なので別の話(時間稼ぎ)を。
特に頭を使って書いたわけじゃない(クズ)ので気楽に読んでくださると幸いです。
本編にまだ登場していない人物は名前とセリフが出ません。ご想像にお任せします。
加筆:時系列は4話「再会しましょう」の少し後です。
『お兄ちゃーん!これなーんだ!?』
不意に声をかけられ、渡里は紙に走らせていたペンを止めた。
そちらに目を向けると、珍妙なポーズを取っている末妹がそこにいた。床に座り込んだ体勢から、腕を鳥のように大きく広げ、足は二つ揃えて真っすぐに伸ばし、頭は少し引っ込める
『………』
何かって言われたら、滑り台を滑っている最中の子どもの真似にしか見えない渡里だが、直感的にそれは違うと思った。
この妹が、そんな簡単な問題を出してくるわけがない。こういう何の脈絡のない時はいつだってそうだった。
注意深く観察する渡里に、末妹はヒントのつもりなのか、両腕をバタバタと忙しなく動かし始めた。その瞬間、渡里の脳に閃光が走った。イメージで言うと、豆電球に光が灯った感覚だった。末妹の姿と記憶にある一枚の写真がピタリと重なったのである。
渡里は確信とともに、その言葉を口にした。
『T-35重戦車』
『せいかーい!!』
心底嬉しそうに駆け寄ってくる末妹に、渡里もまた不思議な満足感を得て、再びペンを走らせ始めた。
『すごいねお兄ちゃん!これお姉ちゃんもお母さんも、みんなわからなかったんだよ?』
でしょうね、と渡里は心の中で呟いた。戦車のモノマネなんて普通砲撃音とか駆動音の声帯模写だし、まさかボディで表現してくるとは誰も思うまい。ましてやT-35重戦車なんて、常人には不可能。千手観音がワンチャンできるようなモノマネだし。
正解してくれたのがそんなに嬉しかったのか、末妹は「にへへ」と頬を緩ませながら体を揺らしている。やめなさい、机まで一緒に揺れて書きづらいでしょうが。
『お兄ちゃんさっきから何書いてるの?』
『夏休みの宿題だよ』
げんなりとした表情で、渡里は呟いた。そろそろ夏休みも中頃に差し掛かっているが、いまだ宿題に一切手をつけていなかったことが鬼にバレてしまったのである。夏休み終了三日前くらいからやればいいや、と呑気に考えていたらこのざま。あえなくお叱りをくらって、居間で一人静かにペンを走らせることとなってしまった。
『お前もそろそろやらないとまずいんじゃないか?』
『うぐっ、わ、私はちゃんとやってるもん……』
『こっち見て言え』
ちゃんと毎日コツコツやってる奴はそんな下手くそな口笛吹かない。
渡里はため息を吐いた。上の妹は真面目にやってるのに、一体誰に似たんだろうか。あんがい母親のDNAなのか。だとしたら渡里はすごくおもしろいのだが。
『お兄ちゃんを見て育ったから、しょうがないよね!』
『あ、お前誰にそんな言い方教わったんだ』
とんでもない責任転嫁をして、末妹は勢いよく立ち上がり、逃げるように襖の向こうへと消えていった。相変わらず戦車道以外の勉強の話は苦手らしい。
……と思っていたら、すぐに帰ってきて。
『お昼ごはんができたから、お兄ちゃんを呼びにきたんだった』
『あ、もうそんな時間だったのか』
黙々と取り組んでいたせいで時間を忘れていたが、時計を見ればぴったり12時。お昼時とわかった途端、急にお腹が空いてきた。
渡里は机の上を片づけることもなく立ち上がった。どうせ今日はこの部屋でカンヅメだし、散らかしっぱなしでも構うまい。それよか飯である。
『昼飯なんだって?』
『ソーメン!』
『夏だなぁ』
廊下を歩きながら、渡里はふと庭を見やった。眩しいくらいに差し込む熱線によって、景色がゆらゆらと揺れている。陽炎が現れるくらい暑いということらしい。蝉も喧しいくらいに鳴いている。
まさしくそれは夏の風景。いつかとは違う、鮮やかな景色を渡里は感慨深げに見つめていた。
『つれてきたよー!』
『連れてこられましたよー』
部屋に入ると、すでに昼食の準備はできていた。長方形の机の中央にどんと載せられたソーメンの束に、薬味が入った小皿が添えられている。
長方形の長い辺には、行儀よく上の妹が座っていた。こちらを見るなり口をvの字にして、トントンと自分の横のスペースを叩いた。そこに座れ、ということなのだろうか。とりあえず胡坐を書いて座布団に腰を下ろすと、上の妹はどこからともなく本を取り出した。
その表紙に『戦車』の二文字を視認した瞬間、渡里の背中をうすら寒いものが駆け上っていった。慌てて席を移動しようとするが、時すでに遅し。渡里はがっちりと衣服を掴まれていた。
しまった、という顔をする渡里。対し上の妹は捨てられた子犬みたいな目をしている。この瞬間、渡里は自分の不利を悟った。
『わかったわかった…聞いてやるからそんな泣きそうな顔すんなって。なに、今日は防勢作戦について?しかも退却戦?なんでもまたそんな長引きそうな話題……いや、嫌じゃないから、うん。ほんとほんと。でもとりあえずお昼ご飯食べようぜ?』
ぐいぐい服を引っ張ってくる上の妹に渡里は苦笑いするしかなかった。普段は大人しいが、こういう時は末妹にそっくりの頑固さだから困る。
上の妹は度々、渡里に戦車道のことを訊いてくる。それだけなら別にいいが、質問魔なので一度話すと簡単には解放してくれないのだ。
渡里も戦車道の話をするのは好きだが、今日は宿題せよ、という鬼からの御達しがあるのだ。はたしてあの居間に帰れるのはいつになるのか。
いやいっそ、ポジティブに宿題から逃げる格好の言い訳を手に入れたと考えると――――
『はっはっは、やだなぁ。そんな良からぬことは当然考えてませんって―――』
いつの間にか背後にエプロンをつけた鬼が立っていた。右手に雪平鍋、左手にはお玉。ゴゴゴ、と背後から文字が浮かび上がるくらいの迫力を漂わせ、妹たちの母はそこにいた。
ダラダラ、と夏の暑さとは別の要因で汗が吹き出る渡里。しばらくの均衡があって、不意に圧力が霧散したので渡里は胸を撫で下ろした。一気に涼しくなってしまった。
『いただきまーす!』
『いただきまーす』
母の到着が、お昼ご飯開始の合図だった。妹たちの父はお仕事で外出中の様である。冷えたソーメンを冷えためんつゆに浸して啜ると、胃の中から体の熱を冷ましてくれるようで、とても美味である。さすが夏の風物詩。
しばらくズズーっとみんなで啜っていると、不意に末妹が言った。
『お母さん。お兄ちゃんはあのモノマネ分かったよ!!』
嬉しそうにそう言う娘の姿を見て、母はこちらに視線を移す。
『え、なにその顔』
ありえないくらい怪訝な目で見られた。まるで火星人を見るかのような視線に、渡里のメンタルは5のダメージである。ついでに横にいる上の妹からも変な(ものを見る)目で見られ、プラス6ダメージ。
『なにってT-35重戦車だよ。ほら、あの砲塔いっぱいついてるやつ』
答えを聞かれ、渡里がその戦車の名前を口にすると、二人は納得したような表情に―――――はならなかった。
むしろ妹の残念な表現力と、渡里の気持ち悪いくらいの理解力に、ますます顔をしかめるのみである。
……けっこう分かりやすかったと思うのだけど、ここまでドン引きされることなのだろうか。手をバーッとしているところなんかすぐに多砲塔を表現してるなぁ、と思い至ったもんだが。
『以心伝心?そこまでのもんかなぁ……これが分かりやすいだけじゃ…?』
妹たちの母の言葉に、渡里は首を傾げた。サラッと自分の横に座っていた末妹を見ながら、ソーメンを啜る。末妹は末妹で、以心伝心の意味が分からなかったのか、無垢な瞳で渡里と同じようにソーメンを啜っている。
……ふとなんとなしに、渡里は空っぽだた末妹のコップに麦茶を注いでやった。
すると突然、末妹は「ミッ?!」という謎の悲鳴を上げた。何事か、と一同の視線を集める中、末妹は頬を膨らませながら胸を叩きはじめた。……ソーメンが変なとこで詰まったのだ。
慌ただしい末妹と、アワアワする上の妹に挟まれながら、渡里はため息を混じりに注いでやった茶を渡す。もぎ取るような勢いでコップが持っていかれ、末妹はゴクゴクと喉に流し込んでいく。そして一拍置いて、勢いよく息を吐きだした。峠を越えたのだ。
『あ、ありがとお兄ちゃん……』
『今日の絵日記に書くことができてよかったな』
からかうように笑う渡里に、末妹はまた頬を膨らませた。
『え?さぁ……なんとなくかなぁ。喉詰まらせそうな雰囲気してたし』
妹たちの母の質問に、渡里は曖昧に答えた。なぜ先に茶を注いでいたのかなんて、本当にわからない。確信があったわけでもないし、意味があってやったことでもない。ただ漠然とそうしたほうがいいと思っただけだし。
『いやだからこんなん以心伝心でもなんでもないって』
渡里は渋面を作って茶を啜った。何年も一緒に暮らしてる家族ならこれくらい、別に珍しくもなんともない。渡里は妹たちの母が、末妹が喉を詰まらせる直前にコップを差し出そうとしていたことに目ざとく気づいていた。
『いしんでんしんって?』
『なんにも言わなくたってお互いの考えとか、気持ちがわかることだよ。特別仲良しな人たちのことをそう言うんだ』
へぇー、とのんきな声を出す末妹。ちゃんと分かってるのか分かってないのか。
『私とお兄ちゃんのことだね!』
『わかってなかったわこいつ』
えー、と不満げな声を上げ、抗議するような目を向けてくる末妹に、渡里はそのおでこを軽く小突いてやった。目を><の形にして呻く末妹に渡里は思わずため息である。違うって言ってんのに。
『だってお兄ちゃんだけだよ、モノマネわかったの』
『………それはそうだけど』
それを言われてしまうと、渡里は何にも言えなくなる。
むふふーん、と気分よさげに笑う末妹とは対照的な渡里の表情である。
『あ?なに?』
急に末妹とは逆方向から服を引っ張られ、渡里がそちらを向くと、そこにはこちらをじーーーーっと見つめる上の妹の姿が。
なにかを語りかけるように渡里の瞳を覗き込んで止まない。
『………』
とりあえず渡里はじっと見つめかえしてみた。お互い何も言わず語らず、という変な空間が形成される。
……いやまぁ、変態的な理解力を持つ渡里には、この真顔でガン見してくる妹が何をしたいのか、あるいは何をしてほしいかは既に分かっているのだが。
ここまで露骨にやられると、ちょっとした悪戯心が働いてしまうわけで。
なので渡里は、全てを分かった上で、あえてここは知らん顔をしてみた。
上の妹はこの世の終わりみたいな顔をした。
『あ、ウソウソ。わかってるわかってる、いやほんと。大丈夫だってちゃんと通じてるから!』
じわっ、と瞳に雫が溜まったかと思うと、口を真一文字にしてぷるぷると震えだしたので、渡里は慌てて空いているコップに緑茶を注いでやった。
『お前は麦茶より緑茶派だもんな。兄ちゃんちゃんとわかってるぞーだから泣くなよー』
依然として涙目で服を放そうともしない上の妹をなだめながら、渡里はやりすぎたかと苦笑した。
普段は毅然として歳不相応の成熟さを見せる上の妹だが、内面はまだまだ小学生のそれ。隠しているつもりなのか知らないが、根っこは寂しがり屋で甘えん坊なところがあったりする。
今のも末妹が渡里と以心伝心で仲良しだなんて言うもんだから、自分もそれくらい仲は良いんだと見せつけたい、ヤキモチのようなものだったのだろう。
そのあたりが何ともいじらしく、可愛らしく、そして嗜虐心を煽るところである。末妹とは別ベクトルでイジワルし甲斐があるので、ついつい渡里もあまのじゃくなことをしてしまう。その度にこんな感じで慰めないといけないのだけど。
『え?罰として退却戦だけじゃなくて包囲の破り方も教えてほしい?えーめんどくさ』
ペシペシと太ももを叩かれたので、渡里は大人しく首を縦に振った。いい加減にしないと本当に拗ねられてしまう。そうなったらご機嫌取りにかなり苦労するのである。その辺の境界線上で反復横跳びするのもスリルがあって楽しいのだが。
『えー!?お姉ちゃんばっかりずるい!私もお兄ちゃんと遊ぶ!』
『話聞いてたか?遊びじゃねぇよお勉強だぞ。お前の苦手な』
『きのうはきのう、今日は今日だよお姉ちゃん!そもそもお姉ちゃんだってきのうの夜は一人じめしてたもん!』
『おい人を挟んで言い合いすんな。袖引っ張るな。腕も掴むな』
めんつゆを持つ左手と箸を持つ右手がぐらんぐらんするせいで、渡里はまともにソーメンを食えない。めんつゆは器の中で激しく波打ち、箸先のソーメンは上下左右にダンスダンスである。成長期を迎えた身体は多少のじゃれつきでは小揺るぎもしないはずだが、どこにそんなパワーが眠っているのだろうか。
ぎゃあぎゃあ、とキャットファイトが行われること数十秒。渡里がなんとかしてソーメンを食べようとし試み、麺に浸ったつゆが引っ張られた腕のせいで勢いよく弾け、あえなく渡里の顔面と机をびしゃびしゃにしたとき、鬼は動いた。
『……はい、すすすすすいません』
ギロリと、と鬼も裸足で逃げだしそうなくらいの眼光で三人は睨まれた。カチコチに凍りついた三人は冷や汗を滝のように流しながら、すみやかに元の位置に戻り、行儀よく正座した。代表して謝った渡里だが、あまりの冷気に呂律が怪しかった。お食事中に暴れるのはやめましょう。
『ん?宿題?えーっと、三分の一くらいかな』
妹たちの母からの質問に、渡里は指を折って数えた。夏休みの宿題なんて所詮は復習レベル。成績だけ見れば優秀な渡里にとっては、もはや学習課題ではなくただの作業。得意な国語、社会科系はすでにパパっと終わらせている。ちなみにこの家では『必殺・答え写し』は禁忌の技であり、見つかった瞬間それはもうとんでもない目に遭う。口に出すのも恐ろしいので言わないが。なので当然、渡里も自力で解いている。
まぁ、夏休みなのに朝の七時に文字通り叩き起こされ、そこからノンストップで宿題をやってれば、そりゃあ三分の一くらい終わるというものである。妹たちの母も、まぁ当然ね、みたいな顔で特に驚きもしない。
『っていうか俺宿題やんないとだから、お前らと遊んでる暇ないわ』
『ええーーーー』
二人の妹が異口同音に非難してくるが、渡里にはノーダメージである。なぜなら渡里が宿題をするのは、偉そうに言うことではないが自分の意志ではない。この家の絶対的存在からの御達しなのである。「あの人に言われてるからー」はこの家にて最強(の言い訳)。止めることは誰にもできないのだ。
渡里がそれを持ち出せば案の定、二人はあっけなく沈黙した。
『悪いな。話は晩飯前にまた聞いてやるから、そんなむくれんなって』
むすっとしだした上の妹をあしらいつつ、渡里は華麗にエスケープの体勢をに入る。毎日家にいる渡里も大概だが、だからって毎日妹たちに付き合わされるのも辟易モノである。それも寝る時以外はずっと一緒なんじゃないか、くらいの粘着具合となれば尚更である。
まったく妹たちの母は、いいタイミングでいいご命令を下さった。渡里が「一人の時間がほしいなぁ」と密かに思っていたのを敏感に感じ取り、その機会をくれたのだ。実にありがたいことである。
『ご馳走様でした。それじゃ俺はこの辺で――』
折角の行為に遠慮なく甘えようと、渡里はそそくさと部屋から出ようとした。以心伝心、というのはこういうことを言うのだ。何も言わずとも察してくれて、さりげなく、自然に、そして密かに気遣う。通じ合うとはどういうことか、妹たちもはやく気づいてほしいものである。彼女たちの母に倣って。にらめっこなら日本最強なんじゃないかと思うくらいの仏頂面でも、その中にはちゃんと優しさがあるのだ。マジ感謝。渡里は笑みを浮かべて敷居を跨ごうとした。
なのでその寸前、
『三分の一も終わってるなら、今日はもう自由にして構わない』と言われたときは、
文字通りひっくり返ってしまった。それはもう、マンガみたいに。
『い、いやいや……ちょっと待ってそんな裏切り方ある?』
なんのこと、とすまし顔をする妹たちの母を、よろよろと立ち上がった渡里は信じられないような目で見た。
『ぐふぅ、いやそれはそうだけどそうじゃないじゃん!』
そんなに宿題がしたいならそうしなさい、と言われ渡里は思わず唸った。
宿題がしたい?そんなわけあるか。そんなもんできることならしたくない、永遠に。しかし表面上そんな素振りを見せていたのは、宿題をすることが妹たちからの逃げる恰好の口実だったからだ。否、正確には
同じ口から『しなくていい』なんて言われてしまったらその口実が消えてしまうではないか。それってつまりどうゆうことかと言うと。
『――――ッハ!?』
突如殺気を感じ取った渡里は慌てて回避行動を取ろうとした。しかしそれはほんの僅かに遅かった。
『ぐふっ』
末妹のこうげき!ずつき!
『ごはっ』
上の妹のこうげき!足払い!
びたーん、とカエルみたいに畳に叩きつけられた格好の渡里は、二人の妹によって両足を確保され、自立不可能になった。
地べたに這いつくばる渡里は、下から諸悪の根源を見上げた。相変わらずの仏頂面で、あちらはこちらを何の感情もない目で見ている。その目に気遣いとかそんなものはなかった。
うそやん、以心伝心とは一体なんだったのか。全然通じ合ってなかった。
(――――いや違う!)
しかし理解力に定評のある渡里、瞬時に仏頂面の奥にある感情に気づく。
それは至ってシンプル。本当に、純粋で簡単な一つの答え。
『ああああああああああああああああ』
ずるずるー、と碌な抵抗もできず、敗者の遠吠えをあげる渡里は自分が望んでいなかったポーズで部屋を出ることになってしまった。今の自分はきっと熊本一情けない姿をしているだろう。
(あの人、娘の方が大事ってかーーーーーーーー!!)
そりゃそうかもしれないけども!だからって渡里を売り飛ばすような真似しなくても!別に全く妹たちに構わないと言ったわけでもないのに。兄なら何がなんでも妹と遊べということか。もしかして心の中で仏頂面仏頂面と連呼したのが聞こえていたのだろうか。
『ちょ、お前ら!小学校低学年の女子が中一男子を引きずるな!どんな力してんだ!?あぁくそ、これだから西住流は―――!』
掃除が綺麗に行き届いたフローリングの床は、これっぽっちも掴むことができない。すごいねお手伝いさん、こんなにツルツルにしてくれるなんて。お陰様で渡里はカーリングみたいに廊下を滑っていく。
ひゅー、と景色が後ろに流れていく。すでに仏頂面の人は見えない。
っていうか妹たちも見えない。うつ伏せで引きずられているから。
『わかった!わかったからせめて、せめて居間の片づけだけさせてくれ!じゃないと俺ころ―――』
故に渡里には知る由もなかった。妹たちが心底楽しそうな顔をしていることを。
妹たちの母が、その仏頂面をほんの僅かに崩して、口元に穏やかな笑みを浮かべていたことも。
この後めちゃくちゃ戦車道の話をした。
その後めちゃくちゃ三人で外で遊んだ。
最後にめちゃくちゃ渡里はおこられた。
○
「おーーー高校生の一人暮らしにしては立派な部屋だなぁ」
ずかずか、と兄は玄関をくぐるなり、なんの遠慮もなしに奥へと進んでいった。その姿をみほは、ほんの少しの違和感と共に見ていた。
ここが女子高の学園艦の上で、なおかつここが女子寮であることを考えると、目の前の光景はまぁまぁ異常事態ではなかろうか。
ぱんぱんに詰まったビニール袋を両手に持ち、もの珍し気に辺りを見渡す目の前の男。自分の兄じゃなければここまでの無遠慮は許さなかっただろう。
「お兄ちゃん、あんまりじろじろ見ないで」
「あ、悪い悪い」
全然悪びれる様子もなく、兄は手に持ったビニール袋を床に置いた。
客観的に見て、みほの部屋は散らかっているというほど散らかってはいない、はず。物は綺麗に片づけられているし、掃除も小まめにしているからホコリも少ないと思う。
とはいえども、あんまりキョロキョロされるのも少し気恥ずかしいので、兄にはとりあえず一仕事してもらおう。
みほは鞄を置いて、兄が持ってきたビニール袋の中を覗き込んだ。
「わ、なにこれ。野菜からお肉までたっぷり……」
そこには色とりどりの食材がこれでもか、というくらいに詰め込まれていた。
どれくらいかというと、いくら一人暮らしの成人男性と言っても二日三日では消費できないくらいである。スーパーで買ったというなら、余りにも計画性がなさすぎるのではないかこの兄。。
みほの視線から考えを読んだのか、兄は心外そうに口を開いた。
「俺がこんな無駄遣いするわけないだろ。これは全部、俺が買ったんじゃなくて貰いもんだ」
「もらった」
「そうそう、引っ越し祝いだか就職祝いだか知らないけど。あれもやるこれもやる、となんでもホイホイ受け取っていたらこの様だよ」
参った、とでも言うようなポーズをして、渡里もまたビニール袋を覗き込んだ。
「半分くらいは生徒会からだな。後は近所の人」
「生徒会の人からも貰ったんだ」
「給料が現物支給だからな」
え゛、と固まったみほを見て、渡里はイジワルに笑った。その表情からみほは全てを察して、非難の視線を送った。
「なんにせよ有難いご厚意だよな」
「そのご厚意をお兄ちゃんは、今まさに腐らせようとしてたけどね」
「まだ腐ってないからセーフ」
みほは大きくため息を吐いた。
兄が今日、自分の部屋をわざわざ夜に訪れてきた理由は、まさにそこである。
「頼むぞ、みほ。こいつらが料理として無事転生できるかどうかはお前にかかってる」
無責任にそう言い張るこの兄に、みほは最早何も言うことはできなかった。
何を隠そうこの兄は、色々な人から貰った食材を、たった一度も調理することもなく、なんなら一度も触ることなく、消費期限切れで廃棄する一歩手前まで放置するという中々なことをやらかしているのである。そうなる前になんとか使えよ、とも思うがこの兄、自炊能力が皆無。というか家事全般において著しい能力の欠損を感じさせるレベルのダメ人間なため、料理という選択肢はまずない。
ということで白羽の矢が立ったのが、みほである。夕方、武部達と放課後にアイスクリームを楽しんでいるところに電話一本で呼び出されたのだった。
「とりあえず、消費期限切れそうなの全部取って。野菜はまだ日持ちすると思うから、冷蔵庫の中に入れておいて」
「よしきた」
兄に食材の選別を命じ、みほは冷蔵庫前に陣取る渡里を飛び越え、部屋の奥へと進んだ。さすがに制服のまま自宅にいるのも、料理するのも嫌だった。
~~~~それから十分後~~~~
「じゃあ作ろっか。はい、お兄ちゃん」
ぽん、と渡されたものを素直に受け取る兄は、一拍遅れて首を傾げた。
「え、待って。何作んの?」
「なにってカレーだよ、カレー。お兄ちゃんはお米炊く担当」
「カレーって……」
シンクに並べられた食材を見て、渡里は不思議そうに唸った。それもそうかもしれない、とみほは思う。普通カレーと言ったら、入る物は肉、じゃがいも、ニンジン、玉ねぎ、辺りが定番で後は家庭によって多少増えたり減ったりするだろう。
対しシンクに並べられているのは、牛肉、鶏肉、豚肉、魚介類、申し訳程度のニンジン一本。
渡里が首を捻るのも当然のラインナップであった。
しかしこれにはちゃんとした理由があるのだ。
「仕方ないでしょ。こんないろんなもの使う料理なんて私作れないよ」
みほの料理スキルは客観的に見て中の中。料理本を見ていれば失敗はしないが、何も見ずに美味しく作れるほど達人というわけでもない。武部ほどの料理上手なら、材料を見ただけで何品目もの料理が思い浮かぶのだろうが、みほにはそんなことできない。
ということで、カレーである。
「カレーってこんな肉肉しいものだっけ……ってか普通に貝とか魚とかあんじゃん」
「大丈夫だよ。世の中の食べ物は全部カレールーに入れれば美味しく食べられるから」
何気なしにそう言って包丁を握るみほに、兄もまた覚悟を決めたようだった。
カレーライス。それは万能の料理。何を入れても、何と混ぜても、味は劣化しない……はず。
「じゃあやるか。………あれ、みほアレどこ?」
「お兄ちゃん、今どき一合升でお米は量らないよ。はい、計量カップ。メモリの読み方くらい分かるよね?」
「任せろ、六合くらい炊けばいい?」
「お兄ちゃんの中の計量カップどうなってるの?六合も炊いたら大変なことになるよ………三合で」
あいよー、と炊飯釜に米を入れていく兄を尻目に、みほもまた調理に入った。とりあえず肉は一口大に、ニンジンは適当に切って、魚介類は………よくわからないからテキトーに切ろう。まさか下処理がないとお腹を壊すようなものはないだろうし、最終的に煮込むのだから大丈夫だろう。火を通せば問題はない、武部もそう言ってた。
「あ、ごめんお兄ちゃん――――」
「なに?皿か?ちょっと待てよ……」
「小さいの二つあるから、それで」
「これでいいか?」
みほの想像通りの小皿を二つ寄越して、兄は米を洗う作業に入った。勢いよく水を出し、それ以上の勢いで米をかき混ぜるその姿は豪快そのもの。あまりにも豪快すぎて、水と一緒に米も飛ぶ始末である。まぁどうせあの兄のことだから、規定量なんて守ってはいない。三合ピッタリよりちょっと多いくらいの米があの釜の中に入っているはずだから、多少吹っ飛んだほうがむしろいいのかもしれない。……いやよくはないけど。
「よし、これでおーけー。西住隊長、炊飯釜のセット完了いたしました」
「ではお兄ちゃん一等兵はそのまま鍋を取り出して、そこに油を引いてください」
「え」
「具材を先に焼いてから煮込むの。いきなり水で煮込まないよ」
何も言ってませんけどー、と言う兄だが、みほはお見通し。料理のりの字の書き方も知らないレベルの兄の意見なんてこの場において信頼性ゼロである。
「あ、お兄ちゃんの出番はそれで終わりだから」
「クビになるの早」
愕然とする兄だが、みほ的には米洗いまでが限度ギリギリである。そこから先はちょっと、いやかなり調理に関わってほしくない。
それよか兄でもできることは他にある、とみほは目線で訴えた。
「はいはい、洗い物でもしとけばいいんだろ」
「それが終わったら―――」
「食器出して、あとはじっとしてまーす」
みほは声を出さずに笑った。言葉にしなくても伝わる、というのは変な感覚だが、不思議と心地いいものである。
ふと、みほは昔の事を思い出した。以心伝心。それは『なんにも言わなくたってお互いの考えとか、気持ちがわかること』。今この状態は、どうだろうか。
不器用な手つきで使い終わった包丁やらまな板を洗う兄の横で、みほもまた鍋を振るう。
狭いシンクで二人は肩を並べ、黙々と作業をした。
兄の家事スキルがゼロで良かった、とみほは思った。お蔭で包丁一つ洗うのに、兄はとても時間がかかるのだから。
その後、綺麗に拭かれた食卓にはそれはもう見事なカレーライスが並んでいた。
その中身は実に風変りなものだったが、味は実に美味なものだった。いや、実際はどうかわからないが、ともかくこの二人の舌はそう感じた。
それはきっと、料理の腕とか食材の質とか、そんなものとは別の所に理由があると、みほは思った。
「意外となんとかなるもんだな。雑多な具材と半端な腕でも」
「ごめんお兄ちゃん、手が滑った」
びゅん、と風を切って突き進んだタオルを、兄は紙一重で避けた。どうやら先読みされていたらしい。考えを読めるのはお互いさまということか。
「でもま、助かったよ。お陰様で近所中に土下座して回らなくて済む」
ケラケラと笑う兄だが、みほは笑えなかった。そんなことをしたら学園艦中で噂になるだろう。その噂の人と兄妹だとバレてしまった時、みほはもうここにはいられない。恥ずかしくて。
「これを機に少しでも料理を覚えたら?」
「大丈夫大丈夫、ウチには食材を持っていったら完成品に変えてくれる錬金術師がいるから」
「その人『西住みほ』って名前じゃないよね?」
「わお、同姓同名かな?」
舌戦ではやはり兄の方が一枚上手と言わざるを得なかった。昔はここらでずつきでもやっていたかもしれないが、流石に花も恥じらう女子高生にそんなことはできなかった。
いやそれ以上に、
「……毎日はやめてね」
ほんの少しでも、心の片隅で嬉しいと思ってしまっている自分がいる時点で、元々勝ち目などなかったのかもしれない。
「そんなに暇じゃないかな」
意地悪に言う兄に、みほはむすーっとした。
それからは他愛もない話をいくつもした。ほんとうに、明日になれば忘れてしまいそうな些細な話を、いくつも、いくつも。
時にこんなことがあった。
旨い旨い、とカレーライスを文字通り流し込んでいた兄が突如として、「ミッ?!」という奇妙な悲鳴を上げた。頬を膨らませて胸を叩く兄に、みほは冷静にお茶が入ったコップを渡した。ごくごく、と流し込んで一拍、ぷはーと息を吐きだした兄は峠を越えて。
「助かった。でもなんで喉を詰まらせる先に茶を注いでたんだ?」
そういう兄に、みほははっきりと答えた。
「なんとなく、そんな気がしただけだよ」
不思議そうな顔をする兄を見て、みほはにっこりと微笑んだ。
あいにく絵日記は、もう書いていなかった。
特に本編とは関係ない(こともないかもしれない)話。
オチはなかった。