もしくは『誰にも隙を見せない全生徒の憧れを独占する孤高のお嬢様』と『唯一そんな彼女の心にすんなりと入っていけるフランクなクラスの人気者』。
そろそろハーレムタグとか付けないといけないかもしれない、と思いつつあるこの頃。
「勝った!勝ったぞ!」
「河嶋先輩……さっきからずっとあんなだね……」
「特に何かしたわけじゃないのにね……」
狂喜乱舞する片眼鏡の生徒会広報、河嶋桃を視界に収めながら、ウサギさんチームは疲労のこもった息を吐いた。
ただでさえ心身を削りに削った激闘の後だというのに、あんなものを延々と見せられたらそりゃため息の一つでもつきたくなるというものである。
「でも、本当に勝てて良かったですね!」
「うん、良かった……」
全国大会一回戦、全国でも屈指の強豪校であるサンダース大付属と戦った大洗女子学園は、辛くも勝利を収めた。
辛くも。そう、本当に辛くもだ、とみほは思った。
振り返ってみれば、結局みほ達が有利に立ったのは全体の2割ほど。それ以外はずっと攻められっぱなしで、防戦一方。
動きは読まれ、未知の戦術は繰り出され、最後の最後までみほ達は崖っぷちに立たされたまま。どこか一つ、ほんの少しでも歯車が狂っていれば負けていたのはみほ達だったに違いない。
それでも、勝った。
その功労者に、みほは視線を注いだ。
「華、大丈夫?」
「……はい、なんとか」
黒く艶のある長い髪。大和撫子を体現したかのような、たおやかな仕草と雰囲気。
あんこうチームの砲手にして、サンダースのフラッグ車を一撃の元に討ち取ったMVP。
五十鈴華が、そこにいた。
しかしその様子は快活なものではなかった。
心配そうに見つめる沙織の横え、彼女は戦車に腰をかけ、濡れタオルを被ってぐったりとしながら返事をする。
勝利した者、それも勝負を決めた者の様子としてそれは、あまりにも弱弱しいものだった。
もうずっと、華はこんな調子だ。
試合が終わって、戦車を集めて、みんなが勝利の喜びを分かち合っている時から、ずっと。
今でこそ座りながら会話できるようになったが、試合が終わった直後は本当に肝を冷やした。肌は病的に白いし、なのに汗は止まらないし、加えて突然ばったりと倒れかけたものだから、みほとしては勝利の余韻に浸るどころではなかった。
幸い時間と共に落ち着いてきているから、大事ではないんだろうけど。
それはそうとして心配なものは心配だった。
何故華がこうなってしまったか。
その理由に、みほは思い当たるところがあった。
華が試合の最後に見せた、異常な集中力。
見ている此方が思わず息を呑んでしまうほどの、完全なる心身の合一から放たれた一射。
みほは思う。アレは並みの業じゃない、と。
あの領域は、砲手として究極の境地だ。総てを受け入れながら、何にも揺るがない凪の心。あの時の華は、間違いなく自分の力全てを最大限に発揮していた。誰にもできない、正真正銘100%の力を。
これはその反動だ。硬く閉ざされている未開の領域に足を踏み入れた、その代償に違いない。
そんなところに、華が一人で辿り着けるとは思えない。間違いなく、彼女の背後にはそこへ手引きした人がいる。
そしてみほは、そんな人は一人しか知らなかった。
いつか見た、渡里の華の密会。
あれはこのためのものだったのだろう。
本当に、戦車道の事となると歯止めの聞かない人だ。
砲手が一試合でここまで消耗するなんて、みほは聞いたことが無い。
いったい華にどれだけの無茶をさせたのだ、あの兄は。
しかしその無茶が無ければ、勝てなかったのもまた事実。
そしてそんな無茶をさせてしまったのは、みほの責任でもある。
みほがもっと上手く指揮を取っていれば、華にこんな負担を掛けずに済んだのだから。
けれど謝るのは、少し違う気がした。
それで華が喜んでくれるとは思えなかった。
だからきっと、みほがすべきことは一つだった。
「……ありがとう、華さん」
華の前に腰を下ろし、その手を取って、まっすぐ華を見つめる。
「華さんがいてくれて良かった」
前に座ってくれてるだけでも心強い、なんて言っておいて結局貴女を頼ってしまった、申し訳なさを少しだけ込めて。
ぎゅっと、ぎゅっと、華の手を両手で握る。
それ以上の感謝が、少しでも伝わるように。
「……あぁ、良かった。私は、やっとみほさんを支えられるようになったんですね」
みほの行動に、華は一瞬呆気を取られたようだった。
けれどすぐに、彼女は穏やかな笑みを浮かべた。
「ずっと、みほさんの力になりたかったんです。みほさんの昔の話を聞いた、あの時からずっと」
独りになってしまった貴女を、今度こそ独りにしないように。
何があっても、貴女を守れるように。
無神経に貴女を頼ってしまった、聖グロとの練習試合の二の舞にならないように。
華は強くなりたかった。
そのために渡里を訪ねた。
びっくりするくらい辛い練習も、貴女の為だから頑張れた。
すぐに折れてしまいそうな弱い心に芯を入れてくれたのは、他でもない貴女だった。
「……お礼を言うなら、きっと私の方です。みほさんの声があったから、私は初めてあそこに行くことができた」
だから、と華はみほの手を握った。
両手で、みほの手を優しく包み込むようにして。
「私を信じてくれてありがとうございます」
花のように、彼女は笑った。
それはどこまでも美しい笑顔だった。
みほの心に、温かいものが流れ込んでくる。
こんな人に、自分は巡り合えたのか。
こんなにも誰かを思い遣ることができる、優しくて強い人に、みほは支えてもらうことができるのか。
それはなんて、幸せなことなんだろう。
「………なんか、話しかけづらい雰囲気?」
「わっ!?」
「神栖殿!?」
そんな中、雰囲気を裂くようにして、一人の男性が現れた。
気配もなく、唐突に、まるでお化けみたいに。
大洗女子学園戦車道講師、神栖渡里がそこにいた。
「わ、渡里さん……っ」
「あ、華!急に立ったら……」
弾かれたように腰を上げ、立とうとした華を沙織が慌てて止めようとした。
しかし間に合わず、誰もが危惧したように華は、身体をふらつかせ、何かにしがみつく間もなく地に倒れようとしていた。
「----まったく、無茶をしたな、五十鈴」
けれど華の身体が地面に触れることはなかった。
その前に彼女の身体を、渡里が両腕でしっかりと受け止めていたからだ。
「本来なら切れていたはずの集中力。それを気力だけで無理やり繋いだ挙句、最後の扉まで開けたんだ。そりゃ立つのもおぼつかなくなるさ」
「切れていたはず……?最後の扉……?」
首を傾げた優花里に、渡里はご丁寧に説明してくれた。
「人間の集中力は長くは続かない。今の五十鈴でも、質の高い集中力を持続させるなら十数分が限界だ。なのにこいつは、それを気力だけで繋ぎ止めた。多分、サンダースの包囲を抜けるところくらいからずっとだ」
呆れたように言う渡里。
その腕の中で華は、図星を突かれたのか気まずそうに目を逸らしてた。
「加えて最後の一合。ただでさえ気を擦り減らしてる所で、
渡里の指がすっと伸び、華のおでこを軽く小突く。
軽い衝撃に、華は「あうっ」と小さく悲鳴を上げた。
「確かに集中していれば、お前の基本性能は上がる。でもそのために持続時間と質を上げたんじゃないし、あんな無茶をやらせるためにアレを教えたわけでもない。意識が飛ばなかったマシと思えよ」
「何教えたんだ渡里さん……」
珍しく立腹している風の渡里に、華は項垂れるしかないようだった。
確かに、あれは本来ここ一番という所で使うものだろうとみほも思う。詳細は分からないが、結果としてここまで消耗するなら普段遣いはしない方が良いはず。
兄も同じ考えだったんだろう。
そこに無理を通したのが、ほかならぬ華であり、無理を通させたのがみほ。
それを忘れてはいけない。
「暫くは使うな。一度入った以上、お前はもう自由にあそこに出入りできる。けど今日みたいなことを繰り返されたら困る。俺が良いと言うまで、心身を休ませるんだ。いいな」
有無を言わさぬ圧の篭った言葉だった。
みほはああいう時の兄には、不思議と逆らえなくなる。
それは華も同じようで、彼女は伏し目がちに、静かに頷いた。
「……でもま、そうまでして勝ちたかったんだろうな、お前。いや、勝ちたかったというよりは、力になりたかった、か」
「……え?」
やれやれ、と華の身体を支えながら肩を竦めるという器用な真似を披露しつつ、渡里は華の瞳をまっすぐに覗き込んだ。
「お前がどういう砲手か、もう分かるな?」
「……はい。みんなの想いを一指に込め、心を以て弾を撃つ」
「そう、誰かの為に撃つ砲手。それがお前の本質だ、忘れるなよ」
そして渡里は、薄く笑った。
内から溢れ出る喜びが、滲み出たような笑みだった。
「最後の一射。どこまでも真っ直ぐで、綺麗で、美しい。まるでお前そのもののような一射だった」
そして渡里の大きな手が、タオルの上から華の頭に置かれる。
そしていつかの日、みほがよくそうしてもらったように、兄の手が華の頭を優しく撫でていった。
「よくやったな――――――――
「――――――っ」
あぁ、とみほは嘆息した。
風に靡くタオルの隙間から見える華の顔が、みほの心に焼き付く。
本当に、この人はズルい人だ。どうしようもなく、ズルい人だ。
たった一言、あまりにも味気ない労いの言葉と共に、名前を呼ぶ。
それだけのことで、こんなにも一人の女の子を喜ばせることができるのだから。
「――――はいっ」
立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿は百合の花。
桜色に頬を染め、花咲くように可憐に笑う。
嬉しそうに、幸せそうに、心の底から笑顔を浮かべる彼女。
華にあんな表情をさせられるのは、きっと兄しかいないんだろう。
そのことを、ほんの少しだけ悔しいとみほは思った。
自分には、きっとできない。
けれどいいんだ。そんな華に、みほはこれから支えてもらうことができる。
それだって兄にはできないことなんだから。
「……いいな」
羨む声が聞こえた。
沙織か、麻子か、優花里か、はたまた自分の心の声か。
生憎みほには、分からなかった。
○
「……で、こんなところに呼び出して何の用?アリサ」
隊長とは常に気丈でなければならない。
誰に言われるまでもなく、ただ自然と、ケイは心にそう決めていた。
先代の隊長からサンダースというチームを託された、その日から。
決して弱みを見せてはいけない。
決して迷ってはいけない。
強く、笑顔で、自信を持って。
自分の後に続く者達が下を向かぬよう、標となって先頭を歩き続ける。
それがケイの、隊長としての在り方だ。
それは今までもそうだし、これからも変わることはない。
だからケイは、テキパキと周りに指示を出して帰還の準備を整えた。
泣く者もいた。落ち込む者もいた。俯き、座り込む者もいた。
そんな中にあってケイの行動は、よく言えば冷静であり、悪く言えば非情であった。
一回戦、敗退。
それはサンダース大付属戦車道の長い歴史において、片手の指で足りる程の回数しか起こったことのない、悲劇とさえ言える出来事かもしれなかった。
時間が過ぎるごとに、その事実はケイたちの両肩に重く圧し掛かる。
その重みに耐えうるだけの心は、誰にもなかった。
今日という日のために、一年間努力してきた。
全てはあの真紅の優勝旗を手にするために、日本で一番高い頂に立つために、血の滲むような努力を重ね、戦車道のためだけに時を費やした。
その結果が、コレ。
たった五両の、それも今年できたばかりのチームに、敗けた。
この事実を容易く受け入れることができる人間は、神経がワイヤーか何かでできているに違いない。
でもだからこそ、ケイだけは気丈でいなければならない。
そうして戦車を格納し、選手達に帰りの支度をさせ、屋台も何もかもを撤収して、後は帰路に着くだけという所になった時。
ケイはアリサに呼び出された。
隊長である自分を支える二本の腕の、片割れ。
参謀役として全幅の信頼を置く、ケイの後輩である。
ケイがアリサを呼び出すことは数え切れないほどあったが、その逆は今日が初めての事だった。
不思議そうに見つめるケイの前でアリサは、沈痛な面持ちで立っている。
彼女が口を開いたのは、ケイの問いから約10秒経過した時だった。
「―――すみませんでした!!」
突如としてアリサは、肺の中の空気を全て吐き出す勢いで謝罪した。
腰が折れ、頭が深々と下げられる。
「わ、私のせいで隊長たちの最後の大会を終わらせてしまって、本当にすみませんでした……っ!」
その声が僅かに震えていることに、ケイは気づいた。
しかしそれよりもケイがまず思ったことは、
「なんで?」
「へっ?」
「なんでアリサのせいで私たちが負けたことになるの?」
ということだった。
あっけらかんと言い放ったケイに、アリサは面食らったようだった。
戦車道の試合に、誰かのせいで負けるということはない。
なぜならこの競技はチームでやるもの。
そしてチームとは一人は皆のために、みんなは一人のために、ただひたすら目標に向かって走るだけの一つの生き物だ。
だから誰かの失敗はチームの失敗であり、誰か一人の責任ではない。
ケイもアリサも、みんな等しく大洗女子学園に負けた。
自分がミスをしていなくても、誰かが大活躍しても、チームが負けたのなら自分も負ける。
戦車道で敗北するということは、すなわちそういうことだ。
「貴女の言う事は大間違いよ、アリサ。貴女一人のせいで、チームを負かすことなんてできない。一人の人間がどうこうできるほど、チームは軽い存在じゃないわ」
しかしまさか、そんなことを言うために呼び出されたとは夢にも思わないケイだった。
確かにミスはあった。皆が皆、完璧な仕事をしたとは言えない。
「貴女がフラッグ車を追いかけに行って、逆に大洗女子に追いかけられることになったのもそう。私が包囲を破られたのもそう。ナオミが最後、あの四号戦車を倒せなかったのもそう。私たちは、みんなで負けたの。だから――――」
「違いますっっ!!」
気にすることはない、という言葉をケイは飲み込まざるをえなかった。
怒号にも似た叫び。彼女がここまで声を荒げることが、いまだかつてあっただろうか。
目を丸くして硬直するケイの瞳が、アリサの瞳と衝突する。
その時ケイは漸く気が付いた。
彼女が、零れそうな涙を必死に堪えていることに。
声が、絞り出る。
「私がっ、大洗女子のフラッグ車を追いかけたのはっ、フラッグ車が孤立すると思ったからですっ。一対一なら絶対に勝てると思ったからっ、隊長の指示を無視して追いかけに行ったんですっ」
「……ええ、そうね。貴女の言う通り、そうなればこの試合の結果も逆転してたでしょうね」
でも、そうはならなかった。
孤立しそうに見えたフラッグ車の動きは、囮。
こちらのフラッグ車を釣りだし、そこを全車で攻め立てるための罠だった。
ケイはそれを見抜いていた。
けれど自分の声を、周りに届かせることができなかった。なぜなら自分に噛み付こうとする獣を払うのに気を取られ、支配力を落としてしまったからだ。
その結果、本来なら静止できたはずのアリサの独断を許してしまい、逆転のチャンスをみすみす相手に与えてしまった。
「でもそれがどうしたの?ミスをしたくてする選手なんていない。必死に、全力で戦った結果なら誰も文句は――――」
「無線傍受を、しました」
それは罪の告白だった。
無線傍受。戦車道の規則で禁止されてはいないものの、確かな不文律によって縛られている行為。
彼女は、それをやったと言う。
あぁ、だからか、とケイは思った。
アリサの独白は続く。
「無線でフラッグ車だけを逃がすと聞いたから、追いかけたんです。あの時の判断は、私の自身の力じゃないんです……っ!」
拳が、震えるほどに強く握られる。
それはそのまま彼女の慚愧の念の強さを表していた。
「正々堂々と戦う。いつも隊長にそう言われていたのに、私はそれを破りました。破って、卑怯な手を使って、その結果チームは負けました。私がっ、私が無線傍受なんてしなければ、っ、サンダースは負けなかったんですっ!!」
もしアリサが無線傍受なんて使わず、自分の力だけで戦って、その果てに敗北したなら。
彼女はここまで自分を責めることはなかっただろう。
自分の無力を痛感するだけで済んだはずだ。
けれどそうはならなかった。
後悔と怒りがぐちゃぐちゃに混ざり合って生まれた何かが、いま彼女の心を締め付けている。
「だから私のせいなんです……っ。私が、私がっ……」
「――――知ってたわよ、それくらい」
へ、とあまりにも間の抜けた声だった。
状況が状況じゃなければ、きっとケイは爆笑していただろう。
それくらい変な顔を、今のアリサはしている。
「だから、知ってたって言ってるの。貴女が無線傍受をしてたのを」
「な、なんで……!?」
「試合の序盤、大洗女子と森の中で戦ってる時、貴女が全体の指揮を取ってたでしょ」
ケイは隊長だが、常にチーム全体を統率しているわけじゃない。状況によっては、ケイ以外の者が指揮を取って部隊を動かすことがある。
それはサンダースの特性でもあるが、それ以上にケイが小隊を率いて前線で戦う事を好むということが大きい。
そして今日の試合もそう。前線に出るケイに代わり、アリサが全体の動きをコントロールしていたのだ。
だからこそ、ケイは気づいた。
「あの時の貴女の読みは的確すぎた。女の勘、だなんて言ってたけど、あんな読み地球が三角になったって貴女には出来ないわ」
「な、ならなんで……!」
他ならぬ貴女が、とでも言いたげな顔だった。
あぁそうだ、ケイは卑怯な手を使って勝つくらいなら、正々堂々と戦って負けることを選ぶ。だってこれは戦争じゃない、戦車道だ。
そんな真似をして勝ったところで、戦車道に顔向けできるだろうか、いやできない。
ケイはただ勝利が欲しいんじゃない。
誇りある勝利が欲しいんだ。
だからきっと、一年前のケイならアリサの行為を怒鳴って戒めたかもしれない。
けれど今のケイには、どうしてもそれができなかった。
「だって、私たちのことを想ってしてくれたんでしょ?」
「―――――」
もしアリサが、ただ純粋に勝利だけを欲して、そんな方法に手を染めてしまったのなら、ケイは断じてそれを許さなかっただろう。
襟首をつかみ上げて、反省会を開催して何時間でもこってりとお説教してやったに違いない。
でも、そうじゃない。
「本当はね、気づいた時点で言わないとダメだったのよ。『今すぐやめなさい』、『正々堂々と戦いなさい』ってね。サンダースの戦車道を背負う者として、ルール違反スレスレの行為なんて、見逃しちゃいけなかった」
けれど嬉しかったから。
どんなことをしてでも、
だから歯止めを掛けてしまった。
言うべき言葉を、飲み込んでしまった。
代わりにケイがしたのは、自己満足。
相手が五両だから、此方も五両だけで戦うという、何の意味もない、ただ自分だけが救われる償い。
「だから、きっとバチが当たっちゃったのね。」
ケイは困ったように笑った。
「勝利に拘るわけでもなく、かと言ってフェアプレイを遵守するわけでもない。どっちつかずの中途半端なことをしてしまったから、戦車道の神様が怒ったんだわ―――――だから、ごめんね」
本当に謝るべきはケイなのだ。
みんなの大会を、自分の都合で我が儘をしてしまったんだから。
その挙句負けたとなれば、ケイはただ謝るしかない。
「ち、違います!!隊長は悪くありません!!」
だというのにこの後輩は、一向に認めてくれないから困ったものだ。
ケイの腕にしがみつき、アリサを叫ぶ。
「ぜんぶっ、全部私が悪いんです!!真っ向から挑んでいれば、サンダースは負けなかった!絶対に勝てました!!それをっ、それなのに私はっ……下手な小細工をして、それを逆手に取られて……っ!」
ぽた、ぽた、とケイの袖を雫が濡らしていく。
こんなにも晴れているというのに、アリサは独り雨の中にいる。
「私がサンダースの力を信じられなかったから!だから余計なことを、してしまった!!私がこんな馬鹿なことをしなければっ、
ならその雨雲を払ってあげよう。
それも先輩の、務めだから。
大きく息を吸い込み、ケイは叫んだ。
いろいろなものを、まとめて吹っ飛ばすように。
「ばっかもーーーーんっ!!!!」
それはケイとアリサの日常だった。
アリサが何か良からぬことをするたびに、ケイはこうしてアリサを叱った。
何回も、何回も、何回も。
彼女の過ちを、正すために。
でもそれも、今日で最後か、とケイは思った。
懐かしさと、ほんの少しの寂しさを噛み締めながら、ケイは言う。
「アリサ、私と貴女は、もう一年半の付き合いよね」
ケイが二年生になった時、アリサがサンダースに入学してきた。
そしてそこから今に至るまで、二人はずっと一緒にいる。
「貴女は私の初めての後輩だった。ずっとずっと、嬉しいことも、悔しいことも、楽しいことも辛いことも、全部分かち合ってきた」
春は桜を見ながら、戦車に乗ってランチをした。
入り立てでまだ少し緊張している風のアリサの肩を、ケイは笑いながら叩いてやった。
夏は共に全国大会に挑んだ。
ケイはチームの主力として、アリサはそのサポートとして。初めて二人で参加した大会は、残念ながら負けてしまったけれど、必ず来年こそはと優勝を誓った。
秋は皆でパーティをした。
お祭り大好き派手な事を大好きなサンダースにとってそれは、戦車道と並ぶ確かな青春の一ページだった。
冬は地獄のような合宿をした。
手が悴んで動かなくなるような寒さと、あまりにハードな練習に堪らず心が折れそうになったけど、一緒に乗り越えた。
美味しいものを一緒に食べた。きれいな景色を一緒に見た。
戦車で地を駆けた。夢を語り合った。
まるで宝石のように煌めく日々を、一年半共に過ごしてきたんだ。
だから、
「だから
良いことも、悪いことも。ケイの記憶の中で輝き続ける宝物。
貴女がいたから、こんなにも楽しかった。
貴女がいなければ、こんな風に思うこともなかった。
ケイの青春を彩ってくれたのは、他でもない貴女だから。
そんな想いが、少しでも多く伝わるように。
ケイは自分の腕にしがみつくアリサの手を払い、代わりにギュッと抱きしめた。
そしてじんわりと、心の底から思うことを言葉にする。
「ありがとう、私の可愛い可愛い後輩。貴女がいてくれて、本当に良かった。今までも、これからも、貴女はずぅっとーーーーー私の誇りよ」
「――――――ぅう……っ」
袖の次は肩か、とケイは思った。
この分だと胸くらいまではびしょびしょに濡れてしまうかもしれない。
「すみません……すみません…っずびばぜんっっ」
「はいはい、まったく困った後輩ね。後輩にそんなに泣かれたら、先輩が泣けないじゃない」
トントン、とまるで赤子をあやすように、ケイはアリサの背中を叩いてやった。
手のかかる子ほど愛おしい、という誰かの言葉を、ケイは実感する。
しかし彼女が泣き終わる頃には、自分のタンク・ジャケットはしわしわになってしまっているかもしれない。それはちょっと勘弁願いたかったので、ケイはこの時間を終わらせることにした。
「それはそうと、この後にしっかり反省会をするから。覚悟しておきなさい」
「ひぃっ!?」
「その前に、ちゃんと大洗女子の子たちに謝ること。さっき私が謝っておいたけど、やっぱりこういうのは自分の口から言わないとね」
幸い彼女たちは、「終わったことだから」と許してくれたが、だからといってなぁなぁで済ませていいことでもない。
アリサのやったことは、歴としてアンフェアなことだから。
トン、とアリサを突き放し、ケイは有無を言わさぬ笑顔を浮かべて言ってやった。
「ほら、行ってきなさい!!ハリーアップ!!」
「は、はいぃぃぃぃ」
ぴゅー、と風を切るようにして、アリサは駆けていった。
あの分なら、涙も自然乾燥していい塩梅になるだろう。
そしてケイは、一人になった。
隊長として振舞うことも、先輩として振舞うこともしなくていい、
「終わり、かぁ……」
吐息混じりの独り言は、空気に溶けて消えていった。
実感は、これっぽっちもなかった。
三年間、サンダース大付属で戦車道をやってきた、その終わりが今日。
そんなことを言われても、ケイは全くそんな気にならない。
しかし、後もうちょっとすれば、じわりじわりと心に沁みこんでくるのだろう、という予感だけはあった。
三度の全国大会で、結局ただの一度も優勝することはできなかった。
ずっとずっと思い描いていた、日本で一番高い所。
あの真紅の旗をこの手に掴むことは、ついぞ叶わなかった。
けれど後悔は不思議となかった。
今までずっと、ケイは戦車道に真剣に打ち込んできた。
その時間と熱量に値するだけの結果が欲しくないと言えば、それはウソになる。
勝ちたくて努力したきたし、敗けたくないから誰よりも頑張ってきた。
でもだからって、今までやってきたこと全部が無駄だったわけじゃない。
戦車道に費やした全ては、血肉となって今のケイを形作っている。
今のケイがあるのは、戦車道のお蔭なのだ。
それに思わぬ幸運もあった。
ずっと焦がれてきた、あのノートに記された戦術。
使いこなすことはできないと諦めていたそれを、ケイは最後の最後でようやく自分のものにすることができた。
最高の気分だった。
戦車道であんなに楽しかったことは、一度もない。
だからケイに、後悔なんて一つもない。
本当に思い残すことなんて、一つもないのだ。
「お疲れ様」
不意に、声をかけられた。
かき鳴らされた高級楽器のような美しい声色だった。
反射的にケイはそちらを向く。
するとそこには見知った顔がいた。
陽の光を反射する金の髪と深い色をした青い瞳。
モデル顔負けのプロポーションに、端正な顔立ち。
一目見ただけでも忘れることはない程の美少女だが、加えて片手にティーカップを持っているとなると、もうケイの記憶には一人しかない。
「ダージリン……」
「いい試合でしたわ。本当に」
相も変わらず、優雅な立ち振る舞いであった。
その所作は、ただでさえ優れた見た目とスタイルをより洗練させる力を持っていた。
同性の目から見てもこんなに綺麗なのだから、男子からすればなお輝いて見えるだろう。少し、ぐらいじゃなく羨ましいものであった。
……アリサ曰く、「隊長も似たようなものです」らしいが。
「見に来てたのね、ダージリン」
「えぇ、もちろん」
「私達が当たるとすれば、決勝戦になるっていうのに。随分真面目じゃない」
「当たるかどうか、は問題ではないわ。大事なのは見たいかどうか、じゃなくて?」
違いない、とケイは薄く笑った。
しかしそのために神奈川から足を運んでくるとは、少し物好きではないだろうか。試合なんて偵察班に録画させればいくらでも見れるだろうに。
「……強かったでしょう、大洗女子学園は」
まるで自慢するかのような、不思議な口調だった。
なぜ彼女がそんな誇らしげなのかは分からないが、ともかくとしてケイは答えた。
「えぇ、強かった。本当に、初心者ばっかりとは思えないくらい。……まさか私たちが負けるとは思ってなかった?」
「可能性としては、無くはないと思っていたわ。なぜなら、私達もあやうく負けそうになったもの。それも今よりずっと未熟な彼女たちにね」
初耳だった。
まさか聖グロと大洗女子が対戦済みだったとは。
情報収集班の報告ではそんな情報はなかったはずだが。
目敏く、ケイの内心の驚きを見抜いたダージリンは楽し気に言った。
「防諜がすごいのよ、あそこは。ウチのアッサムでも保有戦車と選手のデータしか取れなかったわ。それもその二つも、ほんの浅い所だけね」
「ワオ、そんなことできる子がいたのね」
ケイの言葉に、ダージリンは堪えきれない笑みを浮かべた。
果たしてケイは、そんなに可笑しなことを言っただろうか。
その答えは、ダージリンのみ知っている。
「っていうか、ダージリンの方こそ随分大洗女子に詳しいじゃない」
「それはもう、見ていて心躍るチームですもの。不思議と惹きつけられる魅力がある。実際に戦った貴女なら分かるのではなくて?」
「……まあね」
今日の試合があんなに楽しかった理由は二つ。
一つはあの戦術を初めて実戦で使えたこと。
そしてもう一つは、きっと対戦相手が彼女たちだったからだ。
「みんな一生懸命で、ひたむきで、私達とは違う強さがあったわ」
「貴女の
あまりにも唐突な言葉に、ケイは思わずため息が出そうになった。
彼女の良くない所は、正にこういう所である。多少の脈絡は無視して、一気に核心を突いてくる。こっちの都合は一切無視して、自分の心のままに。
外見が良いからと言って、性格も良いとは限らないという説の生きた証拠がケイの目の前にいる。
「サンダースのものでも、貴女本来のものでもない異質なものだったけれど、凄い戦術だったわ。正直、初見なら私でも破れなかったでしょうね」
「なら、やっぱり大洗女子の隊長が凄かったのね」
初見では誰も破れない、というのはケイも同じ気持ちだった。
だからこそ、大洗女子学園の隊長、西住みほに短時間で攻略された時の衝撃は一入だった。
「……もしくは、私の力が足りなかったから、かもだけど」
ケイは一つ思うことがあった。
それは自分とあのノートを書いた人物があの戦術を実践した時、果たしてどちらの方がより優れているか、ということである。
間違いなく自分の方が下だと、ケイは思っている。
理論と真髄はケイも理解しているが、習熟度が違う。あのノートを書いた人は発案者で、ケイはその後追い。先行には先行のメリットが、後追いには後追いのメリットがあるが、同一の戦術を競うとなればどうしたってオリジナルの方が有利だ。
もしあのノートを書いた人が今日の指揮を取っていたなら、おそらく大洗女子学園に破られることはなかった。
使い手の違いが、そのまま戦術の強度へと直結していて、ケイのそれはまだ脆かったのだろう。
後もう少し習得するのが早ければ、もう少し時間があれば、今日と同じ結果にはならなかったかもしれない。
そんなことを考えるケイの顔は、暗いものになっていた。
するとダージリンが言葉を紡いだ。それは小説の一節を読み上げるような口調だった。
「『あの戦術はサンダースでは絶対に使えない。それでもなおサンダースがあの戦術を実践できているのは、貴女がいるから。貴女じゃなければ、あの戦術は決して完成しなかった』」
「あら、随分褒めてくれるじゃない」
「私じゃないわ」
瞑目しながら、ダージリンはケイの言葉を両断した。
どういうこと、とケイが問う前に、ダージリンの瞼が開かれ、青い瞳が露になる。
それと同時に、その言葉は響いた。
「あの戦術を作った人が、そう言ったのよ」
「――――――――」
思考の歯車が、空回りした。
言葉の意味を、脳が上手く処理できない感覚だった。
今、ダージリンは、何と言った?
あの、戦術を作った人。それはつまり、あのノートを書いた人。
「貴女の事、随分高く評価されていたわよ。大隊を指揮させれば全国で三指に入るとも仰っていたわ」
「ちょ、ちょっと待ってダージリン!!本当にあの戦術を作った人が来てたの!?っていうか知り合いなの!?」
少し面白く無さげに言うダージリンだったが、ケイはそれどころではなかった。
あの戦術を作った人が、今日の試合を見ていた。
その事実は、ケイの心を激しく揺さぶった。
「ええ、私の横に。一から十まで教えてくれたわ、貴女が持ってるであろうノートのこととかね。まぁそっちは本当に偶然よ、私も今日まで知らなかったから」
ケイはダージリンの言っていることが真実であることを確信した。
ノートという単語は、事情を知っていなければ絶対に出てこない単語だ。それを知っているということはつまり、本当にダージリンはその人と……
ならばケイの取るべき行動は一つだった。
ダージリンとの距離を詰め、その肩に手を置いて、一言。
「その人のこと教えて!!」
「ダメ」
「Why!?」
あえなく却下されたことに、ケイは心底驚いた。
まさか断られるとは思ってもいなかったのである。
目を丸くするケイに、ダージリンはつれなく言った。
「私があの人のことを教えるには、条件があるの」
「なによ条件って」
するとダージリンの白い指が、ピンと一つ立つ。
ティーカップを持ちながら器用なものだ、とどうでもいいところでケイは感心した。
「まず戦車道に真剣なこと。
「お遊びって……」
「勿論貴女がそうじゃないのは知っているわ。肝心なのはもう一つの条件よ」
ピン、ともう一本指が立つ。
そしてダージリンは、深刻な口調で言った。
「もう一つはね、あの人のことを絶対に好きにならないこと」
「……What?」
「だから、あの人のことを好きになっちゃダメなの。だから貴女は絶対にダメ」
はて、ダージリンとはこんなにも意味不明なことを言う人間だっただろうか、とケイは首を傾げた。
よくわからない言い回しをする悪癖はあったが、それでもケイの記憶ではもう少し理解できる話し方をしていたはずなのだが。
「好きになるってなに?憧れちゃダメってこと?」
「違うわ、恋愛感情的な意味よ」
「れっ」
どうしようか、とケイは悩んだ。
一発頭に叩き込んでやった方が、もしかすると正常に戻るのではないだろうか。
しかしダージリンは至って真剣である。いや寧ろ真剣である分、
「恋愛感情って……何言ってるのダージリン。私ソッチの趣味はないんだけど」
もしかして今までそんな風に見られていたのだろうか。
確かにケイはバレンタインで同性からチョコを貰ったりすることもあるけれど、だからってケイ自身が
「貴女の方こそ何を言ってるのかしら……男の人よ、あのノートを書いた人」
「――――――――うそ!?」
「嘘じゃないわ。紛うことなき男性よ、見た目も中身も」
盲点だった。
戦車道は女性の競技。だからあのノートを書いた人も女性だろうと、ケイは何の疑いもなく思っていた。
しかし、それは当たり前の誤解だった。百人中九十八人は、絶対にケイと同じく女性と勘違いするに違いないからだ。
「いやでも待って!たとえ男の人だとしても、私が好きになるかどうかは分からないでしょ!?」
もしダージリンがケイの男性のタイプを完璧に熟知していて、それがその人とぴったり重なるというのであれば、確かに好きになるかもしれない。
けれどケイはダージリンにそこまで情報を流した覚えはないし、自分の好みなんて、それこそアリサにも言ったことはない。
だからダージリンの条件には当てはまらないはずだ。
「『坊主憎けりゃ袈裟まで憎い』。だったら『袈裟が好きなら坊主も好きになる』もあるでしょう。あんなサンダースとは対極にある戦術を諦めずに追いかけ続けた貴女が、戦術にだけ憧れて、その考案者には無関心でいられるとは到底思えないわ」
「うっ……」
確かに、ケイはあの戦術を考えた人に会ってみたいと思ったことが一度ならずある。
ダージリンの言う事は図星だった。
「だから会うのはダメ。会ったら絶対に好きになるに決まってるもの」
「いや、それは会ってみないと……」
「なるわ、絶対に」
珍しく強い語調だった。
面食らうケイに、ダージリンは凛として言い切った。
「だって、この私が好きになるくらい、凄くてカッコいい人なんだから」
それは今まで見たことがないくらい、綺麗で、輝く表情だった。
ぐっと、ケイの心に響くものがあった。
人は、誰かを好きになると、こんなにも美しくなれるものなのか。
恋する乙女とは、かくもいじらしく可憐なものなのか、とケイは思った。
ほんのちょっとだけ悔しさを覚えたケイは、負け惜しみを言った。
「……っていうか自分の恋路の邪魔をされたくないだけでしょ、それ」
「そうよ、知らなかったのかしら」
これっぽっちも悪びれず、ダージリンはドヤ顔で言った。
「『イギリス人は、恋愛と戦争では手段を選ばない』」
ケイは決意した。
何がなんでも、その人に会ってやろう、と。
ダージリンが教えてくれないなら、彼女と行動を共にすることが多いオレンジペコやアッサムに聞いてみてもいいかもしれない。
それでもダメなら手当たり次第に、例えば西住みほとかに聞いてみよう。
そして絶対に、その人の名前と顔を覚えて、向こうにもケイのことを知ってもらおう。
そしてちょっとでも仲良くなってやる。
そうすれば目の前の彼女の、悔しそうな顔が見れるだろうから。
○
「えー華と渡里さん、そんな約束してたの!?」
「まぁ、なんかそうした方が華のやる気も上がるっぽかったし」
あんこうチームと渡里は、茜色の空の下にいた。
渡里のテキパキとした指示で、現在各戦車は学園艦へと運び込まれており、撤収作業もあと少しで終わろうという頃。
学園艦の出港までの自由時間を、六人は共に過ごしていた。
といっても特に何かするわけでもなく、ただお喋りをするだけ。
話の話題はもちろん、渡里が華のことを名前で呼んだ、例の件についてである。
色々事情を聞いた結果、なんというか流石は神栖渡里、とみほは思った。
名前で呼んだことに深い意味はなく、言ってしまえば戦車道の為にそうしただけ、とのこと。
何もかもが戦車道の為の、情緒なんて一切ない実利一辺倒な気質に、我が兄ながらみほは思わずため息が出そうになった。
名前で呼んでもらうなんて、女子からすれば結構一大事なのだが、その辺りの事をちゃんと分かっているのだろうか、いや分かってないだろうな。
「それじゃあ、今まで西住殿以外名前で呼ばなかったのはどうしてでしょうか?」
「だって呼んでくれって言われてないし」
「じゃあ頼めば名前で呼んでくれるんですか!?」
「ダメですよ、沙織さん。私だって一筋縄ではいかなかったんです。名前を呼んでもらうために私がどれだけの努力を重ねてきたのか――――」
「いいよ」
「あれっ!?」
がーん、という効果音が文字となって華の頭の上にあった。いや勿論幻だけど。
華は渡里の腕にしがみついて抗議した。
「渡里さんっ、私の時は条件付きだったのになぜですか!?」
「華はそっちの方が何か頑張りそうだったから」
シンプルすぎる答えだった。
華は複雑な表情をしながら、眉を逆八の字にした。
兄の言っていることは正しいと思いながらも、それはそうとして納得はできない。
そんな胸中だろうか。
みほとしてはあんな兄、お腹に一発叩き込んでやっても全然いいと思うが、淑女な華には到底できないだろう。
結果、頬を膨らませて恨みがましく見上げるだけの可愛い抗議が精々のようだった。
「むくれんなむくれんな。お前のことはちゃんと認めてるから」
ぽんぽん、とあやすように渡里は華の頭を軽く叩いた。
随分と、心の距離が近くなったような気がするみほであった。
いや別にいいけどね。兄が誰と親しくなろうとみほは全然構わないけど、だからってあんまり女子高生と親密になるのはどうなのだろうか。分別ある大人として、守らなければならない一線はあるんじゃないかと思う。
みほは妹だからいいけど。っていうか妹以外にはダメだと思うけどっ。
「西住殿、あの、顔が……」
「何かな優花里さん」
「い、いや、何でもありません……」
一方で兄は、華と沙織に挟まれてやいのやいのと何かを話している。
断片的に聞こえてきたのは、甘いものをおねだりする華と、便乗してみんなでパフェを食べに行こうとする沙織と、財布の中身を心配する兄の声だった。
なるほどプチ祝勝会か、とみほは思った。
どうせ兄の奢りだろうから、いっちばん高い物を頼んでやろう。
いつぞやに「金はある」とか言っていたし、何の問題もないだろう。
なんせ記念すべき、公式戦初勝利なのだ。景気よく一日を締めくくったって、罰は当たらないはずだ。
「……ん?」
するとその時だった。
どこからか、猫の鳴き声が木霊する。
周りを見渡す。しかし何もいない。
それはそうだ、なぜなら音の発信源は、麻子の鞄の中だったから。
「知らない番号だ……はい、もしもし」
携帯を取り出し、麻子は発信者を確認して、通話ボタンを押した。
「―――――え?」
麻子の瞳が、大きく揺れた。
それは滅多に表情を変えない麻子が見せた、大きな心の機微だった。
みほ達は顔を見合わせ、首を傾げた。
その中で渡里だけがただ一人、厳しい表情をしていた。
そして麻子の次の一言に、渡里以外の全員が目を丸くすることになる。
「おばあが、倒れた……?」