おそらく原作でも最強レベルのメンタルを持つ五十鈴殿ですが、本作ではこんな感じになりました。
ほのかに吹く風が、頬を撫でていった。黒く長い髪が僅かに揺れて、僅かに香る花の匂いが鼻腔を擽った。
季節は春。それは芽吹きの季節。大洗女子学園の何処かで、今日も花が凛々しく、力強く咲いているのだろう。
何時でも、何処でも。
雨の日も、風の日も、雪の日も、どんな日々も耐えて、折れず、乗り越えて。
自分だけの色を美しく、綺麗に咲かせる。
そんな花の生き様を、華は物心つく前からずっと見てきた。
その度に思う、花とはなんと強いものなのか、と。
そんな風に、自分もなれたならどれだけいいだろうか、と。
「今日お前達にやってもらうことは一つだけだ」
そう言って、神栖渡里は背後にある木箱の山を指差した。
それが何であるのかは、一目で分かった。なぜなら収まりきらない分が、箱から飛び出してその姿を見せていたから。
「ひたすら弾を撃ってもらう。正確に数字を言うなら、600発だ」
「………え、それだけですか?」
アヒルさんチームであるバレー部チームの砲手、金髪とカチューシャが特徴的な佐々木あけびは拍子抜けしたように目を丸くしていた。
本日は合宿初日。文字通り目の回る朝練を終え、授業を一通りこなした後の戦車道の練習。
神栖渡里は、役職ごとにチームを作って、それぞれ別の練習をさせるという。
色々なところにチームが散っていく中、五十鈴華がいる砲手チームが連れてこられたのは、外であった。ここは砲撃訓練の際に使用する的が設置されていて、向こう500メートルは余裕がある真っ直ぐに開けた場所である。
なんでも神栖渡里が生徒会と協力して、砲撃訓練用に整備したらしい。そんなことを知ったのは、結構最近だったが。
ただ気になるのは、戦車の配置であった。倉庫の中にないから不思議に思っていたが、どうやら事前に持ってきていたらしい。そこはいいのだが、やけに的から離れているのはどうしてなのだろうか。離れすぎて、既に山林地帯に足を踏み入れつつあるのだが。
「勿論、ただ漠然と弾を撃ってほしいわけじゃない。一つ、ある課題を出す」
ピン、と指が一本立った。
「『弾道を掴むこと』、これだけだ」
「弾道、ですか……?」
弾道。それは読んで字の如く、弾の道。発射された砲弾が、どのような放物線を描いて目標に着弾するのか、という軌跡を指す。
「もっと詳細に言うと、戦車の角度、速度、砲塔の向き、ブレ、相手との距離、風向、風速、そういった諸々の条件下で、自分の撃った弾がどんな風に飛ぶのかを把握してほしいわけだが」
疑問符が乱立した。華も同様だった。
しかし渡里も予想済みだったのだろう。
いつぞや見たことのある小さなホワイトボードを片手に、順序立てて説明を始めた。
「前にも一回言ったが、戦車道の戦いは基本的に遠距離からの撃ち合いだ。主砲の性能にもよるが、だいたい500メートルが平均的な交戦距離」
さらさら、と書かれた図は、なんとも簡素で飾り気がなかった。
余計なものを書いてない分、分かりやすくもあるが。
「もちろんこれより近い距離、遠い距離で戦うこともある。聖グロと練習試合した時の大洗女子がまさにそうだな。相手の装甲が硬すぎた、ということもあるが、主砲が弱いから近距離で戦うしかなかった」
思い起こされるのは、砲弾の雨をものともせずに突き進む戦車の群れ。
目と鼻の先くらい距離まで近づき、装甲の薄い背面や側面をピンポイントで狙ってようやく攻撃が効く、という桁外れの防御力を見せた聖グロリア―ナだった。
「ま、それはともかくとして。どのチームの砲手も500メートルくらいは余裕で当てれるように練習しているし、それが素人と経験者を分ける一つの基準でもある。そして、それはお前達も例外じゃない。攻撃が効かないとかそんなの関係なく、この距離は当てれないとダメだ」
ホワイトボードには、『必須科目!!』と強調された。
「では今から行う練習は、そのためのものということですか?」
「正確には前段階かな。最終的なゴールはもっと別のところにあるが」
片眼鏡を光らせた河嶋に対し、渡里は苦笑交じりに答えた。
「当てろ、と言われて簡単にできるほど500メートルは近い距離じゃない。遠距離の砲撃すべてに言えることだが、必要なのは正確な俯仰角の設定だ」
「俯仰角……?」
「戦車の砲身は左右だけじゃなく、上下にも動くだろ。下に向くのを俯角、上に向くのを仰角といって、上下の可動域を俯仰角というんだ。これが砲撃における最重要ポイントなんだが……実際に見た方が早いか」
言うや否や、渡里は停車してあった五両の戦車の内、八九式へと乗り込んでいった。
「なにするんだろ?」
「さぁー?」
M3リーに乗る二人の砲手は、顔を見合わせて首を傾げた。
答え合わせは直ぐに行われた。
八九式の砲塔が、機械的な音と共に動き始める。動作を確かめるように左右に砲塔を振ると、砲身が相槌を打つように上下する。
そしてピタリと停止すると、一息。
轟音と、硝煙の香りが辺りを包んだ。
空気を裂くような音を響かせ、砲身から撃ち出された弾が向かう先は設置された円形の的。
直線的な軌道を描き、伸びて、伸びて、伸びて。弾は円形の的を貫く――――ことはなく、その手前の地面を抉った。
え、と五十鈴は声が漏れそうになった。いや、てっきり的を射貫くのかと思っていたのに、まさかの失敗。よーく見た結果、無情にも的に届かなかった弾が地面に突き刺さる様が鮮明に華の脳裏に焼き付けられた。
しかし本命は、すぐにやってきた。
不意を突くように轟音が響いたかと思うと、砲手たちの視線の先。そこには見事に中心点を射貫いた砲弾の姿があった。
遅れて華は悟った。一射目から間髪を入れず、渡里が二の矢を放ったということを。
「ま、こんなもんだ」
悠然と戦車から降りてきた渡里は、顔色一つ変わっていなかった。
的との距離は決して近くはない。もし同じことをやれ、と言われたら、できなくはないだろうが二射で中るかどうか。
男性とはいえ、指導者である以上これくらいの技術はある、ということなのだろうか。
みほの話を聞く限り、戦車道に関しては只者じゃないらしいが、正しくであった。
「一射目は仰角三度、二射目は仰角九度で撃った。傾きとしては大した違いじゃないんだが、見てもらった通り軌道が全然変わってくる」
ホワイトボードに二本の線が書き加えられる。
一つは物理の授業で見たことのある、水平投射の図によく似た軌道を描き、一方は山なりの軌道を描いていた。
「当たり前だが、弾は永遠に真っ直ぐ飛ぶわけじゃなく、重力に引かれて落ちる。これを低落する、といって、その落ち幅は相手との距離が遠いほど大きい。肝要なのは、この距離と落ち幅の比例の関係で、砲手はこの低落を計算して、適切な俯仰角を決めなければならない。これを間違えると、さっきの一射目みたいになる」
的まで届かず、地面に突き刺さるということである。
「これは近距離での撃ち合いには不要な技術だ。弾が落ちる前に当たるからな。何も気にせずトリガーを引くだけでいい。だがさっきも言った通り、低落が発生する距離で撃ち合うのが戦車道の基本だ。ここを押さえておかないと、話にならない」
そして渡里は、後ろにある大量の弾薬を指差した。
「そのための第一段階が、弾道を掴むことだ。とにかく撃って、撃って、撃ちまくって、自分が撃った弾がどんな風に飛ぶのかを身体に叩き込んでもらう。繰り返していれば、その内低落の程度も見えてくる」
「そのために600発撃つということですか」
華は途方もない気分になった。弾道を掴む、とは言うものの、要するにそれは600発も撃たないと身に着かないということ。経験不足なのは重々承知だが、そこまでしないと埋めようのない差が他の砲手との間にあるということか。
しかし眉を八の字にした華とは対照的に、渡里はあっけらかんとした口調で言った。
「別に全部使い切らないといけないわけじゃない。弾道を掴むくらいなら、200発くらいで充分だろ。まるっきり今日初めて撃つわけでもないし」
一同は「じゃあなんで600発もあるんですか」という顔をした。
「200発で充分、と言ってもそれはあくまで俺の予想だし、実際どれくらいの弾が必要になるかは分からなかったから、保険の意味を込めて600発用意したんだ。流石にそれくらいあれば大丈夫だろうし、逆に言うとそんだけ撃ってダメな奴は何回撃ってもダメだ」
さらりと辛辣なことを言う人である。しかしそれは単なる断片にしか過ぎなかったことを、華は直後に思い知る。
「この練習は今日一日
何か冷たいものが、頬を撫でていった。
華は神栖渡里という人に対して、多く知っているわけではない。精々西住みほが知っている内の、十分の一くらいだろう。だがそれでも、一つだけ明確に理解していることがある。
この人は、戦車道では絶対に嘘をつかない。
それは良くもあるし、悪くもあった。今の言葉は、後者だろう。
何があっても、今日一日しか待たない。それは非情すぎるほどの宣告だった。
春の日差しのような温もりと、冬の寒風のような冷たさ。神栖渡里という人は、その両方を持っている。
「あと二時間もすると強い風が吹くようになる。弾道がめちゃくちゃになるから、気を付けろよ」
渡里はそう言って笑った。
その笑みの裏に隠されたえげつないくらいの厳しさ砲手たちが知るのは、ほんの少し後だった。
○
「あの練習凄かったもんねー。私はじめて見たもん、人間がお風呂で溺れそうになってるの」
「う、恥ずかしいです……」
昼休み、賑わう食堂のど真ん中に華たちはいた。
合宿中は朝食と夕食が出るが、昼食はその限りではない。いつも通り、お弁当を作るなり購買で買うなりしなくてはならないが、前者は身体が重くて不可能(元々華はお弁当なんて作ったことはないが)、後者は空腹ゲージ的に不可能、ということで最近のあんこうチームは、こうやって食堂で昼食を取るのがお決まりと化していた。
日ごとに変わる昼食のメニューと比べて、話題はいつも戦車道のことばかり。最近それしかやっていないと言っても過言ではないから、仕方ないことではあるが。
「結局500発くらい撃ったんだっけ?」
「だいたいそのくらいです」
「常識的な数じゃないな」
「しかも自分で装填しながら、ですからね。どう考えても普通じゃないです」
「あ、あはは……」
皆の言葉に、みほだけが苦笑いをした。
いま話題になっているのは、合宿初日に砲手たちがやった練習であった。
思い返してみれば、とんでもない練習だった。
肉体的にしんどいのは当然だったが、それ以上に痛めつけられたのは
華は初めて、心と脳が筋肉痛になるという感覚を味わった。
弾道を掴むこと自体は、そう難しいことではなかった。流石に十回やニ十回では話にならなかったが、撃った弾が百を超えた辺りで低落はほとんど把握できたし、俯仰角を調節して狙い通りの位置に弾を飛ばせるようにもなった。
この時点で渡里の課した目標は、八割ほど達成できていたと言える。
ならなぜ、そこから最終的に500発も撃つことになったかといえば、それは当然神栖渡里という人が原因であった。
『練習は各自で切り上げてくれ。完璧にできた、と自分で思ったらそこで終了だ。後は宿泊所でゆっくりするなり、自由にしてくれていいぞ』
なんとも優しい、と華は思ったが、今思えばこれは砲手たちの心を縛る魔法の呪文だった。
自分で判断する。それだけのことが、とてつもなく難しいことだったのだ。
250発目に差し掛かろうかというところで、華はそろそろ終わってもいいか、と思い始めていた。弾が勿体ないという気持ちもあったが、それ以上に撃った弾の軌道はほぼ自分のイメージと重なるようになっていたことが大きかった。充分、弾道を掴んだと言ってもいいレベルだと自負していたのだ。
しかし渡里の
完璧。自分は、本当に完璧にできているだろうか。確かに十発撃てば九発は思い通りの軌道を描く。だがそれは、十発に一発は失敗しているという意味でもある。一度も失敗しているのなら、すなわちそれは完璧とは言えないのではないか。
それにこの練習は、今日限りと言った。もし何か穴があれば、明日以降はその穴をずっと引きずることになる。やれることがあるなら、今日中に全部やるべきだろう。
そんな風に考えたら、華は戦車から降りることができなかった。
疑念が迷いを生み、迷いから不安が生じ、不安が疑念を芽吹かせる悪循環。
誰もが、その環に囚われていた。
結局華も皆も弾を撃ち続け、そして600発撃ち切る前に身体と精神の限界が先に訪れた。
半ばリタイアする形で練習を終え、肩を支えられながら宿泊所まで帰り、夕食を済ませた後お風呂に入っていたらいつの間にか眠っていた。一緒に入っていた沙織たちがいなければ、危なかったかもしれない。
「でもやった意味はあったんでしょ?華、自分で調子いいって言ってたもんね」
「はい、あの練習以来、砲撃の感触がすごくいいんです」
「確かに。華さん元々上手だったけど、最近はもっと上手になってるよ」
鬼のように厳しい練習だったが、それ相応の対価はあった。
合宿以前はどうしても精度にムラがあり、安定した砲撃ができなかったが、今はしっかりとコントロールできている自信があり、的に当たる確率もどんどん上がってきている。
それは、とてもいいことなのだろう。
「……ですが、少し思うことがあるんです」
「え?どしたの?」
華の言葉に、沙織は納豆をかき混ぜる手をピタリと止めた。
「あの練習は、本当に弾道を掴むためだけの練習だったのでしょうか……?」
「えっと、どういうことですか?」
首を傾げた優花里に、華は言葉を続けた。
「渡里先生の練習は、どれもよく考えられているじゃないですか」
例えば鬼ごっこ。渡里はスタミナをつけるための練習と言っていたが、おそらくそれだけじゃない。無線を使ったコミュニケーション能力、思考の言語化、状況把握能力、暗く狭い視界への適応など、複数の能力をまとめて鍛えている。
これは、当時は気づかなかったが、みほ達と戦車道の話を重ねていく内に見えてきたことでる。
「一つの練習に複数の意味があるといいますか……」
「えーどうなんだろ……」
「私は五十鈴さんの言う事に一理ある」
眉を八の字にして首を傾げた沙織とは対照的に、静かに断言したのは、デザートのショートケーキをもっきゅもっきゅと食べていた麻子だった。彼女は利発そうな表情のまま、言葉を紡いだ。
「私も色々な練習をやらされているが、そのどれにも一切無駄がない。本当に意味があるのかと思ったようなことも、実際に戦車を動かすと実感する。……あの人の練習は、効率がいい」
だから一の練習で一の経験値を稼ぐようなことはしない。一石を投じるなら、二鳥ではなく四鳥くらい落としたいと、そんな風に考える人なのだ。
華は、みほの十分の一くらいしか神栖渡里という人を知らないが、それだけは断言できる。
「お兄ちゃん、自分でも言ってたしね……効率重視って」
妹からの援護射撃が入り、華の説は信憑性を増した。
「昔っからそうなの?」
「うーん、どうだろ……ほっとくと呼吸もしなくなるくらいのめんどくさがり屋だし、効率とか気にするならもっと有意義に生きてるんじゃないかな」
これは最近知ったことだが、みほは渡里に対して結構遠慮のない物言いをする。
それだけ心の距離が近いということなのだろうが、普段の丁寧な態度のみほと比べると新鮮である。
「多分戦車道だけだよ、お兄ちゃんがそんな風に頭使うのなんて」
「神栖先生はほんとに戦車道が好きなんですね……」
優花里の言葉からは、改めて感心するような気持ちが感じ取れた。
華も同じ気持ちだった。だから、あの人が作った練習の意味を、全て知りたいのだ。
そうすればきっと、今よりもずっと、ずっと……
「戦車道さえあれば他に何にも要らない人だもん。その分、誰よりも戦車道に真剣なの。だからきっと、みんながやってる練習もすごく時間をかけて考えたんだと思うよ」
その時のみほの表情は、形容しがたいものだった。
誇らしげではあるものの、どこか悲しそうな、そんな曖昧な笑み。
しかしそれはほんの一瞬だけで、すぐにみほはいつもの明るい表情になっていた。
「華さんが何を知りたいのかは分からないけど、何か気になることがあるなら、お兄ちゃんに聞いてみてあげて。戦車道の話なら、何でも付き合ってくれるから」
それ以外は何の役にも立たないけど、と辛辣な一言を添えて、みほは笑った。
するとイジワル気な顔をして、沙織が口から矢を放った。
「みほも昼休みに結構会いに行ってるもんね?」
「ふぇっ!?い、いやそんなに行ってないよ!?」
「いや行ってるよ。それにいっつも昼休みが終わるギリギリまで帰ってこないし、やっぱりみほってちょっとブラコン入って――――」
「そういう沙織は、昨日夜遅くに渡里先生と何か話してなかったか?」
「あ、私も見ました!食堂で一時間くらいずっと―――――」
「それ以上はダメ―――――!!??」
「沙織さん!?」
途端、周囲の喧騒に負けないくらいのどんちゃん騒ぎが、テーブルの上で巻き起こる。
顔を赤くして、平然としていて、慌てたようにして、興味深げに目を光らせて――――そしてみんな、楽しそうに笑っている。
そんな様子を見ながら、華は密かに決意した。
神栖渡里を、訪ねよう。
○
神栖渡里が生徒会から貰ったという旧い用務員室は、生徒から忘れ去られたかのように校舎の隅っこにある。
華の教室からは遠くないが、何か余程のことがなければ来ない場所でもあり、実際華は高校二年目にして初めて訪れた。昨日みほに場所を聞いていなかったら、少し迷ったかもしれなかった。
少しの緊張を伴って、華は『用務員室』というプレートを提げた部屋の前に立つ。
文字は少し擦れていて、プレートはだいぶ汚れが目立つ。おそらく相当使い古されているのに、買い替えもせずそのまま使いまわしている辺り、神栖渡里という人の性格が分かる気がする。
扉の前で大きく深呼吸をし、一息。
トントントン、とノックをすると、中から聞き馴染みのある声が返ってきた。
「い、五十鈴華です。渡里先生に用があってきました」
あまり緊張する性質ではないと自負していたが、何故かこの時華の声は少し震えていた。
その理由を考える間もなく、言葉が返ってきて、華はドアノブを回し、部屋の中に足を踏み入れた。
「散らかってて悪いな。座れるところに適当に座ってくれ」
まず華の目に入ってきたのは、紙の束、の山だった。
部屋の中央に置かれた長方形の机の上に、書類のようなものが幾重にも積み重なっていて、空いてるスペースは極小。ノート一冊と筆記用具、それからティーカップを一つだけ置けるだけのスペースが、ギリギリ渡里の手元にある。
もはやそれはゲーム終盤のジェンガのようなものだった。いつ紙束が雪崩を起こしてもおかしくはないだろう。
渡里はそんな中で、まるでこれが普通であるかのように平然と作業をしていた。
早速面食らった華は、若干困惑しながら歩を進め、座れる場所を探した。
机を挟む形でソファーが二つ置かれており、両方とも人二人が並んで座れるくらい大きい。
しかし一方は渡里が占拠していて、もう一方は雑に積み重ねられた本が占領していた。
ここにも山があった。
「本が邪魔なら避けといてくれ。床に置いてもいいから」
「そ、そんなことはしませんけど……」
周りを見渡すと、座れるような場所は二つのソファーしかない。
渡里の横に座るのは流石に無理だから、この本を片づけて座るしかないだろう。
とりあえず華は、本が傷つかないよう丁寧に動かして、自分が座れるだけのスペースを確保した。
改めて部屋の中を見てみるが、なんというか凄い荒れ方をしている。足の踏み場がないほど散らかってるわけではないが、逆に言うと足の踏み場だけは確保するような物の置き方をしているので、本当はもっと広いはずの部屋がやけに狭く感じる。
しかし不衛生ではない。換気をしっかりとしているのか、埃っぽくなく部屋の空気は清々しいし、不思議と心地よい匂いがする。さながらそれは、古書店のような妙な清潔感だった。
「ここに来た奴は、みんなそんな顔をするよ」
「あ、いえっ。失礼しました」
「まー、この散らかり様だからしょうがないよな」
自覚はあるのか、と華は恐縮しながら思った。
「それで、何の用?」
渡里はボールペンを動かす手を止め、ソファーの背もたれに身体を預けた。
黒い瞳が、静かに華を貫く。単刀直入な物言いといい、迂遠な会話をする気はないようである。
本当は少し、心の準備をしたかった。だが訊かれてしまったら、もう言うしかない。
ずっと考えていた言葉を、華は一気に吐き出した。
「――――今よりもっと、強くなりたいんです」
「――――――うん?」
華の言葉に、渡里は興味深そうに瞳を輝かせた。
一切の装飾を排し、端的すぎた言葉だったが、ひとまずは肯定的な反応が返ってきたことに華は安堵した。
渡里は視線で続きを促す。
「私が砲手として、もっと高みに行くためにはどうすればいいか。それを教えて頂きたいんです」
「………なるほど。向上心があるのは良いことだ」
腕組みをして、渡里は一つ頷いた。その表情から、心境を読むことはできなかった。
「でもちょっと具体性に欠けるな。強くなりたいって言うんなら、この合宿を最後までやり遂げればいい。そうすれば
じゃなきゃわざわざ俺のところに来ないだろうし、と渡里は華の反応を伺った。
今度は華が頷いた。そんな当たり前のことを訊きたかったわけじゃない。
「だったら、なんでそんなことを思ったのか、その理由を教えてほしいな。そうじゃなきゃ、俺が力になれることは何もないよ」
そして渡里は優雅な手つきで、お洒落な装飾がなされたティーカップを手に取った。
華の言葉を待つ、ということなのだろう。
それは当然のことだった。華は渡里に本気で応えてもらいたい。
ならば、まずは華が自身の本気を、その根底にある、想いを示さなければならない。
「………みほさんは、最初戦車道をやりたくないって言ってたんです。その時は理由を教えてくれませんでしたけど、どうしてもやりたくない、と」
思い出されるのは、いつかの教室での一幕。
生徒会によって流された戦車道のPVを見て、乗り気になった華と沙織とは対照的に、みほは香道に丸をされたプリントを差し出して、本当に申し訳なさそうにそう言った。
「私は、みほさんと沙織さんと一緒なら何でも良かったんです。だからみほさんが戦車道をやりたくないなら、それでもいいと思ってました」
でもそれを許さなかった人達がいた。
行内放送を使ってまでみほを呼び出し、生徒会室に連行して、直接詰問してきたのだ。
華はそれを、許せなかった。だから沙織と一緒に、みほを守ろうとした。
「生徒会の人達と言い争って、最終的には、みほさんは戦車道をやると言いました。私と沙織さんがいてくれるなら、大丈夫だと、そう笑って」
でもそれは、本当に本心だったのだろうか。
自分たちがいるから頑張れると、そう言ってくれたのはすごく嬉しかった。でもあんなに嫌がっていたものを、そうすんなりと受け入れることができるのだろうか。いや、きっとできない。
「だから私は、密かに決意したんです。みほさんが戦車道を怖くなくなるまで、傍にいて力になろうと。何があっても、みほさんを支えようと」
流石に恥ずかしくて、誰にも言えなかったけれど。
でも華は本気でそう思っていたのだ。
しかし………
「聖グロリア―ナとの練習試合、みほさんは自分のせいで負けたと言いました。自分がちゃんと合図できてれば勝てたのに、と」
チャーチルとの一騎撃ち。仕掛けられた罠を食い破り、背後へと回り込んだ四号戦車は、最後の一手を打ち損ねた。掌にあった勝利は瞬く間に滑り落ち、四号戦車は白煙と白旗を上げることとなった。
それを西住みほは、自分の責任だと言った。
華はそれを、心の底から悲しんだ。そしてそんなことを言わせてしまった、自分を恨んだ。
「本当は、私のせいなんです。あの時私が、トリガーを引けていれば勝てていたんです」
砲撃は、車長と砲手のコンビネーションである。車長が指示した場所へ、車長が指示したタイミングで、砲手が撃つ。
だからあの時、四号戦車は砲撃が遅れた。司令塔たる車長のみほが、砲撃のタイミングを合図できなかったから。だからみほは、自分を責めたのだ。自分がちゃんとできていれば、と。
でも、それは華だって同じだろう。
やることは明確だった。例え
でも華にはそれができなかった。
簡単な話だ。華は、みほに頼り切っていた。ただただ、みほの言う通りに撃っていれば、それでいいと思っていた。
盲目的に、思考放棄して、無神経にみほに依存していたから、あの時華は撃てなかった。
「支えたいなんて思いながら、私がやっていたことはその真逆です。自分でどうこうせず、結局みほさんに全てを任せて、全ての責任を背負わせてしまった……」
最初からこんなことを考えていたわけじゃなかった。負けてしまったのは悔しいけれど、次また頑張ればいい、とそんな風に考えていた。
でも華は、みほの過去を知った。
仲間を助けようとしただけなのに、全ての人間から恨まれ、詰られ、弾劾されたという過去を。
酷い話だ。車長のみほが戦車から降りたから、フラッグ車は撃破されたというが、そんなの戦車に残っている人たちが自分で考えて戦車を動かせばよかっただろう。みほ一人に責任が集中するのはあんまりだ。
だが、華は気づいた。自分がやったことは、その人たちと同じだ。
車長が合図してくれなかったから、撃てなかった?
―――そんな考えが、みほを追い詰めたんじゃないか。
皆で一緒に強くなればいい?
―――そんな考えで、何が変わるというんだ。
今のままじゃ、五十鈴華は西住みほの、重荷になるだけだ。
「だから強くなりたいんです。今度こそ、みほさん一人に全てを押し付けないように。本当の意味で、みほさんの力になれるように……!」
二度とみほが悲しまないで済むように、華は強くなりたかった。
頼るだけじゃなく、頼られるようになりたかった。
それが五十鈴華の、嘘偽りのない、心の底から願うことだった。
「―――――――――そっか」
静かに華の話を、想いを聞いていた渡里は、瞑目してただ一言だけ呟いた。
そして秒針が一回転するほどの時間、部屋の中は静寂に包まれた。
その間華は何も言うことができなかったし、渡里は華の言葉を反芻しているようだった。
やがて大きく息を吐くと、渡里の黒い瞳が華を再び貫いた。
聴き心地の良い低い声が、華の鼓膜を打つ。
「お前の想いは、よく分かった。みほが、どれだけ友達に恵まれたかもな」
神栖渡里という人は、公私をキッチリと分ける。例え妹でも公の場では姓で呼ぶし、言葉遣いもガラリと変わる。今の渡里は、
渡里は、髪を掻きまわしながら呆れたように言った。
「とりあえず言いたいのは―――――――抱え込みすぎ病だなぁ、お前もみほも」
「……え?」
返ってきた言葉は、華の想像の斜め上をいった。
渡里の言葉は続く。
「真面目なのは結構だが、そんなに思いつめられると困る。もっと肩の力抜けよ、パンパンに膨れた風船は割れるしかないんだぞ」
「わ、私は真剣に―――――」
予想外に軽々しい渡里の対応に、思わず華の声が大きくなった――その瞬間だった。
渡里の指が、机を一度叩いた。それは決して大きい音ではなかったが、華の言葉を無理やりに止めた。
意識が、黒い瞳に吸い込まれる。
「
軽く怒るような口調は、華にとって体験したことのないものだった。
静かに窘めるような母とも、家元の娘だからと過保護な奉公人とも違う、不思議と心の奥にじんわりと染み込むような語りだった。
「戦車道は団体競技だ。戦車は一人では動かせないし、チームは戦車一両では機能しない。だから戦車道の世界には、誰か一人のお蔭で勝つことも、誰か一人のせいで負けることもない。勝利も敗北も、皆で分かち合うものなんだ」
「――――――っ」
それは非難と擁護、両方の意味が込められていた。
放たれた言葉の矢は、鋭く華に突き刺さる。
「一人の力なんて高が知れてる。どんなに凄い戦車乗りでもそれは変わらない。だから、皆の力を合わせることに意味がある……責任感が強いのはいいことだけど、それだけは忘れないでほしいな」
お前のそれは、思い上がりだ。暗にそう言われた気がして、華は俯くしかなかった。
すると渡里は、困ったように頭を掻いた。
「ただ勝敗に直結しないだけで、ミスってのは存在する。みほが合図できなかったのも、お前が引鉄を引けなかったことも、お前達自身の過失だ。そこを有耶無耶にするのはよくない……自分の失敗を自覚できてるのは、褒められるべきことだと思うよ」
それを重く考えないでほしいだけさ、と言って、渡里は初めて笑った。
それは、みほに向けるものと同質であった。
諫められたのか褒められたのか、よく分からなくなった華はぽかんとしてしまった。
「とまぁ、誤りを正したところで本題だが……お前の言う強い砲手ってのは、だいたい話を聞いてて分かった。結論から言うと、それに応えることはできる」
「本当ですか!?」
「当然、特別な練習メニューをこなしてもらうことにはなるけどな」
なら早速、と勇み足になった華を、渡里は指一本で制した。
「ちょっと、俺の考えを聞いてくれないか?」
そう言って、渡里は紙の山から一枚の紙を綺麗に抜き取り、華に差し出した。
読め、ということなのだろうか。ひとまず受け取った華は、書面へと視線を移した。
「それはお前の能力を簡単なグラフにしたもんだ。上半分は合宿が始まる前のデータ。下半分は合宿が終えた時の推定値だ。見て分かる通り……」
「すごく、グラフが伸びていませんか……?」
華の目には、グラフの上限に迫るくらいまで伸びているように見える。
華の言葉に、渡里は頷いた。
「本当はあまりこういうことを言うべきじゃないんだろうが、五十鈴。このまま順調に合宿メニューをこなせば、お前は全国で五本の指に入る砲手になれる。これは希望的観測でもお世辞でもない、データに基づいた事実だ」
その言葉を平然と受け入れることができるほど、華の処理能力は優れているわけではなかった。
他人が聞けば何を馬鹿な、と嘲笑するようなことを大真面目に言ってのけた目の前の男性を、華は瞠目して見つめた。
「言っとくが、俺の練習をこなした奴が全員、お前と同じように強くなれるわけじゃない。単にそれだけのポテンシャルが、お前にはあるってだけだ」
「私が……ですか……?」
嬉しい、という感情ではなかった。ただただ、頭の中の歯車が空転しているような感覚だけが華の中にある。
「で、どうだ?」
「は、はい?」
黒い髪が、静かに揺れた。
「具体的な根拠は言わないが、お前はこのままでも全国に何百人といる砲手たちの中で、上から五番以内に入れるんだ。……
「っ!」
それは……確かにそうかもしれない。華は何か具体的な指標を持っていたわけではないが、言われてみれば全国ベスト5に名を連ねるレベルの砲手というのは、華の思い描く理想の自分と重なる。
そんな高みに行けるというのなら、是非もなかった。
しかし、
「あの、先ほど仰っていた特別な練習というのは…」
このまま合宿を続けていれば、華の願いは叶う。ならばそれは渡里の先刻の言葉と、少し矛盾することだった。
華の指摘に、渡里はこの日初めて見せる表情を浮かべた。それは明るいものではなかった。
「それはな、合宿の練習に組み込まれてるものじゃなく、合宿の練習に上乗せするものなんだ。つまりお前だけ、他の受講者より練習量が増える。問題はそこなんだ」
「えっと……どういうことでしょうか?」
それは普通に当然のことだった。
「さっきも言った通り、合宿を最後までやり遂げれば、お前は全国で五指に入る砲手に慣れる。だがここに加えて特別な練習メニューをこなせば、それよりもっと上のレベルに行ける……それこそ、日本一の砲手になることだってできる……かもしれない」
「日本一!?」
この人は一体何度自分を驚かせるのだろうか。
いよいよ話は現実味を失い始めていたが、語り手が神栖渡里であるという点によって、華はかろうじてリアリティを失わずに済んでいた。
「だが当然、簡単な道じゃない。心身共に、相応の負担がかかる。ただでさえ合宿はお前らの限界ギリギリでやってるんだ。練習の追加は、完全にその限界領域の外側になる……はっきり言うが、故障しても何もおかしくない」
渡里の言葉は続く。
「もし故障すれば、通常の練習にも参加できない。そうなったら、さっき言った全国で五指に入るという話もなくなる。あくまでそれは、合宿をやり遂げたらの話だからな。途中離脱すれば、その時点でお前は砲手として上の下、それ以上になることはない……やるというなら、もう走り抜けるしかないんだ」
合宿を完遂することだけを考え、全国トップクラスの実力を手に入れるか。
追加で練習を行って、全国トップの力を手に入れるか。
前者には何のリスクもなく、後者は一度でも足を止めれば暗澹とした未来が待っている。
「全国で上から五番目に入る砲手なんてな、一つの学校に一人いれば十分すぎるくらいだ。そんなレベルの砲手が自分の指揮する戦車に乗ってる……車長にとってはこれ以上ない僥倖だろ。だから、わざわざ危険を冒してまでやる必要はないんじゃないかと思う」
「……ですが、それは日本一の砲手になっても同じことですよね?なら――――」
「確定じゃない。やらないよりは、上のレベルに行けるかもしれない、ってだけの話だ」
渡里の瞳が、鋭さを増した。深淵の宇宙のような圧力が、華を包み言葉を封じた。
「やるというなら、俺は一切手加減できない。お前がついてこれなくなりそうでも、足は止めない。お前が折れたら、そこで全部終わりだ」
神栖渡里は、戦車道では絶対に嘘をつかない。
硬直した華に、渡里は存外柔らかな口調で告げた。
「一日時間をあげるから、ゆっくり考えろ。そんで明日、同じ時間にここに来て、お前の答えを聞かせてくれ」
○
五十鈴華は暗い廊下を歩いて、食堂へと向かっていた。
いつもならこの時間は、とてつもない疲労感で布団に潜るとすぐに寝てしまうのだが、今日は不思議と目が冴えてしまって、中々寝付けなかったのだ。
理由は言わずもがな、昼休みにあった神栖渡里との会話である。
示された二つの道の、どちらを選ぶべきなのか。
華は未だ答えを出せずにいた。
何を言われても、何でもやるつもりだった。
渡里が華の求める答えを持っていることに疑いはなかったし、みほのためなら、それがどんな犠牲を払うことでもやってみせる心意気だった。
でも華は、迷っている。
これが、一方を選べば一方を捨てるような、そんな分かりやすい選択肢なら良かった。でもどっちを選んでも、華の「みほを支えたい」という願いは叶ってしまう。
叶ってしまうから、華は悩む。
渡里の言うことは、おそらく正しい。
華は漠然と強くなりたいと考えていただけで、その強度については考えていなかった。だから、日本一の砲手でも、五指に入る砲手でも、どっちでもいいと思ってしまう。
だって、どちらもみほの力になれるから。なら、どっちがよりみほの力になれるだろうか。
それはきっと、前者だ。なら、そちらを選ぶべきだろう。
でもその道は、茨の道。
もし失敗すれば、華は真ん中より少し上なだけの砲手。
一度歩き始めたなら引き返すことはできず、失えば取り戻すこともできない。
なら、と華は考えてしまう。
渡里の言う通り、その程度で十分かもしれない。何百、もしかすると千を超える砲手の中で、上から五番以内。それだって、十分凄いことだろう。
このままでもいいなら。変に危険は、冒さなくてもいい。
でも、とまた華は考える。同じところを、ずっとぐるぐる。
覚悟を決めたつもりだった。でもそれは、あっけなく揺らいだ。
華は、自分の弱さを再認識した。
こんなことばかり考えてたら、それは眠れるものも眠れない。
だから水でも飲んで、少し気分を変えようと思って食堂に来たわけだが……
(明り……?誰かいるのでしょうか?)
夜間はほとんどの照明が消える校舎。食堂もその例外ではないはずだが、今夜は扉越しに煌々とした輝きが漏れていた。
まさか消し忘れでもないし、と覗いてみると、そこには華が良く知る人物がいた。
歩み寄り、その名前を呼ぶ。
「みほさん?」
「ふぇっ」
声をかけられた方があまりにも大きく肩を震わせたので、声をかけた方も同じくらいびっくりしてしまった。
見慣れた栗毛の少女は、くりっとした目を更に丸くした。
「華さん?どうしたの、こんな時間に」
「みほさんこそ……」
広い食堂の真ん中にポツリと、一人占めするように西住みほはいた。
椅子に腰かけ、スリッパを履いた足をプラプラとさせ、右手にはシャープペンシルを持っている。
みほは照れくさそうに笑った。
「私は、ちょっと戦車道の勉強をしてたの」
「勉強、ですか?」
机の上には、びっしりと文字が書き込まれたノートと、戦車道関連の本が並べられていた。
一見しただけで分かる、今の華では理解できないほどの上級者向けばかりということが。
「みんなと違って、車長の私たちはお兄ちゃんから何も言われてないから。だから今の自分がやるべきことはなんだろって考えたら、少しでも戦車道に詳しくなることかなって」
「そんな……みほさんは十分詳しいじゃないですか」
戦車道の名門、その直系の次女。転校以前は、全国屈指の強豪校、黒森峰女学園に在籍。
みほが持つ実力と知識は、その出自と経歴に伴う評価に一切見劣りしない。
華の言葉に、みほは首を振った。
「知ってても、私はお兄ちゃんみたいに上手く説明できなかったりするし、知らないことは何にも言えない。分からないことがあったらお兄ちゃんに聞けばいいかもしれないけど、試合が始まったらそうもいかないでしょ?」
だから、とみほは健気に笑った。
「もしそうなった時、みんなを支えられるようになれたらいいなって」
「みほさん……」
それこそ十分です、と華は言いたかった。
聖グロとの練習試合で河嶋の作戦が失敗した時、真っ先に状況を打開したのは、みほだった。その後も河嶋に代わり作戦を立て、皆を引っ張ってくれた。聖グロと互角以上に渡り合えたのは、みほがいてくれたからだ。
しかし言葉は、華の喉元から出てこようとしなかった。
その理由は、きっと自分の心にあった。
代わりに出てきたのは、ありきたりな言葉だった。
「いつからやってるんですか?」
「合宿が始まって、少ししてからかな。最初はしんどくてそれどころじゃなかったし」
みほは苦笑した。
「最近は身体が慣れて、寝るまでに多少動けるようになったから、少しでも何かしたいなって思って。でも戦車に触ろうと倉庫に行ったら、お兄ちゃんに追いだされちゃって……」
帰れ。身体を休めろ。できないなら身体の代わりに頭動かせ。
みほはそう言われたらしい。
「だから、こうやって食堂で勉強してるの。宿泊所じゃ明りは使えないしね」
「なら……こんな時間までやらなくたって。まだまだ合宿は続きますし、身体を壊してしまったら……」
「あはは……確かにそうかも」
みほはバツが悪そうに頬を掻いた。
時間は23時をとっくに過ぎていた。
「でも、私はまだなんにも分からないの。お兄ちゃんから言われた、自分だけの戦車道っていうのが」
みほのほろ苦い笑みに、華は胸が締め付けられるようだった。
自分の、自分だけの戦車道。何があろうと決して揺らぐことのない、心の支柱。
みほには、それがない。だから迷うのだと、渡里は言ったという。
厳しい言葉だ。でももしかすると、それは華にも当てはまることかもしれなかった。
心が、翳りを見せる。
「――――だから今は、何でもやってみたい。何がきっかけになるかはわからないし、もう弱いままじゃいたくないから」
しかしみほの瞳は、光を失っていなかった。
揺らぎながら、震えながら、それでも消えない灯が、弱弱しくもそこにある。
「辛くても、しんどくても、頑張れってお兄ちゃんに言われちゃったしね。何があっても行けるところまでは行くって、もう決めてるの。だから私は大丈夫だよ、華さん」
ありがとう、という声が、華にはやけに遠くに感じられた。
何があっても行けるところまで行く、その言葉だけが、耳に残る。
そしてそれは、思わぬ行動を起こす契機となった。
「………みほさん、一つ聞いてもいいですか?」
「いいよ?」
早まった心臓の鼓動が聞こえる。
こみ上げる言葉を音にするのは、少なくない勇気を必要とした。
少しの躊躇いと共に、それを吐き出す。
「私が強い砲手に、日本で一番強い砲手になれたら、みほさんの力になれますか?みほさんの、支えになれますか?」
声が少し震えた。
母と話した時は、もっと気丈であれたはずなのに。
華の言葉に、みほは少し驚いたような顔をした。
自分も同じ顔をしているかもしれない、と華は思った。本当は、言うつもりはなかった。これだけは、自分一人で答えを出そうと思っていたから。
でももう、引き返せない。
みほの答えは、すぐそこまで来ていた。
「私は―――――――」
○
翌日、華はキッカリ同じ時間に渡里の元を訪ねた。
一日経ったくらいで変わるような部屋ではなかったらしく、またもや積み重ねられた本やら紙やらが縦横無尽に散乱する中、渡里は黙々と作業していた。
渡里は来訪者が華であることを知ると、ペンを置き、姿勢を正した。
そして黒い瞳を、静かに向ける。
「決まったか?」
単刀直入な物言いに、華もまた何の装飾もなく答えた。
「はい―――――――――私は、自分が行ける限界まで行こうと思います」
「………そうか」
選んだのは、茨の道。
華の言葉に、渡里は大して驚く様子を見せなかった。
しかしこの人は、自分が逆のことを言っても同じ反応をしただろう、と華は思った。
「本当にいいんだな?情けも、容赦もない。お前の身体がぶっ壊れようが、心が折れようが俺は絶対に手を緩めない。大会が始まるまでの数か月間、お前の全てを戦車道に捧げてもらうことになる。後悔したって、引き返せないぞ」
「はい、構いません」
黒い瞳を真っ直ぐに見返し、華は言った。言ってやった。
もう何を言われたって、華は揺らがない。揺らいでたまるかと、心に決めたのだから。
「………わかった。なら、止まるなよ」
それっきり、渡里は何も言わなかった。
深く一礼し、華は部屋を後にする。
ふと、右手を眺めた。
今まで華道しか知らなかった手。花を活けることしかできなかった手。
これからそこに、戦車道を刻んでいく。
その先に何があるのかは、華には分からないけれど。
『強いとか弱いとか、そういうのは気にしないよ』
心に留めた言葉がある。
五十鈴華が、覚悟を決めた理由。何があっても絶対に揺れない道標。
『私は、私の前の席に華さんがいてくれたら、それだけでいいの。それだけで、私は頑張れるから』
本当はわかっていた。西住みほという少女はどこまでも優しいから、きっと華に強くなってほしいなんて言わない。
でもそれでいいんだ。そんなみほだから、力になりたい。
少しでもこの人を支えられるなら、どんなことでもやってみせる。
もう二度と、迷わない。
その時華は、心の底からそう思った。
「折れません、絶対に」
どんな厳しく辛い環境でも、自分だけの色を美しく綺麗に咲かせる花のように。
そんな強い自分になってみせると、華は誓った。
実際に俯仰角を変更したくらいでどれだけ軌道が変化するかは知りません。
五十鈴殿の比較
原作→華道のために戦車道やる(華道≧戦車道、あるいは華道≒戦車道)
本作→みほのために戦車道で強くなりたい(華道<戦車道)
砲撃&走行訓練一回~二回(おそらく)で全国屈指の強豪校相手にバンバン弾を当てていく戦車道歴一週間未満の原作五十鈴殿はいったい何者……?