来週はいよいよ最終章第二話ですね。楽しみ過ぎて夜しか眠れないですね。
人は、誰かを好きになるとその人のことが、どうしようもないくらい素敵に見える。
そんな一文を見たのは、いつの日だっただろうか。
多分今よりずっと背が低くて、無垢で、幼かった時だと思う。
たまたま家に落ちてたブライダル雑誌を、絵本か漫画かなにかと勘違いして読んでみて、そしたらそこに載っていた女の人がキラキラと輝いて見えて。
そして強く想い、憧れた。
自分も、こんな風にキラキラしてみたい、と。
焦がれるくらいに誰かを好きになって、恥ずかしいくらいに誰かに好きになってもらう。
それはきっと、とっても幸せなことで、素敵なことだと思うから。
だから沙織は、その日から自分を磨きに磨いた。
髪や肌のお手入れも、お料理や裁縫も、いわゆる女子力と呼ばれる類のスキルは全部やった。
それもこれも、全てはとびっきりに素敵な恋をするために。
どんな時に、どんなカッコいい男の人に逢って声をかけられても、大丈夫なように。
そう、武部沙織はいつでも準備ができている。本当に。
例えばすぐ十秒後に背が高くてオシャレで優しい男の人が目の前に現れて、間を置かずに告白されても即座に「はい!」と答えてそのままゴールインすることくらいは余裕でできる。
彼氏の好きな物は全部覚えるし、彼氏の好みに自分を合わせるのだって苦じゃない。
毎日ご飯も作ってあげるし、部屋の掃除もお洗濯も何でもやってあげる。
それくらいの覚悟と、スキルは持っているのだ。
なのに、なのになぜ、
「武部先輩は今まで何人の人と付き合ったんですかー?」
「今の彼氏はどんな人ですかー?」
「―――――――――――――――――(白目)」
武部沙織16歳。彼氏いない歴イコール年齢。
曲がり角で男の人とぶつかることも、落とし物を拾ってもらったことも、同じ本を取ろうとして指が触れ合ったこともなく、声をかけられることすら一度もなく。
恋愛マスターを名乗り、後輩たちに恋のイロハを教えてはいるものの、男性経験は皆無。
頼りは自身の経験ではなく、定期的に購読しているブライダル雑誌と女性誌。
準備と妄想だけが積み重なっていく青い春の日々の中、武部沙織は一人思う。
――――――――――恋が、したいです。
○
「それは無理だ」
「ちょっ」
冷泉麻子はあんまり言葉を濁すことはせず、はっきりと物を言う。
それは美点である時もあるし、そうでない時もある。今は後者だった。
沙織は麻子との付き合いがだいぶ長いのでもう慣れっこといえばそうなのだが、それでも心にぐっさりと刺さる時はある。
そう例えば、「あんこうチームの皆でお昼ご飯を食べている時に、沙織がふと零した『私どうやったら男の人と付き合えるかな?』という呟きに対して即否定された」、今のような時とか。
「なんで!?自分で言うのもなんだけど私結構優良物件だよ!?」
「ほんとに自分で言うのもなんだな」
「沙織さん……」
「あ、あはは……」
呆れたような声二つに、苦笑い一つ。前者は長く艶のある黒髪と、白いカチューシャが映える少し青みがかった長髪の持ち主から、後者は栗色の髪の持ち主だった。
周りのあんまりな反応に、沙織のメンタルが10減少。
「武部殿は、今まで男の人とお付き合いしたことないんですか?」
「ふぐぅ」
優花里の火の玉ストレートが沙織の急所を抉った。メンタルが50減少。
精神的ダメージの蓄積により、沙織は机に突っ伏した……勿論机の上には食器が並んでいるから、比喩表現だけども。
最初こそガッチリと張られていた見栄も、特別仲が良いあんこうチームには隠し通せないだろうということで沙織は正直になる事にしていた。だからこんな風にザ・図星みたいな態度も取れるし、気が楽ではある。
……最後の砦として、ウサギさんチームには「恋愛マスター武部」として振舞うことだけは止めないが。
「何か意外ですねー武部殿は明るくて優しいですし、誰とでも仲良くなれるので人気があると思ってました」
「うん、それにお料理もとっても上手だし」
「うぅ……ありがと二人とも」
付き合いの長い二人と比べて、今年から仲良くなった二人のなんと優しいことか。
沙織は胸中でほろりと泪を流した。
「言っておくが、沙織はモテないわけじゃない」
「そうですね、沙織さんは決して人気がないわけじゃありません」
すると付き合いの長い二人は、真面目な表情をして口を開いた。
予想だにしていなかったところから飛び出てきたフォローの言葉に、沙織は驚いてしまった。まさかこの二人が、自分を慰めてくれるなんて―――――
「若い男の人にモテないだけだ」
「ご高齢の人からはとても好かれてます」
バタリ、と沙織は倒れた。今度は比喩表現じゃなかった。
「そ、そんなところにモテても嬉しくないもん!」
起き上がり、沙織は叫ぶようにして抗議の矢を放った。
「確かに男の人だけども!そこには未来という名の発展性というか、ロマンスがないでしょ!」
四十五十の男の人とフォーリンラブするのが悪いとは言わないけども。
それは少し沙織の求めるところと違うのである。
これは我儘じゃなく、乙女なら普通のことだと思う。
「ここは女子校だ。沙織が期待してるような出逢いはない」
「うっ……」
麻子は真理を述べた。
そう、沙織の通う学校は県立大洗
これがどういうことかと言うと、共学の学校に比べて圧倒的に男性、特に男子と接触する機会が少ないことを意味している。
少女漫画だろうが何だろうが、恋愛モノの舞台なんて大抵が共学。仮にそうでなくとも、男子がたくさんいるところが普通だ。
しかし女子高は右を見ても左を見ても上を見ても女子。加えて学園艦なんて海に浮かぶ島みたいなものだから、街を行く人の入れ替わりなんてほとんどない。同じ人が同じ所にずっといるから、出逢いが無い状態が変化することはない。
ぶっちゃけると、割と詰んでるのが沙織の現状である。
「それに沙織は声をかけられるのを待つばかりで、自分からは何もしないだろ」
「あ、当たり前じゃん!こっちから行くなんてはしたないでしょ!」
羞恥心というか、そういうお淑やかさに欠ける行為は沙織的にNGである。
頬を僅かに朱に染めて反論する沙織に対し、麻子は名前の通り冷たく言葉を返した。
「だからだ。ただでさえ出逢いがないところに、そんな調子で何か起こるわけがないだろ」
「れ、冷泉殿容赦ないです……」
「でも真実ですね」
「は、華さん……」
待つより追え。
幼馴染の言葉は沙織を深く傷つけた。ついでに追撃してきた中学校以来の友人の言葉も。
確かに、確かに麻子の言うことには一理ある。沙織が自分磨きをしているのも、ひとえに男の人に声をかけられるため。自分から攻める時の武器としているわけではない。
消極的と言われれば、否定はできない……かもしれない。
「そ、そんなこと言われてもさぁ……」
それくらいの行動力があれば、彼氏の一人や二人や三人余裕で拵えているだろう。
なんだかんだと奥手な所があって、それができないからこんなにも苦労しているわけで。
戦車道を始めたらそんなの関係ないくらいモテモテになれると思っていたけど、そういうわけでもなかったし。
ふと沙織はいつかの蝶野亜美の言葉を思い出していた。
「撃破率は100%。狙った獲物は逃がさない」。
それはつまり、受動的ではなく能動的な恋愛であることを示している。
やはり、それくらいの積極性は必要なのだろうか。
いやでもやっぱり、自分から行くのはちょっと勇気がでない。
「うー……」
「よくそこまで悩めるな。近くにもっと悩ましいものがあるだろ」
「私からしたらこっちの方がよっぽど重要だもん!もうウサギさんチームに『恋ってどういう気持ちなんですか?』って訊かれて絶句するしかなかった惨めな自分は嫌なの!」
アレは本当にしんどかった、と心の中で沙織はさめざめと泣いた。
咄嗟に『恋も戦車と同じ。前進あるのみって感じかな』なんて答えたはいいが、一体どの口で言ったのだろうか。沙織の恋は前進するどころか超信地旋回である。
「っていうか皆なんでそんな淡白なの?恋愛してみたいとか思わないの!?」
さっきからずっと気になっていたが、沙織の話に対して食いつきが悪すぎである。女子高生なんて恋バナとスイーツの話をしてナンボのものというのに、この四人はツーンとしてつれない。花より団子、とでも言わんばかりに目の前のお昼ご飯に箸を伸ばしていて、沙織の話なんてその片手間で付き合ってるような感じである。
「私はない」
「それは知ってるけどさ、なんかそういうエピソードは無いの?」
「それもない」
興味なさげな態度の麻子は、どこからか取り出した本を読み始めた。
まぁそうだよね、と沙織は内心でため息をついた。
この幼馴染が男女の関係、どころか人間関係すらあんまり頓着しないことは既に重々承知である。長い長い付き合いは、麻子が人見知り体質であることをとっくの昔に暴いているし、もし麻子に
「恋愛、ですか……華道ばかりしていた私には、あまり縁のない言葉かもしれません」
片手に山盛りのご飯が乗った御茶碗を持った華は、少しだけ寂しそうに言った。
華道の名門、その一人娘である華は、それはもう蝶よ花よと愛でられ、守られ、大事にされて育ってきたと聞いたことがある。ある意味では普通から最も縁遠い所にいる華だから、きっと気安い恋人関係なんてできっこなかったのだろう。間違いなく、家からの審査が入る。
しかし沙織は知っているのである。この少し天然が入った大和撫子の体現みたいな少女は、陸に上がればそれはもう男の人から何度も
真の意味で縁がないわけではないのだ、この子は。ただ本人に興味がないだけで。
「恋ですかぁ……うーん、私はちょっと分からないです」
「うん、優花里はそうだと思ったよ……」
スイッチがどこにあるか、誰から見ても分かるのが秋山優花里という少女である。
花より団子、ならぬ花より戦車。ミリタリー系、特に戦車道の趣味がある人なら、これ以上ないくらい上手く噛み合いそうな気はするけども。
「みほは?」
そして沙織は、残る最後の一人に視線を投げかけた。
しかし聞いてはみたものの、沙織は九割くらい返答の予想がついていた。
みほは戦車道の名門に生まれた、華と同じお嬢様パターン。加えて中高は女子校で男の子と接する機会はほとんどなし。更にみほの引っ込み思案な性格を考えれば、男子と付き合うなんて有り得っこない。
「私も……あんまりそういうのはなかったかな。男の子が周りにいなかったわけじゃないけど、戦車道で忙しかったし」
「あーやっぱ―――――――え?」
うんうん、と頷くこと一回半。
沙織は危うく耳を通り抜けていきそうだった単語を慌てて掴み取った。
何か今、おかしな言葉がなかっただろうか。
「みほって中高と黒森峰だよね?」
「そ、そうだけど……」
それがどうしたのか、と言わんばかりのみほの表情だった。
沙織の表情に対する困惑の感情が、少しだけ滲んでいたかもしれない。
しかしそんなことを気にした様子もなく、沙織は努めてはっきりとした口調で言った。
「黒森峰って、女子校だよね?」
「う、うん」
「なんで男の子いるの?」
「えっ」
それはきっと「なんで水族館にライオンがいるの?」みたいなレベルの質問だったに違いない。しかし当然の疑問だった。
女子校。つまり完全に男子の存在を排した領域。ゆえに、男の子なんていないし、いてはいけないはずだ。
でもみほは、さも当たり前であるかのようにその存在を仄めかした。
これは無視できない疑問である。
するとみほは、合点がいったような表情になって、謎を解き明かした。
「黒森峰じゃ戦車の整備は、分校や外部の工業高校に委託してるの。だから女子校だけど、校内には結構男子生徒がいたりして、話す機会もあったりするよ。まぁ戦車道をしてる人だけなんだけど……」
「なにそれ羨ましい!」
ストレートかつシンプルな感情が何の飾り気もなく口から飛び出ていった。
横に座る麻子が、僅かに顔を顰めた。
同じ女子校なのにこの違いはなんなのか。
大洗女子と違ってボーイミーツガールもアオハルもフォーリンラブもしたい放題の最高の環境である。
「もったいないよ!みほなら彼氏の一人や二人や三人何の苦も無く作れたでしょ!?」
「同時に作ってたら大問題だがな」
沙織と麻子の言葉に、みほは苦笑いを一つ浮かべた。
それはよく見る、みほの困った顔だった。
「………お兄ちゃんが家から出て行くときに約束したの。『お互いに戦車道を続ける。そしたらまた逢えるから』って……それだけが遠い所に行っちゃったお兄ちゃんと私を結ぶ、たった一つの繋がりだった」
表情が色を変える。
それはきっと、痛切という色だった。
「だからその頃の私は、そればっかり追いかけてた。彼氏とか恋愛とか、そういうのが目に入らなくなるくらいーーーーーそれくらい、私はお兄ちゃんに逢いたかったから」
「みほ………」
沙織の中に、ある感情が去来する。
それは恋愛映画を最後まで見終わった時のような感動であり、難しい数学の問題を解き終わった時のような納得感であった。
幸いにも沙織は、それらの感情をひとまとめにすることができる言葉を知っていた。
深い息とともに、沙織はその言葉を吐き出した。
「やっぱりみほって結構なブラコンだよね」
「ぇぅっ!?」
みほは今まで聞いたことのないような珍妙な悲鳴を上げた。
しんみりとした空気が、一瞬で霧散していく。
「ぜ、全然そんなことないよ!?だだだ、だってあのお兄ちゃんだよ!?普段ぐーたらでいい加減で性格悪くて生活能力皆無で、戦車道しか取り柄が無いような人だよ!?ぶ、ブラコンなんてそんな……!」
お目目ぐるぐる、お顔真っ赤、お手手は右往左往。
そんな絵に描いたような慌てっぷりを披露するみほに、沙織は呆れたように息を吐いた。
この有様でそんな言葉が通ると思っているのだろうか、この子は。
要するに渡里を追いかけるのに夢中で、他の男の人に見向きもしなかったということだろう。それ、誰がどう見てもブラコンじゃん。
「いやみほ、もう隠せてないから。普通お兄ちゃんだからって家にご飯作りに行ったりしないし」
「はぅっ!ど、どこでそれを……」
「あ、すいません西住殿……私、偶然西住殿が神栖殿の家に買い物袋を持って入ってくのを見てしまって……」
壁に耳あり障子に目あり。すっかり縮こまってしまったみほを、沙織は微笑ましく眺めた。
別に隠すようなことでも、ましてや恥ずかしがるようなことでもないだろうに。
沙織にも妹がいるが、こんな風に慕われたら誰かに自慢したくなるくらい嬉しい。きっと渡里も、それは同じだろう。
仲が悪いより、よっぽど素敵なことだ。それに、慕う相手が渡里ならそれはきっと―――――――――
「………」
「ん?なに麻子?」
不意に視線を感じた沙織は、その方向に目を向けた。
そこにはいつもの眠たげな表情を隠そうともしない、幼馴染の姿があった。
彼女は短く瞑目し、つれなく言う。
「なんでもない。それより今の話で思い出した。私は渡里さんに少し用事がある。先に失礼する」
麻子は立ち上がり、配膳トレーを手に取った。
瞬間、どこかで短く息が漏れる音がした。
長く艶のある黒髪が、立ち上がった拍子にサラサラと揺れる。
「麻子さん、私も渡里さんに聞きたいことがあるんです。一緒に行ってもいいですか?」
「っていうか華、いつの間に食べ終わったの……手品?」
胃にブラックホールでも搭載してるんじゃないだろうか、この子。
いっそ清々しいくらいの華の食べっぷりに、頬を引き攣らせる沙織の真正面で、勢いよく腕が上がった。
「あ、すいません!私も神栖殿にちょっと用があって……すぐ終わりますので私も一緒に行きます!」
「優花里も?み、みんなしてどうしたの今日」
渡里からすれば怒涛の訪問ラッシュである。一度に三人も押しかけてくるなんて。
珍しいこともあるものだ、と目を丸くする沙織に、麻子は平然と言った。
「私は渡里さんに本を借りてくる。この前家にお邪魔した時に約束した本を、今日持ってきてくれてるはずだからな」
「……え?」
「私は明日の予定について……いつも一緒に使ってる茶道部の部室が、確か明日は使えなかったはずなので」
「………んん?」
「私は昨日の夜お話しした戦車のセッティングの資料を貰ってきます!」
「ちょっと待って!?」
連鎖して明かされる三人の用事。その節々に隠された聞き捨てならない言葉を、沙織の耳は聞き逃さなかった。
「みんないつの間にそんなに渡里さんと仲良くなったの!?優花里は夜に密会してるし華はなんか密室で二人きりっぽいし麻子に至っては家にまで行ってるじゃん!!」
何が「色恋沙汰はない」だ。ガッツリあるやん。
「ズルい!」
「なんで私達怒られてるのでしょう?」
「さ、さぁ…」
頬を膨らませる沙織に、華と優花里は引き気味だった。
あるいはそれは、沙織の様子に対する困惑と言ってもよかったのかもしれない。
唯一、幼馴染の麻子だけが眉一つ動かさず、そんな沙織に呆れたように言った。
「沙織に接点が無さすぎるだけだ………変に意識するから、そういうことになる」
「え?なん―――――――――――」
空気に溶けていくように呟かれた言葉は、残念ながら沙織には届かなかった。
聞き返しても麻子は首を横に振るだけで答えることはなく、スタスタと歩き始めた。
対面に座る沙織は、そんな麻子の進路上にいた。必然、一瞬だけすれ違う。
その一瞬に、それは聞こえた。
「気になるなら、思い切って行動してみろ――――――――周回遅れギリギリだぞ、沙織」
「―――――――――」
弧を描く瞳。その奥には幼馴染の姿が映っていた。
心を見透かしたような瞳をした、親友の姿が。
○
街灯に照らされた道は、意外と暗い。
そんな風に見えるのは、沙織の心がこの景色と同じように、決して明るく晴れやかなものではないからだろうか。
学校を抜け出し、潮の香りを運んでくる風を肌で感じながら、沙織は黒い空の下を歩いていた。
確かな足取りとは裏腹に、沙織の頭の中は漠然としていて思考の渦がぐるぐると回り続けている。
理由は言わずもがな、昼に掛けられた麻子の言葉だった。
気になる人。
意中の人、とも言い換えることができるその人は、確かに沙織の心の中に住んでいる。
しかしそれは、決して誰にも言えないことだった。
恥ずかしいとか、そういう気持ちがあったからじゃない。想いを寄せるその人、いわばベクトルの先にいる思慕の対象者が、問題だったのだ。
だから沙織はその気持ちを、身体の奥深く、深い深い底に沈めた。誰にも気づかれないように、秘めることにした。
――――――はずだったのだが。
親友はそれを、あっさりと見抜いていた。
予想外と言えば予想外だ。しかしこれは、当たり前のことだったのかもしれない。沙織は、麻子のことならなんだって分かる。ならその反対も、あるに違いないのだ。ともに積み重ねてきた時間は、絶対に等しいのだから。
バレているのなら、もう仕方ない。
沙織は心の中で、白状した。
沙織の気になる人………それは大洗女子学園戦車道教導官の肩書と、西住みほの兄という称号を持つ男の人。
突如として女子校という閉鎖空間に現れた、一人の男性。
その名前を、神栖渡里という。
いや、と沙織は誰に言うでもなく言い訳した。
最初は、本当にそんなつもりじゃなかったのだ。
ファーストコンタクトこそ、そのスタイルとルックスと声に舞い上がってしまったが、その後すぐに起こった「神栖渡里不純異性交遊事件(誤解)」に始まり、地獄のような練習をさせられたことや何やらが積み重なって、沙織の中にあったトキメキはあっという間に霧散した。その時点では、渡里に「友達の兄」以上の感情を抱いてはいなかったはずだ。
なら、それがどうして恋慕まで昇華したかと言われると、沙織にはそれが分からないのだ。
何か決定的な出来事があったわけでも、特別な関係を持ったわけでもない。
普通に話をした。「先生」と「生徒」、「友達の兄」と「妹の友達」という関係から逸脱することなく、それでいて過剰でも過少でもない回数で。
そんな日々が続いていたら、本当に不思議なことに沙織は、渡里の姿を追いかけるようになっていた。戦車道を楽し気に語る横顔を、嬉しそうに戦車を弄る表情を、沙織は気づけば眺めているようになった。
そして間もなく、常に渡里のことを考えるようになった。
どこにいるのかな、とか。今何してるのかな、とか。
暇さえあれば、頭の中であの人の顔を思い浮かべるようになって。
そして沙織は気づいた。
自分は、渡里のことが好きなのか、と。
一度自覚してしまうと、もうダメだった。
まともに目を合わせることができなくなり、話し方はしどろもどろになって、心臓はうるさいくらいに鼓動してしまう。
先生でも、友達の兄でもなく、一人の男の人として、渡里を見るようになってしまったのだ。
その想いを誰かに打ち明けることは、無理だった。
これが本当に誰も知らない男の人なら、「好きな人ができた」と沙織は自慢げに語ることができただろう。
でも渡里は違う。優花里も、華も、麻子も、戦車道を受講している誰もがあの人のことを知っている。
そんなところに沙織の想いを打ち明けたとして、果たして皆今まで通りに接することができるだろうか。変に気遣ったり、遠慮したりしないだろうか。
沙織が危惧していたのは、そこだった。
自分のせいで今の関係が壊れてしまうことだけは、絶対に嫌だった。
特にみほ。あの超が二個くらい付くほどのブラコン(本人は一向に認めない)がどんな反応をするか、沙織には予想がつかない。
もしも、万が一、気まずくなったら。疎遠になってしまったら。
沙織は、きっと後悔する。この胸にある暖かな気持ちは大事だ。でもそれと同じくらい、いやそれ以上にみほ達との友情も大事なのだ。
だから沙織は、ずっと秘めておくつもりだった。自分一人我慢すれば、何も変わることはない。今の関係を、ずっと続けていくことができる。
そんな風に、考えていたのに。
沙織は無意識に頬を膨らませた。
身体の奥から沸々と沸き上がる感情の名は、果たして何だろうか。
恋愛に興味がない、と言っていた華と優花里は、自分の知らないところで渡里と親密な関係を築いていた。華なんて何やら少女漫画にそのまま使われてもおかしくないようなことをしているっぽいし、優花里は優花里で油断ならない気がする。
いやそれ以上に問題なのは、麻子である。
あの人見知りが、出逢って数か月の、それも大人の男の人と親しくなるなんて。
いやそれだけならまだしも、渡里の家に上がったこともあるとは。
衝撃度で言えばいつかの全校集会で見た戦車道のPV並みである。
自分は遠慮して過度な接触は避けていたのに、そんなこと知ったことかと言わんばかりにこんなことをされてしまっては、そりゃ沙織の頬っぺただってお餅みたいに膨れる。
ましてや周回遅れ呼ばわりされて、そのまま泣き寝入りなんてした日には女が廃るだろう。
「……って、意気込んだはいいけど」
沙織は足を止めた。眼前にあるのは、表札も掛けられていなければ門すらない簡素な玄関と、家を囲うように植えられた生垣。趣のある外観をした平屋の一軒家。
それは大洗女子学園が管理する女子寮で、沙織やみほが暮らすアパートタイプの物とは違い、文化住宅タイプと呼ばれるものであった。
このタイプの寮は沙織にとって非常に見覚えのあるものである。なぜなら麻子が、これと全く同じ寮に住んでいるから。寝坊助な幼馴染を起こしに行ったり、ご飯を作りに行ったりと足を運ぶ機会が多く、最早もう一つの家と言ってもいいくらいに沙織は慣れていた。
しかし、今夜は違う。
見た目は同じだが、この寮の中に住んでいる人が全然違うのだ。
「うー……やっぱ勢いに任せすぎたかなぁ」
自分だけ渡里と仲良くなれていないことと、昼の麻子の発言を受けて沙織も「負けてなるものか」と対抗心を燃やし、お家を訪問するという大胆な行動に出たのはいい。恋愛は受け身な沙織からすれば、大した進歩である。
ただ、それも一瞬のこと。
学校を出る時にはあった燃えるようなテンションも、時間を経れば経るほど右肩下がり。
そしていよいよ家の前に立つとなると、インターホンを押す指がどうしても出ないのが悲しいところである。
(っていうかみほから聞いたけど渡里さん久しぶりに早く帰れたんだよねいつもは夜遅くまで学校にいるけどとなると今日はゆっくり家で過ごせる貴重な日じゃんそんな日にいきなりアポ無し吶喊ってどうなのそもそも逢いに来たのはいいけど何か用があるわけじゃないし――――――)
あまつさえ、余計なことをぐるぐると考えてしまう始末。
実際、渡里と逢ってしたいことはない。言ってしまえば、渡里と逢う事自体が沙織のしたいことだから。
しかし、と沙織は一旦冷静になった。
――――――いきなり家に来られるのって、結構怖くない?
夜に、住所を教えてない人が、いきなり家に来る。
沙織はみほからさり気無く「渡里さんってどの辺に住んでるのかな~?」的な話をして渡里の居所を入手したわけだが、渡里からすればそんなの知ったことではない。しかもその来訪者、特に用事はなく逢いに来ただけ。
沙織は逆の立場になって考えてみた。
……流石に、止めておいた方が良い気がしてきた。
よし帰ろう、と沙織は瞬間で踵を返した。
やるべき理由は全然見つからないくせに、やらない方がいい理由はたくさん出てくる。
こういう時は、大人しく退いて体勢を立て直すべきである。勇気と無謀は紙一重、沙織は今その境界線上に立っていて、賢明にも無謀側に行かずに済んだのだから。
「武部か?何してんだこんな時間に?」
ところで、境界線の向こう側から手を掴まれて引っ張られた時は、どうすればいいのだろうか。
聴き心地のいい低い声に、沙織の肩が大きく跳ね上がる。
油の切れた機械みたいな動きで首が回転し、沙織の瞳はその人を捉えた。
「女子が気ままに歩き回っていい時間じゃないぜ。学園艦の中も100パー安全ってわけじゃないんだからな」
沙織よりも頭一つ以上大きな背丈。夜に映える濃紺の髪。
白いTシャツにスウェットというザ・部屋着な恰好をした意中の人が、そこにいた。
「―――――――――っ」
話しかけられた。なら、言葉を返さなくちゃ。
そんな沙織の思考とは裏腹に、沙織の身体は接続が切れたコントローラーみたいに動かなかった。
ただ視覚だけが機能を継続していて、彼の姿をとらえ続けていた。
沙織の中での渡里の姿とは、大洗女子学園のパンツァー・ジャケットとよく似たデザインの上着を羽織った恰好と、それ以前まで着ていたオフィスカジュアルな服装の二つだった。
それは没個性的な、いわば沙織たちで言うところの制服のようなもので、少しの堅苦しさがあった。しかし今の渡里に、その類の感じは全くない。
同じ人なのに服が変わるだけでここまで印象が変わるのか、と沙織はそんなことを考えていた。なんというか、渡里の素の部分を見れたような気がして、得した気分になる。
この胸の高鳴りは、きっとその辺りから来ているのだろう。具体的に言うと、引き締まった腕とか大胆に開いた胸元とか、沙織的には大変眼福です。
――――ってかそうじゃなくて!
「ああああのっ、私寮に取りに行くものがあって!だ、だからそのこの辺を通ったのは偶然というか渡里さんの家がここにあるのも知らなかったし――――」
あ、ダメだ。自分でも分かるくらいテンパっている。
こういう時に「少し近くまで来たので寄ってみたんですよ」くらいサラッと言えちゃうスキルが欲しいと沙織は切に思った。
アワアワする沙織に、渡里は表情を大きく変えることはなかった。
ただ顎に指を当て、少し困ったように口を開いた。
「武部の女子寮ってこっからちょっと遠いよな……今から取りに行くのは、オススメしないかも。すぐに雨が降るからずぶ濡れになるぞ」
「え、雨って……今日は天気予報でずっと晴れって言ってましたけど」
沙織は携帯で見たニュースを思い出した。今日は学園艦の航行ルート的にも、雨の降っているところには行かないはずだから、雨が降ることなんてないと思うのだが。
目を丸くした沙織に、渡里は少し笑って言った。
「降るよ……そうだな、あと――――――――――三秒後くらい?」
「へ?」
どういうことですか、という言葉は沙織の口から発せられることはなかった。
喉元まで来ていた言葉は、突如として沙織の頬を濡らした水滴によって霧散させられた。
ポツ、ポツ、ポツ。
テンポ40以下のリズムで地面を打つソレは、徐々に徐々に速度を上げ、あっという間にテンポ200にまで到達した。
渡里の言う通り、本当に雨が降り始めたのだと沙織が気づいた瞬間、何かが軋む音がした。
「傘、持ってないだろ。悪いけど俺も持ってないんだ……止むまで雨宿りしてけよ」
指で示された先には、開放された玄関のドアがあった。
奥の方から漏れ出す室内灯の明りは、暗い夜道を仄かに照らす。
沙織にはそれが、どこか別の世界に繋がっている異次元の扉のように見えた。
渡里の声に何と答えたのか、沙織には分からない。
ただ不思議な引力に導かれたように、気づいた時には沙織は神栖渡里の家へと足を踏み入れていた。
(わーっ、わぁーーっ!)
自分の部屋とも、みほの部屋とも、麻子の部屋とも違う
男の人の部屋。沙織はそれを、まず香りで感じた。
いい香りが漂っているわけじゃない。でも、不快な匂いでも全然ない。寧ろずっと嗅いでいたくなるような、不思議な香りだった。
部屋の中は、意外なほどに綺麗だった。
文化住宅タイプの寮は三畳の部屋と六畳の部屋の二つがあり、それが障子で仕切られているのだが、渡里の家はその障子が取っ払われている。
それによって広く見える部屋に対して、物が少なすぎるから部屋が綺麗に見えるのかしれない。
三畳の部屋には布団が一組敷かれていて、六畳の部屋の真ん中には長方形の机が一つと、座椅子が二つ。後は隅っこの方に風の切られた段ボール箱が積まれているが、それ以外に目立ったものはなく、寝るためだけの家という感じが強い。
「面白味のない部屋だろ」
縁側に続く窓からのっそりと入ってきた渡里は、そう言って笑った。
その脇には洗濯物の籠が抱えられている。
「その座椅子使ってくれ。みほがいつも使ってるやつだ」
「は、はい!」
シュバッ、という効果音が付きそうなくらい素早く沙織は座椅子を拝借した。スカートじゃなくて良かった、と沙織は人知れず安堵した。
洗濯籠を適当に置いた渡里は、そのまま玄関の方へ向かっていった。
壁の向こうに消えたと同時に、声が届く。
「麦茶でいいか?それくらいしか置いてないんだけどさ」
「は、はいっ、お構いなく!」
束の間、沙織は辺りを観察した。
本当に殺風景な部屋だ。学校の方の部屋はかなり散らかっていて、座る場所もないほどだったが、こっちは逆に散らかす物が無さすぎる。
結構極端な人だよね……と沙織が渡里の人柄を再認識した時、ふと机の上に妙なものが置いてあることに気づいた。
「……糸電話?」
安っぽい紙コップを掴み上げると、底のほうから細い糸が垂れていて、それはもう一つの紙コップと繋がっている。誰がどう見ても、ただの糸電話であった。
なにこれ、と沙織は首を傾げた。小学生の机の上にあるならまだしも、渡里の家に存在するものとしては違和感が強い。
「気になる?」
「みっ!?」
背後からかけられた突然の声に、沙織から妙な悲鳴が漏れる。
赤面しながら振り向くと、二人分のコップを持った渡里がそこにいた。その表情は悪戯っ子のような無邪気さであふれていた。
トン、と沙織の前に麦茶が置かれて、沙織の正面に渡里は座る。
「懐かしいだろ。子どもの頃よく作らなかったか?」
「い、糸電話はそんなに……」
そう?と言いながら渡里は麦茶を一口飲んだ。
そんなタイプの子どももいるだろうけど、沙織はそんなに工作が好きな方じゃなかった。
「俺はめっちゃ作ったよ。そんでみほとま―――言ってもわかんないか、まぁよく遊んだんだよ」
渡里は沙織が持ってない方の紙コップを手に取り、くるくると弄んだ。
「いいよな、これ。子どもの頃は分からなかったけどさ、理想のコミュニケーションってこういうものなんだろなって思うよ」
「糸電話がですか?」
「というよりはメカニズムが、かな」
すると渡里は口に紙コップを当てて、人差し指で自分の耳を二度叩くジェスチャーをした。
ピンときた沙織は、自分の持っていた紙コップを耳に当てる。
『多分雨はあと二時間弱くらい降り続ける。夜も遅くなるし、帰りは送ってやるよ。それまではウチで暇つぶしてけ』
そう言って渡里は莞爾と微笑んだ。
ドクン、と沙織は胸がひと際大きく鼓動するのが分かった。
つまり沙織は、二時間くらい渡里の家にいることができて、しかも二人っきりで過ごすことができるのだ。
なんという僥倖だろう。勇気を出してよかった、と沙織は心の中でガッツポーズした。
普段訊けないようなこととか、ずっと訊きたかったことを色々聞くまたとないチャンスだ。
「あ、あの渡里さん!」
「どした?」
何から訊くべきだろうか。
やはりここは、王道の『好きな女性のタイプ』だろうか。それとも本丸の『彼女はいるのか』だろうか。いや待て後者は結構リスキーだ。ジャブとしては前者の方が良い気がする、うん。
よし、行くよ。
「す、好きな――――――――」
「??」
「――――――――戦車道について、教えてください……」
あぁもう私って、ほんとにヘタレ。
沙織はさめざめと心の中で泣いた。
そこまで言ってるなら、もう言い切ってしまえばいいのになんで逃げちゃうかな!?こんなザマで恋愛マスターなんてよく名乗れたものだよ!
そんな感じで脳内では、バッテン印の看板を首から提げた沙織が、二、三人の沙織からああだこうだと文句を言われていた。
「戦車道?通信手のことを教えてほしいってこと?」
「うぅ、そうです……」
全然そうじゃない顔の沙織に渡里は首を傾げていたが、構わず彼は話始めた。
「って言われても、武部に教えることはないよ」
「えぇっ!?」
そして速攻で終わった。
唖然とする沙織に、渡里は戦車道教導官の顔になって説明した。
「通信手は戦車と戦車、人と人とを繋ぐ者っていうのは分かるだろ?戦車道において意思疎通は基本的に通信によって行われる。なら、その管理を一手に引き受けている通信手こそがコミュニケーションの要なんだ」
それは合宿初日、通信手組の前で渡里が言った言葉だった。
「だから通信手には、高い感受性と送信能力が求められる。平たく言うと、相手の話を理解する力と、相手に理解しやすい話し方をする力。これが所謂、通信手の素質になる」
状況は完全に、戦車道の授業と化していた。いやまぁ、話を振った沙織が百パーセント悪いんだけども。
「で、その点で行くと武部は、通信手の素質がかなりある。正直、十分すぎるくらいに」
「ほ、ほんとですか!?」
色気のない話とはいえ、褒められるのは嬉しいことだった。
しかも渡里は、戦車道では絶対に嘘をつかない。つまりこれは、決してお世辞ではない。
「みほから聞いたけど、人と仲良くなるのが得意らしいじゃん。それって誰にでもできることじゃないんだよ。通信手としては、得難い才能だと思う。そんで今は、その素質に相応しい質と量の練習をこなしてる。通信手の能力としては、合宿が終わる頃には黒森峰や聖グロに混じっても大丈夫なレベルにはなってるよ」
べ、べた褒めと言うやつなのではないだろうか、これ。
頬が少し熱を持ち始めた。
合宿中は本当にジェスチャーゲームとか伝言ゲームとか、言葉縛りゲームとか色々やらされて「なんじゃこりゃ」と思うこともあったが、今は真面目にやってきてよかったと思う。
「ま、感受性と送信能力については通信手だけじゃなく、全員が持っててほしいものなんだけど。特別通信手は優れてないとダメっていう話で……まぁその辺抜きにしても、武部は優秀だよ」
だから、と彼は続けて言う。
「教えることがないんだよ。もう足りないものって言ったら、経験くらいしかないからさ。それは今すぐどうこうできるものでもないし」
今のままでいい、と渡里は暗にそう言った。
沙織は、別にしんどいのが好きというわけじゃない。そこまでストイックな精神は持ち合わせていない。だからしなくていい練習なら、無理にでもしたいとは思わない。
でも、と沙織は両の手を握った。
沙織は知っている。
華が、日課だった生け花をお休みしてまで、戦車道の練習を頑張っているということを。そしてそれは、本来やらなくてもいい練習だったということも。
沙織は知っている。
麻子が、最近熱心に戦車道の本を読んでいるということを。それは麻子が初めて、自分以外の人のために頑張ろうとしているからだと。
沙織は知っている。
優花里が、装填手の領分を超えた練習をしていることを。それは今の自分に必要なことなら、なんでもするという向上心の表れということを。
沙織は知っている。
みほが、今すごくしんどい思いをしながら頑張っていることを。迷いながら、それでも必死に前に進んでいるということを。
誰かに聞いたわけじゃない。でもこれくらいのことは、皆のことを見ていればすぐに分かるのだ。
もし知らなかったら、きっと今のままで済んだのだろう。
でも知っているんだから、見て見ぬ振りはできない。
こんなにも頑張っている人がいるのに、自分だけ良かったらいいなんて思えないのだ。
だから、
「でも、それでも他にできることはないですか?」
沙織は真っ直ぐに渡里の目を見つめて言った。
はじめて、こんなにもこの人のことを見たかもしれない。
「なんでもいいです。私にできることがあるなら、なんでも教えてください」
宇宙の色をした瞳が、沙織の両眼を覗く。
沈黙は、十秒程だった。
「………純粋な通信手の技術で、できることは本当にない。でも、武部沙織としてできることが無いわけじゃない」
その時の渡里の表情は、少し呆れたような感じだった。
「今の四号の通信システムは、他の戦車から入ってきた情報を武部が受け取って、それをそのまま一ミリの誤差もなくみほにトスしてる形だろ」
沙織は頷いた。
10入ってきたものは10のまま、四角い形で入ってきたものも四角い形のままみほに渡す。
それが通信手として沙織が心掛けていることだった。
「みほは情報を処理する力がすごいからさ、そうやって武部から入ってきた情報を全部整理して、頭の中にある戦況マップに反映させることができるんだ」
聖徳太子は十人の話を一度に聞くことができたというが、感覚としてはみほもそれに近いものを持っている、と渡里は言う。
「しかもみほは隊長兼車長だからな。部隊全体の指揮と、戦車単体レベルの指揮の両方をこなしてる。武部、みほがうまく指示できないところ見たことあるか?」
「え、えーと……そういえばないような……」
はじめて戦車に乗った時も、聖グロとの練習試合も、普段の練習でもみほはテキパキと指示を飛ばしている。何を言えばいいか分からない、というようなテンパり方は未だ見たことがない。
「膨大な情報を処理しながら、大局的な指揮と局所的な指揮の両方を同時にできる。それはそのままみほの高い実力を示してるわけだが……本当はもっと上があるんだ」
「え!?」
今でも十分すぎるくらい凄いみほが、もっと凄くなる。
それは既に、沙織の想像を超えているレベルの話だった。
「ケーキで考えてみ。三等分と五等分、一個あたりの大きさは前者の方が大きいだろ。それと同じで、みほの負担を減らして、一か所に力を集中させることができれば、その分だけパフォーマンスは上がる」
そして渡里の視線が、鋭い矢となって沙織へと投射された。
「わかるか、武部。今みほがやってる情報処理の部分を、お前が肩代わりするんだ。情報をそのまま渡すんじゃなく、切り分けを行って可能な限り単純化する。そうすればみほは指揮だけに集中することができる――――お前が、みほを支えるんだ」
「私が、みほを……」
支える。それは、言葉にするのは簡単だ。
でもその逆だって有り得るのが、現実。
「できるのかな……」
「必要なのは戦術眼だ。あくまで形としてはみほのアシストだからな。戦術を考える時とか、
相手の動きを読む時とか、そういう時にちゃんと使えるように情報を料理しないといけない」
「え!?ど、どうしよ……私戦車道なんて全然詳しくないのに……」
「素人なんだから当たり前だろ」
そう言って渡里は苦笑した。
そして立ち上がり、収納の押入れを開ける。
瞬間、激しい雪崩の音が部屋に響き渡った。開けた拍子に、無理やり詰めこまれていた中の物が飛び出してきたということに気づいたのは、渡里が沙織の前に座りなおした時だった。
「はい、プレゼント」
「へ、な、なんですかこれ……?」
手渡されたのは一冊のノートだった。
表紙には大きく『せんしゃどーノート!!!』という文字とマル秘が書かれていて、全体的にやけに使い古されているというか、年季を感じさせる。
渡里は懐かしむように言った。
「見ての通り、戦車道のノートだよ。俺とみほと、あともう一人で作ったんだ」
視線で促され、沙織は中を拝見した。
一ページ目には、下手くそな絵で描かれた戦車の姿と、ひらがなばっかりの解説文のようなものが上下に分かれて書かれていた。
二ページ、三ページ目は四角形と三角形の記号と矢印が縦横無尽に紙面を駆け回る図式のようなものが書かれていて、こっちはなんのことか沙織には分からない。
「西住流で習うようなことのほとんどは、そこに書いてある。つまり戦車道に必要な知識は大体載ってるってことだ」
ページをぺらぺらと捲る沙織を他所に、渡里は段ボール箱の中を漁っていた。
「む、むずかし……」
一通り流し読みした感じ、戦車の解説のようなところは分かる。しかしそれ以外の、専門的な用語やら知識が書かれたところは、正直理解できない。
要するにこれさえ読破できれば、戦車道に詳しくなれるということなのだろうが、中々難関である。
「まぁそう簡単に理解されたら西住流の立つ瀬がないよ。分からないトコは聞きに来い。マンツーマンで教えてやるから」
「あ、ありがとうござ―――――――――――――へ」
今、なんと仰った?
沙織の耳がおかしくなっていなければ、マンツーマンで教えると言わなかっただろうか。
「それくらい厳しくやらないと、多分大会始まるまでに間に合わないからな。武部がその気なら、付きっきりで叩き込んでやるよ」
「ほんとですか!?」
「え、なんでちょっと喜んでんの?」
付きっきり、マンツーマン。
それってつまり、合法的に二人っきりになれるチャンスがまだあるということではないだろうか。しかも何度も。
緩む頬を、沙織はノートで隠した。もうニヨニヨは、止まらなかった。
その間渡里は、変なものを見る目で沙織のことを見ていたが、それは沙織の知るところではなかった。
「そ、それ読むのは勿論だけど、自分でもそういう風なノートを作ってみるといい。戦車のスペックとか形とかは、多分そっちの方が覚えやすいと思う」
「はーい!!」
「……ま、いっか。どうする?まだ時間あるし、ちょっと個人レッスンしようか?」
「いいんですか?」
家に上がり込んでいる沙織が言うのもなんだが、家でゆっくりできる折角のチャンスなんじゃないだろうか。正直今日以降も二人っきりになれる機会を手にした沙織としては、今日はもう黙ってノートに目を通してるだけでも全然いい。
そんな沙織を、渡里は可笑し気に見つめた。
「今更遠慮されてもな……まぁ、気にするって言うんならそうだな……お礼に『恋愛マスター武部』の恋愛テクニックでもご教授頂こうかな?」
「ぶっ!?」
麦茶が口から飛び出しかけた。
「ど、どこでそれを……」
「ウサギさんチームに聞いた。結構好評らしいな?俺も生まれてこの方モテたことないからさー是非その辺りは聞いてみたいな」
「あぅ……そ、そのぉ……」
勘弁してください。
そんな風に白旗を挙げることができたら良かったのに、渡里経由でウサギさんチームの耳に入ってしまうと、もう看板は下ろすしかなくなる。
狼狽える沙織に、渡里はくつくつと笑った。
「百戦錬磨の腕前、是非拝見したいな。今気になる人とかいないのか?」
「そ、それは……いますけどっ?」
胸を張って沙織は言った。虚勢を張った、と言い換えてもよかったかもしれない。
ドラマとか少女漫画なら、「今目の前にいます」なんて台詞を言うのだろうが、そんな芸術的なテクニックは沙織には無理だった。
すると渡里は、満足したように笑うのを止めた。
次に出てきた声は、沙織の思っている数倍柔らかなものだった。
「その人が、武部の良い所も悪い所も全部分かってくれるような人だといいな」
それはきっと、一人の大人として子どもを導くような、そんな言葉だったに違いない。
あぁ、と沙織は感嘆した
この人は、やっぱり大人なんだ。沙織より数年長く生きて、沙織よりもいろんな経験をして成熟した、一人前の人間なんだ。
「……そういう、見栄っ張りなところとか特にな」
訂正。この人普通に子供っぽいとこある。
悪戯っ子そのもののような顔で笑う渡里に、沙織は紙コップを持つようにジェスチャーで示した。
目を丸くして紙コップを耳に当てる渡里を見て、沙織もまた紙コップを口に当てた。
そして一言、
『好きです』
「―――――――――へ?」
聞こえなかった、とでも言いたげに此方を見つめる渡里に、沙織は今度は
『あんまりイジワルすると、みほに言いつけますから』
恋ってどういう気持ちなんですか?
その問いには、もう答えられそうだ。
武部殿可愛いよ武部殿。
割とマジな話、武部殿がモテない世界ってヤバいと思う。