「ではまた後日、お伺いします。頼んでおいた件がまとまり次第、連絡をください」
莞爾と微笑み、丁寧にお辞儀をして、渡里は生徒会室を後にした。帰り際、角谷と小山が見送ってくれたが、なんだか言語化しづらい表情をしていた。恐らくは渡里の猫かぶりに若干引いていたのだろうけど、大人になるとはこういうことである。
要件が終わった以上、あんまり長居することもないだろう。そう考えて渡里は、そそくさと校内から出ようとした。入校許可証を貰っているとはいえ、ここは女子高。男女比率は言わずもがな。制服姿の女子高生という貴重な存在を近くで見れるとはいえ、成人男性にとって居心地の良い場所ではない。入校するときに『風紀』と書かれた腕章を身に着けたおかっぱ頭の少女に厳しく問い質された出来事が、渡里を消極的にさせていた。女子高校生に叱られる大人の男性、という図を脳内で描き、渡里は身が凍える思いである。
(学園艦に乗るのも、随分久しぶりだな……)
なるべく人に遭わないルートを選びながら、渡里は過去に想いを馳せた。小学校、中学校は陸の公立校に通っていた。学園艦という存在を知ってはいたものの、実際に自分がそれに乗ることになったのは高校生になってからである。その高校生活も途中で離脱してしまったから、実質学園艦に乗っていたのは二年半もない。
決して小さくはない校庭が、窓から見える。そこには体操着に身を包んだ少女たちが元気に準備運動をしている。ああいうことができるのも、学生の内だけなんだと実感したのは、20を迎えて少しした時だっただろうか。大人にしかできないことがあるのなら、当然その逆もある。よせばいいのにいらぬことを考えて、少し寂しくなってしまった22歳の成人男性は一つため息を吐いた。ふと視界に、全身真っ黒な装束を着た少女たちが目にも止まらぬ速さで駆けていく姿が映った。すわ、幻覚か。もう一度視線を向けたときには、既にそこには誰もいなかった。
どうやら慣れない船の上で、少し疲れているらしい。さっさと角谷が用意してくれた民宿に帰ろう。
米神を抑えて頭を振って、歩き出そうとしたその時だった。
「――――」
後から寝床に入って思い返してみたが、不思議な感覚だった。神様が本当にいて、何か見えざる力を下界の人間に振舞う時、それを受けた人間とはこういうものなのだろうか、と。柄にないことを考えてしまうくらいに、それは運命的だった。決して好きな言葉ではないが、この時の感覚を言い表すには、この表現以外にないような気がした。
眼を瞑って、畳の匂いと柔らかい布団の感触に浸りながら、瞼の裏にあの時の光景を鮮明に映し出す。
明るい栗色の髪。キレイな弧を描く目。端正な顔立ち。どれも渡里の過去に、見覚えのあるもの。およそ六年の時を経ていても、摩耗することのない記憶に光が当たる。『世の中は狭い』という言葉は、正に至言だと思う。本当にその通りだ。70億人が生きるこの地球の、一億人が暮らす日本という国の、その中の四十七の都道府県のうちの一つの、いくつもある地域の中の、学園艦の中。出会いの確率は、数学者なら一瞬で計算してしまうほどだろうが、渡里には分らない。ただ漠然と、奇跡のようなものなのだろうという気持ちがある。
「………みほ」
その名前は、世間的にありふれたものだとしても、渡里にとっては特別な意味を持っていた。
久しぶりに口にした名詞だが、口に馴染むような得も言われぬ謎の心地よさが広がったので、渡里は思わず笑ってしまった。
「そうか、よりによってここだったか」
人の縁とは、不思議なものである。どうやら色々と考えなければならないことが増えてしまったようだ、と苦笑して、渡里はひとまず眠ることにした。角谷と小山(あと一人生徒会のメンバーがいた気がするが)は優秀だが、どうしたって授業選択の期限が来るまでは戦車道の履修生を確定できない。考える時間とやるべきことに費やす時間は、たっぷりとあるのだ。
「何と言うべきなのか、何を言えばいいのか」
――――きっと意味があるんだろうな、と奇跡の出会いに想いを馳せて、渡里は眠りの神に対する抵抗を止めた。枕が変わった程度で眠れなくなるような繊細さを、渡里は持ち合わせていなかった。
○
「あんまり芳しくありませんね、会長……」
「んー…そうだねぇー…」
神栖渡里を戦車道の講師として招くことに成功した大洗女子学園生徒会一同だったが、依然として問題は山積みである。戦車道をやるとして、まず必要なのは授業で使う戦車。これがないと戦車道とは名ばかりの『え?何やるのこの空き時間』授業となってしまう。これに関して、一応目途(というには希望的観測すぎるが)はついており、どうにもならないこともない。ただそれと同じくらい、ある意味それ以上に問題なのは肝心の履修生である。環境を整えてやっても、やる人間がいないのでは意味がない。神栖渡里を招いた意味がない。あれだけ真摯にお願いしといて今更「すいません人が集まらなかったのでこの話はなかったことに」なんて言えるわけがない。ハラキリものの失態である。
現在戦車道の履修届が提出されているのは、十八名。多いとも言えないが、戦車道ができない程少ないわけでもない。しかしあの男は、帰り際にさらっと言ったのである。
『最低でも二十人、できれば二十五人。そうでなければ戦車道をやる意味はありませんね』
と。にこやかに厳しいことを言う人だと思う。恐らくにこやかな部分が外面で、厳しいことが素なのだろうが。
ともあれ現状人が足りていない。日々履修届は提出され続け、既に提出率は八割を超えている中、このまま『果報は寝て待て』とも言っていられないだろう。選択授業紹介で盛大にPRしたつもりだったが、まさかここまで人気がないとは思わなかったというのが本音である。
「やっぱ特典に干し芋をつけるべきだったかなぁ…」
「それはぁ…」
どうでしょう、とは言わなかったものの、小山は苦笑いである。角谷も冗談の一つでも言わないとやってられない気分だったのだ。それはともかくとして、断じて干し芋に履修生を釣ってくるだけの魅力がないわけではない。そこだけは譲れない部分であった。
「――――小山ぁ」
「はい、会長」
「西住ちゃんをさ、呼んできてくれない?」
小山は返答に窮した。その反応は角谷の予想の範疇だった。心優しいこの少女は、角谷が立てたある作戦に対して真っ先に否定の色を示した人間だった。
「……いいんですか、会長」
「よくはない、んだろうねー…。でも、なりふり構ってもいられなくなっちゃったしね」
今から自分がやることは、きっと非道だ。角谷はそう確信している。自分がそれを見ている立場なら、あらん限りの大声で非難するだろう。そんな道理がまかり通るかと、ひたすらに抵抗してやる。しかし角谷は、ただの女子高生ではない。この学園艦に住む数万人の生活を支え、保障する義務を負った生徒会長なのである。
だからこそ、『とある少女を脅してでも戦車道を履修させる』なんて馬鹿な真似をすることができる。
大多数の人間を護るために、一人の少女を犠牲にする。それで何人もの人間が救われるのなら、それは善いことだ。大多数の側に属することができた人間はそう言うだろう。だが犠牲にされた側にとってはどうか。どんな美辞麗句を並べようとそれは偽善でしかない。強制された自己犠牲に『貴方のお蔭で助かりました』という言葉は、果たしてどんな意味を持つのか。
角谷はそれを知っている。しかし譲れない思いもあるのだ。
生徒会長としての義務という建前で、自分の行為を正当化しようとしている。
そのことに気づきながらも、そのお蔭で良心への負担を軽減することができている自分への嫌悪感を押し殺すように角谷は大きく息を吐いた。
「渡里さんは怒るかなー…」
「どうでしょうね……戦車道に対しては、すごく真剣な人だと思いますけど」
神栖渡里という人間は、非常に特異な人間である。諸々理由はあるが、その最たるは男性でありながら戦車道に深く関わっていることだろう。現在の戦車道の規則では、戦車に搭乗し試合に出場することができるのは女性のみ、とされている。性別という越えられない壁は高く聳え立っており、一部では戦車道衰退の一因ではないかという声もある。しかし関係者が女性ばかりかというと、そうでもない。戦車、あるいはそのパーツを製造する業者は男性が未だ主であるし、戦車の整備をする者も男性の割合いが増えつつある。何より、戦車道の協会の長は男性である。競技に参加できなくとも、何かしらの形で関わっていたいという人間も多いということである。そういう人達の情熱というのは凄く、一般的に男性整備士が『仕事が丁寧』という理由で重用されている根源の一つでもあるかもしれない。
神栖渡里という人間も、またそういう類の人種である。しかしその熱量は、女性よりも多いと言われる男性の、更にその数倍であった。
「イギリスに留学して、戦車道教導資格を取るくらいだもんね。好き、くらいの軽い気持ちじゃ絶対にできないねぇー。だからこそ招いたんだけど」
英国は学園艦文化の先進者であり、同時に戦車道のプロリーグが設置されている程など、日本と比べて遥かに先を行く国である。日本が現在直面している「戦車道衰退」という問題もとっくに通過しており、当時は革命とまで言われる規則の大幅な改正を行うことで更なる隆盛を極めていた。
詳細は省くが、その過程と結果で男性は『競技に半分参加できる』資格を手に入れるに至った。神栖渡里が渡英した理由は、そこにあるとされている。
ともかく、戦車道において一定の信用と優秀さを示す証明書を所持している。角谷が神栖渡里に目を付けた訳の一つは正にそこにある。彼の経歴を洗えば色々なことが分かるが、ひとまず角谷と小山が下した評価は、『戦車道にすごく熱心で真面目な男性』というものであり、それは非常に正鵠を射ていた。
「んーまぁ、とりあえず行動してみないと分からないかー。理想としては西住ちゃんが自主的に参加してくれることだけど、正直望み薄だし、無理強いして渡里さんの不興を買っても意味ない。だからといって辛抱強く説得してる時間もない」
「ないない尽くしですね……大丈夫でしょうか」
「渡里さんが気づいてくれないことを祈るしかないね」
長年の相棒である豪華なチェアーから立ち上がり、角谷は窓の外へ目を向けた。
ここから見える海は本当に広くて、綺麗だった。
あと何回、この景色を見ることができるのか。それは角谷達の華奢な両肩にかかっていた。
○
生徒会広報、河嶋桃に連れてこられた少女は、角谷の予想の三倍いた。別に分身したわけではなく、角谷が呼び出した少女に連れ合いがいただけのことである。
一番右の女子。艶のある黒髪を背中まで伸ばし、慈愛と気品に溢れたお嬢様のような雰囲気をしている。名前は五十鈴華。
一番左の女子。明るい茶髪は本人の気質を表しているのか、快活で正に今時の女子高生という感じをしている。名前は武部沙織。
名前を知っているのは、事前に河嶋に彼女の周囲を洗わせたからである。まさかついてくるとは思わなかったが、角谷が本当に用があるのは真ん中にいる少女だった。
「西住ちゃん、これはどういうことかな?」
西住みほ。戦車道を多少なりとも知っている人間なら、彼女の姓に聞き覚えがあるだろう。日本戦車道最大流派の片割れで、主に西日本でその勢力を伸ばし続ける名門。圧倒的火力と防御力で突き進み、立ち塞がる敵を粉砕する鉄心の群。
『西住流』。西住みほは、その直系の次女であった。
栗色の髪をボブカットにした、綺麗な弧を描く瞳。あの西住流とは思えないな、と角谷が思うくらいに引っ込み思案で、大人しそうな雰囲気の少女だった。
大きな目は、感情の機微がよく見える。大洗港の波のように揺れているのは、きっと自分のせいだろう。
ヒラヒラと角谷の右手で弄ばれる一枚の紙。それは選択科目の履修届であり、そこには彼女の名前と、『香道』という二文字を囲う黒丸があった。
「戦車道を選択しろ、って言わなかったっけー?」
「っ!そ、それは……」
戦車道。その言葉に西住みほは、手を上げられる寸前の子どものように身を竦めた。
やはり、と角谷はその反応に自分の仮説が証明されたことを感じた。同時に沸きあがる罪の意識を、無理にでも抑えつける。
「なんで戦車道を選ばないかなぁー…」
我ながら大した演技力だと角谷は思う。その理由を既に知っているくせに、白々しいとは正にこのことか。
「これは生徒会命令だ。断るとどうなるか、分かっているのか?」
河嶋桃の声はドライアイスの剣となって三人を切り裂いた。吊り目に片メガネ、髪型と制服をしっかりと整えた河嶋の外見は、小山とは正反対に、相手に緊張感を与える。中身を知っている角谷は全く怖くないが、目の前の三人にとっては心理的圧迫感をもたらす存在に見えるのだろう。
西住は俯く。五十鈴は毅然としていて、武部は一瞬怯んだように見えた。しかし優し気な顔立ちに精いっぱいの怒気を込めて、武部と五十鈴は反撃の矢を放つ。
「生徒会だからってそんなことが許されるんですか!?いくらなんでも横暴でしょ!!」
「誰にだって自分の道を自分で選ぶ権利があります。それを捻じ曲げることは誰にもできません!」
あぁ、と内心で角谷は嘆息した。友達に恵まれたのか、この子は。転校して間もないはずなのに、自分の窮地に一緒に立ち向かってくれる、手を繋いで共に進んでくれる。そんな素晴らしい友達に出逢えたのか。
「言うことを聞いておいたほうがいいよ?後からどんな目に遭うか分からないよ?」
「大体なんだお前らは!?関係のない人間が口を挟むな!」
「関係あるに決まってるでしょ!!私たちはみほの友達、友達の問題は私たちの問題!!」
「みほさんが困ってるのに、それを見て見ぬ振りはできません。私たちは、みほさんと一緒に戦います!!」
小山を含めた四人の口論は加速度的に熱を増していく。その中にあって西住みほは、未だに下を向いたまま微動だにしない。
角谷はもはや口を出すべきではないと判断し、静観することにした。どんな手を使ってでも、西住みほには戦車道をやってもらう。そこに関してどんな感情があろうと、絶対に諦めるつもりはない。
ただ、ここから先は、彼女自身に答えを出してもらわなければならない。するのか、しないのか、友達に代弁してもらうのではなく、自分の言葉で伝えてほしい。ファーストコンタクトは、有無を言わさぬ態度を取った。だが今度は、違う。断っても助けてくれる友達が傍にいる中で、どんな答えを出すのか。
(そうじゃなきゃ、場が収まらないよ。西住ちゃん?)
栗色の髪は、ずっと下を向いている。
○
西住みほにとって戦車道とは、複雑な存在である。過去はそうではなかったが、現在は直視できないものになってしまっている。
戦車道の名門『西住流』の次期家元、その次女として生を受けた西住みほは、一年先に生まれた姉と同じように、当然のように戦車道と共に過ごしてきた。身の回りにあったのは戦車に関わるものばかりで、同世代の子どもが絵本を絵物語に聞いているとき、みほは戦車の歴史を聞かされた。初めて乗った乗り物は自転車でも三輪車でもなく、ドイツ戦車だった。もちろん一から十まで戦車道漬けの日々ではなく、玩具や人形、ぬいぐるみも不自由なく与えられていたが、やはり一般人と比べるとその度合いは頭一つどころか膝下くらいまで抜けていた。
毎日戦車のスペックを覚える。散歩の足に戦車に乗る。そんな戦車が身近にある環境で育ってきたみほだったが、一度もそれを疎んだことはなかった。厳格な母と、それを補うように優しい父。いつもみほと共にある、かっこいい姉。そして――――何からも守ってくれた、兄。戦車があろうとなかろうと、みほは家族に恵まれていたと思っていた。そして何よりも、あらゆる理屈を抜きにして、みほは戦車が好きだった。キューポラから顔を出すと感じられた、風の流れ。鉄の匂いが充満した狭い車内。雄々しくで武骨な姿。それらがとても好きだった。戦車に触れると、みほは心が温かくなった。
そのことを伝えると、父は『しほさんの遺伝子だね』と優しい笑みを浮かべてみほの頭を撫でた。母は常に固い表情をしていたが、その時ばかりは他人から見ると分からない程度に笑ったらしい。姉は一緒に頑張ろう、と言ってみほの手を強く握った。兄は、普段と変わらない様子で笑っていた。
戦車で繋がる家族。戦車と共に在る人生。西住の家は、自他ともにその評価を下していた。家の庭にある二号戦車を乗り回し、あちらこちらへと遊びに出かけていくみほは、その評価に何の不満も抱かなかったし、これからもそうであるのだと信じて疑わなかった。
転機は突然訪れる。
みほが11歳のとき、高校三年を迎えようとしていた兄は突然イギリスに留学した。幼いみほには難しい話は理解できなかったが、戦車道の勉強をしに行くらしかった。みほは幼心に兄の留学を称えたが、母と兄はその件でいたく揉めた。ただ一回の話し合いを終え、そのまま母と一言も話すことなく、兄は西住の家を出て―――二度と戻ってくることはなかった。
みほは初めて、家族と離れる痛みを知った。なぜ母と兄は揉めたのか、その理由を知らされぬまま。やんちゃな気質はこの時から徐々に失われ、代わりに引っ込み思案という正反対の気質が表出するようになり、みほは中学生になった。
戦車道の強豪と言われる中学で、一足先に戦車道をしていた姉の下でみほもまた戦車道をした。子供のころから憧れていた戦車道の世界はとても華やかで、みほは直ぐにその魅力の虜となった。毎日の厳しい訓練で身体はボロボロになり、ベッドに入ると気絶したように眠るような生活でも、そこには充実感があった。
名門たる実家で戦車の英才教育を受けていたみほは、すぐに頭角を現した。上級生よりも優れた戦術眼、統率力を発揮し、瞬く間にチームの主力となり、試合にも出るようになった。姉と共に『西住流』の力を知らしめた、と言ってもよかった。
姉が中学を卒業し、母の母校である『黒森峰女学園』に入学することが決定した。みほは姉の後釜として隊長になり、姉と同じ結果を母に報告した。
母は一言、『当然ね』とだけ言った。それ以外に何も言わなかった。
みほが戦車道に対して、初めて疑念を抱いたのはこの時である。それは今まで自分が歩いてきた道を、振り返ってみる行為だった。当たり前のように戦車を知り、当たり前のように戦車に乗り、当たり前のように戦車道をはじめた。すべてが、まるでそうなるべくしてなったように。姉はいつだって自分だけの道を、切り開いていくようなのに。対してみほは、自分の後ろにある無数の足跡を、人工物のように思えてしまっていた。戦車に触れる右手からは、金属特有の冷たさが感じられつつあった。
自分にとって戦車とは何か、戦車道とは何か。
いつしかそんな陰鬱な思いが胸の片隅に溜まるようになりながら、姉と同じ黒森峰女学園に入学し、戦車道をする。中学時代に仲の良かった友人と共に、日々戦車道に身をやつしながら。
そして、生涯忘れることのできない出来事が起きる。
結論から言うと、西住みほは戦車道から離れた。それは純粋な逃避の結果だった。
寝つけぬ夜が続き、目を瞑ればトラウマがフラッシュバックする。あれほど好きだった戦車道は、一瞬で自分を苦しめるものに変貌した。
家出のような形で西住を捨て、大洗女子学園へと転入した。新しく通うことになる学校は、戦車道がない学校だった。戦車道漬けの日々から、戦車道が断絶された世界へ。
今までの自分は、戦車道しか知らなかった。それが自分の道を、狭めていたのではないか、とみほは新しい環境で新しい道を探そうとした―――矢先だった。
運命の鎖はみほを簡単に解放しようとしない。
大洗女子学園でも戦車道が発足した。何十年ぶりかの復興だった。
そこからは転がるように事態が進んだ。新天地でできた初めての友達は、戦車道に乗り気になり、生徒会を名乗る先輩は脅しめいた口調で戦車道に勧誘してきた。
みほが感じたのは、途轍もない絶望だった。戦車道が嫌で、戦車道しか知らない自分を変えようとして、別の道を探すために実家を捨て、転校までして。結局行き着く先は変わらないのか。どこまで行っても、どこまで逃げても、『西住』という血脈からは解放されないという事実を突きつけられたようで、みほの目は虚ろになった。
そんな中、手を差し伸べてくれる人がいた。一緒に戦車道ができない、と伝えると、構わないと笑ってくれた人。貴方の行く道が、私たちの行きたい道なんだと、冷たくなった手を握ってくれた人。
その人たちは今、みほの隣に立っている。みほを傷つけようとするものから、必死になって守ろうとしてくれている。
(武部さん……五十鈴さん……)
一人ではきっと、みほは何も言えなかっただろう。生徒会からの呼び出しに震えていたような自分だ、有無を言わさぬ態度に呑まれて、自分の気持ちを伝えることなく、また誰かの作った道を歩かされていただろう。
「――――あ、あのっ!!」
喧騒に負けないように、みほは自分にできる最大限の声を出した。一転場が静まり、十個の眼がみほに向けられる。
「わ、私……」
知らず、みほは武部と五十鈴の手を強く握っていた。そこから目に見えない力と、勇気が流れ込んでくる気がしていた。
言う。言うんだ。今までの自分とは違う。自分の気持ちを言葉にして、自分が歩く道を、自分で作るんだ。たとえそれがどんなに辛く、険しい道であっても。
昔とは違う。一緒にいると、言ってくれた友達がいてくれる限り、歩き続けることができる。そう思えるようになったから。
だから言うんだ。『戦車道は、できません』と。
「私は、私は――――戦車道を、」
―――――じゃあ約束だ。
「――――」
喉元まで出かかっていた言葉が、音になる前に霧散した。
ふと頭に響いたのは、幼き頃に交わした、忘れることのできない誓約。それはみほの中に流れる血脈が垂れた、慈悲か、あるいは悪意か。それを決めるのは、きっと未来の自分。
『俺は戦車道を絶対に諦めない。だからいつかその時が来るまで――お前も諦めるな。戦車道を続けてれば、いつかまた、絶対に逢えるから』
「――――戦車道、やります!!」
この時みほは生まれて初めて、自分の意志で道を選んだ。誰が何を言おうと、たとえきっかけが誰かの思惑であろうと、今までと同じ道だろうと……自分で選んだのだ。自分で歩くと決めたのだ。
「……え、えええ!?」
「みほさん!?」
二人が目を剥いて驚いているのを見て、みほは自分が冷静になっていることを自覚した。視界の隅に映る生徒会の人たちも、目を丸くしている。
「いいの、みほ!?戦車道、嫌じゃなかったの?私たちに気遣ってない?」
「生徒会の人達が言う事なんて気にしなくていいんですよ?私たちは、みほさんの味方ですから…」
あぁ、ほんとうに、自分は友達に恵まれたのだと、みほは心の底からこの出会いに感謝した。
「うん、ごめんね、二人とも。言ってる事とやってる事、全部バラバラでめちゃくちゃだけど、これでいいの」
気づかわし気な二人に、みほは苦笑した。
「二人がいてくれるから、だから大丈夫だよ」
きっと今の自分はうまく笑えているはずだ。あのときよりはるかに、良い笑顔を浮かべている。だってこんなにも、心が温かい。
「――――わかった。華!」
「ええ」
二人は視線を合わせて、ポケットから一枚の紙を取り出した。それは彼女たちの、履修届だった。何も言わず、生徒会室に置かれている長机の上のペンを掴み取る。片眼鏡の女子が慌てた様子で制しようとしたが、二人は流れる動作でペンを動かし、書き終わるとそのまま生徒会長の前に歩み寄った。
そして印籠を突き出すかのようにして、
「普通一科A組、武部沙織」
「同じく普通一科A組、五十鈴華」
「「戦車道を受講します!!」
堂々と宣言した。
「―――確かに。受け取ったよー」
不敵な笑みを崩さないまま、角谷は三枚の履修届を収めた。これでもう、後戻りはできなくなった。みほはこれから、自身のトラウマと向き合っていかなければならない。それは辛く、険しい道のりであることだろう。
「行こ、みほ!」
「みんなで戦車道ができるの、楽しみですね!」
「――――うん」
それでも、とみほは思う。この手を握ってくれる友達がいるのだから、大丈夫だと。
冷えた心を包む、このぬくもりがある限り、どこまでも行けるような気がしたのだから。
○
「二一人、とはギリギリですね。まぁ前言を撤回するつもりはありませんが」
「それでは、本格的に指導をして頂くということで、よろしいですか」
ええ。と神栖渡里はにっこりと頷いた。雇い主と雇われという立場で話すとき、この人は綺麗な言葉使いと態度をする。年齢的に上の人間に畏まられるのもむず痒い気がする角谷だが、いざ戦車道が始まれば立場も逆転するだろう。
「やはり、というか経験者はほとんどいませんか…」
簡単なプロフィールをまとめた履修者リストを眺めながら、渡里は渋面を作った。指導者の立場からすれば、これほど厳しい現実もないと角谷も思うし、渡里の感情も仕方がないものだった。
「難しいですが、なんとかお願いしますね、渡里さん」
「うーん、そうですね。まぁ、寧ろ初心者ばかりで良かったのかもしれません」
渡里の不可解な言葉を聞き返す前に、彼はさっさと二の句を継いだ。
「それに、まるっきり初心者ばかりでもありませんしね。―――彼女がいるのも驚きですが、戦車道をやるというのはもっと驚きました。一体どんな魔法を使ったんですか?」
渡里が一体誰を指しているのか、角谷にはすぐわかった。
西住みほ。戦車道の名門、『西住流』本家の次女。戦車道の世界において、これほどの逸材もないが、彼女はある理由で戦車道のないこの大洗女子学園に来ていた。
「戦車道をするなら、必ず必要な人材ですから。辛抱強く説得しました」
「説得、ですか」
渡里は含みのある言い方をした。彼の瞳はときどき、全てを見透かすように鋭くなる時があることを角谷は知っていた。油断すれば、こちらの心の内を読まれてしまうだろう。しかし脅迫まがいのやり口で勧誘した、とも言えない。こういう時角谷は顔の筋肉を総動員して、かわそうとするのだった。
「ま、いいでしょう。それでは、使用する戦車のリストを頂けますか」
ぎくり、と角谷は心臓を掴まれた。それは角谷が渡里をここに呼ぶ前に、「自分のペースで進めよう」と決めていた事柄だった。しかし虚しくも先手を打たれてしまった。
「あー、と。その件なんですけど……あるにはあるんですが、ここにはないというか」
歯切れの悪い角谷の態度に、渡里は当然不信感を抱いたようだった。
ええい、南無三。取り繕っても仕方がない。神栖渡里はこれから大洗女子学園戦車道の全権を握る立場になるのだ、隠すよりも正直に話したほうがいい。
「書類上、この学園艦には何両かの戦車があることになっているんですが……」
「その場所が知れない、ということですか。どうにも行き当たりばったりな気がしますが、まさか考えなしに戦車道をはじめようとしたわけではないですよね?」
この男、鋭い。
「戦車道開始初日は、戦車の捜索から始めようと思います。大体の位置は絞り込めているので、手分けして探せばすぐ見つかるはずです」
「まともな保管をされず、その辺に放棄されていた戦車がすぐに動くとは思えませんね。一日二日は、整備することになるでしょうが、戦車の整備士にアテは?」
「自動車部が協力を申し出てくれています。四人しかいませんが、陸地の整備工場に手伝いを乞われるくらいです。おそらく問題ないかと」
自動車部かぁ、と渡里は微妙な表情をした。気持ちは分かるが、無名の大洗女子に人脈は皆無。あるものでどうにかするしかない。戦車道が始められるかどうかは、ある意味自動車部にかかっていた。
「期待しておきましょう。一応、私のほうでも何人か声をかけておきます。場合によっては部品の発注もしておかなければいけませんし」
後に大洗女子学園戦車道を支える、ウルトラハイスペック・メカニックチームの存在を角谷も渡里も知らない。