予定では三話で終わらせるはずだったサンダース戦も、気づけば五話かかってる現実。
個人的にはもっとサンダース側を掘りたかったです。
五十鈴華はある部屋の前に立っていた。
そこはかつて学校の用務員方が使用していて、今は「旧用務員室」という名前と本と紙の山を与えられた、大洗女子学園戦車道講師が使用する部屋……ではない。
華が呼び出されたのは、かの人、神栖渡里が我が物顔で好き放題に散らかすいつもの部屋ではなく、茶道受講者が使用する和室だった。
扉は襖。中にはおそらく畳が敷かれているだろう。
そんないかにもな部屋は校内では浮いてしまうが、華道の名門で生まれ育った華にとっては寧ろ馴染み深くすらある。
もし自分が着物を纏っていたら、それこそ実家にいるような気分だっただろう。
ふと、華は考えた。
なにゆえ、渡里はこの部屋に華を呼んだのだろうか。
いや、華が呼ばれた理由は知っている。
先日の一件。華が渡里にお願いした、日本一の砲手になるための特別メニュー。
その準備が整ったのだろう。
いよいよ始まるわけである、あの神栖渡里が「尋常じゃない過酷さ」と言う練習が。
後悔は一つもない。華は西住みほを支えられるよう、誰よりも強くなると誓った。
そのためなら何でもするし、何だって耐えてみせる。
その覚悟は既にできているから。
ただそれとは別に、当然緊張はある。
渡里の練習が厳しいのは既に身を以て理解しているが、それに輪をかけて厳しいという。
頭を過るのは何百発とひたすら砲弾を撃ち続けさせられた初日の練習。思わずお風呂場で気を失いかけたことは記憶に新しい。
あのレベル、より上。それは既に華の想像できないものになっていた。
(でも……なぜ和室なのでしょうか)
かつては茶道、華道と並ぶ日本伝統文化であった戦車道だが、その二つとの関連はほとんどないように思える。それこそ和室、畳の上で行われるものという点で華道と茶道は共通しているし、それ以外にも結構似通っている点はあるが、戦車道はちょっと思いつかない。
もしかして華が知らないだけで、戦車道もまたこういう場所でこそ養われるものがあるのだろうか。少なくともみほや優花里からはそういった話を聞いたことはない。けれど渡里が「そうだよ」と言えば、自分は信じてしまうかもしれない。それだけの説得力を、渡里は戦車道において持っている。
なんにせよ、考えても仕方ないこと。
華は深呼吸を一つした。
玄関にはすでに男性のものとしか思えない靴が置かれている。
その持ち主が誰であるかは明白だった。
これ以上待たせるわけにはいかない。
扉は目の前にあるのだから、事ここに至っては行動あるのみである。
「失礼します」
靴を脱ぎ、膝をつく。
そして慣れた所作で華は襖を開けた。
「五分前か、感心だな五十鈴」
そしてすぐに、華はその人の姿を認めた。
八畳ほどの和室の、一番奥。
片膝を立て、壁に背中を預ける、この部屋が普段茶道で使われていることを考えると大変無作法な姿勢で、渡里はそこにいた。
そして華の時間は停止した。
渡里の姿をその両目に収めた瞬間、華は魔法をかけられたみたいに指一本動かせず、ただ吸い込まれるように渡里を見つめることしかできなかった。
人を「柔らかい人」と「鋭い人」に分けるなら、妹の西住みほは圧倒的前者であるのに対し、兄の渡里は圧倒的後者に分類される。
例えば目。釣りがちな大きな目の中には覇気が満ちた瞳。
例えば風貌。180㎝はあろう高身長、全体的に引き締まった身体。
例えば言動。ハキハキとした口調に、遠慮しない物言い。
おおよそテレビの中で見るような爽やかで煌びやかな男性アイドルのようなタイプとは全く異なった人間であることに疑いはない。
しかしその内にある優しさを、華たちは知っている。
誰よりも真摯で、誠実で、真っ直ぐで。
人を思い遣る心をしっかりと持っているということを。
だからあんなに慕われる。
例え外見が威圧的でも、中身は妹と同じ。
本質的に、優しい人。
華は、そう思っていた。そしておそらく、大洗女子の誰もがそう思っているだろう。
でも
今華の前に座す神栖渡里は、華の知っている姿から大きく逸脱している。
身に纏う空気は、氷の刃の如く。
瞳に宿る光は、銀色に輝く。
周囲のもの全てを切り裂いてしまいそうなほど練磨された鋭い覇気が、華の肌を撫でていく。
しかしそれでいて、余りにも静か。
波紋一つ立たない凪いだ水面がそこにはある。
外見通りでも、中身通りでもない。
華に初めて見せる顔をした、完全なる別人の神栖渡里。
どこまでも深い深い眼をして、彼は此方を見ていた。
「まぁ座れよ。生憎茶は出せないけどな」
「し、失礼します……」
その声がなければ、おそらく華は永遠に停止したままだっただろう。
それほどまでに、今の渡里からは並み外れたものを感じる。
それが何かを、言葉にすることはできないけれど。
慌てて、それでいて音がしないように戸を閉め、渡里の正面に置かれた座布団へと華は向かった。
(これが……みほさんの言っていた戦車道をしている渡里先生、なのでしょうか)
みほが渡里を語る時の常套句は二つ。
『戦車道以外何もできないダメ人間』と『戦車道をしてる時は誰よりもカッコいい』、である。
基本ああだこうだと、渡里のこととなると口数が多くなるみほだが、言っていることの大半はその二つに分類できる。
そしてその二つの顔は、華たちが知らないもの。みほだけが知っているものである。
華の中で渡里は、ある種の完璧人間に近い。
何でもできるし、何でも知っている。それでいて高い能力に驕ることはなく、自分より能力の低い者に合わせることに対して何の躊躇いもない。頼まれたことは最大限の努力と誠意を以て応えるし、それに見返りを求めることもない。
だから『ダメ人間』なんて言われても、華は全くピンと来ない。華の中で渡里は、寧ろその対極にある。
しかしみほ曰く、「できるとこしか見せてないだけだから。みんな騙されてるよ」とのこと。
つまり悪い部分は巧妙に隠していて、良い部分だけを見えるようにしている、らしい。
確かに、そういった片鱗は見えたりしている。特に用務員室の物の置かれ方とか。
だから、みほがそういうのなら、渡里は完璧人間なんかじゃなく、寧ろ欠点だらけの人なのだろう。華が知らないだけで。
そして同じく、みほが言う『戦車道をしている渡里』もまた、華たちは知らない。
普段見ている渡里の、華たちに戦車道を教えてくれる顔を、華たちはそうだと思っていたのだが、みほに言わせれば全然違うらしい。
曰く、あくまでアレは戦車道を教える先生としての顔であって、実際に競技に参加する選手としての顔は別にあるとのこと。
そしてその顔こそ、みほが『誰よりもカッコいい』と評する渡里の姿らしい。
それを華たちが見る機会は一度もなかった。
渡里はこの学校にいる間は、「講師」としての顔しか見せない。
だからいつか、一度でいいから見たいと思っていたのだ。
だって『戦車道をしている渡里』を語る時のみほはすごく嬉しそうで、まるで宝物を自慢する子どものような顔をするから。
その後に「子どもの時はそう思ってたっていう話だけどねっ!」とバレバレの嘘を慌ててつくまでが、お決まりの流れである。
みほは隠している気らしいが、西住みほが結構なブラコンであることは、あんこうチームでは既に周知の事実なのだ。本人は一向に認めないけど。
でも、と華は思わず息が漏れそうになるのを堪えた。
これは、仕方ないと思う。
今目の前にいる渡里が、みほの言う『戦車道をしている顔』だと言うのなら、これはあまりにも心惹かれる。
今まで男の人は数え切れないくらい見てきたけれど、これほどまでに惹きつけられる人は華の人生にいなかった。
みほが憧れるのも当然だ、と華は思った。
とくん、とくん、と胸が大きく鼓動する。
これが緊張によるものなのか、はたまたもっと別の理由によるものなのか、華には既に区別がつかなかった。
「そう身構えなくてもいい。今日は半分説明会みたいなもんだ」
渡里は華の鼓動を、緊張と捉えたようだった。
温和な声色に、しかし華の鼓動が収まる気配はなかった。
依然身を固くする華。すると渡里は浅く息を吐いて瞑目した。
途端、世界は一転した。
張り詰めていた空気は跡形もなく霧散し、代わりにやってきたのは木と畳の心地よい香り。
同時に華の肌を撫でていた覇気と、渡里から漂っていた鋭い気配も消え失せた。
そして再び渡里が目を開けた時、そこには華の良く知る「講師」としての神栖渡里がいた。
「これならいつも通り話せるだろ」
「は、え、あの……」
「大丈夫そうだな、それじゃ始めるか」
あっという間に置いてけぼりになる華だった。
どうやら渡里に、先ほどのことを説明する気はないようである。
最早分かることは、これから何かが始まるということと、さっきまでの渡里はもう見れないということだけだった。
(なんとなく損した気が……)
「野暮だけど確認だけしとくか。俺はお前を日本一の砲手にする。そしてお前は、そのためにあらゆる努力を厭わず、最後までやり切る―――相違ないな?」
華は気持ちを切り替えた。
そうだ、華は渡里を見に来たわけじゃない。
背筋を伸ばし、まっすぐに渡里の顔を見て、華は頷いた。
「よし。ならまずは、お前が日本一の砲手になれる理屈を教えようか」
そこで渡里は壁にもたれるのを止め、身を起こした。
それでもなお、片膝を立てるのは止めなかったが。
「現時点で高校最強の砲手は二人いる。別に覚えなくていいが、サンダース大付属のナオミ、それからプラウダ高校のノンナだ。部分的にこの二人に勝るものを持つ砲手もいなくはないが、トータルで見た場合はこの二人がずば抜けている」
当然華は、その二人のことを全く知らない。
この時点で華が持っておくべき認識は、日本一の砲手になるためにはその二人を越えていかなければならないということだった。
「この二人の実力を数字で言うなら……まぁ分かりやすく90点としよう。これを一点でも上回れば、お前が日本一の砲手になる。単純な算数だな」
「91点……ですか」
それがどれほどの数字なのか、華には解らない。
一体自分が今何点の実力を持っているか。そこが明らかになって初めて、その数字の意味は理解できる。
「で、お前は今いいとこ50点というところだ」
「……困難な道ですね」
分かっていたことではある。
華は戦車道を始めて間もない素人。今の時点で砲手の頂点にいる二人に匹敵するとは思わないし、彼女たちと自分の差が僅かだとも思ってはいない。
だからここから、41点上げればいいのだ。
残された時間を考えると難事かもしれないが、他でもない神栖渡里が「できる」と言ったのだから、華が努力すれば達成できるはずなのだ。
「そしてこの合宿を最後までやり切ったところで、お前の実力は85点が精々だ。たった5点の差だが、これはとてつもなく大きい。決定的で、明確な実力差だ……だから」
「勝つために必要な6点を、この特別な練習で補う、ということですね?」
「違う。85点が正真正銘の限界だ。今から全国大会までの時間じゃ、天地がひっくり返ってもその点数を超えることはない」
あれ!?と華は目を丸くした。
それでは華は、かの二人には及ばないのだが。
華の驚愕を受け、渡里は神妙な顔で言葉を紡いだ。
「85点でも、90点に勝てる方法があるのさ。それこそが、これから行う特訓の意味だ」
「85点のままで……?」
それは一体、どんな魔法なのだろうか。
ちなみにこの時の華は、大会までの時間で華を85点まで持っていける渡里の手腕がどれほど並外れているのかを理解してはいない。
見る人が見れば、それこそ魔法のようだと言う渡里の育成術を。
「俺がイギリスにいた頃に聞いた話だが、戦車道において『練習以上のことは本番では絶対に出来ない』そうだ」
曰く、人が自分の力を完全に発揮できるのは練習の時。
なぜならそこには失敗してもいいという心の余裕があり、その余裕がひいては高いパフォーマンスを生むためのリラックスへと繋がるからである。
加えて練習中は、ただ自己を向上させることだけを考えているから余計な雑念もない。
適度な弛緩と、程よい集中力。
練習には、この二つが揃っている。
「けど本番はそうじゃない。
だから競技者たちの至上命題は一つ。
いかにして練習と同じパフォーマンスを、本番で発揮するか。
ウォーミングアップ、ルーティン、それらは畢竟『本番を練習のようにする』ための技術に過ぎない。
「まぁ俺も全部鵜呑みにしてるわけじゃない。試合の中でこそ発揮されるものっていうのもあるとは思う。でも、練習でできないことは本番でもできないっていうのに異論はない。だってそうじゃなきゃ、練習の意味がないだろ?」
「それは……そうですね」
それができるなら、誰だって練習なんかしないはずだ。
華だって毎日のように花を活けるのは、腕を錆び付かせない以上に新しい発見をするためというのが大きい。
「どれだけ努力しても、本番で発揮できるのは練習の九割。
「!」
「相手が90点の力を持っていても、本番ではどうやったって81点だ。自分が85点しか持っていなくても、100%の力を発揮できたなら本番では4点分勝てる」
筋が通ってるだろ、という渡里の言葉に、華はただただ頷くことしかできなかった。
確かに渡里の言う通りなら、華が85点の力しか持っていなくても問題ない。
練習では負けているとしても、肝心の本番では勝てるのだから。
「本来持っている力を『実力値』、実際に試合で発揮できる力を『発揮値』って俺は教わったけど、まぁ小難しい言葉を使うほどの理屈じゃない。そういうもの、と漠然と覚えてるだけでいいよ」
「……ですが、100%は無いって言われてるんですよね?一体どうすれば……」
問題はそこだった。
渡里の理屈は確かに納得できるが、それはあくまで理屈の上ではだ。
実際にやるとなった時、不可能と言われているソレをどうやって成すのか。
華の問いに対する渡里の答えは、あまりにもあっけらかんとしたものだった。
「集中する、それだけだ」
「へ?」
「もちろん、ただの集中じゃないけどな」
そう言って渡里は居住まいを正した。
「五十鈴、自分が一番集中しているなって感じる時はいつ?」
「えっ。えーと……花を活けている時でしょうか」
「具体的に説明できるか?」
その問いに、華は幾秒かの間を置いて、たどたどしく言葉を紡いだ。
花を活けている時の意識。
華の感覚としては、まず自分と花以外のものが世界から消えていく。
次に音が消え、残るのは香りと色だけになる。
そうすると華の意識は、花だけに投射される。それもまっすぐに。
そして活けることだけに没頭し、それ以外のことは何も考えられなくなる。
納得のいく花を活けることができた時は、決まってそういう時だった。
「つまりお前が集中している時、お前の意識は花と自分、あるいは花を活けるという行為にのみ注がれている。じゃあそれ以外は?」
それ以外、と言われて華は言葉に詰まった。
「無いよな。お前が花を活けてるのがどこか知らないけど、そこにはきっと家具や畳、鳥のさえずりや人の生活音なんかがあるはずなのに、それらはお前の意識から消されてる」
それはそうだ。だってそうして必要のないものをそぎ落として、一つの事に没頭することこそが集中するということのはず。
だから華の中にそんなものはない。寧ろより集中するためには、あってはいけないとすら言える。
「でも本当は、そんな必要ないんだ。だって人は一つのことに集中するのと同じレベルで、全てのものに意識を注ぐことができるんだから」
「え?」
渡里の言葉は華の理解を越えていた。
誰にでも分かりやすく物事を説明できるのが渡里の凄い所だが、それは何時でもそうとは限らなかった。
「
そう言って渡里は一度瞑目した。
そして再びその瞼が上がった時、そこにはまた
知らず、華は背筋を伸ばした。
冷たいものが、肌を撫でていく。
「まずは目を閉じろ。そして俺の言う通りに動け」
「へ、あ、あの……」
「今から俺が連れて行ってやる。お前はその感覚をしっかりと身体に刻み込むんだ」
有無を言わさぬ渡里の態度に、華は慌てて目を閉じた。
視界が遮断され、華が感じられるのは音と匂いだけ。
そんな暗闇に、渡里の声は静かに響いた。
「不可能なはずの100%を成し遂げる力。総てを捉える究極の集中状態をな」