戦車道素人集団を優勝へ導く138の方法   作:ススキト

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だんだん更新ができなくなる恐怖。
忙しい合間を縫っても、一週間あれば投稿できたはずなのになぁ……

おそらく大人気のあの母娘が今話から登場します。
なんだかんだで優しい母娘だと思っているのですけど、皆さまはどうでしょうか。

ところでこのフィギュア、なんで指輪が取れるんですかねぇ……?




3章
第20話 「出逢いましょう」


『ねぇしほさん、何で俺は戦車道ができないのかな?』

 

遠い昔のことを思い出した。

あれはそう、蝉の声が高らかに響き渡り、太陽が照りつける暑い日のこと。

二人で縁側に座り、庭を眺めていた時だ。

 

西住しほは、今でも鮮明に思い出せる。

あの日の風景も、温度も。

あの子の表情も、声色も。

記憶の底に焼き付いているそれは、どれほどの月日を経ても決して劣化しない。

 

だからしほは、あの子にかけた言葉を、全部思い出せる。

ゆえにしほは、あの子にかけられなかった言葉があることも、覚えている。

 

この時しほは、何も言わなかった。

まるで明日の夕食を尋ねるかのように軽く投げかけられた言葉、そこに秘められた並大抵ならぬ重さに、ただただ沈黙するしかなかったのだ。

 

今思えば。

他に正しい選択肢があったのではないか、としほは思う。

黙り込むだけじゃなく、何か一つでもあの子に声をかけてあげられたのなら、あの子の未来も変わっていたのではないか、と。

 

『なんで俺があんな奴らに見下されないといけないんだ』

 

記憶の場面が切り替わる。

あの子が思春期を迎え、身体が一人の男性としての成熟を始めたばかりの頃。

世間一般で言うところの反抗期ほどではないにしろ、この頃のあの子は精神的に不安定だった。いや、同世代と比較すれば、遥かに成熟していたとは思う。不安定というのは、彼の始点と終点までの道程全体を通して、相対的にそうだという話だ。

 

でも、それでも。

あの子の中には、間違いなく二つの顔があった。

自分や娘達の前で見せる穏かな顔と、それとは対極の暗澹とした相。

比率で言えば前者が九を超えるだろうが、それでも時折後者の顔が顕現することがあった。

 

そして、それは決まって、戦車道の話をしている時だった。

 

『俺の方が何倍も努力してる。あいつらが遊びに耽ってる間も、ずっと戦車道のことだけを考えてる。俺の方がずっとずっと戦車道が好きなんだ!!なのになんで……あんなただ女に生まれただけのような奴らに戦車道が出来て、俺には出来ないんだ……っ」

 

縋るように掴まれた腕を、果たしてしほはどうしたのか。

決まってる。何もしなかった、だ。

振り解くことも、受け止めることもせず、ただしほは傍観していた。

それがどれほど残酷なことか、自分は分かっていたのだろうか。

 

あぁ、覚えている。

あの子の泣きそうな顔を、悔しそうな声を。

教えてくれ、という悲鳴を。どうにかしてくれ、という嘆きを。

そしてそれらを、しほが一切合切無視したことも。

 

何も言わずとも、ただ抱きしめてあげればよかったのかもしれない。

そうすればあの子は、とっくに休むことができただろう。

自分の想いに妥協して、別の道を探すことができたはずだ。

その方が、ずっと幸せのはずだ。

そうさせてあげられるのは、しほしかいなかったんだ。

 

『諦めさせてあげたらどうです?』

 

ふと、腐れ縁の言葉を思い出す。

それは残酷なまでに告げられた、親として当然の選択だった。

 

『彼の才能は諸人と隔絶した尋常ならざるもの。彼の努力は諸人を圧倒する異常なるもの。およそ戦車道の実力で言えば、誰にも届かない遥か高みに往くことは疑いない。素晴らしいことですわ』

 

腐れ縁の目は確かだ。西住流とは対極でありながら、同格の力を誇る日本最大流派の片割れ。島田流の次期家元間違いなし、と謳われる彼女の評価に狂いはない。

そしてしほもまた、彼女と同感だった。

十年に一度どころか、百年に一度の天賦の才。およそ人一人の身に収まるものではない程の才気を、彼はその内に秘めている。

 

『彼は獅子。その牙は全てを砕き、その爪は全てを切り裂く。この世で最も強く、勇敢で、気高い獣。彼に敵う者など、地上にはいないでしょうね』

 

それが敬意の表れではないことを、しほは知っていた。

いつだって彼女は、痛烈な皮肉を容赦なく、涼しい顔で浴びせるのだ。

だからしほは、彼女のことが好きになれない。

 

『でも悲しいことに、彼には翼がない。いくら爪牙を磨こうと、天高く飛翔するための翼を持たないのなら、大空を舞う鳥を捉えることは叶わず。ただただ地に伏し、優雅に飛ぶ鳥たちを恨みがましく見上げ、虚しく吼えることしかできない。そんな哀れな獣が彼よ』

 

その時、殴りかからなかった自分をしほは褒めたい。

歯が砕けそうになるくらいに食いしばり、血が噴き出しそうになるくらい拳を握りしめ、激情の火焔を必死に抑えつけた自分の、鋼のような心を。

 

いや、もし彼女の言うことが間違っていたのなら、きっとしほは彼女の胸倉を掴み上げていただろう。

でもそれができなかったのは、彼女の言うことが正鵠を射ていたからだ。

腹立だしいほどの正論であるという事実が、しほの理性が切れるのを防いでいた。

 

『羽の折れた鳥が、籠の中で衰弱していく様を見るような悪辣が貴女の趣味ではないでしょう。飛べぬと分かっているのなら、地上で生きる術を教えてあげるのが優しさではなくて?』

 

うるさい、そんなことは分かっている。

このままだとあの子は、ずっと辛い思いをするだけだ。

無理にでもその心を折り、諦めさせた方が絶対にあの子のためになる。

 

―――――それは解ってるんだ。

 

でもそれは、こちら側の理屈だろう。

空に焦がれる獅子に、翼がなくともお前は誰よりも速く地を駆けることができるのだからと諭すことが、本当に正しいことなのか。

獅子には獅子の、鳥には鳥の生き方があるからと諦めさせることが、本当に優しさなのか。

 

 

だってあの子は、あんなにも空を飛びたがっているのに。

 

 

何が正しいのか、しほには解らない。

ずっと迷っていたから、あの子に何一つ言葉をかけてあげることができなかった。

あの子の言葉を、聞くことしかできなかった。

 

そしてよりにもよって、あの子に唯一かけることができた言葉が、あの子の否定だったことはどうしようもない皮肉だったに違いない。

 

『しほさん、俺英国に行くよ』

 

それはあの子が高校二年生になった時のことだった。

すっかり自分の身長を追い越し、声も一層低くなってしまって、一人の子どもから青年へと成長したあの子は、真っ直ぐな目でそう言ったのだ。

 

英国。日本より数段先を行く、戦車道先進国。

そこを中心としたある噂、その正体をしほは知っていた。

そしてそれが、彼をその地へと駆り立てていることも。

 

『向こうで頑張れば、男でも戦車道ができるかもしれないんだ』

 

否。否否否。

そんなものは嘘だ、としほは断言した。

いや、事実だとしてもそんな旨い話があるわけがない。きっと何か、あの子の想像を超えるような悪意がそこにはあるに違いない。

何もそんな、藁に縋ることもないだろう。そんな微かな、一縷の望みに自分の人生の大半を賭けることはない。

 

いくらなんでも早計だ。見通しが甘すぎる。

しほはそう言って、彼の考えを否定した。

 

何もそんなに慌てなくてもいい。

いつかきっと、日本にも貴方の道が拓かれる日が来るはずだから。

そんな言葉を、飲み込んでしまって。

 

『そっか』

 

そうして彼は、穏やかに笑った。

その表情は限りなく無色で、そのことがかえってしほの心を痛めつけた。

 

その時、心臓がひと際大きく鼓動したことを覚えている。

それは次の瞬間に訪れるであろう言葉を、しほの直感が悟っていたからだった。

 

 

『じゃあ、西()()渡里はもうお終いだね』

 

 

行くな、と言うことができたのなら、どれほど良かっただろう。

彼を縛り付けて、この腕の中に閉じ込めておくことができたなら、どれほど良かっただろう。

 

そんな簡単なことができない自分を。

我儘になれない自分を。

あの子の自由にさせてあげればいいと簡単に諦めた自分を。

しほはずっと悔やんでいる。

 

そしてあの子は西住の家を出た。

育んだ家族との絆も、過ごした月日の積み重ねも、安定した人生も、何もかもを捨て去って、まるで初めからいなかったかのように綺麗に、あの子はいなくなった。

 

旅立つその背中にしほは、やはり何も言わなかった。

頑張れと言うことも、疲れたなら帰ってきなさいと言うことも、何一つ言葉をかけることなく、娘達のように約束を交わすこともなく、ただ一度も振り向かなかったあの子を眺めていた。

 

しほとあの子が交わした会話は、結局あの時の口論が最後になった。

どれだけ言葉を並べても決して折れないあの子に負けて、自分の意思を貫き通すことができなかったこと。優しさと放棄を履き違えたことこそが、しほの最大の心残りだった。

 

 

意識が浮上する感覚が不意に訪れた。

過去への潜行は終わり、しほは現実へと帰還する。

自分を呼ぶ誰かの声が、そのキッカケだった。

 

 

 

「長―――隊長。どうかしましたか?」

 

西住まほの意識は、自分を呼ぶ副隊長の声によって覚醒した。

不思議なことに、まほの意識はどこかへと飛んでっていたようだった。こんな人の多い歩道でボーっとするなど、我ながら気が抜けているとまほは嘆息した。

九州から関東まで、新幹線片道六時間の旅は、どうやら自分が思っているより身体に負担をかけていたらしい。

 

「………いや、なんでもない。なんだ?」

 

静かに大きく息を吸い、酸素を身体に行き渡らせる。そうするとまほの意識は、よりクリアになる。

気遣わし気な副隊長、逸見エリカの視線を受けながら、まほは言葉の続きを促した。

 

「トーナメントの話です。初戦で当たる知波単学園はともかくとして、準決勝の相手は順当にいけば聖グロリア―ナ。ひとまずはそこが山場となりそうですね」

「………あぁ、そうだったな」

 

今が抽選会の帰りであることを、まほは思い出した。

夏の公式戦、全国高校戦車道大会。

まほは黒森峰女学園の隊長として、トーナメントの組み合わせを決める抽選会に、熊本から遥々やって来たのだ。

 

一回戦は知波単学園。

高い機動力を活かし、全車両による突撃を得意とする攻撃的なチーム。

だが突撃に傾倒する余り、防御が疎かになる傾向が強く、また戦術のバリエーションも少ない。攻撃が噛み合えば喉元まで迫られることもあり得るだろうが、油断さえしなければまず間違いなく勝ちは揺るがないと、まほは踏んでいる。

 

二回戦の相手は、継続高校か青師団高校。

まだどちらと戦うかは決まっていないが、両校とも練習試合を行ったことが過去にあり、黒森峰はそのどちらにも勝利している。

劇的な進化でも遂げていない限りは、こちらに分があると言っていいだろう。

問題はやはり、ビッグ4と呼ばれる強豪校たちと当たる準決勝以降だろう。

黒森峰が順当に勝ち進めば、おそらくその先にはビッグ4の一角である聖グロリア―ナ女学院がいる。

 

硬い装甲と統率の取れた動きで相手を圧していく、浸透強襲戦術の使い手。

護りの堅牢さでは自分達と同等以上を誇る、神奈川の雄。

それが聖グロリア―ナ。

 

そしてその中心にいるのが、常に優雅な姿勢を崩さない、金髪青眼の隊長。

おそらく今大会で最も油断ならないであろう、紅茶の名前を持つ戦車乗りである。

 

まほは戦車道の名門、西住流の直系に相応しい才を宿し、それに見合っただけの努力を重ね、戦車乗りとして最高峰の実力を持つに至っている。オリンピックの強化選手に選ばれたことも、その証左と言えるだろう。同学年で並び立つ者などいない、と称されたことすらある。

 

しかしまほは、その評価が正しいと思ったことはなかった。

自分の能力を過少評価しているわけではない。ただ、自分と同等の実力を誇る者が、自分と近しい力を持つ者がいることを、まほは知っていたのだ。

 

戦車単体レベルの強さならばまほに軍配が上がるだろう。

だが部隊全体を指揮する能力、大局的な視点、戦術能力に関すれば、少なくともあの金髪青眼の隊長は自分と完全に同格。

苛烈な攻めによって先手を取り続けるまほと、一縷の隙も無い防御で後手に回りながら相手を制御する彼女。方向性の違いはあれど、その実力は拮抗している。

 

まほは静かに嘆息した。

あらゆる意味で抜け目のない彼女は、心底に厄介な相手である。

優勝候補筆頭と目される黒森峰女学園といえど、まず間違いなく準決勝は苦戦を強いられる。まほはそれを予感していた。

 

「決勝戦はサンダースかプラウダでしょうか……叶うならば、プラウダに勝ち上がってきてほしいところですが」

 

エリカの口調に、強い感情が込められていることをまほは感じ取った。

 

プラウダ高校。その名前は、黒森峰では特別な意味を持っている。

思い起こされるのは、去年の全国大会決勝。

十連覇の偉業がかかった一戦にて、黒森峰は終始優勢に立ち回りながら―――敗北した。

安全圏に避難させていたフラッグ車を、隙を突かれて撃破されたのだ。

 

いや、隙を突かれたというのは語弊がある。

その時隊長として試合を指揮していたまほは、あらゆる状況に備えていた。どんな場面だろうと問題なく対処できる、そんな体制を整えていたのだ。

 

しかしそれは、あっさりと崩壊した。

プラウダ高校によってではなく、内側から。

 

「去年の優勝を笠に着て随分と好き放題言ってくれているようですし、今年は身の程を教えてあげなければなりませんね。去年だって、あんなことがなければ……」

「過ぎたことだ」

 

まほは毅然としてエリカの言を断ち切った。

 

『万全を期していた黒森峰が敗北した理由は、フラッグ車の車長にある』。

 

それが黒森峰の、ひいては世間の認識であることをまほは知っていた。

敵が目の前にいるにも拘わらず、戦車の指揮を放棄して、氾濫した川に転落した味方の救助を優先した車長。

彼女のせいで負けたという声を、まほはもう何度聞いたことだろうか。

 

「っですが隊長!!」

「戦車道は団体競技だ。誰か一人のおかげで勝つことも、誰か一人のせいで負けることもない。あの敗戦は、私たち全員の敗戦だ」

 

昨年の結果に、納得できていない者は数多い。

逸見エリカもまた、そんな者達の一人だった。

平時は隠匿し、秘められている感情も、この時期になると抑えきれない部分が表出し始めるようで、エリカのように語調が荒くなる者も珍しくない。

 

そしてまほが、そんな彼女たちに決まって言う言葉がソレだった。

遠い過去に教えてもらった、大事な言葉。

決して忘れてはならないと心に刻んだ、()()()の教え。

 

「今更何を言ったところで負けたという過去はなくならない。私たちがすべきことは雪辱を晴らすために、一丸となって目の前の相手をただ倒すことだ」

「―――ならなんであの子はあんなところにいるんですか!?」

 

叫び。

逸見エリカという人間は決して感情的になる人間ではない、というわけではない。

激情を理性で覆い包むことができるものの、その膜はどちらかというと脆く薄く、ちょっとした拍子に表に出てくることは珍しくない。

ただそれでも、彼女は普段は理性的であろうとしているし、まほの前では殊更そう振舞おうとしている。少なくとも、こんな人の多い場所で大声を上げるほどモラルがないわけではない。

 

しかしそれでも彼女が声を荒げてしまったのは、やはりそれだけ想いが深かったということなのだろう、とまほは思った。

脳裏に、一人の少女の姿が思い浮かぶ。

 

「一丸と言うのなら、あの子はこっちにいるべきでしょう!?全員で負けたというのなら、全員で勝利を取り戻さないといけないはずでしょう!?それがなんで……あんな……!」

 

それはかつてまほ達と同じ黒森峰女学院の制服に身を包んでいた。

でも今はもう違う。

全国大会の組み合わせを決める抽選会の会場。

そこで彼女は、白を基調とした、まほ達が知らない制服に着替え、再びまほ達の前に現れたのだ。

 

それが意味するところを、まほもエリカも知っていた。

ゆえにまほは、エリカの気持ちが理解できた。

きっと彼女の中では、数多の感情が無理やりに掻き混ぜ合わせられているのだろう。

 

かける言葉はなかった。

まほが何かを言うよりも早く、エリカは自力で内から溢れ出るマグマを冷やしたからだ。

 

「……すみません」

「気にするな、気持ちはわかる。ただ少し場所を選ぶべきだったな」

 

周囲の視線を感じながら、まほは静かに息を吐いた。

 

エリカの感情は正当だ。

まほだって、最初に彼女の姿を見た時に平静でいられたかと言われればそうではない。

西住流そのものと言われる鉄の心に、僅かな揺らぎが生じたことは事実だ。

まほですらそうなのだから、エリカなどは尚更だろう。

 

それほどまでの影響を、彼女は与えていた。

 

何もせず、何も言わず、忽然と姿を消してしまった彼女。

学校を辞めてしまって、西住の家も出てしまって、戦車道から完全に離れたと思われていた彼女。

それが今、別の学校で、前と変わらず戦車道を続けていたと知った時の衝撃は、並みではない。

 

『なぜ黒森峰じゃないのか』

 

何一つ相談してくれなかったことよりも、勝手にいなくなってしまったことよりも。

畢竟、まほとエリカの気持ちはそこにあった。

 

「少し休もう。帰りの飛行機まではまだ時間がある」

「……はい」

 

浮かない顔で副隊長は頷いた。

新幹線で往復するのは流石に辛い、ということでまほ達は復路に空の道を選んでいた。

お金こそ多少かかるものの、時間と体力の余裕が格段に違う。資金が潤沢な黒森峰だからこその贅沢と言えるだろう。

 

まほ達は手ごろなカフェを見つけて、一休みすることにした。

別にお茶さえできれば何処でも良かったが、戦車喫茶というピンポイントな看板がひと際目に付いた店があったので、好奇心に従いまほ達は入店した。

 

 

―――――――――――そして。

 

 

「お姉、ちゃん………?」

「副隊長……っ!」

 

扉を開けた先。

まほ達は彼女に出逢った。

 

決して誰かと見間違えることのない、栗色の髪。

触れれば壊れてしまいそうな、儚く弱弱しい雰囲気。

 

丸い瞳を不安に揺らす彼女は、最後に見た記憶そのままの表情で。

 

様々な想いを滲ませながら、まほはその名を静かに呼んだ。

 

「―――――――」

 

 

 

 

「家元、大丈夫ですか」

「……あぁ」

 

開いた扉の先にいたのは、落ち着いた色合いの着物を纏った一人の女性。

普段は家政婦として西住の家に仕えながら、同時に西住みほの側近を務める彼女の名前は、菊代といった。

 

彼女との付き合いも、もう何年になるだろうか、としほは思いを巡らせた。

 

初めて出逢ったのは、しほが黒森峰女学園の生徒だった時。

一介の戦車乗りだった時は、しほの頼れる仲間として。

そこからしほが黒森峰の隊長となった時は、その副隊長として。

そしてしほが学校を卒業し、西住流次期家元としての道を歩み始めてから今に至るまでは、側近として。

 

共に積み重ねてきた時間で言えば、夫や娘よりも長い。

身内以外で彼女ほどしほのことを理解している者はいないし、同じく身内以外で彼女ほどしほが信頼している者もいない。

彼女は真に、しほの理解者と言えた。

 

ゆえに彼女に隠し事はできない。

鋼で覆ったしほの心の、その奥にある感情にもきっと気づいているのだろう。

菊代の気遣うような声と表情に、しほはそれを悟った。

 

「もうすぐ、ですね」

 

信頼と理解のベクトルは、一方通行ではない。

菊代がしほに対してそうであるように、しほもまた彼女の意図を容易く読むことができた。

 

「何年ぶりになるでしょうか……」

「……六年、というところかしら」

「そんなにですか」

 

愁うような笑みを彼女は浮かべた。

六年。それだけの時間があれば、ランドセルを背負ったばかりの子どもは中学校の制服に身を包むようになり、高校生だった子どもは成人へと至る。

 

長いようで、短い時間。

しかし人一人が大きく変化するのに、六年という時間はきっと十分すぎるのだろう。

 

「………やはり、普段通りとはいきませんか」

「………そうね」

 

嘘をつく意味を見出せなかったので、しほはため息と共にその言葉を吐き出した。

これまで多くの人間と対峙してきたしほは、相応の数の修羅場は潜っている。だがそれでも、これからやって来る人間に対しては、普段以上の精神力を要求されるであろうことは疑いようがない。

腹芸に長けているわけでも、舌鋒が鋭いわけでもない。

ただただその者は、しほのことを()()()()()()()

それだけのことが、こんなにも厄介だとは思わなかった。

 

「菊代、お茶を貰えるかしら」

「かしこまりました」

 

一礼をして、菊代は楚々と部屋を退出した。

その従順さが、今は有難い。

 

まずは気を落ち着けなければ、としほは息を一つ吐いた。

鋼の心に、揺らぎがあってはならない。それこそが、しほのアイデンティティだ。

確かに相手は厄介だ。それは認めよう。

なればこそ、一層心を鎖す。私心を滅し、『西住しほ』という名の一つの鉄塊になる。

そうして涸らせばいい。どれだけ風が吹こうと、水の無い所に波は立たないのだから。

 

そうやって一縷の隙も無くすことで初めて、しほは西住流を背負う者として君臨することができる。

今この時間は、そのためのものだ。今までも、しほはそうやって自分を強くしてきた。

幾度も叩いて硬度を増す鉄のようにではなく、生まれながらにして最高硬度を誇る金剛石のようになるために。

 

 

そして何秒、何分経った時。

ドアが開く音がした。

足が床を叩き、床が軋む音が一つ。

 

 

随分手際がいいことだ、としほは視線をくれずに思った。

しかし早いに越したことはない。時間に余裕がないわけではないが、だからといって余っているわけでもない。

早々に気を静めたいしほにとって、菊代の淹れた茶は大きな手助けになる。

気の利く彼女のことだ、その辺りのことを察して普段より早くしてくれたのかもしれない。

 

「菊―――――――――――――――」

「久しぶり、しほさん」

 

 

時間が、停止した。

 

 

自分の耳が得た情報を、自分の心が否定する感覚をしほは久方ぶりに味わった。

そして、自分が鉄でも金剛石でもない、石になる感覚も。

 

聞こえてきた声は、しほの想像の数段低い音。

錆びた砲塔のような動きで、しほの首が回る。

そして瞠目した瞳の、その先に。

()()()がいた。

 

しほより頭一つ分は大きい背丈に、服の上からでも分かるほど引き締まった男の身体。

鋭い目つきの中には、まるで深淵の宇宙のような黒い瞳。

 

しほの記憶の中にある姿とは違ってしまっているけれど、それでも確かな面影が残っている。そこにいるのは、夢でも幻でも他人でもない――――紛うことなき、彼。

 

渡里、という名前を、しほは微かに呼んだ。

 

「元気そうだね、よかった」

 

そう言って彼は薄く笑った。

しほは笑わなかった。笑えなかった。

 

あまりにも唐突すぎて、しほの思考は空回りしていた。

それは西住の名を背負う者として許されない、一時的な麻痺。

しほが決して発露させないように気をつけていた、隙。

 

間髪入れず、彼はそこを突いてしほの部屋の中に踏み入れた。

 

同時に、しほは自分を取り戻す。

鉄で心を覆い、鋼の仮面を被る。

普段と違い、それはあまりにも急ごしらえだったが、彼が部屋の隅に置いてあった椅子を引っ張り出し、しほの正面に遠慮なく腰を下ろした時には、しほは最低限の防御態勢を整えることができた。

 

「こうやって話すのもいつ振りかな?」

 

彼はまた笑顔だった。

あぁ、としほは内心で顔を顰めた。

 

本当に、一筋縄ではいかない相手だ。

あっさりと此方の心中を読み取った挙句、まるで何時間も前から此処にいるように、いやあるいはもう何年もずっと此処に暮らしているかのように、彼は()()()でいる。

 

長い時の空白なんて、無かったかのように。

 

「突然来たからビックリしたでしょ」

「………そうね」

「昔三人で作った秘密の抜け道、まさかまだあるとは思わなかったよ。防犯的に危ないから早く潰しといたほうがいいよ、後で場所教えるし」

 

やはりそこからか、としほは自分の推論が間違っていなかったことを悟った。

 

娘二人と彼が作った、家の庭と外とを結ぶ逃走用の道。しほが子ども達を叱ろうとする時、子ども達は決まってこの道を使って逃亡を図ったのだ。

設計者が厄介な知恵者だからやけに巧妙に隠されていて、おそらく西住の家にいる者のほとんどは知らないだろう。

 

「知っているわ」

 

だが当然、しほはその存在を知っていた。

ゆえに渡里がこの家を出ていった時、もう用済みだろうとしほはそれを潰そうとした。

しかしそれが今まで残っているのには、ある理由があった。

 

「あの子達が言ったのよ。貴方は、きっとあの道を使って帰ってくるだろうから、それまでは残してほしい、と」

「……あぁ、大正解だね」

 

喜色と郷愁を絶妙に混ぜ合わせた、そんな表情だった。

それを見ても鋼の心が揺らがなかったことに、しほは安堵を覚えた。

 

「約束の時間は、三十分ほど先のはずだけど」

「ん?そうだね、早くしほさんに会いたかったから」

 

主導権を取り返すべく、しほは言葉の矢を放つ。

しかし渡里は、それをいとも容易く受け流した。

一転、鋭い反撃がやってくる。

 

「昔っからそうだったでしょ。しほさんは、西住の人間として誰かと会う時、いつも三十分くらい間を作る。その間に、心を落ち着けるんだよね」

 

渡里の言うことは、一つも間違っていなかった。

それはしほの習慣。西住流を背負う者として、決して弱みを見せないためのルーティンであった。

しほは自身の油断を悟った。その習慣を、彼が知らないわけがない。ならば当然、そこを突いてくることは予測できることだった。

なぜなら彼は―――――――――

 

「でも俺は、どうしても()()のしほさんと話がしたかった。誰にも何も見せない、硬くて分厚い仮面を被ったしほさんじゃなく、ありのままのしほさんと」

 

吸い込まれそうなくらいに黒い瞳から投射された視線が、しほに突き刺さる。

急ごしらえで作った護りは、果たしてどこまで耐えることができるだろうか。

 

「だから俺も、今は()()()()()()()()()()()()じゃない。()()()()()としてここにいる。……あの手紙は、しほさんに会うための口実みたいなもんだよ」

 

それは四月の頃だった。

名前と要件だけが書かれた、簡潔すぎるくらいの手紙がしほの元に届いたことがある。

送り主は当然、目の前の彼。要件は当然、今この状況を作る事。

 

『貴女の大事な娘を預かる身として、一度挨拶に伺いたい』という、白々しい内容が書かれた手紙。

それを見てしほが思ったことは、一つだけだった。

 

「無駄話嫌いだろうから、本題に入るよ。大洗女子学園で()()()を見た時に、絶対にしほさんに聞かないとダメだって思ったことがある。今日ようやく、それを聞ける」

 

彼が戦車道の講師を始めたことを知っても。

学校を辞め、戦車道を辞め、家から出ていった娘が、遠く離れた地で再び戦車道を始めたことを知っても。

そんなことは、些細だ。

それよりも最初にしほが思ったことは、

 

「――――しほさん、何でみほを止めなかったの?」

 

いずれ自分の元にやってくる彼の口から、必ずその言葉が出てくるだろうという、予感。

その時自分は、なんと答えるべきなのかという、迷いだった。

 

表情一つ変えないしほの眼前。

吸い込まれそうなほどに黒い瞳が、こちらをじっと見ている。

 

「戦車道は、本当に勝つことが全て?」

 

 

 

「戦車道、続けていたんだな」

「う、うん……」

 

まっすぐに見つめるまほとは対照的に、彼女の視線はただの一度も此方と交差しなかった。

不安、焦燥、罪悪感。彼女の心の中は、そんなところだろうか。

()()というのは不思議だ。血が繋がっているというだけで、こんなにも他人の心が解るものなのだから。

妹。そう、西住みほは、正真正銘西住まほの妹だ。

 

黒森峰女学園十連覇の夢を潰えさせた、フラッグ車の車長。

全ての責任を負わされ、黒森峰から姿を消した彼女は、まほの妹なのだ。

 

「………」

 

何と言うべきなのか、とまほは迷った。

良かった、という感情はある。戦車道を辞めたとばかり思っていた妹が、別の学校とはいえ戦車道を続けてくれたのだから。

だがそれを言葉にするのは、少し違うと思った。

なぜならそれと同じくらい、黒森峰じゃダメだったのか、という思いもあるから。

 

渦巻く感情は複雑。まほは、それを一言で言い表す言葉はこの世にない気がした。

 

こういう時、人の取れる行動は二通りだ。

まほのように沈黙するか、あるいは……

 

「副隊長……あぁいえ、()でしたね。黒森峰を退学して何処へ行ったのかと思えば、まさかそんな聞いたこともないような学校で戦車道を続けていたとは。呆れて物も言えませんよ」

 

自分の横に立つ少女のように、無理やりにでも感情を言語化するか、だ。

 

「よくもまぁ、そんな無名校で大会に出場できたものですね。精々、恥をかいて西住流の名前を汚さないようにしてください―――――腐っても、貴方は西住流の直系なんですから」

 

それはあまりにも剥き出しにされた感情だった。

敵意と怒りを隠そうともしないその口振りに、まほはエリカが平静を失いつつあることを悟った。

 

「――――――――ちょっと!!」

 

俯いたまま無言の妹を庇うかのように、明るい髪色をした女子が勢いよく立ち上がった。

優しそうな顔に似合わない程の怒気を滲ませて、彼女は声を張り上げる。

 

「いきなりなんですか、失礼でしょ!みほに謝ってください!」

「そっちこそ何?」

 

エリカは退かなかった。ドライアイスの剣のような言葉を幾重にも重ねる。

 

「貴方たちがこの子の何を知ってるっていうのよ。部外者が口を挟まないでくれるかしら」

「部外者じゃありません」

 

静かに、それでいて力強く反論したのは、長く艶のある黒髪を持つ少女だった。

彼女の瞳には、確かな反攻の意思が込められていた。

 

「大洗女子学園戦車道砲手、五十鈴華。みほさんの友達です」

「同じく通信手、武部沙織!みほの友達!」

 

絶対零度に微塵も怯む様子を見せず、二人の少女は真っ向からエリカと対峙した。

視線が火花を散らし、口論が加速する。

 

「みほさんのことを悪く言われて黙ってはいられません。先ほどの言葉は取り消してください」

「そっちこそみほの何を知ってるっていうんですか!」

「はっ、友達ってだけで随分しゃしゃり出るわね。仲良しこよしが貴女達のやり方ってわけ?」

 

嘲笑の後、エリカの視線は栗色の髪の持ち主へと向けられた。

 

「まぁ貴女にはそっちの方がいいかもしれませんね。非情に徹しきれず、勝利のためには何もかもを犠牲にする覚悟もない、甘ちゃんの貴女にはそんな風に友達と慣れ合ってる方がお似合いですよ」

「それは違います!!」

 

否定の言葉は、また別の人間から放たれた。

癖っ毛の強い髪をした女子が、エリカに物怖じしながらもそこに起立していた。

 

「西住殿は、西住殿は誰よりも優しい人なんです!!初めて会った時から、私はずっとそう思ってます!」

 

エリカと同じように剥き出しにされた感情が、真っ直ぐに投射される。

反論と言うには、彼女の表情はあまりにも迫力が欠けていた。

しかしだからこそ、より一層切に心を打つ気がした。

 

「困っている人がいたら、助けを求めている人がいたら、すぐに手を差し伸べることができる。それが西住殿なんです。そんな西住殿を、私はずっと尊敬してます!だからあの時の西住殿の行動は間違ってなんかいません!勝つことよりも友達を優先することができる、そんな優しさが西住殿の強さなんですから!」

 

その声を、まほは黙して聞いていた。

優しさ。まほの、西住流の戦車道にそんな文字は無い。

あるのは勝利のみを希求し、そのためにはあらゆる犠牲を厭わない鉄の心こそが西住流だから。

 

「………」

 

しかし妹は、みほはそうではないのだと、まほは薄々と気づいていた。

母と同じ西住流そのもののような自分とは、どこかが違うということに。

まほはそれが………

 

「私たちはみほさんから全て聞きました。貴女の気持ちも分かります。きっと強い思いを持って試合に臨んでいて、だからみほさんのことが許せないんでしょう。でもそれでも、みほさん一人に責任を押し付けることは違うと思います」

 

続くように黒髪の少女が口を開いた。

これも優しさだ、とまほは思った。

友達を思い遣る心、誰かのために行動することができる心。

黒森峰にはない、暖かな心。

 

みほは、彼女たちと出逢ったからこそ、また戦車道を始めることができたのだろうか。

きっと、そうなのかもしれない。

彼女たちが今目の前でそうしているように、みほに寄り添ってくれたからこそ、みほはこの世界に帰ってくることができたのだろう。

 

それは自分達ではできなかったことだ。

だからまほ達は、彼女たちに礼を言わなければならない。

みほにまた、戦車道を始めさせてくれたことに。

 

しかし彼女たちは、気づいているのだろうか。

みほの何を知っているのだと弾劾する自分たちもまた、まほ達のことを何も知らないまま語っているということに。

得てしてそう言う行為が、人の触れてはいけない部分を容赦なく抉るのだ。

 

「負けることは悪いことじゃありません。勝つことも大事ですが、それ以上に大切なものだってきっとあるはずです。それを――――――」

「――――軽々しく知った口を聞くな!!!」

 

火山が噴火した。

一時は冷えていた激情のマグマが、再び熱を持ち火の粉を散らして外部へと流れ出る。

 

「私たちはね、そんな温い覚悟で戦車道をしてるんじゃないのよ!常勝と謳われる黒森峰女学園で戦車道をするということがどういう意味か、あんた達は何も知らないでしょうが!!」

「知ってる、友達一人守ろうともしないのが黒森峰の戦車道だろ。随分と物騒な学校だ、私なら生き辛くてとっくに辞めてるだろうな」

 

白いカチューシャを着けた小柄な少女が、平然とした表情で毒を吐いた。

いやそれはこの場においては毒ではなく、火焔を更に大きくさせるだけの燃料だった。

 

「―――――――――――っ!!」

「もういい、そこまでだ」

 

更なる火球を放とうとしたエリカを、まほは一言で制した。

潮時だな、とまほは心の中でため息を吐く。

これ以上ヒートアップすれば、もう歯止めが効かなくなる。それにここまで大声で口論してれば店の人にも迷惑だ。

 

「隊長……!」

「ウチの者が失礼した。黒森峰女学園の隊長として謝罪する、すまない」

 

まほは少し頭を下げた。

周囲が動揺し、高まっていたボルテージが急降下していくのをまほは気配で感知した。

 

「エリカ、場所を変えるぞ。こうなってしまっては、私たちはここにはいない方が良い」

「っ……はい」

 

エリカの中にあったあらゆる言葉を、まほは睥睨するだけで封殺した。

頭をすぐに冷やすことのできる理性はあるものの、それでもエリカの気持ちが昂ってしまうのは、やはり彼女の中で西住みほという存在が特別だからなのだろう。良くも、悪くも。

 

「……悪いな、みほ」

「……ううん、大丈夫」

 

みほは儚い笑みを浮かべた。

こんな時でも笑えるようになったのか、とまほは少しだけ驚いた。

自分達がここに来たせいで、したくもない思いをしただろうに。

しかし彼女が黒森峰の制服を脱いだ以上、まほは彼女に言わなければならない言葉があった。

 

「だがみほと言えど、立ちはだかるのなら容赦はしない。私たちは、私たちの道を阻むもの全てを叩き潰し、そして優勝する……次に会う時は、戦場で会おう」

「一回戦でサンダース大付属と当たるアンタたちが、決勝まで来れるとは思わないけどね」

 

エリカの皮肉を黙殺して、まほは歩を進めた。

これ以上語るべきことはない。

今の自分達とみほは、もう敵同士なのだから。

 

だからまほは、もうみほの方を見なかった。見ずにそのまま、立ち去ろうとした。

しかし、

 

()()()()に鍛えてもらったんだもん、私たちが絶対に優勝するんだから!!」

「―――――――――――」

 

不意に現れたその名は、まほの足を止めるのに十分すぎる力を持っていた。

 

突如として静止したまほを、たった一人を除いて誰もが疑問視したようだった。

だがそんなこと、まほには知ったことではなかった。

 

わたり。そんな名前を持つ人を、まほはこれまでの人生で一人しか知らない。

 

ゆっくりと振り返り、まほは彼女を両眼に捉える。

栗色の髪をした、自分の妹を。

 

「……みほ」

「は、はい」

 

その声に、みほは肩と声を震わせた。

彼女にそんな反応をさせたのは自分であることを、まほは理解していた。

しかしまほもまた、震えそうな自分の声を抑えつけるのに精いっぱいだったのだ。

 

 

()()()が、そっちにいるのか……?」

 

 

ほんの少しの間があって、みほは静かに頷いた。

そうか、とまほは誰にも聞こえない程小さいな声で呟く。

 

瞬間、フツとまほの中に沸きあがる感情があった。

それは赤色ではなく、黒色をしていた。

燃焼し、最後には燃え尽きる焔の感情ではなく、ドロドロとして全てを呑み込むような暗澹とした感情。

まほは自分の中にあるそれに、名前をつけることはしなかった。

つければ最後、自分はどこまでもこの感情に支配される気がした。

 

「………そうか、そうなのか」

 

しかし鉄の心を以てしても抑えきれない部分が、僅かに表出した。

その声は自分でも驚くくらいに、冷たい声色をしていた。

 

「―――――みほ。解っているとは思うが、西住流の戦車道は決して逃げない戦車道だ。一度でも逃げたお前は、もうその名前を名乗ることはできない」

 

変貌。ナニカがまほを、『西住みほの姉』から『西住流を背負う者』に塗り替えていく感覚があった。

そしてまほは、かつて母が彼女にかけた言葉と全く同じ言葉を紡ぐ。

それが彼女を、どれほど傷つけたか知った上で。

 

「戦車道は勝つことが全てだ。何を犠牲にしても、勝たなければ意味がない」

 

 

 

「なのにあの子は、勝利よりも仲間を優先した」

「だから、出ていくのを止めなかった?」

 

黒い瞳が凪いでいる。どうやらこの数年で、感情を隠す術を身に着けたようだ、としほは思った。もう彼は、しほの知っている子どもではない。

 

「西住流に相応しくないあの子は、遅かれ早かれ此処には居れなくなった。そうなる前に自分から出ていくというのなら好都合だったわ」

 

純粋な力比べの果てに敗北したというのなら、まだ納得できた。

それはただ力が劣っているというだけのことだから。

 

だが勝利よりも仲間を優先したために負けたというのなら、それは力不足ではなく、西住流としての欠陥を表す。

そんな人間は、この家にいることはできない。

ここは西住流。鉄心の群れ。優しさなど、必要ない。

 

「……でも俺は、みほが間違ってるとは思わないよ」

 

静かに彼はしほの言を否定した。

そして自嘲しながら言う。

 

「みほにそう言ったことはないけどね。俺の都合だけど、みほにはどれだけ辛くても自分の力で答えを出してほしい。だから正しいとも間違ってるとも言わなかったけど……心の中では、俺はみほを褒めてやりたいよ。頭を撫でて『良くやった』って言ってやりたい」

 

だが絶対に言わない。

戦車道が何よりも一番上に来る戦車道至上主義。

どうやら彼は、その点に関してはあの頃と何一つ変わっていないらしかった。

 

「しほさんもそうだと思ってた。だってあのままじゃ、川に落ちた乗員はどうなるか分かったもんじゃなかった。下手をすると、命を落としたかもしれない。それを真っ先に助けにいったことは甘さでも優しさでもなく、勇気なんだと、しほさんは思わなかったの?」

 

その眼は、あまりにも真っ直ぐだった。

胸の内を隠そうとするしほとは対照的に、彼は全てを曝け出していた。

そうされるのが、一番しほは堪えると知った上でそうしているのだ。つくづく、相性が悪い相手である。

だがしほとて、退くわけにはいかないのだ。

 

「思わないわ。なぜなら戦車道は、勝利することが全てだから。勝てば全て正しく、敗ければ全てが間違い。ここはそういう世界。だから勝利することに、何よりも意味がある」

 

毅然としてしほは言った。それは一切の綻びのない、完全なる西住流だった。

しほの言葉に、渡里は表情を変えなかった。

予想していた、ということだろうか。だが寧ろその方がしほは有難かった。

いっそ感情を爆発させられた方が、きっと自分は手を焼いただろうから。彼が理性的であればあるほど、しほもまた理性的でいられる。

 

 

「――――――じゃあ()()()()の死は、正しかったってこと?」

 

 

だからこそ、その言葉が放たれたとき、しほは瞠目し、硬直してしまった。

渡里がここに来ると知った時から、何十回と思い浮かべたその言葉。

その時自分がどう答えるか、何百回とシミュレーションしたというのに、しほは西住流としてあるまじき隙を晒してしまった。

 

そうやってしほの準備をあっけなく台無しにしてしまうくらい、彼はあまりにも唐突に、何気なくそう言った。

 

「戦車道をするために生まれ、戦車道の中でしか生きられず、戦車道のために全てを捧げて――――――そして戦車道の中で死んだあの人の生き方は、誰もが倣うべき素晴らしいものだったってこと?」

 

いっそ清々しいまでの、曇りない表情だったことがしほの心を抉った。

一体いつから、そんな顔で、その名前を口に出来るようになったのか。

その名前は、しほにとっても渡里にとっても、特別だったはずなのに。

 

「……えぇ、そうよ」

 

全神経、全精神力を集中させて、しほは西住流の顔を再構築した。

ここで弱みを見せることだけは、死んでもできなかった。

そして言うのだ、西住しほではなく、西住流を背負う者として。

 

「全ての戦車乗りは、須らく彼女の生き様に倣い、彼女のように生きるべきなのよ」

 

たとえそれが、どんな悲劇を生むことになっても。

たとえそれが、彼をどれほど傷つけることになっても。

それがしほの、答えだった。

 

「……そっか」

 

そして彼は、しほが見たことの無い表情を浮かべた。

諦観と安心、痛切と哀愁を絶妙に混ぜ合わせた、見ているだけで心が締め付けられるような、そんな笑みだった。

 

「良かった。俺の知ってるしほさんだ」

 

だというのに、その言葉には喜色が込められていた。

まるでテストの答え合わせでヤマが当たった学生のような、そんな語調。

その瞬間の彼は、ひどく幼く見えた。

 

「みほの話を聞いて思ったんだ。もしかしてしほさんは、変わってしまったんじゃないかって……でもそれは間違いだった。しほさんはずっと、昔のままだ」

 

そして彼は立ち上がり、庭が見える窓に近づいた。

そこからの景色が彼の目にどう映っているのか、しほには想像できない。

でも彼はこの時、過去に想いを馳せているような気がした。

 

「いっつも仏頂面で、怒ると怖いし鬼みたいに厳しいし、滅多に笑うこともないけれど――――――誰よりも子どもの事を大事に想う、優しいお母さんのまま」

「―――――――――――っ」

 

何を言っている、としほが反射的に反論する前に、渡里は莞爾と微笑んだ。

 

「貴女の厳しさは優しさの裏返しだと、俺は知ってますから」

 

渡里は一瞬で、しほの言葉を封殺した。

たったそれだけの言葉で、表情で、しほはあっけなく反撃の機会を永遠に失った。

 

「みほのことはもう聞かないよ。しほさんにはしほさんの事情があるんだと思うし、俺はもう西住の人間じゃないからね」

 

そして渡里は、気づいた時には部屋の出口へと立っていた。

まるで時間が飛んだみたいに、彼の行動は迅速を極めていた。いや、切り替えが速いと言うべきかもしれなかった。

 

「用件はそれだけ。逢えて良かった………それじゃあ、また」

「ま――――――――――――」

 

パタリ、と扉が閉じ、それ以降再び開くことはなかった。

まるで幻だったかのように、彼は消えた。

此方のことなど知ったことではないとばかりに、知った風な口をきいて、言いたいことを言いたいだけ言って。

 

虚しく空を切った手を、しほは信じられないものを見る目で見た。

いったい自分は、引き留めて何を言うつもりだったのか。

その行為は、きっと六年前にすべきことだったと、知っているはずなのに。

 

「………」

 

深く深く、あらゆるものを体外へと放出するように、しほは一つため息を吐いた。

 

「変わらないのは、お互い様ね」

 

その呟きは、誰にも届くことなく宙に溶けていく。

取り消すように握りしめた手にどのような感情が込められていたのか、それはしほだけが知ることだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

西住まほには兄がいた。

世界で一番カッコよくて、強くて、優しい兄が。

 

今となっては随分狭い世界で生きていたものだが、その時のまほは本気で兄以上に凄い人なんていないと思っていた。

いや、同じくらいカッコよくて強い、尊敬できる母もいたのだが、兄は母にはないものを持っていた。面白さというか、ユーモア的なものを。

母は戦車道の分野において飛びぬけていたが、兄はきっと全方向に飛びぬけていたのだと思う。それこそ、良くも悪くも。

 

母はカッコ悪いとこなんて一つもない、完全無欠の人だったが、兄はそうではない。

特にひどかったのは、私生活だ。

炊事洗濯掃除、どれをとってもダメダメ。

戦車道に熱中し過ぎて朝まで起きてるなんてことはザラだし、その反動で夜まで寝てるなんてことも同じくらいあった。

忘れ物はよくするし時間にはルーズだし、悪い所なんて探せばいくらでも出てくる。

 

でも、それでも。

まほは兄が大好きだった。

だっていつだって、困ったように笑いながらまほの言うことを聞いてくれた。

自分の知らない世界をたくさん見せてくれた。

 

そして誰よりも、戦車道で輝く姿を魅せてくれたのだ。

 

本当に、戦車道をしている兄はかっこよかった。

巧みな戦術も、芸術的な戦車指揮も、まほの目にはまるで宝石箱のように煌めいて映った。

だからまほは憧れた。

西住流とはまるで違うけれど、心を惹いて止まない兄の戦車道に。

 

きっと幼い頃の自分は、カルガモのように兄の後をついて回っていたと思う。

戦車道のことは何でも兄に聞きに行ったし、戦車道以外のことも何でも一緒にやった。

兄が見るもの、聞くもの、食べるもの、知るもの、その全てをまほは追いかけた。

とにかくまほは、ずっと兄と一緒にいたかったのだ。

そうすることで、遠く彼方にある兄の背に少しでも近づくことができる気がしたから。いつの日か兄の戦車道の、その全てを理解することができると信じて。

 

でも現実は非情だった。

誰よりも憧れた兄は、大好きな兄は、突然まほの前からいなくなってしまった。

 

泣きじゃくりながら兄の袖を掴んで離さなかった妹。

それを見ながら、まほもまた呆然と立ち尽くすしかなかった。

だって兄は、行かないでと願う声も、涙を滲ませた瞳も、一切合切を無視して、ただの一度も振り返ることなく遠い地へと旅立ってしまったから。

 

そうしてまほは、あまりにもあっけなく標を失った。

 

「………お兄様」

 

まほは実家にあるいくつもの部屋の、とある一室の前にいた。

ここは、もう何年も使われていない部屋だ。なぜなら主人をずっと昔に失ってしまったから。

それでも埃っぽくないのは、とある使用人が丁寧に掃除してくれているからだと、まほは知っていた。そしてその使用人が、まほのためにそうしてくれているということも。

 

一歩、足を踏み入れる。

部屋の中にあるのは、勉強机と椅子、そして敷布団も何もないベッドだけ。

およそそれは、依然人が暮らしていた部屋とは思えない程質素な部屋だった。

でも確かに、ここには兄がいたのだ。

雑多に散らかった部屋の中で本を読みながら、どんな時でも笑ってまほを迎えてくれた兄が。

 

「お兄様……」

 

しかしそれはもう、まほの心の中にしかない風景だった。

兄はこの家を出ていくとき、身の回りのもの全てを持ち出していった。

自分がここにいたという痕跡を消すようにし、最初からいなかったかのように漂白していったのだ。

 

だからもう、ここには何もない。

それでもまほが、実家を訪れるたびにこの部屋へと足を運ぶ理由は一つ。

 

いなくなってしまった兄の面影が、残照がそこにある気がするからだった。

 

「なぜなのですか……」

 

ベットに寝転がり、まほは天井を仰いだ。

昔は、こうする度に兄の匂いがした。父とも母とも違うけど、不思議と安心する匂いがあって、それに包まれる感覚がまほは好きだった。

 

でももう、ここにその温もりはなかった。

長い年月を経て風化したのだろう。でもたったそれだけのことが、こんなにもまほには辛い。まるで兄と過ごした思い出が、少しずつ消えていくようだから。

 

「なぜ、()()みほなのですか……」

 

問いかけの声は、虚しく消えていく。

誰も何も答えてくれないことによって、まほは自分が孤独であることを嫌が応にも思い知らされた。

 

「私だって、こんなにも貴方のことを想っているのに――――――」

 

かつて自分の頭を撫でてくれた手の温もりを、まほは心から渇望した。

 

あの人さえ傍にいてくれれば、まほは他に何もいらないのに。

そんなことすら叶わない自分の身を、まほは恨んだ。

 

瞼の裏には、いつも愛しい人の姿がある。

 




みほとまほは絶対的に仲良しの素晴らしい姉妹だと思っていますが、本作ではオリ主がいるせいで拗れています。マジ余計なことばっかしやがる。

呪われたかのようにシリアスしかできない自分が恨めしい。

イッツミーは原作と二次創作ですごい違うキャラですね。
その分愛されてるということなんでしょうけど。

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