どうにも情景描写は得意ではないと痛感する今日この頃です。
独自設定タグが付いている通り、本作には原作にはない設定がいくつかあります。
今回の話にも出てきますので、その辺り許容が難しい人はお気をつけください。
六月中旬。合宿もいよいよ後半戦に差し掛かり、大会までの残り時間が徐々に現実味を帯びてきた今日この頃。
大洗女子学園戦車道受講者が使用する宿泊所に、変化が訪れていた。
それは、最初は「帰宅する途中で力尽きる」ということで満員御礼だった宿泊所が、最近まばらに空席ができるようになっていることだった。
これは別にボイコットとかそういうことではない。理由は至って普通。
合宿を開始して一か月半、受講者たちの体力が合宿に耐えうるようになったため、帰宅する者が増えたのだ。
と言っても毎日がそうというわけではない。
基本的には月曜から金曜の五日間の内、四日は宿泊所で過ごし、諸々の事情で一日ほど自宅に帰るというのがパターンだった。
体力的には既に宿泊所を使わなくとも問題ないレベルにはあるのだが、なんだかんだで全員、このプチ共同生活を楽しんでいたため、「じゃあ止めます」とはならなかった。
それはひとえに、大洗女子学園というチームの仲の良さを表していた。
実に善きことである。
「で、お前はなんで毎度毎度ウチに来るんだ?」
座椅子に全体重をかけてリラックスしている兄は、不満げに眉を八の字にしてそう言った。
「お兄ちゃんが毎度毎度、ちゃんとしたご飯を食べないからだよ」
机の上にお手製の料理を並べながら、みほはつれなくそう言った。
まったく不満があるというのならこっちの台詞である。
ふと「ちゃんとご飯を食べてる?」なんて聞いてみたら「……いつ食べたっけ?」と返ってきたときのみほの感情は、ちょっと言葉に言い表せないものだった。
いい年した男の人が栄養失調で倒れるなんて、しかもそれが自分の兄なんて広まった日にはみほはしばらく家から出てこれない。……合宿中は学校に寝泊まりしてるけど。
「三食パンとかじゃなくて、たまには学校の食堂使ったら?」
「うーん使いたい気持ちはあるんだけどな。色々やってるとすっかり忘れるんだよな」
流石自他ともに認める戦車道の虫。その情熱は、三大欲求を余裕で上回る。だからってご飯や睡眠を疎かにするのは決して褒められたことじゃないけど。
エプロンを外し、席に着いて手を合わせ、いただきます。
最低限生活に必要なものしか置いてない質素な部屋の中で、二人は夕食を開始した。
大変不本意なことだが、足繁く兄の家を訪ね、ご飯を作ってきたからか料理の腕がぐんぐんと伸びていて、最近は少し凝ったメニューも作れるようになっていた。
それを兄のお蔭とは絶対に言わないが、ともかくとして「とりあえずカレー。何でもカレー」という有様から卒業できたことはみほとしても良いことだった。
今日の夕食は肉じゃが。流石に沙織ほどの腕前はまだまだ遠いが……
「美味っ」
とりあえずこの兄を瞠目させるだけの実力はついてきたようなので、みほとしては満足である。
「ってかお前も食うのかよ」
「作った人の特権だもん。それに食材余らせたら、余らせた分だけ無駄になるし」
「学校で食えばいいのに……」
「合宿中、宿泊所の利用は強制じゃない、でしょ」
閉口した渡里を見て、みほは少し得意げな気分になった。
普段の舌戦では勝ち目がないが、私生活の土俵ではみほの圧勝である。
「もうすぐ合宿も終わる。皆と一緒にご飯を食べられるのも、もう残り少ないんだぞ。俺となんていつでも食えるだろ」
「そういうお兄ちゃんこそ学校で食べれば?皆会いたがってたよ」
その言葉に渡里は少しばかり驚いたようだった。
みほの言うことは嘘ではない。学校に寝泊まりしているのは戦車道受講者だけで、渡里は基本家に帰っている。
練習が終わり、整備を済ませて、帰宅。
この間に話す機会はあれど、夕食を一緒に取ることは未だかつて一度もなかった。特に渡里の性質を考えれば尚更その機会は少ない。
だからみんな、「折角なら一緒に」と一度ならず思っているのである。
「いいよ、年長者がいたんじゃ気も休まないだろ」
「そんなことないよ」
兄の逃げ道を、みほは強かに潰した。
「最初の頃ならそうかもしれないけど、もう皆お兄ちゃんと仲良しでしょ?」
「………さ、どうかな」
撤退戦においては西住流で右に出る者はいない、と言われた兄にしては珍しく拙い逃げ方だった。その奥にある感情に、みほはしっかりと気づいていた。
「アヒルさんチームからはコーチって呼ばれてるもんね。それにすごい慕われてるでしょ」
「あー、言っとくけどあいつらが勝手に言いだしたんだぞ」
渡里は困ったように頭を掻いた。
コーチ。その呼び方はアヒルさんチームの専売特許。
当時いきなり兄の事をそう呼んだアヒルさんチームに、みんな目を剥いたものだった
「一回気晴らしにバレーボールに付き合ったところから、一気に懐かれたな」
「あぁ、そういえばお兄ちゃん中学の時バレー部だったっけ?」
「ほとんどお遊びの部活動だったけどな。校則で仕方なく入っただけだし、週一でしか参加してなかった」
しかしそんなのでも、人との縁になるものらしい。
アヒルさんチームはバレー部復活のために戦車道を受講したくらいの、筋金入りのバレー好き。
バレー出来る人に悪い人はいない、と思っている節が割とあるので、速攻で打ち解けるのも納得だった。
金髪にカチューシャが特徴の佐々木あけびは子犬みたいに懐いているし、クールな印象が強い河西忍も兄には少し変わった表情を見せることが多い。
暖色の髪とハチマキが特徴の近藤妙子は何かと兄と話している所をよく見かけるし、キャプテンの磯辺はシンプルな敬意を兄に払っているようだった。
しかしあんこうチームと並んで神栖渡里と仲が良いとされるアヒルさんチームは、バレーだけで渡里と仲良くなったわけじゃないことをみほは知っていた。
「でもお兄ちゃん、アヒルさんチームみたいな人結構好きでしょ?」
「む、……まぁ、好ましくはあるよな」
アヒルさんチームと渡里の関係は、大洗女子の中でも少し変わっている。
本人たちの気質が大きく関係しているのだろうが、清潔感のある体育会系とでも言うのだろうか。ともかく気持ちよく、清々しい、エネルギーに満ちた関係がそこにはある。
みほもうまく口にすることはできないが、スポーツでよくある選手と監督の関係が一番近いと思う。
「素直だし、向上心もある。何より誰にも負けないくらいの根性がある。あいつらくらいだよ、俺にもっと厳しく鍛えてくださいなんて志願してきたのは」
カラカラと兄は笑った。
みほからすると、この兄にリミッター解除させることは控えめに言って自殺行為だが、その一線を軽々と越えてくるのがアヒルさんチームだった。
元々が体育会だったからか、渡里の言う通りアヒルさんチームは向上心と根性が凄い。
それに体力もあるから、兄謹製の合宿メニューに適応するのも随分と早く、スポンジが水を吸収するかのように成長していく。
「鍛え甲斐があるんだよな。どんだけ高いハードル置いても、それを越えようと前に進もうとする。教える側としては嬉しい限りだ」
「それでついついやり過ぎちゃうんでしょ」
咎めるような視線にも、渡里は笑うのみだった。
あれはおそらく合宿の中頃だっただろうか。アヒルさんチームが、それはもう魂を抜き取られたんじゃないかってくらいにぐったりしている時があった。
当時は何があったのかと頭を捻ったが、今思うにあれは合宿に慣れてきたゆえの慢心と、兄の本気を見誤った結果なのだろう。
どんなメニューだったかは知らないが、まぁ碌でもないとみほは思う。
「あ、そういえば最近アヒルさんチームがすごくやる気なんだけど、お兄ちゃん何か知ってる?」
「うん?やる気あるのはいつものことだろ?」
そうなんだけど、とみほは思いを巡らせた。
確かにアヒルさんチームは基本士気が高いのだが、ここ最近はそれとは少し違うと感じる。今までがフランべだとすると、最近はキャンプファイヤーである。
大会が近づいているからかとも思ったが、どうにもそれだけが理由とは思えない。
何か起爆剤となるものがあったんじゃないかと、みほは思うわけで。
すると渡里は何かに思い当たったように口を開いた。
「関係あるかは知らないが、八九式について少し教えてやったな」
「八九式?」
それはアヒルさんチームが乗る戦車の名前だった。
旧式の戦車が多い大洗女子の中でも輪をかけて古い戦車。あんまり言いたいことじゃないが、お世辞にも普通のスペックとも言えない性能で、装甲は「防げないものしかない」、火力は「貫けないものしかない」という具合である。
そんな戦車でもアヒルさんチームは意欲的に練習に取り組んでいるわけだが、果たして兄が教えたこととは何だろうか。まさか歴史でも説明したわけじゃないだろうし。
「大洗女子の戦車は元々学園艦の中にあったものだけど、八九式だけは違うんだ。アレ、俺が面倒見てた戦車だったんだよ」
「……へ!?」
どゆこと、と目を丸くしたみほに、渡里は茶を一杯啜って答えた。
「学園艦の中に戦車があるとは言っても、見つかるとも限らないだろ?だから保険の意味を込めて、八九式を譲ったんだよ。なかったら使ってねーって」
瞬間、みほはいつかの角谷の言葉を思い出した。
そういえばあの八九式は貰い物と言っていたが、まさか送り主がこんな身近にいたとは。
「まさか本当に使われるとはなぁ……そうと分かってればもう少し綺麗にして渡したんだけど」
兄はあまり八九式の出番があることを歓迎している様子ではなかった。
確かに八九式のスペックでは、戦力になるかギリギリのラインだろう。
戦車戦を想定していなかった時に造られた戦車だし、対戦車戦が基本の戦車道では少し活かしづらい。前線を張ることはまず無理だし、かといって後方から相手を貫く火力もない。
精々機動力を活かした偵察役―――――――
「あ、お兄ちゃん。ちょっと聞きたいんだけど……」
「何」
「八九式ってなにか弄ってる?」
みほはあの八九式を見た日から今日に至るまでの疑問を、兄にぶつけた。
ずっと思っていたのだが、あの八九式は異常に足が速い。
整地で時速25キロがマックスのはずなのだが、あの戦車は余裕で四号戦車と同じかそれ以上の速さを出している。多少のチューンをしているとはいえ、あの速度の出方は普通じゃない。
正直、みほにとってはかなり未知の存在だった。
みほの問いに、渡里は黙ったままだった。ただのそりと襖を開け、紙束の雪崩を引き起こしながら一枚の紙を片手に帰還してきた。
「これ、八九式のデータ。アレに使ってる部品は、全部そこに書いてる」
「…………な、なにこれ」
みほは愕然とした。それを面白そうに渡里は眺めていた。
「これ、アヒルさんチームは知ってるの?」
「言っても分かんないだろ。ちょっと特殊な仕様になってるとは言ったけど」
「ちょっとって……」
確かにちょっとだけど、全体で見れば全然違うのだが。
何がどうしてこんなことになったのかは知らないが、こんなになってればあの八九式の異常も納得というものだった。
「よくこんなのあったね……」
「別に見つけてきたわけじゃないけどな。俺のところに転がってきたはいいけど、使い道がないし、かといって捨てもできないからずっと持ってただけだし」
ひょいパクひょいパク、と渡里は肉じゃかを軽快に口の中に放り込んだ。
どういう経緯があったかは分からないが、まぁ不思議なこともあるものである。
八九式の整備を行うのがいつも兄だった理由も、みほはようやく分かった。
そしてついでに、アヒルさんチームのやる気が急上昇した理由も。
「それはやる気にもなるよ」
「ん?なんで?寧ろ俺からすると、あんな戦車に乗らせることになって、ちょっと申し訳ないくらいだけど」
あぁもうこの人は、とみほは内心でため息を吐いた。
戦車道となれば森羅万象を見通す目も、日常生活ではすっかり曇るようだった。
「あのね、アヒルさんチームはお兄ちゃんとすごく仲良しでしょ?」
「うん」
「で、自分たちの乗ってる戦車がお兄ちゃんの御下がりだって聞いたんだよね?」
「正確には御下がりじゃないけど、まぁ」
ここまで言ってもまだ気づかないか。
方程式はほとんど完成しているというのに。
みほは呆れながら、解を口にした。
「じゃあ張り切るよ。野球少年が、憧れのプロ野球選手からグローブを貰うようなものだもん。きっとお兄ちゃんにありがとうって思ってるよ」
「……あー」
納得半分、懐疑半分の表情を渡里は浮かべた。
まったくそういうところは本当にダメダメなんだから。
「そっかそっか、一方通行じゃなかったのか」
「え?」
「いや、なんでもない。まぁ慕われてるのはいいことだよな。怖がられるよりはよっぽど」
「あぁ、ウサギさんチームのこと?」
バレー部が最も渡里と早く打ち解けたチームなら、ウサギさんチームは最も打ち解けるのが遅かったチームである。
その原因は、ひとえに兄にあった。
兄の顔立ちは、まぁ妹の贔屓目なしにしても整っている方だと思う。
身なりには気を遣ってるから清潔感があるし、態度もハキハキとしているから全体的な雰囲気としてはシャープな感じが強い。
特に目つき。普段は兄の凛々しさを助長する鋭い目つきが、ふとした瞬間に柔らかくなる瞬間とか、ギャップがあってみほはすごく好きだ。それに声も聞き心地の良い低音で、ザ・大人の男性という感じがする。
ただ、長所と短所は紙一重。
みほにとっては良いところでも、他の人からすればそうじゃないことだってあるわけで。
凛々しい目つきは鋭い眼光に。
聞き心地の良い低音は威圧的な声に、といった具合に、ウサギさんチームはどうにも兄のことを怖い風に見てしまうようで、内心ちょっと恐れられていたのだ。
これはもう仕方ないことだった。全員が全員、みほと同じ感性というわけにはいかないし、みほと同じくらい渡里のことを理解してるわけでもない。
見え方なんて、人それぞれで変わるもの。どれが正しいなんてことはない。
兄もその辺は分かっていたようで、無理に話しかけることもなく、話しかけて来いと言うこともなく、付かず離れずの距離を保っていたのだが……実はこれは、ちょっと前の話である。
「でもお兄ちゃんが戦車を見てあげてから、ちょっと変わったよね」
「あれなぁ……いくら俺が話しかけづらいからって、感触の変な戦車に三日も乗りっぱなしなことあるか?普通すぐに言うだろ」
ちょっと前に、M3リーの調子が悪くなった時があった。
それ自体はまぁいいとして、渡里がここまで呆れたのはウサギさんチームがそれをずっと黙っていたからだった。理由は言わずもがな。
しかしみほは、ウサギさんチームの気持ちも少しわかるのだ。
「もっと分かりやすく故障してたなら言えたかもね」
結果を先に言うなら、戦車はちっとも壊れてなんかいなかった。いつもと何一つ変わらない、完璧に整備された状態だった。
しかしこれが、ウサギさんチームの気のせいというわけでもなかったのだ。
「普通気づかないよ。自分たちの実力が、戦車のスペックを追い越したなんて」
単純な話だ。大洗女子の戦車は揃いも揃って旧式だが、それでも戦車道素人集団にとっては手に余るものだった。
しかし兄によってタケノコみたいにぐんぐん成長していった結果、戦車の性能が彼女たちに追いつかなくなってしまったのだ。
本来であれば成長に合わせて戦車にチューンを施し、均衡を維持するのだが、それが間に合わないレベルの成長速度を大洗女子は見せていた。
砲塔の動きや操縦桿の反応が鈍いとウサギさんチームは言ったが、それは戦車がそうなったんじゃなく、彼女たちがそう感じるようになっただけというわけである。
そしてそんなのは、普通分かりっこない。だから彼女たちは、その曖昧さに脚を取られて兄に言い出せなかったのである。きっと気のせいに違いない、と自己完結してしまったのだ。
「そうかもしれないけどさ……」
兄はどことなく不服そうな顔になった。
そしてまるで先生のような口ぶりで言う。
「もし戦車が本当に壊れてたらどうするんだよ。何か重大な事故に繋がることだってあるんだぞ」
全く同じことを、全く同じ口調でウサギさんチームにも言ったんだろうな、とみほは苦笑した。
なんだかんだで面倒見が良い兄は、「何で早く言わないんだ」とひとしきり注意した後、倉庫に籠ってウサギさんチームの戦車を一晩でグレードアップしてしまったのだ。
それも乗員一人一人からヒアリングし、それぞれに合ったカスタムを施すというおまけ付きで。
お蔭で調子が悪いどころか前よりも快適になったM3。
ウサギさんチームは渡里への印象に上方修正を掛けたようで、以前ほど他人行儀な関係ではなくなった。寧ろ最近は積極的に話しかけている所を見かけるほどである。
外見のアレとは裏腹の、根っこにある優しさにウサギさんチームも気づいたのかもしれない。まぁ会話自体は普通にできるくらいの仲はあったし、何かキッカケが一つあれば仲良くはなるだろう。兄は「威厳がなくなった」と感じているらしいが、元々そんなにないから何の問題もないとみほは思う。
それになんだかんだで、まだウサギさんチームは結構兄に怒られたりしている。
勿論怒鳴りつけるような感じじゃなく、やんわりと諭すような叱り方だが、どうにもそこに渡里とウサギさんチームの関係がある気がした。
いっそシンプルなくらいの、先生と生徒の関係が。
「お前にも言っとくけど、ケガだけはするなよ。ただでさえ人数ギリギリなんだから」
「大丈夫だよ、結構頑丈な方だし」
伊達に西住流で鍛えられてはいない。砲弾は見てから余裕で避けれるし、身のこなしに関しては結構自信がある。
平然としたみほに、渡里は微妙な顔をした。
幼少期の頃を思い出しているのかもしれない。あの時は我ながら結構やんちゃだったと思う。
「あ、そういえばカバさんチームから伝言を預かってるんだけど」
「うん?なんだなんだ」
渡里の家に行くと言って学校を出ようとした時、みほはいつもの恰好をした四人に呼び止められた。
そしてとある言葉を、「くれぐれも伝えておいてくれ」と頼まれたのだが……その言葉の意味がみほにはさっぱり分からない。なのでみほは、彼女たちの言葉をそのまま再生した。
「『明日が貴方にとってのザマとなる』……だって」
どうにも剣呑な雰囲気が漂う伝言である。実際、その時のカバさんチームからは並々ならぬ気合を感じたのだが、実際は何のことやらである。
しかし兄は思い当たる所があったようで、カラカラと楽しそうに笑った。
「相当根に持ってるみたいだなぁ、あいつら」
「んん?どういうことお兄ちゃん」
首を傾げたみほに、渡里は上機嫌のまま事情を説明し始めた。
「ほら、カバさんチームがよくやってるボードゲームがあるだろ」
「あの戦略ゲームみたいなの?」
「そうそう。アレさ、ちょっと面白そうだと思って見てたらカバさんチームに誘われてさー」
みほも遠目で見たことしかないが、確か駒を使った割と本格的なボードゲームだった気がする。いつだったか優花里がカバさんに混ぜてもらって、あえなく惨敗を喫してリベンジに燃えていたことがあった。
意外とルールが複雑で奥が深く、初心者にはちょっと難しいゲームだと優花里は言っていたが果たして兄はどうだったのだろうか。
「思ったよりちゃんとできてるゲームだからついつい本気になっちゃって」
あ、とみほは嫌な予感がした。
本気。兄から出たその言葉は、状況によってまるで違う意味になる。例えばこれが、家の掃除とか料理なら「何言ってるんだか」となるが、ゲームとはいえ戦術の腕を競う場となれば意味が正反対になる。
みほの考えが正しければ、おそらくカバさんは……
「メタメタに負かしちゃった」
「やっぱり」
みほは大きなため息をついた。
ボロボロじゃなくて
これがオセロとかトランプとか、そういう遊びだったならまだ兄も手加減するだろうが、その分野において兄は一切容赦しない、というかできない。
しかしまぁ、初心者には敷居の高いゲームで経験者を圧倒するとは、流石は兄といったところだろうか。
「そっから結構恨みを買ったみたいでな。リベンジを挑まれて、返り討ちにして、また挑まれて、返り討ちにして、というのを繰り返してるのが最近の話だ。その伝言もそういうことだろ」
「なんでちょっと他人事なの……あ、じゃあザマってもしかして」
音だけじゃ何のことかさっぱりだったが、事情を聞くとみほにはピンと来るものがあった。
「かの大英雄、ハンニバルとスキピオの二人が演じたザマの戦いのことだよ。連戦連勝の俺を今度こそ負かしてやるって意味なんだろうけど……自分達のことをスキピオと喩えるのはちょっと過大評価だよな」
古今東西の歴史に造詣の深いカバさんチームならではの挑戦状だった、というわけである。
ハンニバルとスキピオの二人にまつわる話は有名だ。
大国ローマをたった一人で恐怖させたカルタゴの指揮官ハンニバルと、その戦いを研究し、数度の大敗を糧に最後には勝利したスキピオ。
共に歴史上最高峰とされる二人の関係は、確かに今の渡里とカバさんチームに似てるかもしれない。兄の言う通り、実力の方は両者とも到底敵わないだろうけど。
「っていうかお兄ちゃん、カバさんチームとそんなことしてたんだ」
「ん?まぁな」
知らないトコで色んな人と色々ある人である。
しかも話を聞いている感じ、意外と仲良しな雰囲気だし。
いやこの場合、カバさんチームのメンタルのお蔭か。普通そんな大人げない真似されたら暫くは近寄らないと思うのだが。
「結構話合うんだよ。ほら、俺も戦史は好きだからさ」
「そういえば昔はよく読んでたね」
今もそうかもしれないけど、とみほは押入れから発生した雪崩の跡を見た。
それらしき書物はチラホラとある。アレが神栖渡里の力の源泉であることをみほは知っていた。
しかしカバさんチームと神栖渡里の会話か、とみほは思いを巡らせた。
なんというか、学術的な匂いがする組み合わせである。大学のゼミとか研究室とか、そういった類の雰囲気が近そう。兄が教授で、カバさんチームがその生徒。
日々知識を競い合い、研究成果を発表し合ったりして、歴史へと没頭していく。
みほも戦車道を嗜む者としてある程度歴史には詳しいが、それでもついて行けないレベルの会話が繰り広げられていそうだった。
「まぁあんまり深いところまではついていけないけど」
「あれ、珍しいね。お兄ちゃんが知識量で負けるなんて」
「戦車が関係してないとこはどうもな」
それでも普通の人よりはよっぽど詳しいだろうに、とみほは思った。
まぁ兄にとっては戦車道が全ての中心だし、当然の話かもしれない。
本を読むのだって、読書が好きだからじゃなく、戦車道に役立つモノがいっぱいあるからだし。
そこがカバさんチームとの違いだろうか。
彼女たちは歴史に埋没していく感覚が好きで歴史の勉強をするのだろうが、兄はあくまで戦車道のために歴史を学んでいるだけ。他の所は精々広く浅くといったところだろう。
「最近は戦術とか戦略とか、そういった分野の話が多いから助かるよ。ぐだぐだとマイナーな戦国武将とかローマの地名とか、そんなの語られるよりは俺も話しやすいし」
「最近カエサルさんとかエルヴィンさんにそっち系の話振られること多いと思ってたけど、お兄ちゃんのせいだったんだね……」
兄は心外そうな顔をした。
「お前も好きだろ、そういう話。子どもの頃は楽しそうに聞いてたじゃん」
「それは………そうだけどっ?」
みほは少しそっぽを向いた。
兄の言うことは正しいが、正確ではなかった。
たしかにみほは、幼い頃兄の話を聞くのが好きだった。でもそれは、話の内容が好きだったからじゃない。話をしてくれる人が、楽しげに話す兄の姿が好きだったから楽しかったんだ。
しかしそれを言うのは、少し気恥ずかしい気がした。危うく喉元まで出かかっていたが、すんでのところで思いとどまってよかった。
「それに戦術面の話ができる奴が増えるのはお前にとってもいいことだろ。性格的な作戦の得意不得意だってあるだろうし、それをカバーするためには文字通り頭数を増やすしかない。一人でなんでもやることはないだろうよ」
そう言って兄は、肉じゃがの最後の一口を堪能した。
すっかり綺麗に空いた器を見ると嬉しい気持ちになるのも、作り手の特権かもしれない。
「三突は大洗の中で、聖グロ相手にも通用するだけの火力がある唯一の戦車だ。ただ固定砲塔ゆえに融通が利かない。最大限活かすなら、相応の戦術眼が必要になってくる。その辺の力を養ってほしい、ということで色々教えてるわけさ」
「ゲームの方も?」
「そっちは負かすのが楽しいだけ」
本当にいい性格をしている兄だ、とみほは呆れた。
自分で教えておいた戦術を、自分相手に試させて、残念通用しませんでしたと負かすわけだ。
つまりカバさんチームが兄を出し抜こうとするなら、兄から教えてもらったことをそのまま実践するのではなく、自分達で応用し、発展させなければならない。
そのためには相応の時間と思考の積み重ねがいる。そしてそれは、間違いなくカバさんチームの成長の糧となる。その辺りが兄の狙いだろう。
「ご馳走様。着実に成長しているようで何よりです」
「お粗末様」
みほはカチャカチャと空の食器を片づけ始めた。兄より量が少ない分、みほの方が僅かに食べ終わるのが早かった。
持ち上げ、台所に運ぼうとするみほの背中に声が届く。
「洗い物はやっとくよ。あんまり遅くならない内に学校に帰れよ」
「いいよ、洗い物くらいすぐ終わるし。それに食器全部台無しになるよりはいいから」
洗い物くらいできるわ、という兄の遠吠えを聞きながらみほは台所に食器を置いた。
ボコが喧嘩で勝つくらい、それはあり得ないことだ。
元いた部屋にエプロンを取りに戻るついでに、一言。
「遅くなったら送ってね?おにーいちゃん」
ご飯を作ってあげたお駄賃としてはちょうどいいでしょ?
そんなみほに苦笑を一つ零して、兄は瞑目してヒラヒラと手を振った。
それを見てみほは満足げ気に一つ頷き、台所へと向かった。
軽快な電子音が鳴ったのは、それと同時だった。
○
「はいもしもし」
『もしもしー、今大丈夫ですか?』
携帯電話の向こうから聞こえてきた声に、渡里は一つ息を吐いた。
飄々としているようで、礼儀を弁えた独特の口調。電話越しだろうと直接話そうと変わらない態度の持ち主は、渡里の記憶の中には一人しかいなかった。
「ちょっとだけなら大丈夫だよ、角谷。何の用だ?」
『大会運営の方から色々連絡が来まして、ひとまず渡里さんの耳に入れとこうと思って』
「そ、明日詳しい話を聞かせてくれ」
本当に大会が近づいてきているのだと、渡里は実感した。
情緒に鈍感な渡里でも、流石に感じるものがある。
いよいよ始まるのだ――――大洗女子学園の、命運をかけた戦いが。
『………あっという間でしたね』
その声色に渡里は、角谷もまた自分と類似の感情を抱いていることを悟った。
しかし似てはいても、その大きさが決して同じではないことを渡里は知っていた。自分より数年長くこの学園艦と時間を共にしてきた角谷の方が、絶対的にその程度は大きいはずだ。
「そうだな。まだ最後の詰めが残ってるが、みんなよく頑張ったよ」
『私も渡里さんには色々無茶させられましたけどねー』
「それはお前んとこの砲手が悪いよ」
角谷は楽し気に笑った。渡里にも自覚はあるが、カメさんチームには実際それくらいの無茶が必要だったのだから仕方ない。それを乗り切るだけのポテンシャルはあると知っていたし。
『……どうですか、勝てそうですか。私たちは』
唐突に温度が変わったことを、渡里は瞬時に察した。
その言葉には、普段の角谷からは想像もできないほどの儚さがあった。
いや、普段はきっと見せないようにしているだけなんだろう。
角谷は本当に、高校生とは思えないくらいしっかりしている。上に立つ人間は、決して弱気な姿を見せてはいけないのだと、彼女は知っているのだ
その小さく華奢な両肩にかかっているモノの重さは、渡里の想像を絶するだろう。
叶うならば肩代わりしてやりたい、という気持ちはある。
しかし他でもない角谷が、渡里にそれをすることを許さない。
「貴方はただ、私たちを強くすることだけを考えていればいい」と、冷酷と温情が表裏一体となった思いやりが、渡里には向けられていた。
「さぁ、勝負は時の運っていうしな。今できることは、勝てるかどうかを心配することじゃなく、勝つために少しでも努力することだろ」
『ごもっともです』
笑顔で握手は交わせど、お互いに深く入り込むことはない。
そんなビジネスライクな関係が、渡里と角谷達の中にはあった。
本当の意味で渡里と角谷達は仲間とは言えない。それは少し寂しいことかもしれない。
しかし同時に渡里は思う。
もし角谷達がそれを打ち明けたなら。
背負っているモノを共に背負う役目は、きっと自分ではない。他に相応しい者達がいる、と。
「……角谷、このままずっと黙ってるつもりか?」
その問いは、今まで渡里が余計なお節介になるだろうと、封印していたものだった。
なぜその封印が解けたのかは分からない。自然と渡里の口から、それは零れ落ちていた。
携帯電話の向こうにいる赤毛の少女は、しばらく沈黙した。
『渡里さんは、話した方がいいと思いますか?』
そうして返ってきた声には、複雑な感情が込められていた。
「……分からない。言った方がいいかもしれないし、言わない方がいいかもしれない」
明確な答えを返してあげたら、角谷の気持ちも楽になったのだろうか。
しかしそれが、渡里の嘘偽りのない本心だった。
「今あいつらは戦車道を楽しくやってる。そこに水を差したくない気持ちはある。でも同時に、優勝するために必要な起爆剤になるかもしれない、とも思う……どっちつかずの答えで悪いな」
『……いえ、いつまでも先延ばしにできることでもなかったですから』
言葉尻に普段の角谷の口調が戻っていた。
この辺りの切り替えの早さも、角谷らしさかもしれない。
余計な重りになるか、背中を押す風になるか。
それはおそらく結果論だ。いくら考えたところで、先に答えが出るわけじゃない。
全ては角谷達次第だ。そこに渡里が出る幕なんてのはないだろう。
あくまで自分は、優勝することだけ考えていればいい。
そういう形でしか、渡里は角谷達を支えることができないのだから。
『ありがとうございます。それじゃあまた明日、おやすみなさい』
「あぁ、おやすみ」
ブツ、と糸が切れるような音がして、携帯電話の向こうには誰もいなくなった。
遠くで水が流れる音を聞きながら、渡里は深く息を吐いた。
みほのときもそうだったが、つくづく自分は戦車道しかできない人間だ。
もし渡里がもう少しマシな人間だったなら、角谷達ともまた違う関わり方があったのだろう。大人としての義務と責任を果たし、子ども達に寄り添い導くことができたかもしれない。
しかし渡里は、戦車道のためならという理由でその全てを放棄してしまえる。
普通なら歯止めがかかるところを、躊躇なく振り切ってしまう。
「仲良し、か」
みほがそういうのなら、きっとそうなんだろう。それぞれ形は違えど、確かに渡里は彼女たちと良い関係を築いている。
でもそれは、渡里が築いたものじゃない。こんな自分に付き合ってくれる、彼女たちのお蔭でできたものなのだ。
「感謝しないとなんだろうなぁ」
血も、身体も、心も、知識も、情も。
その心に、信頼に、渡里は全霊で報いなければならないのだろう。
さしあたり、みほを送るついでにコンビニでも寄ろうかと渡里は考えた。
甘いものが嫌いな女子は、きっといないはずだ。
四者四様の関係性があると伝われば幸いです。