西住殿のトラウマに向き合う回。きっと色々なSSで色々な解釈がされていると思いますが、本作はこんな感じです。
目の前で、戦車たちが牽引されていく。
煤塗れになり、装甲が剥がれ、砲塔は萎びた花みたいに折れていて。
試合が始まる前の綺麗に磨かれた姿とは一転して、ボロボロになってしまった戦車たち。
奮戦の証といえば誇らしいものに思えるが、それはきっと試合に勝った時にだけ許される言葉なのだろう。
西住みほはそんなことを考えていた。ここまで頑張ってくれたのだから、それに応えたかった。こんなになるまで戦った意味はあったのだと、それを証明したかった。
「…………ごめんね」
か細いみほの呟きは、誰の耳に入ることもなく空に溶けていく。
謝罪に意味はなかったが、それでもみほは言わずにもいられなかった。
誰に対して、何に対しての謝罪なのか、それすらも分からないまま。
「…………負けちゃったね」
「……そうですね」
武部と五十鈴は、茫然とした様子でそう言った。
秋山と冷泉も、二人と同じように運ばれていった戦車たちを眺めやっている。
負けた。そう、大洗女子学園は負けた。
全霊をかけて試合に臨み、最大限の努力と知恵を絞って、余すことなく全力を発揮して。
そして敗北した。
どう言葉を並べても、繕うことのできない結果がそこにあり、それはみほ達の心に消化できない異物となって沈殿していく。
悔しいのか、悲しいのか、疲れたのか。
いろいろな感情がぐちゃぐちゃに混ぜられて、もはやよくわからない。
ただ漠然と、暗澹とした気分がみほ達を包んでいた。
「………私が、最後にちゃんと合図できてれば……」
みほの口から自然と、そんな言葉が漏れた。
その時全員の頭に浮かび上がったのは、試合終了直前の一合のことであった。
仕掛けられた罠を掻い潜り、チャーチルの背後を取るまでに肉薄した四号戦車は、撃てば勝てるという絶好の機会を得ることに成功し、そのままそのチャンスを活かせないまま白旗を挙げることになった。
その理由は明白だった。車長のみほの合図で、五十鈴が砲撃をするという手筈になっていたのだが、その肝心のみほの合図が遅れたからだ。
送れたといっても、ほんの僅かなもの。本来なら、ミスにはなり得ないものだったが、相手は全国屈指の強豪、聖グロリア―ナ女学院。彼女たち相手には、些細なミスすら致命傷となる。
結果チャーチルの装填が間に合ってしまい、ほぼ同時での砲撃になった。そしてタイミングを逸した四号の砲撃は、チャーチルの装甲に上手くいなされてしまい、逆にチャーチルの砲撃は四号の装甲を簡単に貫いた。
勝利は目前だった。みんな初心者ながら、必死に頑張って、戦って、勝とうと必死にチャンスを切り拓いて。それをみほが―――――
「私のせいで、負けちゃってごめん……私はまた、
「そ、そんなことありません!西住殿がいなかったら、それこそ私たちは聖グロにボロ負けだったと思います!それを西住殿がいたから、後一歩のところまで追いつめることができたんです!」
「そうだよ!それに負けたのに誰のせいもないよ!ウチらはチームなんだから!」
秋山と武部の声が、みほの鼓膜を激しく打った。
五十鈴と冷泉も、二人と同じ気持ちのようだった。
「誰にだってミスはある。気にするな」
「みほさん、これは練習試合ですから、そんなに気負う事はありません。神栖先生も仰っていたじゃないですか、『楽しんでこい』って」
五十鈴はみほの手を取って、優しく微笑んだ。一緒に生徒会に立ち向かってくれた時と同じ、暖かみに溢れた手だった。
「私は楽しかったです……みほさんと、皆さんと一緒に戦車道ができて。撃って、撃たれて、追いかけて、追いかけられて。一秒一秒に夢中になって。華道とは違う、心が赤熱するような気持ちでした。あっという間でしたけど、ほんとうに、すごく楽しかったです」
頬を朱に染めた五十鈴の瞳は、きらきらと輝いていた。
それはいつか、遠い過去にみほがよく見た表情だった。
「私は、それだけでいいと思います」
「私も五十鈴殿と同じ気持ちです!」
「うんうん!恋愛もそうだよね!失恋しても最後にいい思い出になるなら、きっとそれでいいんだよ!」
「………恋人ができたこともないくせによく言う」
麻子ー!!とツッコミを入れる武部に、冷泉は相変わらずのぼーっとした顔で。
それを見ていた五十鈴と秋山が笑う。
(………みんな)
その声々はみほの中にゆっくりと浸透していく。
それはさながら曇天の中から差し込みはじめる陽光のようで。
五十鈴も、武部も、秋山も、冷泉も表情を明るくして、みほもそれにつられてほんの僅かに笑った。暗澹とした気持ちが少し、吹き飛んでいった気持ちだった。
「貴女が、大洗女子の隊長さん?」
凛とした声がみほに向かってかけられたのは、そんな時だった。
反射的に振り向く。そこには三人の女子がいた。
濃紺のセーターにブルーのスカート。決して堅苦しい意匠ではないが、それでも不思議と気品に満ちた制服に身を包んだ金とオレンジの髪色をした女子たち。
「は、はい」
「そう、良かった」
同じ声色。みほはさきほどの声の主が、三人の内、真ん中に立つ女子だったことを悟った。
試合前にも一度見たが、改めて見る。
なんというか、高貴、と言う言葉がぴったりと当てはまる人だった。日の光を反射して輝く艶のある金色の髪、宝石みたいに綺麗な青い眼を持っていて、職人が技を凝らして作りあげた芸術品のような見た目をしている。
一挙手一投足、立ち振る舞いに至るまで上品さが満ちていて、五十鈴とは別ベクトルの淑やかさがあり、五十鈴が『和の令嬢』なら彼女は『洋の令嬢』といった風体である。
みほも今まで色々な人を見てきたが、その中でも指折りの美少女である。
どれくらい顔が整っているかというと、見ているだけで息が漏れ、話しているだけで赤面し、対面しているだけで緊張してしまうくらいである。
「まずはお礼を。今日は楽しい試合をありがとう。とてもいい経験になりましたわ」
「い、いえっ。その、こちらこそありがとうございました」
美少女は声まで美しいのか、とみほは感嘆した。もはや嫉妬する気にもなれない。
慌てて腰を折ったみほに、軽やかに微笑むところとか同じ高校生とは思えない貫禄がある。
「最初は出来て半月のチームと聞いていたのだけど、とてもそうは見えなかったわ。よほど隊長さんの腕がいいのね」
「そ、そんな……私はなにも……」
慌てて謙遜するみほを、やはり目の前の人は面白そうに眺めていた。
「そうかしら?たしかに三突、八九式あたりは高いパフォーマンスを見せていたけれど、それもほんの僅か。申し訳ないけれど、少し突いただけで呆気なく崩れたわ。でもそんな中にあって、貴女の四号は違った……貴女たちは最後まで私たちの脅威だったわ」
それだけでも、貴女の実力を証明するのに余りある、と彼女は笑った。
花が咲くような笑みではなく、自身の論理を証明した数学者のような、そんな笑みだった。
みほとしては、頬が赤熱するような気持ちである。嬉しいようで、恥ずかしいようで、照れ臭いようで、そして………
とにかく色々な感情がいっぺんに押し寄せてくるような感覚だった。
「私は聖グロリア―ナ女学院戦車道の隊長、ダージリン。そちらは?」
ダージリン、とはまた日本人離れした響きである。しかし美麗な西洋人形のような見た目の彼女には、不思議とよく似合う名前であった。しかし流暢な日本語を話しているから日本人だと思っていたが、いよいよ国籍が不明である。
―――というか、そうじゃなくて。
「に、西住みほです…」
「西住?」
ダージリンのリアクションに、みほはたじろいだ。みほの名前ではなく、姓に反応を示す人は大勢いる。そしてそれは、だいたいが同じ理由であった。
「もしかして西住流の方かしら」
「う、あの、その……」
西住流。その名前は、今のみほにとって気軽に口にできるものではなかった。
否定はできない。だがだからといって肯定もできない。そんな曖昧なとこに立っているみほは、言葉を濁すしかない。
「そういえば、どことなく
「………はい」
みほは目を伏せて頷いた。またしても、否が応にも過去を思い出させる言葉だった。
「私も過去に何度か対戦させて頂きましたの。残念ながら一度も勝ったことはありませんけどね。まほさんはとても優秀な戦車乗りですし、同じ戦車道を嗜む者として尊敬もしています―――」
相手に悪気はない。寧ろ当然の世間話だ。
だから変に気分を悪くさせるような反応をしてはいけない。
しかしみほには、曖昧に笑うことしかできなかった。
それが今のみほにできる、最大限繕ったリアクションだった。
「けれど、まほさんと戦った数度の戦いよりも、今日の練習試合のほうがずっと楽しかったわ」
「え―――――――――――――?」
みほは引き付けられるようにダージリンを見た。
そこには端正な顔を、華麗に綻ばせている金髪青眼がいた
「まほさんとは全然違う戦車道。まだまだ粗削りで発展途上だけれど―――惹きつけられる魅力がある。人生で二人目よ、私をこんな気持ちにさせたのは。
最後の言葉が、みほには聞き取れなかった。
聞き返そうとした瞬間、ダージリンと名乗った少女は、手を差し出した。戦車道の選手とは思えない程傷一つない、白く綺麗な手だった。
みほはそれを、呆然と見つめる。
そしてややあって、差し出された手と金髪青眼の顔を、交互に見やった。
そんな様子のみほを見てもなお、ダージリンは言う。
「今日という日に、貴女と逢えて良かった。叶う事なら、次は全国の頂点をかけて戦いましょう――――――今度はお互い、持てる力の全てを賭して」
青い瞳を壮烈に輝かせ、ダージリンは笑った。獅子のように獰猛で、女神(アテナ)のように美しい、名門聖グロリア―ナのトップに相応しい、覇気に満ちた笑みだった。
―――――持てる力の全てを賭して。
その言葉の意味を、みほは正確に理解していた。ダージリンは気づいていたのだろう、最後の一騎打ちで見せたみほの迷いを。
申し訳ないという気持ちはあった。
だがそれでも。
僅かな葛藤の後、みほは差し出された手を掴む。
柔らかい感触。でもその芯には、燃えるような熱がある。
これが神奈川の雄、聖グロリア―ナ女学院の隊長、ダージリン。
みほは触れ合う右手から、言葉で語られる以上のものを感じ取っていた。
みほにはこの手を掴み返す資格は、ないのかもしれない。
けれど『貴女に逢えて良かった』なんて、『戦えて楽しかった』なんて言われたのは、初めてだったから。それが嬉しかったから。
だから今だけは、とみほは思った。
自分勝手で中途半端な自分を全部抑えつけて、その言葉に応えたかった。
二人の間に繋がる
それはきっと、戦車道において最も大切な事。そして人生という道において、掛け替えのない宝物。みほがそれを知るのは、もう少しだけ先の話だった。
「――――――ところで話は変わるのだけれど」
はえっ?とみほは間の抜けた声を出してしまった。
え、あの、あれ。さっきまでの楽器みたいな綺麗な声はどこにいったのだろうか。急に二段階くらい低くなったというか、鋭くなったような。顔も笑ってはいるのだけど、目が笑ってないし……とにかく底知れぬ圧を放っている気が……
「大洗女子学園は戦車道の講師を招いた、とお聞きしたのですけど」
「え、あ、はい。そうですけど……」
どこからそんな情報を仕入れたのだろうか、と考えたところで、みほは聖グロリア―ナに練習試合の申し込みをしたのが兄だったことを思い出した。
「その方は今どちらにいらっしゃるのでしょうか?できればご挨拶を……」
「お兄、じゃない神栖先生にですか……?」
随分と礼儀正しい人たちである。聖グロリア―ナはお嬢様学校と聞いているし、やはりそのあたりの教育がしっかりと行き届いているのだろうか。
みほはくるり、と辺りを見渡した。
しかしその目に兄の姿が映ることはなかった。
試合中は観客席の方にいただろうが、今となってはどこにいるか知れない。
あの兄、普段はお地蔵様みたいに腰が重いが、いざ動くとなるとタンポポの綿毛のようにあっという間に何処かへ行く。動き回られると発見はかなり困難である。
「えと、誰か見なかった?」
「私は見てない」
「私も見てないなぁ」
「先ほどそれらしき匂いはしてましたけど……」
「さっき戦車運搬の人達と話しているのを見ました!」
……どうしたものか。秋山の言う通りなら、そんなに遠くにはいないはずだが。闇雲に探しに行くよりは、電話した方が早そうである。
「武部さん、ちょっと神栖先生に電話を―――」
「その必要はない」
びくっ、とみほの両肩が跳ね上がった。というか、おそらく武部たちも同じだっただろう。
それはそうだ。音もなく背後に忍び寄られ、いきなり声をかけられたら誰だってそうなるだろう。
みほは眉を八の字にして、件の人物に目をやった。
そこにはイジワル気に笑う兄がいた。みほの視線にもどこ吹く風で、約30センチ高いところからみほ達を見下ろしている。
みほは兄の雰囲気から、驚かすつもりで後ろから声をかけてきたことを悟った。
「何か用か?」
何でもない風に聞いてくる兄に腹が立つみほであった。
聖グロの人達がいなければ、『みほパンチ』の一つでもお見舞いしてやったのに。
「私たちじゃなくて、聖グロリア―ナの隊長さんが挨拶したいって――――――――――」
みほは視線をダージリンに移した………はずだったのだが、そこに金髪青眼の姿はなかった。
あれ?と首を傾げて、キョロキョロと辺りを見渡す。しかし見当たらない。
何処に行ったのだろうか、と考えたところで、ふと声がした。
「ちょっとダージリン、貴女ここに来てヘタレてどうするの」
「う、うるさいわねっ。ヘタレてなんかいないわよ、これはそう、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ気持ちの準備をしているだけ。別に隠れてるとか直視できないとか、断じてそんなんじゃないわ」
もう一人の金髪の持ち主、その背後に誰がどう見ても分かる形で、ダージリンは隠れていた。
ひょっこり顔だけを覗かしてこちらを伺うその姿は、まるで小動物のようで、先ほどまでのカリスマに溢れた姿は木っ端みじんに砕けてどこかに吹き飛んでいった。
「どれが隊長?」
「えーと……」
みほは返答に詰まった。一番それらしく見えないのが隊長です、とは言えなかった。さっきまでのダージリンを知っているから余計に。
というか最早みほが訊きたいくらいであった。あの人、本当にダージリンなのだろうか。
「ヘタレてないなら早く行きなさい。私が聖グロリア―ナの隊長として認知されてもいいの?」
「そんなのダメよ。なんのために今日頑張ったと思っているの」
「なら行きなさいって」
「こんな格言を知ってる?『急いては事を仕損じる』」
何を話しているのかは、みほには聞こえない。しかしなんとなく、楽しい会話をしている感じじゃないな、と思った。主に黒いリボンをつけている金髪の人の表情的に。
結局二十秒くらい、こそこそと話している聖グロの人を見ることなったのだが、やがてドンと突き出される形でダージリンがこちらに歩みを進めてきた。
はわわ、みたいな表情をしているあたり、自分のタイミングで来た感じではなさそうである。
渡里を上目遣いで伺い、目を伏せ、また伺い、目を伏せるを三回ほど繰りかえす。
そしてコホン、と可愛く息を整えると、
「初めまして。聖グロリア―ナ女学院戦車道の隊長をしています、ダージリンと申します」
「はい、知ってますよ」
「ほ、本当ですか!?」
「先日お電話させてもらいましたから」
「そ、そうですよね……」
何だろうこの会話、とみほは首を傾げた。
言ってこと自体は普通なのだが、なんとなくおかしな気がする。特に、ダージリンの反応が。
一つ一つの言葉に対してオーバーリアクションというか過敏というか。
みほは会話の邪魔をしないように下がり、二人の会話を観察してみた。
渡里が何か言う。すると頬を紅潮させたダージリンが慌てた様子で両手をわたわたと忙しなく動かし、言葉を紡ぐ。
渡里は笑ってそれに応じ、ダージリンに右手を差し出した。
握手だろうか、とみほが思った矢先、ダージリンは両手でその右手を握る。握手ではなく、胸に抱え込む形。両者の距離が一気に縮まる。ダージリンの制服を下から押し上げる確かな胸の膨らみが、渡里に当たりそうなくらいにまで。
目を輝かせ、ついに顔全体を真っ赤にするダージリンは、興奮した様子で渡里との距離を更に詰めていく。
あの、それ以上はあのウチの兄が社会的に不名誉な罪で逮捕されてしまうので止めて頂けませんか。
渡里も分かっているのかジリジリと後退するのだが、その分だけ前進されてしまって一向に距離が開かない。
その間にもマシンガンのように言葉を捲し立てるダージリンに、渡里はなんとか笑いながら受け流しているが結構ギリギリそうである。言ってる間にもう抱き着きそうなくらいまで行ってしまいそうなんだけどあああやめてやめてーーー
「すいません、ウチのダージリン様が失礼を」
「はっ!い、いえこっちこそウチのお兄ちゃんがご迷惑をおかけしてます!」
あわわ、はわわと事態を見守っていたみほに、横から声をかけてきたのは聖グロもう一人の金髪の持ち主だった。
黒いリボンで豊かな金髪を結っていて、切れ長の瞳から怜悧な印象を受ける彼女は、困った様子で言った。
「本当にあの人と逢う日を楽しみにしていたみたいで、昨日からずっとあんな調子だったんです。最初は化けの皮を二十枚くらい着こんでたんですけど、どうもあの人を見た瞬間に全部剥げてしまったみたいで」
「そ、そうなんですか……」
そうとしか言えないみほであった。威厳に満ちた姿と今の姿、どちらかが演技というわけではないのだろうけど……そうなると気になるのは、
「あの、お兄、じゃない神栖先生とはどういう関係なんでしょうか?」
渡里にあるという、ダージリンをあんな風にした理由である。
兄の交友関係は知らないが、以前からの知り合いというわけではないらしいし、何をやったらあんな美少女に会いたがられるのか。
黒いリボンの少女は、苦笑混じりに答えた。
「一方通行な関係です。一言で言うのなら、ファンですね」
「――――ふぁん?」
なにそれ、とみほは目を丸くした。それは聞いたことのある言葉だが、対象者と被対象者を当てはめると、途端にみほの理解を超える単語になった。
ファン。それは、特定の人物や事象に対する支持者や愛好者のこと。
ダージリンが、神栖渡里の?逆じゃなくて?
「あ、あのそれってどういうーーーーーむぐっ」
「意味かは、また今度な」
信じられない思いで尋ねようとしたその瞬間、大きな手がみほの口を塞いだ。
同時に嗅ぎ慣れた心地よい香りが、みほの身体を包む。
みほは瞬時に手の持ち主を悟った。
兄がいつの間にかこちらに来ていたのだ。
「お兄ちゃん……話終わったの?」
「終わってねぇよ……」
「な、なんか疲れてない…?」
エネルギーが持っていかれてる感のある表情だった。
しかし兄は何でもない風に手を振って、
「聖グロの人にお呼ばれしたから、ちょっと行ってくる」
「お呼ばれ?」
え、とみほは反射的に視線を聖グロの面々へと向けた。
するとそこには、
「ちょっとアッサム!アッサム!聞いた!?神栖渡里様がウチに来るって!!早く準備しないと!?オレンジペコ、いい茶葉はまだ残ってたかしら!?粗相があってはいけないから最高級の紅茶を用意しなさい!ああルクリリにも早く教えてあげないと!!きゃーどうしましょう!?神栖渡里様と一緒にお茶が飲めるなんてーーー!」
「ダージリン、落ち着きなさい」
「ちょ、ちょっとダージリン様、あんまり肩を叩かないでください…」
「………お兄ちゃん、ダージリンさんに何したの?」
「今も昔も何もしてないけど……ま、秘密だな」
嘘でしょ、と白い目を送るみほ。
そんなことより、と渡里は便箋を一つ取り出した。
「みんなに伝言宜しく。今日はもう皆疲れただろうから、今から自由行動だ。戦車はこっちで学校の方に運んどくからゆっくり休むなり遊ぶなりしといてくれ。ただし学園艦の出港時間は厳守、それまでには必ず乗艦すること。んで、これお使いよろしく。ポストに投函しといて」
はい、と渡されるままみほは便箋を受け取った。
そして兄は他に何か言うこともなく、すぐに踵を返して歩き去っていく。
みほはそのとき、無意識にその背に手を伸ばしかけている自分に気が付いた。
何をしているのだろうか、自分は。いったい呼び止めて何を言うつもりなのか。それとも何かを言って欲しかったのか。それすらも分かってないくせに。
虚しく空を切った手を、みほは隠すように握った。
聖グロの人達はみほに会釈して楚々と歩き去っていく。約一名、スキップしていたが。
みほもまた、武部達の方へと歩みを進めた。
「な、なんか凄いもの見ちゃったね……!」
「聖グロのダージリンといえば、常に余裕のある態度を崩さない、優雅な人と聞いてたんですけど……なんか意外でした」
「真逆だったぞ」
「そんな人をあんな風にしてしまうなんて……ますます神栖先生が謎になりましたね」
確かに、とみほは頷いた。みほが知らないということは、留学してから大洗女子学園に来るまでの間に何かがあったのだろうけど……兄はそのあたりのことを一度も語ったことがない。兄があの頃と何一つ変わっていなかったから、みほもまた気にしたことはなかった。けれど、いつまでも知らないままではいられないのかもしれない。
「それで神栖先生はなんて?」
「あ、今日はもう自由だって……皆にも伝えてこないと」
「じゃあ折角ですし、みほさんに大洗町を案内しましょうか」
「おぉ~いいですね!」
「私はおばぁのとこに行く。顔見せないと叱られる」
そして武部達はは歩き始めた。みほもまた、その背中を追いかけるように続く。
ずきずきと、ほのかに痛む心を抑えつけるようにして。
○
神栖渡里は夜を歩いていた。学園艦の住宅街は陸のそれとほとんど変わらないが、人がたくさんいるところとそうでないところがあるので、街灯と、住宅の窓から漏れる光で明るい道もあれば、月明りだけが頼りの薄暗い道もある。
渡里は後者の道を歩いていた。時間は午後九時。大半の人は家に帰っているので、すれ違う人はいない。ただ時折、潮風が渡里の頬を撫でていくだけである。
渡里に散歩する趣味はない。ましてや夜なんて尚更。普段なら布団の上で練習メニューを作るか、選手のデータを見たりしている。夜の間は基本的に家から出たくないというのが渡里のポリシーである。
しかしそれを曲げてまで出歩くことにしたのには、当然理由があった。
(うーん慣れないことしたからか、ちょっと身体が重いなぁ)
戦車道のことで渡里が疲労することはない。三日間くらい徹夜したって、渡里は平然と生活できる。……慣れないことというのは、練習試合の後、聖グロリア―ナ女学院の学園艦にお邪魔した時のことだった。
流石はお嬢様学校、というのが率直な感想だった。どこを取っても豪華というか、貴族の住まいのような雰囲気で、とにかく格式が高い感じだった。床に敷かれているカーペットや凝った造りの机など、渡里は思わず「いくらくらいすんだろ」と値段を想像して、一々触るのに気を遣った。一から十までそんな調子だから、肩が凝ってしまったのだ。
一応、みほの実家たる西住家(上流階級)で生活していたのだから、ある程度そういったものに耐性はあるし、最低限のマナーもばっちり教育されている。ただ、だからといって実家のようにくつろげるわけでもないわけで。
それに加えて招待主たるダージリンという少女は、渡里にとって未知の存在だった。いや、聖グロの生徒はみんな校風に違わぬ瀟洒な人ばかりだから、普段みほや大洗女子のような「ザ・一般人」とばかり話している渡里にとっては全員未体験ゾーンの住人だが、ダージリンはその中でも格別だったのだ。
詳細は省くが、今まで出会ったことのないタイプの少女だった。
知的でユーモラスというか、一言では説明できない独特な性格をしていて、正直見ているだけで面白い。
微妙な息苦しさを感じていた渡里も、そんなダージリンの調子に感化されて、最終的には「話してて楽しいなぁ」と思うくらいには良い時間を過ごさせてもらった。
ただまぁ、申し訳ないけど、彼女との会話はいつも使わない筋肉を使う感じで、精神的に筋肉痛な気分になってしまって、結構疲れた。
楽しさ七割、疲れ三割。渡里の聖グロ訪問は、そんな感じであった。
そんなものだから今日は、布団の上でゆっくりと休みたい気分だったが、これがそうもいかない。
渡里は右手に提げたビニール袋の中を、チラリと覗いた。
そこには二人分の飲み物が行儀よく収まっていた。
自分が飲むわけではない。渡里は基本お茶か水があればそれでいいので、コンビニでこういうものを買うことはめったにない。……これを振舞う相手は、別にいるのだ。
黙々と歩くこと数分、渡里は学園艦の端っこ、海が一望できる場所に辿り着いていた。
住宅街とは並木を挟んだ海側に位置し、遊歩道の下には土手があるこの場所は、おそらく住民の休憩所のような役割をしているのだろう。横長のベンチがいくつか、海に向けられる形で置かれている。散歩しているお爺ちゃんお婆ちゃんが、きっとここに座って世間話に花を咲かせたりしているに違いない。
しかし渡里は、わざわざこんなところに休みに来たわけではない。
立ち止まり、辺りを見渡す。
すると、夜の色を反射する海が渡里の視界の大半を占拠する中、対照的に明るい色が一つあった。
それは小さな点のようで、ふと目を離すと、幻のように消えてしまいそうなほどに儚い。
色は明るい栗色で、それは渡里がよく知っている色だった。
やっぱりな、と渡里はため息交じりに呟いた。
外れてほしい予感ほど、的中するものである。
渡里は歩みを進めた。
そして、栗色の点に声をかけた。
「こんな時間に出歩くなんて、お兄ちゃん感心しないな」
○
「そんなに海好きだったのか、お前」
不意にかけられた声に、しかしみほは一切動揺しなかった。
ただ漫然と、脊髄反射に近い動きでその方向を見やる。
そこに、みほのよく知る人物がいた。
野暮ったいジャージに身を包み、ビニール袋を提げた背の高い男性。
名前を、神栖渡里といった。
「お兄ちゃん……」
「昔っから山や川で遊んでるから、山派なのかと思ってたけど、中学高校で変わったのか」
そう言いながら、渡里は無遠慮にみほに近づき、すぐ横に腰を下ろした。
土手で横並びに座る成人男性と女子高生。どこかの漫画でありそうな構図だな、とみほは場違いなことを考えていた。
「ほらよ、コーヒー牛乳と緑茶、好きな方を選べ」
「なにそのチョイス。……じゃあ緑茶で」
兄が無造作に取り出したのは150mlのペットボトル。投げるように渡されて、すっぽりとみほの手に収まる。両手で持つと、ほんのりとした温かさが掌に広がった。
「………」
そして二人は、ぼーっと海を眺め始めた。
何も言わず、何も語らず。ただ肩を寄せ合って、同じ方向を見つめ続ける。
何でここに?とは聞かなかった。兄がここにいる理由を、みほは知っていたから。
いつだってそうなのだ。悲しい時、辛い時、真っ先にみほを見つけて、傍にいてくれる。
まるでみほと渡里の間には見えない糸があって、糸電話みたいにして感情が伝わっているかのように。
海を眺めながら、みほは漠然と思っていた。こうしていると、兄が来てくれるんじゃないだろうか、いや、来てしまうんじゃないだろうか、と。
そしてそれは、見事に的中した。
それは喜ぶことなのか、みほには分からなかった。
「………やっぱり、引きずってたか」
ぽつり、と漏らした渡里の小さな言葉に。
ドクン、と心臓がひと際大きく鼓動した。
「すっかり隠すのも巧くなったな。武部達も気づいてないだろ、多分」
「………お兄ちゃんに隠し事はできないね」
兄妹だからな、と薄く笑う兄にみほもまた、上っ面だけの笑みを浮かべた。
お互いの気持ちが分かるというのは、良いことでもあるし悪いことでもあった。
ほんの一瞬だけ、誤魔化してしまおうと考えた自分を、みほは改めた。
他の誰でもない、兄の前だ。もう、逃げることはできない。
きっと、兄も気づいている。今日の練習試合、なぜ最後の最後で、みほが躊躇ったのかを。
ならいっそ、自分から告白すべきだろう。兄だって、それを聞くために来たはずなのだから。
みほは、逸る鼓動を必死に抑えて口を開いた。
「……お兄ちゃんは、きっと知ってたよね。私がしてしまった、取り返しのつかないこと」
「……去年の、全国大会決勝戦のことか」
みほは頷いた。過去の記憶が、映像となって頭の中を駆け巡る。
それは、強い雨の降る日のことだった。
「黒森峰女学園とプラウダ高校による決勝戦。圧倒的実力を誇り、決勝まで難なく勝ち上がってきた黒森峰に対し、プラウダは元から地力で劣っていた上に、内部分裂の噂があった。これにより大半の人間は黒森峰が優勝し、十連覇の偉業を達成すると信じて疑わなかった」
でも、渡里は続ける。
「結果はプラウダの優勝。黒森峰の敗因は、本隊から分離させていたフラッグ車が発見され、撃破されてしまったこと。……黒森峰の隊長の作戦が間違ってたわけじゃない。フラッグ車の車長は黒森峰の副隊長。実力的に、たとえ発見されても撃破されることはなかったはずだった」
渡里の言うことは当たっている。ただ、一つの言葉が付いていないことを除いて。
その言葉はこういうものだーーーーー何もなければ。
「フラッグ車撃破の原因となったのは、車長が指揮を放棄し、川に転落した友軍の救助に向かったから。車長を失い、混乱したフラッグ車は一時的な行動不能に陥り、その隙を突かれた」
当時世間は、そのフラッグ車の車長を黒森峰敗北の要因として、痛烈なバッシングを浴びせた。たった一人の選手に、全ての責任が押し付けられたのだ。
全国大会九連覇。黒森峰女学園にかけられた期待は、尋常ではなかった。関係者、OGはもちろん、一般人ですら偉業が成し遂げられる瞬間を心待ちにしていた。
その分だけ、落胆も大きかった。そして、批判の声も比例して大きくなる。
そしてそれら全てが集中した選手こそ、
「それが、私」
西住みほ、という。
そこから先は地獄だった。チームメイト、OG、記者、あらゆる人々から非難され、学校の中にいても、外にいても、常にみほには悪意の視線が向けられる。もはや逃げ場はなかった。
目を瞑れば、試合のシーンが浮かび、その度に胸が締め付けられるように痛む。
寝付けぬ夜が続き、徐々に精神が摩耗していく。
そんな日々を、みほは過ごしてきた
この世の全ての人が敵になったような感覚は、やがて大好きだったはずの戦車すらも、トラウマの対象として映すようになる。心にぽっかりと空いた孔はみほを蝕み、それを埋めてくれるものは見つからないまま、時間だけが過ぎてゆく。
そして心が擦り切れそうになったある日、みほは………黒森峰女学園を退学した。
これが、西住みほの過去。武部達には未だ伝えることができず、独りで抱え続けているトラウマ。
「あのとき、お兄ちゃんに言ったことは嘘じゃないよ。大洗女子学園に来て、武部さん達と出逢って、また戦車に向き合ってみようと思えたのは本当なの。少しだけ怖かったけど、でも……、お兄ちゃんとの約束もあったから。だからまた戦車に乗ろうと思った」
――――『お互い戦車道を続けていよう。そしたらまた逢えるから』。
スタートラインまで連れてきてくれたのが武部と五十鈴なら、そこから一歩踏み出させてくれたのは渡里。
皆がいたから、みほはまた歩き始めることができた。きっと独りじゃできなかったはずだ
だから思った。みんなとなら、どこまでも歩いていけると。
「武部さんと五十鈴さんと、秋山さんと冷泉さん。みんなと戦車に乗って、やっぱり楽しいなって思って。そしたらいつの間にか胸の痛みが無くなってた。だから大丈夫なんだって思ってた……でも、ダメだったよお兄ちゃん。私は、前なんか見てなかった」
きっとみほは、見て見ぬ振りをしてただけなんだ。
今が楽しいから、それでいいんだと、暗い過去から目を背け続けて、全部忘れて吹っ切ったつもりになっていただけ。
ほんとは何も変わってないのに、前に進んだ気になっていた。
それを、自覚させられた。今日、ダージリンとの、最後の一騎討ちで。
もしあれが公式戦だったら?みほはまた、チームみんなの努力を、夢を台無しにしていた。
そう考えると、みほは堪らなくなるのだ。
「わかってるの。悩むのは、迷うのは私が答えを出せてないから」
誰もが言う、お前は間違っていると。
知ってるよ、そんなこと。罪を認めて、謝って、「二度とこんなことしない」と言えば、きっと楽になれるんだろう。
でもダメなんだ。他ならぬ自分が、それを許してくれない。あの日からずっと心に残っている想いが、みほの脚を止める。
「しんどいのに、辛いのに、心が折れてくれないの」
だってそうじゃないか。雨で増水し、氾濫する川に落ちた戦車なんて、どうなるか分かったものじゃない。あのまま放っておいたら、命の危険だってあったかもしれないのに。
友達を犠牲にしてまで勝ったって、何の意味もないって、みほは思ってしまった。
母に否定されても、姉に見放されても、その想いだけが消えてくれない。
だからみほは、張り裂けそうな心を必死に抑えつけるんだ。さっさと諦めてしまえば、楽になれるのに。
「今日ね、五十鈴さんの家に行ってきたの。五十鈴さん、戦車道をしてたの、お母さんにずっと内緒にしてたみたいで……戦車道を続けるなら、二度と家の敷居を跨ぐなって言われてた」
それは武部たちに、大洗町を案内されていた時だった。海沿いのモールを歩き回っていた時、偶然五十鈴の母と出逢い、そしてそのまま、流れるように五十鈴の実家へと招待された。
「でもね、五十鈴さんは一歩も退かなかった。自分の道は自分で選ぶって、真っ直ぐにそう言って。……私、それ見て本当に強い人だなって思ったの」
五十鈴は気丈だった。母から勘当を言い渡されても毅然としていて、自分の決めたことに胸を張って、「これでいいんです」とみほ達に笑いかけたのだ。きっと母も、いつか解ってくれるはずだ、と。
「それに比べて私は、なんでこんなに弱いんだろうね」
同じように実家から離れ、独りになったみほと五十鈴の境遇は似ていた。だからみほは、五十鈴と自分とを比較し、その違いに気づいてしまった。即ち、心の強さである。
自分の気持ちを伝えることもできず、周りの考えに染まることもできず、中途半端なところで宙ぶらりん。自分の気持ちを消すことができないくせに、その気持ちを信じ切ることもできない。
「だからこんなに苦しいの。ねぇ、教えてお兄ちゃん」
みほは縋るように兄の腕を掴んだ。
それは、みほにとってとてつもない勇気を必要とする行為だった。
だって聞いてしまえば、もう直視するしかなくなる。今まで先延ばしにしてきた答えを。
誰よりも大好きな兄に否定されてしまったら?その可能性が、何よりもみほを恐怖させる。
でも、もし兄が認めてくれたなら。
たとえ世界中の人に何を言われたって、兄だけが私の味方でいてくれるなら……。
そんな考えが、みほにその質問をさせた。
「私は、間違ってたの?」
その時の兄の表情は、形容しがたいものだった。
悲しみ。憐れみ。怒り。憎しみ。慈しみ。いろんな感情がごちゃ混ぜになって、限りなく無色に近いものになっている気がした。
「そっか」
そして、不意に渡里の目に一つの色が宿る。
「うん、辛かっただろうな。今まで、よく頑張ったな」
頭に置かれた手が、優しくみほの髪を撫でる。何度も優しく、ゆっくりと。
渡里の口が、緩やかな弧を描く。声色は柔らかく、暖かみに溢れていて、みほの心を穏かにしていく。
あぁ、とみほは安堵した。いつもの兄だ。いつだって優しく、あらゆるものから守ってくれた兄が、今目の前にいる。
「ずっと気になってはいたけど、聞けずにいたから。お前の本音が聞けて良かったよ」
そしてみほは知る。
兄は誰よりも優しい人であって、甘い人ではないということを。
「――――で、俺に何て言ってほしかったんだ、お前」
「―――――――――――」
みほは虚を突かれた気持ちになった。
慈愛に溢れていた兄の瞳が、いつの間にか剣呑な光を灯していた。
「俺が間違ってるって言ったら、お前それで納得できんのか。俺が正しいって言ったら、それで胸張って誇れるのか」
冷たい声色が、みほの心臓を大きく震えさせる。
感じていたはずの温もりが、みほから離れていく。
「自分の選択が正しかったのか、間違っていたのか。それを誰かが決めてくれるなら、誰だってそっちの方がいいと思う。だって、楽だろ?」
それは悪いことじゃない、と渡里は僅かに悲し気な笑みを浮かべた。
「悩んで、迷って、何にも分からなくなってしまって。何が正しくて、何がしたかったのかさえも忘れるくらいなら、誰かに決めてもらいたい。俺だってそう思うさ……だから今のお前の気持ちは、決して間違いじゃない。それは、普通のことだよ」
その時兄は、もうみほを見ていなかった。その目は海に向けられていたが、もっとずっと遠くを見つめている気がした。
「っだったら!」
「でも、俺はお前の気持ちに答えることができない。……みほ、聞いてくれないか?」
再び交差する視線。そこには、切実な想いが浮かんでいた。
「これは俺の我儘だ。―――辛いのは解ってる。それでもやっぱりさ、みほに、誰かの言葉一つで自分の答えを簡単に決めてしまうような、そんな人になってほしくない」
「――――っ」
例えば渡里じゃなくても、他の誰でもいい。
もしみほの行為に賛同し、認めてくれる人がいたなら、きっとみほはその人のことを心の底から信頼するようになるだろう。その人がくれた言葉を拠り所にして、疑うこともせず、前に進んでいく。
それでいいじゃないか。人は、そうやってお互いに支え合っていくものだろう。
でも兄はそれを、ダメだと言う。
だから、是とも否とも言わない。
「お前は優しいから、責任を感じてるんだろ?自分が中途半端だから、負けてしまったって。
今日みたいなことをまたいつかやってしまう、この先みんなに迷惑をかけてしまう。だから早く答えを出さないと、って焦ってる」
そして兄は、柔らかな笑みを浮かべた。
まるで手のかかる問題児を諭す教師のような口調で、兄は言う。
「みんな、真っ直ぐ進み続けることが良いことだと思ってるけどさ。別に立ち止まったって、後ろを向いてたっていいだろ。何か絶対的な答えとか、信念とか、そんなもんがないと進んじゃいけないことはないはずだ」
だから、と渡里は右手を伸ばし、みほの頬を抓んだ。
シャボン玉が割れないように触るような、優しい動作だった。
「人は迷いながらでも歩いていける。だから、もっとゆっくり考えたらいんだよ」
あれが正しいのか、これは間違ってるのか。
ああだこうだと試行錯誤して、一歩一歩迷いながら歩いていく。
どこに繋がってるかも分からない、もしかしたら今より酷い未来が待ってるかもしれない。
そんな何の保証もない道を、自分で切り拓いていく。
「そしたらいつか必ず見つかる。何があっても決して迷わないし、揺らがない、自分だけの道ってやつが」
そしてそれは、自分自身で見つけないといけないんだろう。
「『これが西住みほだ!』って胸張って言える、そんなみほが見たいと思うよ」
「………お兄ちゃんは、厳しいね」
みほは初めてそう思った。兄は、みほにとっての光だった。どんな辛い時も、悲しい時も、必ず兄が見つけてくれて、手を引いて導いてくれてた。
だから思った、兄についていけば、それでいいんだと、と。
兄の言うことは、その真逆だ。
辛くても、しんどくても、楽をするな。例え心が張り裂けそうなほどに痛もうとも。
迷いながら、苦悩しながら、それでも探し続ける。誰かの言葉によってじゃなく、自分自身の力で見つけるんだ、自分の、自分だけの戦車道を。
例え今より、ずっとしんどい日々を送るとしても。
「折れるな、挫けるな、頑張れ。俺が言えることは、そんだけだ」
「………ダメだよ、お兄ちゃん。私は、そんなに強くないよ」
自嘲するようにみほは言った。
兄の言うことは正しいのかもしれない。でも、正しいからって何でもできるわけじゃない。
耐えられないから、こうして兄に救いを求めている。
どこでも、なんでもいいからと、逃げ場を探している。
西住みほは、誰もが思っているほど、強い人間じゃないんだ。
「いいじゃないか、今は弱いままで」
「――――え?」
渡里は突然、立ち上がり言った。
釣られてみほも、兄の顔を仰ぎ見た。
その横顔は、夜の空に映えて見えた。
「自分で答えを出すことと、誰も頼らないことは違う。これからお前は、辛く険しい道を歩いていくことになるけど、独りじゃないだろ?」
兄の指が、みほの後ろへと向けられる。
引っ張れるように、示された方へと顔を向けたみほの、その先。
「あーーーー!!!やっと見つけた――――!!」
「みほさん!!良かった……!」
「西住殿―!無事ですかー!?」
「ふぅ、一安心だな」
武部沙織、五十鈴華。みほが大洗女子学園で出来た初めての友達。
秋山優花里、冷泉麻子。みほがまた戦車道を始めたことで出来た友達。
同じ四号戦車に乗り、共に戦うかけがえのない仲間たちが、そこにいた。
「みんな……なんで……」
「お前を探してたに決まってんだろ」
あ、とみほは気づいた。みんな、寝間着のようなカッコをしてるのに、汗をかいてる。普通、そんなことはしたがらないはずなのに。
――――探してくれたのか、自分を。色々なところを、走り回って。
「あれ?神栖先生?」
「あら、そうですね。一緒だったみたいです」
「なるほど、だから家にいなかったんですね」
「要らない心配だったな」
おーい、と手を振る武部達の姿を、みほは瞠目して見ていた。
声を出すことも、手を振り返すこともできず、ただ茫然とするみほの頭に、兄は軽く押すようにして手を置いた。
「あいつらはきっと、弱かろうが強かろうが、ありのままのお前を見てくれる。だから支えてもらえばいい。手を繋いで、一緒に歩いていけばいい。独りじゃ越えられない道も、それなら越えていけるさ」
よいしょ、と兄はみほの腕を掴み、引っ張り上げて立たせた。
思わずよろめいてしまったみほを、しっかりと支えて渡里は言う。
「自分だけで強くなれないのなら、あいつらと一緒に強くなれ。お前には、そっちの方が合ってるよ」
そしてみほは、ポンと背中を押された。
わ、と思わず声が出て、振り返るとそこには、笑顔の兄がいた。
「疲れたなら俺のところに来い。でも、お前はまだ疲れちゃダメだ」
その言葉の意味を、みほはゆっくりと噛み締めた。
深く、深く、心の奥に沈みこませて、身体の隅々まで行き渡るように。
「私、今まで結構頑張ってきたつもりなんだけど」
「じゃあ、もっと頑張れ」
兄は笑顔だった。だからみほも、今の自分にできる精いっぱいの笑顔を浮かべた。
ほんとに、なんて兄だ。こんな状態の妹を見て、「甘えるな」と言うんだから。
普通の妹なら、きっと絶交してる。でも、しょうがないからみほは許してやろう、と思った。兄は絶対に、ずっと自分の事を見てくれるはずだから。
兄から一歩離れ、武部達に一歩近づく。そして一歩、また一歩と、地面の確かに踏みしめて進んでいく。
みほは振り返らなかった。ただまっすぐに、武部達を見つめていた。
「もうっ、何してたの?連絡しても全っ然返事が来ないから心配したよ?」
「家に行っても誰もいなかったですし……神栖先生がいるとはいえ、あんまり夜に出歩くのは危ないですよ、みほさん?」
「……うん、ごめんね。それから、ありがとう」
みほは改めて武部達を見つめた。
みんな、心配してくれたんだろう。『友達に恵まれてた』という兄の言葉を、みほは実感していた。そして少しだけ後悔した。今まで、過去をずっと隠してきたことに。
一緒に歩いていくなら、打ち明けるべきだろう。僅かに不安はある。
でも、みほは兄を、そして友達を信頼しようと思った。
「あのね……」
だからここから始めよう。
あの日のことから目を逸らさずに、答えを出すために。
「みんなに聞いてほしいことがあるの」
本当の、自分の戦車道を見つけるために。
○
確かな足取りで歩いていく妹の背中を見送りながら、渡里はため息を吐いた。
まったく、自分は本当に馬鹿で救いようのない人間だ。
あんなに傷つき、苦悩する妹に、慰めの言葉一つかけてやれないのだから。
みほは兄と呼んでくれるが、渡里はそうは思えない。
「兄失格だな」
妹の、みほの心を救いたいのならば、すべきことは一つだ。
ただ一言、「お前は間違ってない」と言ってやればいい。よく友達を救ったと、そう褒めてやれば、それだけでいい。
そうすればみほは、きっと前を向いて歩いていけた。悩みも、苦しみも、全部振り払って、真っ直ぐに、どこまでも進んでいけた。
それが分かってるのに、渡里はそれができなかった。
それは、本当に自分勝手な理由だった。
今、みほの心を救い、強くしてやることは簡単だ。
だがそれで成長するのは、みほだけなのだ。
大洗女子学園というチームがこれから強くなってためには、それじゃダメだと渡里は思ってしまった。誰か一人が強くなるじゃなく、誰もが強くならなければならない。
そう考えた時、渡里はみほにもっと困難な道を歩ませることにした。
甘えも、逃げも許さない。過去の自分が正しかったのかそうでないのか、誰かに決めてもらうのではなく、自分で決めろ、と。
きっとその方が、大洗女子学園というチームは強くなると、そう直感したから。
兄として妹を救う道か。
教導官としてチームを強くする道か。
その二つを前にして、渡里は後者を取ったのだ。
これを兄失格と言わずして何と言うのだろうか。妹のことより、
いや、あるいは教育者として失格なんじゃないだろうか。
まったくお笑い種である。――――
自分は一体、どの口でみほにあんな説教をしたのだろうか。
「………夜は冷えるなぁ」
手元にあるコーヒー牛乳を、渡里は一切口につけていなかった。
これ、お茶と間違えて買っちゃったんだよなぁ、と渡里はペットボトルを眺めるしかできなかった。
他作品を貶す気持ちは一切ありません。
作者的にもオリ主でも誰でも西住殿を励まして、それで西住殿がニコニコ、誰かとらぶらぶできるSSの方が大好きです。可愛いからね。
でもそうならないのがこのSS。理由は作者が可愛い西住殿を書けないから。