申し訳ありませんが、文字数と話数の問題で駆け足となっています。
描写されていないところの経緯は、ご想像にお任せします。
あとがきの方に様々な補足を載せておきますので、よろしければご一読ください。
かつて六月という一月は、水無月と呼ばれていたらしい。
水が無い月、と書いて水無月。これを初めて知った時は、何を言ってるのやらと首を傾げたものだった。
六月といえばまず何かというと、梅雨である。北と南の気団の衝突により発生した梅雨前線が、五月から六月にかけて地に雨を降ろす。この間降雨量は普段の何倍にも膨れ上がり、人々は傘や合羽を親愛なる隣人にして日々を過ごすことになる。
雨、それは水。つまり六月という一月は、他の十一の月に比べて圧倒的に水が
なのに昔の人は、水が無いと言う。
この不思議な謎に、みほは中学の古文の授業中に出逢った。
国語が好きなみほは、数学の公式や理科の化学式の発祥を調べようとは一切思わない。
しかしこういった文系的・歴史的なものは、少なからず調べようという気になる。
というわけで、帰って早速調べてみた。
するとどうにも、水無月の意味は現代と少し違うようで。
『無』という文字は、『の』を表しており、水無月は訳すと『水の月』になるらしい。
なるほど、とみほは納得した。
現在と過去で同じモノは数多く、異なるモノもまた然り。
漢字の意味一つとっても、全く違うものに変化していることなど珍しくもないというわけである。
――――という話が、ついさっきのテストで出ました。奇跡的に。
お蔭でバッチリ答えることができました。
「それは違う」
端的な言い方をしたのは、食後のデザートに舌鼓を打っていた麻子だった。
あまりにもな断言をされ、みほは少し面食らってしまった。
大洗女子学園の食堂は常に活気で溢れ、静かで寂れたところなんてそれこそ合宿中で夜にちょくちょくと訪れる機会のある戦車道受講者しか見たことないものだろうが、今日の喧騒はある程度の方向が定められていた。
それは、定期試験の話題である。
テスト。それは学生にとって、決して逃れることのできないものであり、避けては通れない道。青春と抱き合わせで必ずやってくる悪夢。
テストがない学校なんて存在しないし、大洗女子学園もその例外ではない。
試験期間中は全ての部活動が停止、選択授業もお休み。学校は午後で完全閉鎖され、生徒は一人残らず帰宅させられる。
学校が完全に勉学だけの場所と化す期間。それが定期試験である。
国英数社理の五科目に加えて、なぜかやってくる保体やら音楽やら美術やら。
勉強する範囲と量が増し増しになっててんてこ舞い。シャーペンの芯は消費量が倍率ドンでノートは一気に白紙が埋まる。
一夜漬けなんて当たり前。なんならテストが始まる数分前まで詰めこんでます。
そんな日々が今日、ようやく終わりを迎えた。
「違うってどういうこと?私もテストにはそんな感じで書いたんだけど」
テストが終わった日の学生なんてヨハネスブルクの住人のようなもの。
様々なものから解放された爽快感のまま羽目を外す者が大半だが、一方で控えめな者もいる。
あんこうチームは後者だった。みほ達は喧騒の中、翌日あたりに点数をつけられて返ってくるであろうテストのことを話していた。昼食を取りながら。
「水無月が『水の月』というのは正しい。ただ、梅雨の時期で雨がよく降ったから
「そうなんですか?」
優花里は目を丸くした。優花里はミリタリー系の知識が豊富な一方、麻子のように全方位の知識が豊富というわけではなかった。
そしてそれは、この場にいる者全てに当てはまることだった。
「水無月は確かに六月だが、それは旧暦での話だ。今の暦に当てはめるなら、寧ろ梅雨が明けた時期、七月や八月がそれに当てはまる」
「太陰太陽暦と太陽暦の時差ですね。名称と実際の時期が一致してないという」
「たいーんたいよーれき?」
麻子の言葉に理解を示したのは華であり、華の言葉に首を傾げたのは沙織だった。
みほと同じく国語、それも古文が好きな華にとってはその辺りの話は得意分野だろうけど、普通の女子高生の沙織にとっては少し縁遠い言葉だったかもしれない。
ちなみにみほはどちらかというと華側の人間である。
「麻子さんの仰った旧暦のことです。その中では春夏秋冬が今と少しズレていて、一月から三月が春、四月から六月が夏、という風に三か月ほど前倒しになっているんです」
華の言うことは教科書に載っている通りのことだった。
今で考えると一月なんてまだマフラーや手袋が手放せない季節であって、間違っても春ではない。
「ん?じゃあ昔の六月は、今で言うと夏ってこと?」
「さっき言ったぞ」
麻子は呆れたようにため息を吐いた。
「そう考えると、水無月は本当に『水が無い月』になる。昔の人の言い分も分かるだろ」
「えー!?じゃあ私もみほも間違えてるじゃん!?」
沙織は悲鳴を上げた。別に一問くらい間違えたって赤点になるわけでもないだろうが、それはそうとして高い点数が取れるならそれに越したことはない、ということだろう。
みほだってそうだし。
しかしみほは沙織ほど(沙織もそんなにだろうが)深刻な事と考えていなかった。
それはちゃんと理由があって、その理由をみほが言うよりも早く麻子が口を開いた。
「別に間違えてるわけじゃない。その辺りの由来は諸説あって、どれが絶対的に正しいというわけじゃないだけだ。さっき西住さんが言ったことも正しいという人はいる」
はむ、と麻子はデザートを一口味わって、
「そっちの先生のことは知らないが、問題が問題だ。よっぽど狭量じゃない限り、バツにはしないだろ」
「あの問題、自由記述だったし。多分大丈夫だよ、沙織さん」
麻子とみほの言葉に、沙織は一安心したようだった。
しかし一旦落ち着くと別の感情が浮上したようで、すぐに頬を膨らませた。
「紛らわしいこと言わないでよ、麻子。びっくりしたでしょ」
「私は『梅雨』説は好きじゃない、だから違うと言っただけだ。要は好みだ」
どこ吹く風の麻子に、沙織の炎も一瞬で鎮火したようだった。
この辺りのやり取りは、やはり長年の付き合い故だろうか。少し羨ましくもあるみほだった。
「それにしても冷泉殿は物知りですね。それも本で知ったんですか?」
優花里の質問に、麻子は表情一つ変えずに答えた。
「渡里さんの受け売りだ。ここ最近雨がよく降ったからな、自然とそういう話題になった」
「渡里さんの?」
渡里と麻子がしょっちゅう二人きりで過ごしているのは既に周知の事実だった。周知になっても誰も驚かなかったのは、ひとえに二人の気質だろうか。なんというか発展性が感じられないというか、異性という感覚が薄いのだ。二人を並べて見た時に真っ先に浮かぶのは、兄妹とか親子である。……まぁ、そう思っているのはみほ達だけで、実際は違うのかもしれないけれど。
「渡里さん、意外とそういうことも知ってらっしゃるんですね」
「一般常識、だそうだ。それくらい知らないでテスト大丈夫か、とも言っていたが」
脳内再生が余裕でできてしまうみほだった。
しかし戦車道にしか興味がない兄でも知っていたことだし、確かに知ってて当たり前のことなのかもしれない。
「渡里さんは何説推しだったの?」
「『水が無い月』説。基本的に雨が嫌いらしい」
「あぁ、だからここのところ難しい顔をしていらしたんですね……」
「いや理由がよく分からないんですけど……」
麻子の言ってることは本当だった。兄は昔から雨が嫌いで、雨が降るとすこぶるテンションが下がるのだ。
理由は分からない。子どもの頃に聞いたことがあったが、『好きな人いんの?』と返されて逃げられてしまった。みほが想像する理由としては、気分が滅入るとか濡れて面倒くさいとか、そういうちっちゃなものしか出てこない。
「私も雨は苦手かも。髪の毛は跳ねるし洗濯物は乾かないし、ジメジメしてるし」
「でも沙織さん、この間の雨中訓練は楽しそうにしてませんでした?」
「ああいうのだったらいいけど、普通に生活する分には嫌!」
「私は訓練でも嫌だ。寒い」
雨中訓練とは、試験期間に入る前に渡里が実施した特別な訓練である。
特別と言っても、普通に雨の中で戦車道の練習をするだけだが。
「戦車道は全天候型競技ですからね。雨が降っても雪が降っても中止になることはないですし」
だからこそ、色々な状況下での経験値が必要になる。
そう言って渡里は全員に合羽を着させて、雨が降る中での練習を開始したのだ。
みほからすると、晴れと雨とでは戦車道の試合は完全に別の競技になる。
路面状況による操縦性の変化、視界は悪く体調への影響も大きい。泥濘んだ地に足を取られてスタックし、部隊が立ち往生なんて珍しくもないし、通信不良により指揮系統が乱れることだってある。
それは一朝一夕で対処できるものじゃない。全ては、どれだけのものを積み上げてきたか、だ。
高校戦車道ではあまり見ないが、人員が豊富な社会人チームでは雨の戦いに特化したチームを作り、試合当日の気象情報によってチームを丸々入れ替えるということもある。所謂、スペシャルチームというやつである。
そんなのができるくらい、戦車道は環境との戦いでもある。
折角の梅雨、雨がこんなに降ることなんて滅多にないし、経験値稼ぎのいい機会。
兄の考えはそんなとこだろう。
ちなみにあの人、みほたちが練習している間ずっと外に出ずっぱりで、それはもうビショビショに濡れていた。傘をさすとか合羽を着るとか、どうもそういう文化がないらしい。すっかりヨーロッパの気風に染まったようだ。
「ニュースでは梅雨明けしているところもあると言ってましたし、雨も少なくなるかもしれませんね」
「テストも明けたんだ。その調子で梅雨も明ければいい」
「そうだね!やっとテストが終わって自由になったし、これで心おきなく―――」
「戦車道に集中できますね」
一同は笑い合った。
テストがある日は当然、戦車道もお休み。こればっかりは、渡里と言えどどうしようもない。
だからみほ達は、ずっと戦車に触ることができなかった。砲弾や引鉄、操縦桿の代わりに鉛筆やボールペンを持ち、シュトリヒ計算ではなく三角関数に取り組んだわけである。好きでもないのに。
しかしそんな日々はようやく終わり。
みほ達は誰に憚ることもなく戦車に乗る権利を取り戻し、ここ最近全く出番と仕事がないので旧用務員室に引き籠っていた講師と再会することができる。
「行こっか」
「おー!」
六月下旬。
梅雨が明け、テストも明け、とあらゆるものに一区切りがついた今日。
神栖渡里による戦車道合宿もまた、終わりを迎えようとしていた。
全国大会開催まで、残り二週間と少し。
○
「まずはお疲れ様」
久方ぶりの、と言ってもテストがあった数日間だけだが、戦車道の練習は、講師のそんな言葉で始まった。
みほ達が着るパンツァー・ジャケットによく似たデザインのジャケットを着た、濃紺色の髪と吸い込まれそうなほど黒い瞳を持つ男の人。
これといって特に何も変わった様子のない、みほ達の良く知る神栖渡里がそこにいた。
幸い今日は晴れているので兄のテンションはいつも通りである。ちなみに雨が降ると極端に下がるが、別に晴れてるからって機嫌が良くなるわけでもない。
「テストなんてとうの昔に卒業したが、まぁ基本的に楽しいものじゃないことは知ってる。ただでさえしんどいところに、戦車道の練習で過剰な負荷を掛けられてる中で勉強するのは大変だった思う。よく乗り切ったな」
スパスパと切れ味の鋭い普段とは違い、それは温情に濡れた語調だった。
この時全員に弛緩した空気が流れたのをみほは敏感に察知した。
無理もない。あの兄が労わりの言葉を口にしたのだ。それは誰だってそうなる。
特にテスト勉強でしんどい思いをした者達にとっては、シンプルに心に沁みるだろう
甘いなぁ、とみほは嘆息した。
果たしてあの兄がそんな素直に優しくするだろうか、いやしない。
渡里の「ところで」という言葉を聞いて、みほはそれを確信した。
彼は穏やかな顔のまま言う。
「まさかとは思うが、
空気が凍った。いや、空気だけならきっとマシだった。
その鋭い目から放たれた視線はこの場にいる者全てを貫き、後ろめたい気持ちがある人間だけを停止させた。
「河嶋」
「ひゃ、は、はい!」
あまりにも温度の低い声に、河嶋は調子の外れた返事をした。いっそ悲鳴だったかもしれなかった。
「赤点を取った者はどうなる?」
「ほ、補習を受けることになります……」
「いつ?」
「放課後、です……」
「もしそうなったら、戦車道の練習ができなくなるな」
ひゅー、と冷たい風が一同の間を通り抜けていった。天が遣わしたのか、目の前の兄から発せられたのかは分からない。分かっているのは、それが身震いするほどの温度だったということだ。
「精々祈ってるといい」
「て、テストの結果をでしょうか……?」
「赤点を取った後の自分の無事をだ」
怖。
もしみほがあそこに立っていたなら、やはり河嶋と同じく「ふぇぇ…」みたいな表情をしていただろうか。
まぁこれは十分予想できたことではある。「赤点さえ取らなきゃいい」とその方面に関してはテキトーだった兄だが、言い換えれば「赤点だけは取るな」ということに他ならない。
大会まであと僅かとなったこのタイミングで練習時間が減るのは、割と致命的だ。
たしかに兄は戦車道の練習でみほ達に負担を掛けている。練習がしんどくて勉強にまで手が回らない、という意見もあるだろう。
でもそれは、兄が強制していることじゃない。みほ達が強くなりたいと願い、それに渡里が応えた結果が今だ。
自分で選んだ道なんだから、兄を責めるのはお門違いというものである。
ともかくとして、文句を言いたい気持ちはあるが。
「ま、その辺は後の楽しみにしておくとして、これからの話をしようか」
そう言って渡里は現状を話し始めた。
「今日を以て合宿は最終週に突入した。つまりラストウィークだ。よってこれまでの練習メニューは全て廃止し、最後の大詰めを行う」
大詰め。つまり仕上げに入る、ということ。
分かってはいたことだが、改めて渡里の口から言われると、少しの緊張感が身体を駆け巡る。
それはどうやら、みほ以外の者も同様のようだった。
「やることはシンプルだが……その前に少し合宿でやってきたことを振り返ろう」
一つ、と渡里の指が立つ。
「まずは基礎能力の向上。スタミナは勿論のこと、反射神経、思考速度、その他の身体にまつわることは全部ここに含まれる」
森の中での鬼ごっことか、朝練でやっていたボール回しとか、その辺りの練習のことだろう。
戦車道はテニスや野球のような道具を介す競技ではあるが、本人の身体能力もかなり重要である。操縦手や装填手は、重い操縦桿や砲弾を何度も操作したり持ち上げたりするためある程度の筋力は必要だし、砲手にしても持久力が高くないと砲撃の精度がすぐに落ちてしまう。
この辺りは意外と軽視されがちで、だからこそ強豪校はしっかりと取り組む。黒森峰でもそうだったし、西住流でもそうだった。
だからこそ渡里も相応の力を入れて練習を行っていた。
お蔭でみほ達は体育会系の女子に勝るとも劣らない身体能力を手にし、速さについていけなかったボール回しだって、今ではただの準備運動にしかならないくらいできるようになった。フィジカルという面に限れば、みほ達は戦車道強豪校とも同等に戦えるだろうが……
「二つ目は戦車の技能。操縦、砲撃、装填、通信といった、戦車に乗る際に使われる全ての技術の向上」
身体能力ばかり高くとも、それを戦車と連結させることができなければ意味がない。野球選手は身体を鍛えることと同時に、それを使いこなす術を磨く。それと同じように、みほ達は人車一体となるために戦車を意のままにコントロールする技を身に付けなければならなかった。戦車との繋がりを強くする、と言い換えてもいいかもしれない。
役職ごとに分かれての練習はここに当てはまるだろう。
操縦手はとにかく操縦技術を、砲手はひたすらに砲撃技術を。
時間がないみほ達は、ある一点に特化し、それ以外の全てを捨てることにより、短期間で大幅に能力を向上することができた。
本来であればある程度分配されるリソースを一か所に集めただけなのだから、ある意味当然ではあるが。
歪な形と言えばそうかもしれない。しかしこの形にしたのは他でもない、あの神栖渡里だ。ならば必ず、そこには意味がある。他とは違う、大洗女子学園だからこその意義が。
……それが何かは、分からないけど。
とにかく習熟度としては、いつかの聖グロリアーナ女学院との練習試合の時より遥かに上がっている。今もう一度彼女達と戦うことができるのなら、全く別の試合ができる自信がみほ達にはあった。攻撃、防御、機動力、その全てにおいて大洗女子学園は一回り以上洗練されている。
「三つ、意思疎通の能力。平たく言えばコミュニケーションの力だ。合宿という形で共同生活してもらった理由は全てここにあるが……これは口で説明しても仕方ないな。これだけ覚えておいてくれ」
立った三本の指をそのままに、渡里はその言葉を口にした。
「目的は一つ、相互理解だ。これが戦車道の試合でどう働くか、どういう意味があるのかは言葉じゃなく、身体で感じろ。必ず、分かる時が来る」
みほはその言葉の真意を図りかねていた。
相互理解、という意味の単語は分かる。だがそれが戦車道でどう役立つかと言われると、今一つ曖昧だ。黒森峰でも西住流でも、その単語が出ることはなかったから。
だがそのために合宿が必要だったということは分かるし、それによって得たものも分かる。
兄の言った通り、それは意思疎通の力。誰かを知り、己を知り、誰かを知ってもらい、己を知ってもらう。それによって生まれるものが、相互理解。
これはみほも漠然とした感覚でしか捉えきれていないが、
ふとした瞬間に、目と目があった時に、声を聞いた時に、触れ合った時に、その姿を見た時に、みほは、いや大洗女子全員は等しく
思考の言語化は練習により、呼吸をするようにできるようになった。いやレベルで言うのならその一歩先、言葉という人間しか持ち得なかったコミュニケーションツールの極致にすら至っているだろう。
そんなみほ達でもうまく表現できないものが、この合宿が始まった瞬間から養われていた。
兄の言が正しいのなら、それを本当に理解できる日は必ず来るというが……
「そして四つ、知識だ。これはまぁ、まだ仕込みが足りてないかもしれないが……それでも十分お前達の血肉となっている。毎日勉強した成果だな」
出た、とみほは嘆息した。
これこそが大洗女子学園戦車道受講者一同を苦しめた……というと語弊があるが、今回の定期試験がしんどかった間接的な原因である。
『渡里先生のパーフェクト戦車道教室』、という二番煎じな名前(ウサギさんチームにより命名)がつけられたそれは、言ってしまえば座学である。
身体能力が上がり、戦車道の技能を習熟しても、そこに理屈が伴わないのならそれは本能でしかない。磨かれた体技は、術理を内包して初めて完成する。
そのために必要なのは瞬間的な思考と、知識だ。
漠然とした感覚が為すのではなく、
勿論渡里はその辺りのことを理解しているので、みほ達に指導する時はかなり論理的に説明しようとしている。丁寧に、分かりやすく、理屈を展開している。
ただ、それだけでは足りない段階にみほ達は到達した。
今までの豆知識ではなく、本格的な知識が必要となったのだ。
そうして行われたのが、件の勉強会である。
戦車に乗る時間を少し削り、ノートを開いて鉛筆を片手に毎日一時間ほどお勉強。
戦車の歴史……は割愛されたが、基本的な構造から特性、種類。
より実践的なものになれば隊形から戦術、果ては整備の仕方から履帯の直し方まで。
ありとあらゆる知識が、必要なところを必要な分だけ抽出してみほ達に与えられた。
それはある意味で神栖渡里の本領発揮と言えるかもしれなかった。
幸いなことに渡里の授業はウィットに富んでいて、一時間がそれこそテーマパークで過ごすのと同等の速さで過ぎていったが、もう少し教え方が下手だったらただの苦行だっただろう。
お蔭で今までみほ達が「そうすればいい」という外装しか知らなかったことも、知識が伴うことによって「こういう理由があるから、そうすればいい」となった。些細な差かもしれないが、応用の幅が全然違う。後者の方が臨機応変に立ち回ることができるのだ。
ただ、とみほは思う。
確かにこの勉強会のお蔭で大小なりとも知識が付き、よりレベルアップすることができた。
でも問題は、これがいつ行われたかという話で。
答えを言うと、テスト開催間近までやってました。
みほ達は当然、テストに備えて勉強を行う。それは別に渡里がどうこうの話ではなく、そうするのが当然だからである。
国語英語数学社会理科。教科書を開いては、単語やら公式やらを覚えていく。
そんなところに戦車道の知識まで放り込まれたらどうなるか。
それはもう、混ざる。
言葉の節々、数字の間隙に戦車道の影がチラホラと出てきてしまって、気づけば渡里の授業を記したノートを取り出し、戦車道の勉強にシフトしてしまう始末。
人なんてどうしても楽な方に流れてしまうものだから、同じ勉強でも自分が楽しいと思う方を選ぶのは仕方ないこと。
兄的には「まぁテスト勉強の箸休めになら」くらいの気持ちだっただろうが、実際は見事に立場が逆転していた。
その様はさながら掃除中に漫画や雑誌に熱中して肝心の掃除が進まないアレである。
よくもまぁこんな状態でテストを乗り切れたものだ。
回答欄に一つ二つ戦車の名前を書いていてもおかしくないとみほは思う。
これに関しては兄が悪いわけじゃないが、ともかく集中力を維持するのが大変だった。
「最後にこの合宿を最後までやり遂げた精神力。心の力。させている俺が言うのもなんだが、よくここまでついてきた。そういう意味でもお疲れ様かな?」
薄く笑った渡里に、みほはジト目になった。
この合宿の中で最もしんどかったのは、身体が慣れ始める序盤であったのは間違いないが、だからといって中盤から後半にかけては楽だったというわけではない。
成長した分、ちゃんと負荷を増やしているので気持ち的に楽にはなれど、身体的には基本一定の疲労度である。
だからこそ、みほ達にはある種の自信がある。
自分たちはあの地獄を乗り越えた。なら、きっとそれに見合うだけの成長をしているはずだ、と。自分の力を信じるメンタリティが備わったのだ。
それは大洗女子にとって、最も足りなかったもの。初心者とそうでないものを分かつ、境界線。それを超えることができた、それこそがこの合宿の最たる成果だろう……と、みほは考えていた。
だが肝心の渡里は、全く違う考えだったのだと、みほはすぐに知ることとなる。
「戦車道に耐えうる身体、戦車道で勝つための技術、戦車道で折れないための心、戦車道を理解するための知識。心技体、そして知。この合宿中にできることは全てやった。そしてお前達は俺の予想以上の成長を見せた。」
そして、渡里の顔からは笑顔が消えた。
代わりに浮かび上がったのは、獰猛とすら言える銀の眼光だった。
「それでもまだ足りない。このままじゃお前達は、全国の猛者たちと対等に渡り合うことはできても勝つことはできないだろう」
一同に緊張が走った。みほはそれを肌で感じ取っていた。
神栖渡里は、戦車道では決して嘘をつかない。既にそれは、周知の事実だった。
ゆえに生まれた緊張は、六分の困惑と四分の不安で構成されていた。
「が、合宿の時間が足りなかったという事ですか!?それとも私たちが渡里先生の求めるレベルに――――」
「落ち着け、河嶋」
弾かれるように出た悲鳴を、渡里は一指を以て制した。
そして紡がれた言葉は、宥めるような柔らかさを持っていた。
「心配しなくても合宿自体は成功してる。さっき言った通り、予想を大きく上回る形でな」
「だ、だったら……」
なんだと言うのか。一同の疑問は、すぐに氷解した。
「足りないものっていうのはな、これまではある理由でどうしようもなかったもの……埋めようにも埋められないものだったんだ。だから、今の時点で足りてないのは当たり前。別に気にすることじゃない」
張り詰めたものが緩んでいく感覚があった。
本当に人が悪いんだから、とみほは呆れた。
最初からそう言えばいいだろうに、なぜビックリさせるような言い方をするのか。
そうすればこんなに心臓に悪いこともなかっただろうに。
「さて、前置きが長くなったな。本題に入ろうか」
その時、金属が擦れるような音をみほは聞いた。
「どうしようもないものはどうしようもない。だから、と後回しにしていたが……ようやく準備が整った」
気のせいだろうか……いや、違う。
みほの眼前、全員の視線を一身に受けながら立つ兄の右手に、ソレは握られていた。
「これから行う合宿最後の大詰めっていうのは、その埋めようがなかったものを埋めること」
武骨で、重厚な、金属の塊。
あまりに見慣れていないせいでみほは数秒理解できなかったが、ゆっくりと現実に追いつき始めた思考は、その名前を答えた。
「お前達に足りてない最後の一ピースを、取りにいくことだ」
拳銃。
え、という誰かの声が漏れたのと、それが火を噴いたのはほぼ同時だった。
風船の破裂音を何倍にもしたかのような音がみほ達の鼓膜を打つ。
普段戦車道で火薬の匂いと轟音には耐性のあるみほ達だが、それでも一瞬硬直してしまうほど、それは唐突だった。
「び、びっくりしたぁ……」
「……し、信号拳銃」
目を丸くした一同の前に、渡里は何食わぬ顔で筒先から煙の立ち昇る拳銃を降ろした。
優花里の言った通り、渡里の持つそれは信号拳銃と呼ばれるもの。
簡単に言ってしまえば、体育祭で使われるスターター・ピストルと実際の拳銃の間くらいの安全性と機能を持つもので、その銃口から発射されるのは実弾ではなく信号弾である。
基本的に遭難した人が救難信号を出すために使うものであって、当然今このタイミングで使われるものではない。
みほ達は怪訝な視線を送った。しかし当の本人は口を真一文字に結び、何かを語る様子はない。
「……ん?何この音?」
「地震?」
「こわ~い」
代わりに聞こえてきた音は、唸るように響く重低音だった。
ウサギさんチームが首を傾げながら、辺りを見渡す。釣られてみほ達も視線を右に左にとするが、音の正体はどこにもない。
しかし、
「な、何かだんだん近づいてきてない?」
「これは……森の方か」
怯える沙織とは対照的に毅然とする麻子は、名前の通り冷静に音の発信源を特定した。
そう、みほ達が鬼ごっこの練習でよく使った森林の奥。
獣が威嚇するような声はそこからさざめいていた。
「この香り……油と鉄……でも私たちの戦車じゃない……?」
「――――――――」
五十鈴の独語のすぐ後、みほは直感した。
――――――――来る。
突如として音は増大した。
草木を掻き分け暗闇の中から飛び出すは、黒に染められた鉄塊。
高らかに轟くエンジン音、猛々しく地を踏み砕くは鉄の帯を履く無数の車輪。
雷の槍を雄々しく掲げ、荒々しく邁進するその姿は紛れもない―――戦車。
一両だけじゃない。
先駆けの戦車に呼応するかのように、数多の戦車達が出現する。
黒ではなく、思い思いの色に染められたそれらは、瞬く間に鉄の群れを成し、彩色の波となってみほ達の目前に迫った。
「紹介しよう」
僅かに掻き消えていなかった渡里の声が、みほ達の鼓膜を打つ。
それと同時、突如として現れた戦車達は進攻を止め、整然とせず停止した。
見慣れたはずの戦車。
しかし「自分たちのモノではない」という条件が加わるだけで、こんなにも他を圧する。
依然として唸りを上げる戦車の群れ。
渡里は高らかにその名を呼んだ。
「今日からお前達の練習試合の相手を務めてくれる――――男性戦車道愛好会の皆さんだ」
○
戦車道は女性の競技、という認識は最早普遍のものだが、だからといって女性だけのモノということはない。
選手として競技に参加することができないだけで、男性でも戦車道に関わる方法はいくらでもある。
観客として試合を眺める楽しみもあれば、協会員として運営に携わる道もある。
競技ではなく戦車の方に主眼を置けば、整備士として生きる道もパーツ製造に関わる道もある。
競技に参加できないゆえ、男の人は競技以外の道を模索し、女性とは違う生息域を築いたのだ。
それは素晴らしいことだと思う。
でも果たして、本当にみんなそれで満足できているのかと、みほは思う。
戦車道を好むということは、多かれ少なかれ、女であろうと男であろうと、根底には戦車という乗り物への憧れがあるはずだ。
操縦することへの憧れ、砲撃することへの憧れ、戦車を指揮することへの憧れ。
それらを女性は、戦車乗りとして叶えることができる。
戦車道の選手になる事で、合法的にその想いを達成することができるのだ。
でも男の人は?
彼らはどれだけ想い、焦がれ、切望しようとも決して戦車道の選手になることはできない。
仕方のないことだ。戦車道のルーツには、戦争行為、あるいはそれに従事する男性への非難も含まれている。そのアンチテーゼがある限り、決して現状が変わることはない。
だから、とそれ以外の道を拓いた。
戦車道に関わることができているのだからと、自分を妥協させた。
でも全ての男性が、そんな風に賢く生きれるわけじゃない。
その代表格が、みほ達の傍にはいた。
戦車道を愛し、戦車道に人生を捧げ、己の情熱を永久に燃やし進み続ける男の人。
停滞し、閉塞してもなお。
それでもと、何一つ諦めることができなかったお馬鹿さん。
みほはそんな不器用な人は、きっとこの世界で兄だけだろうと思っていた。
きっと他の人は、もっと上手く人生を立ち回っているはずだと。
「おう渡里ちゃん!!!」
しかしその考えは、少し視野が狭かったのかもしれない。
何十億人といるこの世界で、自分が知っている人間なんてほんの少しだけ。
知らない方の人間が圧倒的に多いということは、それだけ未開の領域があるということ。
ならばそこには当然、兄と同類の人間がいる可能性だってあるわけで……
端的に言えば。
神栖渡里という人間ほど吹っ切れてしまっている男性はいなくとも、それと同属の男性はいるのだと、みほは知った。
戦車道が好きで、戦車道をやってみたいと思ってしまって、でも道はなくて、だからといって諦めることができなかった男性。
自分の情熱を慰めることができなかった不器用な人たちの集まり。
それが――――男性戦車道愛好会である。
バンバンバン、と間接が外れるんじゃないかと思うくらいに渡里の肩を叩くこの男の人は、どうやらそのトップに立つ人らしい。
「タイミングばっちりの完璧な演出だったぜ!!ありがとな!!」
黒く焼けた肌。コントラストが映える白い歯。
みほの十倍くらい太くたくましい腕に代表される、精鋭の軍人みたいな体格。
白のタンクトップと作業用のズボン、そしていっそ潔いくらいに磨かれたスキンヘッド。
豪快という文字をそのまま人間にしたかのような、渡里とは別ベクトルの男性味に溢れた人がそこにはいた。
「最初が肝心だからなぁ!お蔭でバチっと格好良く登場できたぜ!!」
「そりゃ何よりです。わざわざ遠くから来てもらってるんですから、これくらいのサービスはお安い御用ですよ」
「ガハハ!!よくわかってんじゃねぇか!!」
ガハハ、という笑い声をリアルでする人をみほは初めて見た。
なんというか、見てるだけで圧倒される人である。
人間サイズの戦車、あるいは戦車の擬人化と言ってもいいかもしれない。本気でタックルしたら家の壁くらいは余裕で壊せそう。
「西住、挨拶」
「ふぇっ、は、初めまして!隊長の西住みほです!」
「おう君が隊長かぁ!!なんでもあの西住流の直系なんだってな!どれほどの腕前か、じっくり見させてもらうぜぇ!」
近くに立つと一層迫力が増す。なんというか圧が凄い人だとみほは思った。
ガシッ、と握られた手は兄のそれより何倍も大きく、多分本気を出されたらみほの右手はあっけなく砕け散ると思う。
「どうします?折角ですし、先に少し交流会でもしますか?」
「おぉ、女子校生とお話できるってんのも悪くねぇな!!」
少し談笑でもして打ち解けよう、ということだろうか。
確かに必要だと思う。なぜならみほも、みほ以外の者も、皆等しく気圧され、緊張していたからだ。
なにせ現れた戦車は十五両。一両に五人乗ってるとして、七十五人。
この目の前の人ほどではないにしろ、それだけ男の人が集まれば、それなりの威圧感がある。
しかも全員初対面となれば、それは身体も強張るというもの。
会話すること自体に緊張する・しないはともかくとして、一言二言会話して緊張を解したい気持ちはある。
「でもわりぃな」
しかしどうも向こうは、そうではなかったらしい。
みほは弧を描いた口を見て、それを悟った。
「こっちはもうアドレナリンがドパドパに暴れててよぉ……我慢できねぇんだ。俺も、あいつらもな。初めからお喋りしに来たわけでもねぇし、そっちも時間が惜しいだろ。とっとと始めようや、なぁ渡里ちゃん」
獲物を前にした獣のような、獰猛な笑みだった。
みほの背筋を、うすら寒いものが駆け上っていく。
「……分かりました。じゃあ予定通り、最初は十両でお願いします。この地図にスタート地点を何か所か記してるんで、その内のどこかで待機しておいてください。こっちの用意が済んだら、無線飛ばします。そしたら試合開始ってことで」
「おおよ、じゃあな、みほちゃん。楽しみにしてるぜぇ」
時折兄が浮かべるものと同色の光を眼に灯し、彼は自分の戦車へと帰っていった。
合図一つで反転し、再び森の中へ消えていく戦車たちを見届けると、各所で息が漏れる音がした。そして一転、嵐がやってくる。
「わ、渡里先生!なんですかあの人たち!?」
「なんですか、とは随分な言い方だな。お前達の練習相手を引き受けてくれて、遠路はるばる来てくれたのに」
「なんかすっごい怖い人がいたんですけど!?」
「うっかり食べられそうなくらい!!」
「見た目だけだよ。中身はすごい良い人だし」
怒涛の勢いで浴びせられる質問に、渡里は一つ一つ答えながらも流石に辟易としたようで、間を取るようにしてため息を一つ吐いた。
「詳細は省くが、お前達は今からあの人たちと練習試合をしてもらう。理由はさっきも言った通り、お前達に足りないものを埋めるため―――――それが何なのかは、もう言わなくても分かるな?」
「経験、ですよね」
角谷の言葉に、渡里は静かに頷いた。
それはみほも、勘づいていたことであった。
例え神栖渡里が世界一の講師だとしても、大洗女子学園だけでは絶対に不可能なことがある。
それは、紅白戦である。
黒森峰にいた時は、戦車と人の数が十分だったから身内で練習試合が出来たし、ツテが多かったから他校との練習試合も容易に組めた。
つまり試合経験を積む場にほとんど困らなかったわけだが、対して大洗女子にはそのどちらもない。本番の大会を想定した実戦練習が、一切できないのだ。こればっかりはいかな兄と言えど、どうすることもできない。いや、できなかった、と言うべきか。
それを積む場は、今ここにある。
「お前達が経験した試合は、聖グロとの一戦のみ。絶対的に経験値が足りてないのが現状だ。だから今日から徹底的にそれを詰める。そのために彼らを招待したんだからな」
今のみほ達はとにかく埋没していたダイヤの原石を掘り起こしただけ。
それ自体でも価値はあるかもしれないが、研磨し形を整えることによってより輝きは増すはずだ。
これから行うことは、畢竟そういうことだった。
「この合宿中、お前達は様々なことを学び、習得した。それと同時に、試したいこと、やってみたいこと、思いついたことがいくつもあるはずだ。なんでもいい、それら根こそぎ全部試せ」
挑戦的な笑みだった。
しかしみほ達もまた、渡里と似たような表情を浮かべていたに違いない。
だって、みほ達はずっと待ち焦がれていた。
練習をする度、自分の成長を実感する度、新しい知識を身に着ける度、ふと過る思い。
今の自分達の力は、どれほどのものなのか。
自分達の力がどこまで通用するのか試したいという、当然の好奇心。
「さぁ、戦車に乗り込め。お前達の気が済むまで、実戦を堪能してこい」
「よーっし、行くぞー!」
アヒルさんチームを皮切りにして、意気揚々と各チームは自身の戦車への歩を進めた。
みほもまた、準備をしようと四号戦車に向かおうとした、その時だった。
トントン、とみほは肩を指で叩かれ呼び止められた。
誰によるものかは、言うまでもなかった。
「みほ、これは練習試合だから勝敗は気にしない。自由に、好きなことを、好きなだけやればいい。そのために用意した場だ」
「ほんとに戦車道となると真面目ですね、渡里先生」
よそ行きの皮を被るのをやめた渡里に、感嘆と皮肉を混ぜてみほは言った。
用意した、と簡単には言うものの、その過程まで簡単とは限らない。
特にあれだけの戦車と人を動かそうと思ったら、調整とかその辺りが大変なはずだ。
学園艦が帰港するタイミングとか、戦車を運搬する手段とか、数日滞在させるというならその宿も探さないといけない。
面倒くさがりの兄が、そんな手間を自分からかけると言うのだから、それは感心するというものである。
「前から知り合いだったの?」
「いや、ツテはここに来てから作った」
「その割には仲良さげだったけど」
渡里『ちゃん』なんて、思い返してみたら少し笑ってしまう。
「あの人は誰にでもそんなもんだよ。色々選択肢はあったが、あの人たちを選んで良かったと思ってる。本当に、いい人たちの集まりだからな」
そして渡里は、複雑な笑みを浮かべた。
それは珍しく、みほにすら完全に読み切ることができない表情だった。
だがそれでも、ほんの一部垣間見えた感情はある。それは、羨望だった。
「ま、精々楽しんでこい。お前にしても、聖グロの時とは全然違う戦い方ができるはずだからさ」
ポン、とみほは背中を軽く押された。
その時には既に、渡里は普段の渡里に戻っていた。
「
「簡単に言わないでよ、もう……」
渡里の言葉に、みほは呆れたように笑うしかなかった。
踵を返し、沙織たちが待つ四号戦車へとみほは向かう。
久しぶりの実戦。渡里の言う通り、試したいことなんてたくさんある。
それを全部、持て余すことなく試すことができるという事実が、みほの心を少しだけ昂らせていた。
(いや、ちょっと違うかも)
皆と戦車道をすることができるから、かな。
そっちの方がしっくりくる気がして、みほは薄く笑った。
大洗女子学園戦車道の二か月にも及ぶ長き合宿、その最後はこうして幕を開けた。
そして――――――――――――
『大洗女子学園、八番!!』
奇跡と謳われた物語が、始まる。
軽快な電子音が盛大に鳴った。
こんな人の賑わう場所でも、十分に存在感をアピールする大音量である。
そういえばマナーモードにしてなかったっけ、と渡里は周りの視線を感じながら、申し訳なさそうに携帯を取り出し、通話ボタンを押した。
「もしもし」
『久しぶり、元気にしてた?』
瞬間、渡里は着信相手の確認を怠ったことを後悔した。
例え電話越しであろうと間違えようのない、独特の声色。
脳内に浮かぶは、軍服みたいな制服を着た一人の女の人。
極力感情を表に出さないように心がけて、渡里はその名前を呼んだ。
「お陰様で、蝶野さん」
『あら、随分と冷たいわね。一度とはいえ貴方の教え子の面倒を見たのよ、私は』
「あぁはいその節はどうも」
全てわかってるわよ、とでも言いたげな笑い声が電話口の向こうから聞こえた。
どうにも見透かされてる気がして、渡里は少し不機嫌になった。
精神衛生上、あまり長話はしない方がいいだろう。
「ご用件はなんです?」
『決まってるでしょ?あの子たちのことを聞きに、よ。今日でしょ、抽選会』
「そうですね」
『で、どうなのかしら?』
さて、どうしたものか、と渡里は思考をフル回転させた。
まず間違いなく長期戦は避けられない話題。指先一つでも掴まれたら、おそらくズルズルと付き合わされるに違いない。
このまま通話を切るという選択肢もあるが、それは次会った時が怖いので避けるべき。
なら渡里が取るべき行動は、攻撃的な意思を見せながらの撤退。これしかないだろう。
「まぁ上々―――」
『あ、そういえば聞いたわよ。貴方、大会直前に練習試合を組んだんですって?』
答えようとしてるんだから聞けよ、と渡里は携帯電話を強く握りしめた。
やはりこの人とは致命的に相性が悪い気がする。変に気遣うだけこっちが損である。
早々に切り上げよう、と渡里は決意した。
「えぇ、まぁ。向こうから申し出があったんで、断る理由もないですし」
『対戦相手はマジノ女学院、だったわよね』
果たしてどこから情報を仕入れたのだろうか。
諜報の網がかなり広く敷かれていることに、渡里は少しの戦慄を覚えた。
極秘裏に行ったわけじゃないが、それでも大会前に余計な情報が漏れないよう気を付けていたはずなのだが。
『で、結果は?』
「――――――――――――内緒です」
『どういうことよ、それ』
呆れと怒りが半々くらいの声だった。
別に秘密にする意味はない。蝶野亜美は絶対的な中立存在、情報を渡したとしても広まることは決してない。
ゆえにこれは、ただの嫌がらせというものである。
『私に隠し事なんていい度胸してるじゃない?』
「あーすいません、もう飛行機の搭乗案内が来たんで切りますねーさよならー」
『飛行機?ちょっと待ちなさい、貴方まさか――――――――――』
ブツ、ツー、ツー。
最初からこうすればよかった、と渡里は静かになった携帯電話を仕舞った。
別に嘘は言ってない。
本当にナイスタイミングで、先ほどからアナウンスが流れていたのだ。さっさとしないと、渡里の折角購入した搭乗券がただの紙切れになってしまう。
ノートパソコンの画面に開かれているファイルを、渡里は雑に閉じていく。
その中の一つに、蝶野亜美が聞いた練習試合の結果があったことは、おそらく渡里以外誰も知る由のないことであった。
『対戦相手:マジノ女学院』
『試合形式:フラッグ戦』
『戦力:大洗女子学園、五両。マジノ女学院、十両』
『試合結果:大洗女子学園、残存五両。マジノ女学院、残存九両』
『大洗女子学園の勝利』
「さて、行きますか」
立ち上がり、鞄を担ぐ。
確かな足取りで、渡里は歩みを進めた。
その頭上では、流暢なアナウンスがずっと流れている。
『お客様にご案内申し上げます。
➀水無月の由来とか分かりません。多分正解はない。
➁唐突に現れたオリキャラ。容姿がイメージできない方は『ドウェイン』で画像検索するといいと思います。あくまで外観だけです。
➂男性戦車道愛好会→ググったけど出てこなかったので多分セーフ。保有戦車は全部自前。一から組み立てたり直して使ったり。
➃信号拳銃→某アタックでオンなタイタンに出てくるアレのしょぼい版みたいな感じ。
➄練習もいいけど試合の方が楽しいよね、何事も。
➅マジノ女学院との練習試合:フラッグ車一本釣り。