサムはそう言った。『人に知ってほしい癖に自分だけ知ってる優越感がなくなるのは嫌なんていう面倒な拗らせ方している』ことを暴露しなかったのは、ひとえにアッサムの優しさである。
「今日の試合だって、本当は憧れの人に会いたかっただけ。全く私心が透けて見えるようよ、『聖グロリア―ナは誰からの挑戦も受ける』なんて言っちゃって」
「否定しないけど、別にそれだけじゃないわよ?」
「否定しないんですね…」
そう断言されてしまっては、オレンジペコは眉を八の字にするしかない。いっそ清々しいまでの独断専行である。
「あの人が指導者をしているのなら、大洗女子は今大会のダークホースになるかもしれないじゃない?」
だってあの神栖渡里が指導しているのよ優れた選手が優れた教育者になるとは限らないけれどあの人は間違いなくその道でも一流のはずよ特に根拠はないけどあの魔法のような戦車指揮をする人が―――。
またもや滝のように流れてくる言葉を断ち切ったのはアッサムであった。
「……それもそうですね。今のうちにデータを集めておくほうがいいかもしれません。」
「え、そうなんですか!?」
神栖渡里なる人物について、山のように語られたのに何も解らないという異常事態のオレンジペコは、二人がどういう根拠の元にそう判断したのか分からない。
そんなオレンジペコにアッサムは微笑みながら言う。
「ダージリンに例の映像を見せてもらいなさいな。そうすれば、意味が分かるんじゃない?」
「貴女なら百回くらい見せてあげるわよ、オレンジペコ」
それは俗に洗脳というのではないだろうか。オレンジペコは未来の自分の身を案じた。
「ダージリン、どうやら雲行きが変わりそうよ。そろそろ試合に集中してもらわないと」
「どうやらそうみたいね。まだ序の序の序の口くらいしか語ってないのだけど」
(いや体感的にはもうクライマックスですダージリン様)
その言葉を最後に、ダージリンのスイッチは入れ替わった。談笑ムードから一転、獲物を上空から狙う鷹の眼になる。
この切り替えの速さについていけるかどうか。それこそがチャーチルの乗員たるに相応しい資格を持つか否かを分けるものであった。半ば混乱状態だったオレンジペコも、僅かに尾を引きながらすぐさま臨戦態勢へと入る。
「お喋りはお終い。県立大洗女子学園は私たちの未来の好敵手たるか、はたまた取るに足らない弱者か―――それを見せてもらいましょう」
ダージリンは優雅に、そして不敵な笑みを浮かべる。
状況は転機を迎えようとしていた。
「大洗女子、Y字状の道に入りました。視認できません」
「砲撃止め。各車入口まで隊列を維持して前進」
そして聖グロリア―ナは、ゆっくりと分岐点に足を踏み入れた。
道幅の広いY字の形をした地形は、入口こそ戦車が五台横並びにすることができる。しかしそこから二手に分かれていく道は、片方は円状の巨大な岩石が真ん中に仁王立ちしているせいで入口が一両しか通れない程狭い。もう片方は長大な岩がさながら川を二手に割る中洲のように、またもや仁王立ちしているせいで、これも戦車が二両ほど、場所によっては一両しか通れない。いくつもの隘路が複合した地形、とでも言うのだろうか。とにかく狭い。
「こんな窮屈な所だと、自由が利きませんね……」
「隊を縦隊に組み直しますか?モタモタしていると、大洗女子に逃げられてしまいます」
基本的に見通しが悪いところや、道幅が狭いところは、一列縦隊という隊形が使われる。
戦車が真っ直ぐに並ぶこの形は、進行方向に対して側面には高い火力を発揮するが、前後に対しては射線の関係上脆弱となってしまう。元々戦闘を主目的としない隊形のため、戦闘となると使いづらいのだ。当然、追撃(追いかけっこ)をしている今に相応しくはない。しかし地形的には、縦隊を組まざるを得ない。
地形的には最適、状況的には不適。誰が後退の指揮をしているのかは分からないが、その者はよく戦車道を知っている。ダージリンはそう思った。この場所に逃げ込むことを選んだ時点で、そう確信するに足る。
「そうね、一列縦隊を組んで一息に駆け抜けましょう。追撃が鈍るのはこの際仕方ない。こうやって私たちを悩ませて時間を稼ぐのも向こうの策でしょう」
今は撃破するよりも、とにかくプレッシャーを与え続けることのほうが重要だろう。
ダージリンの決断に要した時間は、僅か数秒であった。
相手は初心者集団。ずっと背後から狙われている・追われているという圧力は、かならず相手が時折見せる初心者特有の脆さを引き出す。そこを突き、一度でも揺らがせば、後は勝手に崩れていく。
その判断は正しかった。そして合理的だった。
少なくともオレンジペコやアッサム、他の戦車の乗員たちはそう考えていた。
しかし合理性と不条理は、いつだって紙一重なのだ。
轟音が突如として戦場を突き抜けていった。遅れて鳴り響く金属音と共に、聖グロリア―ナは自分たちが攻撃されたことを知る。隊長車たるチャーチルの装甲に、この日初めて傷がつけられた。
「砲撃!?どこから―――」
「先頭車前進!最後尾から二両は左に30度転回、応射しなさい!」
ダージリンの指示が素早く全車へと伝えられ、チャーチルをマチルダがサンドイッチする形で三両編成、後方にいたマチルダ二両編成の二つに分かれる。速やかにマチルダの砲塔が火を噴き、突然現れた襲撃者への攻撃を開始した。
そこにいたのは、Ⅳ号と八九式だった。狭い道を精いっぱい使って、こちらの側面を突いてきたということに、オレンジペコはようやく気付いた。
反応が遅かったわけではない。寧ろ即座に対処したダージリンが尋常ではなかった。
「相手は坂の上から撃ち下してきているわ。装甲の薄い車体上面に気をつけなさい。………それと、できるだけ引き付けておいて。相手が退くなら喰らいつき、撃破されそうになったら下がっても構わないわ」
それだけ指示を下して、ダージリンは手に持った紅茶を一口楽しむ。その姿と声には、思わず乱れた乗員たちの呼吸を整える効果があった。いついかなる時も優雅、それこそが聖グロリア―ナの戦車道。ダージリンはその忠実な体現者であり、聖グロリア―ナの絶対的支柱であった。彼女が揺らがない限り、聖グロは決して崩れないのだ。
「まさか攻撃してくるなんて……市街地方面への道が一つ塞がれてしまいましたね……」
「大した問題ではないわ。どうせ二両ずつしか通れない上に勾配のキツイ道、五両まとめて進んだら三両は遊兵になる」
マチルダの主砲の仰角では、射線が味方の戦車と被って砲撃はできず、道の狭さからまともに動くこともできない。自軍の半数を、そんな何の役にも立たない状態にするのは避けるべきことである。
「相手はここでまた一戦交えるつもりなのでしょうか?」
「どうかしらね。私が彼女たちなら、交戦場所としてここは選ばない。確かに色々できそうな場所ではあるけど、狭すぎるわ。こちらの側面や背面を突きたい相手側からすれば尚更でしょう」
ダージリンは言う。大洗女子の目的は後退、そこは揺らがないと。
このY字状の場所に入った時点で、それは予測ではなく確信となっている。そしてその前提の下、彼女たちの行動を見ていけば、全ては後退のための時間稼ぎだということがわかる。
攻撃してきたのは此方の足並みを乱し、部隊を分散させ、多少でも迂回させるため。
「そう思って既に回り込みを開始している辺り、抜け目がないですねダージリン。あの子たちが四号と八九式を引き付けている間に、空いてるもう片方の道から進んでしまえば、サンドイッチの出来上がりですか」
「タダで時間を稼がれては癪じゃない。……それにしても、よくあの短時間で体勢を整えたものね」
Ⅳ号の動きが初心者離れしていたことは知っていたが、随伴していた八九式は奇妙な存在だった。あんな転回も信地旋回もできない位置で待ち伏せするには、バックの形で傾斜を登っていくか、二本の道の合流地点から逆走してくるしかない。前者は操縦技術が、後者は高い機動力が求められるが、どちらにせよ初心者が軽くできるものではない。加えて言うなら八九式の足回りなんてお世辞にも良いものではないはずなのだが。
「要注意はⅣ号だけと思っていたけど……」
視界から消えていくⅣ号と八九式を尻目に見て、ダージリンは脳内で八九式にもチェックマークをつけておいた。
五両編成から三両編成へと変わった聖グロリア―ナは、縦隊のままY字の三本の線が交錯する地点へと侵入した。そのままチャーチルを中央にする形で、大洗女子が塞いでいる道の壁一つ挟んだ反対の道を駆け上っていく。機動力が低いチャーチル、マチルダだが、おそらくこのままいけば四号と八九式を袋のネズミにすることは容易だった。
――――このままいけば。
「――――――――」
その時ダージリンが、ペリスコープで周囲を目視したのは、ただの偶然だった。車長として辺りの状況を把握するという当たり前の習慣によるものだったかもしれないし、戦車乗りとして過ごしてきた長い経験によるものだったかもしれない。
理由はどうあれダージリンはその時、そのブルーの瞳を外へと向けていた。それがほんの僅かに、運命の歯車を狂わせることになる。
「――――停車!」
一息、無線に装飾を排した言葉が放たれた。直接声が聞こえたチャーチルの操縦手が真っ先に戦車を停め、その後ろにいたマチルダがチャーチルと少し衝突する形で停止。そしてなんの歯止めもなかった先頭車が、無線のタイムラグの分だけ止まるのが遅れてしまった。
風切音、衝突、破砕、飛び散る鉄の屑。
マチルダは一度大きく傾き、そして脚から悲鳴のように黒煙を上げてその歩みをやめた。
その瞬間、相手の攻撃によって履帯を破壊されたということにアッサムが、一拍遅れてオレンジペコが、そしてその二人よりも遥かに早くダージリンが気づいた。
金髪の隊長から迅速に指示が飛ぶ。後続のマチルダは後退し、チャーチルは車体を右側に傾ける、いわゆるお昼ご飯の角度を取った。
そして静かに照準器を覗き込むアッサムの視線の先に、それはいた。
ひと際背の低い車体に長い75㎜砲を載せた、大洗女子学園最大火力。一キロ先からでもマチルダの正面装甲を射貫くことができる魔弾の射手。
その名は三号突撃砲。大洗女子学園の中で唯一戦車の名を与えられなかった車両にして、攻撃性能に特化した脅威の存在である。
最早誰がマチルダを貫いたのかは明白だった。
「先頭車、状況を」
『履帯を完全にやられました!身動きが取れません!』
「アッサム」
「分かっています。オレンジペコ、装填早めにね」
表情一つ変えず、アッサムは機械的にトリガーを引いていく。
一度、二度、三度と放たれた砲弾は地面を、岩を、壁を抉っていくものの、岩陰に隠れた三号突撃砲を射貫くことは叶わなかった。やがてオレンジペコが六度目の装填を終えたとき、マチルダの履帯を破壊した者は沈黙し、影すら見せなくなった。
『ダージリン様。Ⅳ号と八九式が後退していきますが、どうされますか?』
その通信によってダージリンは、三号突撃砲がこの場から去っていたことと、大洗女子が完全に退却していったことを悟った。
「前言撤回するわ、放っておきなさい。相手の姿が見えなくなったら、周囲の偵察をお願い」
『わかりました』
肺にため込んだ息を、ダージリンは一息に吐いた。
その様子を横で見ていたオレンジペコの瞳には、気づかいの色が浮かんでいた。
「してやられた、というところかしら。ダージリン」
アッサムの挑発するような言葉に、ギョッとしたのはやはりオレンジペコだった。
ダージリンがそれに対し、瞑目するだけで何の反応も示さなかったことが余計にオレンジペコの不安を煽る。
してやられた、まさにその通りなのかもしれない。
被害状況を見れば、あちらは無傷。こちらは一両が履帯破損で走行不能。無論致命的な損害ではないし、こんなもので勝ち負けを決めるのはナンセンスな話である。
しかし現状、『後退させまいとした聖グロリア―ナ』の追撃をかわし、『大洗女子は目的を達成している』。
それはなぜか。戦車一両通るのがギリギリな道の上を走ってた縦隊の先頭車が走行不能になってしまうと、当然ながら後続車はそれ以上先に進めない。自チームの戦車が、障害物となってしまうからだ。
これにより生まれたタイムロスのお蔭で、もはや大洗女子に追いつくことは叶わなくなってしまった。それはつまり、大洗女子が後退の時間稼ぎに成功したことを意味していた。
聖グロリアーナがやらせたくなかったことを、大洗女子はやってみせた。そういう意味で、聖グロリアーナはこの場において、大洗女子に一歩遅れを取ったといえた。あるいは、ダージリンの読みを、大洗女子が半歩分だけ上回っていったと言うべきかもしれない。
やがて秒針が一回転するほどの時を経て、ダージリンは滔々と語りだした。
「『零れたミルクを嘆いても仕方ない』……今更何を言おうとも結果は変わらないけど、そうね。まんまとやられてしまったわ」
時間稼ぎ、という読みは当たっていた。ただポイントを読み違えた。
Ⅳ号と八九式はあくまで陽動、本命はこちらの装甲を簡単に抜ける三号突撃砲。ルートの選択肢を狭め、三突の前にこちらをおびき出すことこそが、彼女たちの作戦だった。
「一度待ち伏せを喰らわせておいて、二度ははないだろうと思わせる。後退前の失敗も伏線になっているわね。アレがあったお蔭でこちらの意識に『相手に伏撃はない』という認識を植え付けられてしまった」
いわばそれは、ワイヤートラップの奥に更に落とし穴を掘っておくような作戦。一つ目の罠に気づいた時点で、もう罠はないだろうという意識が生まれてしまい、ダージリン達はそこを突かれた。
思い返せば全く防げなかったことではなく、部分部分でどうにかできるポイントはあったが、後から思いついたってどうしようもない。事実は厳然としてそこにある。
「これは戦車道素人の発想じゃないわ。かなり高いレベルの戦車乗りが向こうにいると見て間違いない」
候補は三つ、こちらに初めて有効打を与えた三号突撃砲。妙に手練れた動きを見せた八九式。そして――――要所要所で必ず姿を見せる、あの四号。
そのどれかに、この作戦を考えた者が乗っている。
「それにどこか………」
「どうしました?」
ほんの数秒だけ、ダージリンは思いに耽る様子を見せた。
しかし彼女は直ぐに頭を振って、今為すべきことへと視線を向けた。
「追撃は中止。先頭車は履帯の修理を急ぎなさい。それが終わるまでは休憩にしましょう」
「いいんですか?」
照準器から視線を外して振り返るアッサムに、ダージリンは莞爾として微笑んだ。
「おそらく大洗女子が向かったのは市街地。全体的に見通しが悪く入り組んだ地形のあそこは、機動力で勝る向こうが有利。やりようはあるけれど、それには五両全部欲しいわ」
「そうですか。それではティータイムと参りましょうか」
名前を呼ばれ、オレンジペコもまたいそいそと紅茶の準備に取り掛かった。聖グロリア―ナはどんな時でも紅茶と一緒なのだ。一試合どころか一日分くらいの紅茶は戦車に常備してある。
キューポラを開放し、ダージリンは窮屈な車内から日光が差し込む地上へと出た。
天気は晴れ、太陽は徐々にその高さを増している。
大洗女子はやはり、今大会のダークホースになりうる存在だった。予想の的中を喜ぶべきか否か、当然ダージリンは前者だった。好敵手はいくらいてもいい。それだけ自分を成長させてくれるから。だからきっと祝うべきことなのだこれは。
「勝負は第二ラウンド。市街地で決着をつけましょうか」
できるだけ華麗に、そして優雅に。
あの人により近い所で、勝利の栄光を掴み取る。
青い瞳に凄烈な決意を込めて、ダージリンは遥か彼方を見据えていた。
冷泉麻子、流石の操縦テクニック。
河嶋、痛恨の早とちり。
ダー様、溢れるやる気が空回り。
この話はだいたいこの三要素でできています。