『お帰りーおにいちゃーん!』
ズドム、と小さな頭が渡里の鳩尾にクリティカルヒットした。ぐふぅ、と肺の中の酸素が強制的に全て吐き出され、一拍ほど無呼吸状態になる。学校から帰宅してドアを開けた瞬間の、不意打ち気味の人間砲弾である。よほど助走してきたのだろう、その威力に思わず身体が後ずさる。
しかしこの程度で倒れる西住渡里ではない。両足でふんばって、なんとかして小柄な体を受け止める。ずずず、と20センチほど後退して、砲弾はようやく停止した。
腹部の痛みに耐えながら、渡里は突撃してきた少女の頭を撫でた。
『危ないだろ、みほ』
『えへへ』
恨みがましい視線を送ってやっても、この少女はどこ吹く風。寧ろ屈託のない顔で笑うのである。長女にも母にも似ず、やんちゃな少女になったものだと思う。
『ずっと待ってたんだよ!今日はいっしょにザリガニ釣りに行くんだから、はやくはやく!』
『待った待った……せめて着替えくらいさせてくれ』
ぐいぐいと肩が抜けそうなくらいの力で引っ張られるのをやんわりといなしながら、渡里は自室へと向かった。どこにあんな力があるのかと疑問に思うが、この家の血筋なら不思議ではないような気がしてくる。
はやくー!という声を背中に受けながら、木の匂いが香る廊下を歩いていく。
途中、物静かな長女と厳めしい表情をしたははと出くわしたが、二人ともお疲れさまとでも言うような表情をして渡里を見送った。代わってやってもいいんだぞ、おい。
『えーと、ジャージはどこへやったっけか…』
渡里の自室は戦車道関連の本が七割と、戦車の模型が一割、そして服の収納スペースとベッドと机が一割、と半分以上が戦車道で埋まっている。ははがうるさいので細目に片づけはしているものの、それ以上に散らかすスピードが速いため、いつ見ても乱雑な様相を呈している。お蔭でジャージ一つ探すのにも手間がかかる。
『遅いよお兄ちゃん!!』
『いや着替えが見つかんなくてな。そこらへんに埋まってないか』
『んー、はい!これ!』
『おー、相変わらず見つけるの上手いなぁ』
『匂いでわかる!』
『え゛っ!』
待ちきれなかったのか、おかんむりの少女。ぷりぷりしながらも、素早く渡里の着替えを引っ張り出してくる。こうやって渡里が探し物を見つけられないとき、助けになるのはいつもこの少女である。何か聞き捨てならないセリフが聞こえた気がするが。
ともかくなんとか着替えを終え、カバンをベッドに放っぽって、再び腕をグイグイ引っ張られながら、渡里は外へ連れ出された。バケツを一つ、小さな竿を二つ持って、日差しが強い田園地帯を二人で歩いていく。
『どーん!』
『ぐえ』
突然背後から飛びかかってきた次女が、背中に張り付いたかと思うと、そのまま軽やかな身のこなしで渡里の肩に跨り、首元に座った。ザ・肩車の態勢である。
『えっへっへー高いなー』
『いてて、首がむち打ちになりかけただろ』
成長期を迎えた身体は小学生の体重くらい難なく支えることができるが、それにしたって勢いが強すぎる。溢れんばかりのエネルギーが全変換されたアグレッシブな動きを受ける身にもなってほしい。
『前にお姉ちゃんと来た時はにごーに乗ってたんだよ。風がすっごく気持ちよかった』
『おーそうか。いいよなぁ…俺もできるなら戦車乗りたい…』
右手にバケツ、左手に竿、上に次女を装備した渡里はとぼとぼ歩く。一般家庭ではありえないことだが、この家では自転車代わりに戦車を乗り回しているのである。しかし操縦できるのは女性だけで、男性は操縦桿を握ることは許されていない。それが渡里には羨ましくて仕方ない。
『あ、でもお兄ちゃんのほうが乗り心地いいよ!柔らかくていい匂いがする!』
『ははは、愛いやつめー』
その場でクルクルと二回ほど回転してやった。プチメリーゴーラウンドにみほは歓声を上げ、楽し気に笑う。
戦車と比べたら大体のものは柔らかいし、いい匂いするけどな、とは思いながらも口に出さない渡里だった。
『明日から休みなんだよね?』
『おー、まぁな』
『じゃあ一杯遊べるね!明日は山に遊びにいこ!明後日はボコのぬいぐるみを買いに行って、それから戦車ゲーム!』
『ええー朝くらいゆっくり寝かせてくれよ…』
『だめー!お兄ちゃんはすぐ怠けるって、お母さんが言ってたもん!だから私が見張っててあげるの!』
『サボってねーよ。ちゃんと戦車道の勉強してんだよ。合間合間で昼寝してるけど』
『ほらー!』
あーだこーだと話ながら、二人は緑豊かで薫風の匂い漂う道を歩いていく。
仲の良い兄妹、そのものの様子で。
これは過去の話。彼女がまだ何も知らず、彼が何も話していなかった、とある都市のとある日のこと。両者の胸の奥に、眩い思い出として刻まれた、かつての景色である。
○
「はい!彼女はいますか!?」
「残念ながら戦車道をやってる男子はモテなくてな」
「バレーは好きですか!?」
「人並みにはできるが、好きってわけじゃないな」
「好きな軍人、戦術、歴史はあるだろうか!?」
「コンスタンティノープルかなぁ。色々と考えさせられるものがある」
「好きな食べ物はなんですかー!?」
「みかんと桜餅」
以上、自己紹介から僅か十秒後に起きた質疑応答、その一部の抜粋である。怒涛の勢いで迫りくる現役女子高生の質問攻めをなんとかかんとか捌きつつ、解散と相成ったのは夕焼けが山の奥に隠れていく直前だった。
倉庫の中に格納された戦車たちを一つ一つ点検しながら、明日から始まる教導の準備を進める渡里は既に満身創痍である。エネルギー量の違いというかなんというか、大人と若者の差を見せつけられたようで、半分グロッキー状態になってしまったのだ。
『んふふ~人気者ですね~』
飄々とした様子でそう言ってのけた角谷を、渡里は恨んだ。はよ止めてくれ、と目線で救援要請したのに、彼女は悉く無視したのである。なお横のいた蝶野亜美は何の役にも立たず、さっさと帰っていった。
『男性だけど、戦車道に関しては頼りになる人よ』
そう言い残して行ったが、果たしてどれだけの人の耳に届いたのか。
本当に何しに来たんだろう、あの人。昔はもっと頼りがいがある人だったはずだが、年々残念な美人になっていってる気がする渡里であった。
残念と言えば、チームの中にコスプレ軍団がいたことを渡里は思い出した。軍帽を被った少女、紅いマフラーを靡かせる少女、六文銭の鉢巻きをまいた少女に、羽織をかけた少女と、随分個性豊かなメンツだったが、あれはなんなんだろうか。やけに歴史関連の質問ばかりしてきたが、そういう集いなのか。周りが普通の恰好をしているだけに、浮きっぷりが凄かったので特に印象に残っている。
「……印象に残る、か」
しかし、そんな濃い少女たちがいても、渡里の記憶に最も鮮明に焼き付けられたのは、栗色の髪をした普通の見た目の少女なのである。クリっとした大きな瞳を目いっぱい見開いて、唖然とした様子をしていたその少女は……
「何か用か、西住」
倉庫の陰から、小動物みたくこちらの様子を伺っていた。
声で指されたその少女は、ビクーっと身体を一度震わせ、観念したように渡里の目の前に姿を現した。
「……あ、あの」
おずおず、と言った様子で西住みほは此方と地面を交互に見ること四回である。その様子は、渡里の昔の記憶と全く一致しなくて、あまりのギャップに渡里は苦笑してしまいそうである。何があったら、あのお転婆がこんなに大人しくなるのやら。
次の言葉を待つ渡里に、みほはようやく意を決したかのように面を上げて、
「お、お兄ちゃんでしゅかッ!」
盛大に噛んだ。沈黙の天使が倉庫の中を縦横無尽に駆け巡っていく。
渡里はとりあえず、黙ってみた。すると目の前の少女は、瞬間で沸騰していき、りんごみたいな顔になった。
まぁ、と渡里は心の中で苦笑した。気持ちは分かる。なのでここは、大人の男性らしく、華麗にスマートに、女の子に恥をかかせない完璧なフォローを披露してやるべきだろう。
一つ息を吸って、渡里は満面の笑みで言った。
「―――そうでしゅ」
「ふわああああああああああああああああああ」
悲鳴なのか、歓喜なのか。二つを足して割ったような塩梅の声をみほは出した。思わず渡里も笑みがこぼれる。随分と、からかい甲斐のある性格になったものである。
「ち、違うんです!?これはその、ちょちょちょっとびっくりしたっていうかッ、感極まってしまったというかっ!?そ、そうゆうつもりじゃなかったんですけどそうゆうつもりだったっていうか――!!??」
西住みほ は こんらん している!
「落ち着け落ち着け。ほら深呼吸―――吸ってーー」
「は、はいっ。スゥ――」
「吐いてーー」
「はぁ――――」
「吸ってーー」
「スゥ―――」
「お兄ちゃんでしゅ!」
「フェグッ!?」
形容しがたい声をみほは出した。声にならない笑い声をあげて渡里は肩を震わした。本当に弄りがいのある性格になってしまったものだ。
「ごほっ、ごふっ――!ちょ、ちょっとお兄ちゃん!からかわないでよぉ!」
瞳を潤わせてみほは抗議するかのように上目遣いでこちらを見てくる。そのことに渡里は笑みを浮かべた。この位置関係も昔と変わらない。みほと渡里はずっと、こんな風に上から見下ろし、下から見上げる関係だった。
「お前が他人行儀な言い方をするからだ。まったく、ちょっと久しぶりに会ったからってよそよそしくなっちまって…あーあ、お兄ちゃんは悲しいなー」
「だ、だって本当にお兄ちゃんなのか分からなかったんだもん…それにちょっとじゃないよ、六年は…」
「そうか?まぁ、あんときのみほはまだランドセル背負ってたもんな。オキサイドレッドみたいな色したやつ。それがいまや高校生か――」
渡里はじっとみほは見てみる。髪型はほとんど変わっていないが、背丈はぐんと伸びている。スカートから伸びる脚は、昔は絆創膏が目立ったが、今は傷一つなく真っ白だ。そして今昔で明確に異なる、制服を下から押し上げるような、確かな膨らみ。随分と――
「―――大きくなったな」
「セクハラだよ」
あれ、と渡里は首を傾げた。おかしい、本当はもっと感動的な再会をするつもりで、色々セリフも考えていたのだ。それこそみほは涙して抱き着いてくるような。それがなぜこんな冷たい目で見られる羽目になっているのだろうか。っていうか今のは純粋にみほの成長を喜んだ言葉なのだが、酷い誤解を受けている気がする。
「どこ見ていってるの。いまの、場所が場所なら即逮捕だよ」
「バカ違うわ。全体見て言ったの俺は。胸しか見てないなんてことはねぇ」
ジー――という効果音が付きそうなくらい、渡里は半眼で見られた。いかん、好感度が急降下している。ヴァリアントの開発者でさえ、こんな目で見られなかっただろうに。
「――――ほんとうに」
どうして弁解したものか、と知恵を絞りだそうとする渡里は、切々とした声に思考を止められた。
「ほんとうに、お兄ちゃんなんだね…」
「―――まあ、な」
その言葉には、数え切れないほど多くの、そして複雑に絡み合った感情が込められていた気がした。昔は感情がすぐ顔に出るようなタイプだったが、成長と共に顔の皮も厚くなってしまったようで、渡里にはみほがどんな気持ちなのか察することができない。ただ漠然と、仄暗い思いが大半を占めているような気がしてしまう。
「―――そうゆうお前は、本当にみほか?」
あえて遠回しな聞き方をしてみる。からかうようで、核心を突くような、曖昧な声色と表情で、渡里は言った。
するとみほは、上から抑えつけられたように、下を向いてしまった。渡里は難しい表情になる。やはり、というべきか、安易に触れてはいけない部分をかすめてしまったらしい。
「わ、私……」
「いいよ、みほ。顔をあげろ」
恐る恐る、といった様子でみほは、揺れる瞳で渡里の目を覗いた。本当に、変わってしまった。自発的に変わったのか、それとも他人に変えられたのか、渡里にはわからない。しかしこの子は、太陽のように笑う姿がよく似合う少女だった。それを、失くしてしまっていることが渡里の心に重い事実として沈殿してゆく。
「ぐだぐだになっちまったな……うん、でもまぁ、そんなのが俺らしいかもな?」
揶揄うように言って、渡里はみほの下を向きがちな栗色の頭に、手を置いた。この感触は、あの頃と何一つ変わっていない。この少女に伝えるべき言葉は、最初から決まっていたはずなのに。随分と回り道してしまった。
「―――ただいま。約束を守れて、良かったよ」
言いたいことが、たくさんあるんだろう。それは分かる。
後ろめたいことも、一つくらいあるのかもしれない。構うものか。
ただこの言葉が、少しでもお前の心を軽くしてくれるのなら。それで良い。
「――――っ」
みほは一瞬動きを止め、そして渡里の胸に飛び込んできた。女子とは思えない力で締め付けられるが、それはきっと思いの強さに比例しているのだろう。なんかミシミシいってるけど。
押し付けられたみほの顔は、渡里からは見えない。
ただ震える肩と、僅かな湿り気から渡里は察した。言葉はいらなく、ただ小さな背中を一つ、あやすように叩いてやった。
この感触も懐かしい。はしゃぎすぎて母親に叱られて、半べそをかいている妹を慰めるのはいつも渡里の役目だった。その度に服がべちゃべちゃになって、仕返しとばかりに母親の部屋に投げ込んでやって、今度は二人一緒に怒られて。もう一人の妹が困ったような顔で仲裁しにくるのがいつものパターンだった。
「お前が戦車道を、本当に嫌いになってなくて良かった。それはちょっと、悲しいからな」
「……うん、うんっ。私も、良かった。またお兄ちゃんに会えて、あの時勇気を出してよかったっ」
「そっか、そっか―――だったら俺も、諦めなくて良かったよ」
身体を抱きしめる腕に一層、力が籠った。決して離さないように、再会の喜びをそのまま伝えるかのように。
六年前に別れた兄妹の、感動の再会が、そこにある。
文句なしに、渡里はそう思った。予定とは違ったが、これはこれで良いだろう。みほは泣いてるし、俺もちょっと泣きそう。観客がスタンディングオベーションする程の劇的な一幕だ。だれか写真に収めてくれ。一枚3000円で買う。
「―――なにしてるんですか?」
しかしこの時渡里は気づいていなかった。当事者から見れば号泣ものの場面も、第三者からみればまた違った風に見えるということに。
何事か、と振り返った渡里の視線の先には、四人の少女がいた。長い黒髪の女子、白いカチューシャをつけた小柄な女子、おさまりの悪い髪型をした女子、そして明るい髪色をした女子。色々とりどりで見た目も千差万別な少女たちだが、ある共通点があった。
――――なんか、すごい冷たい目で見られてる。
「どうゆうことですか、神栖さん。なんで、みほが泣いてるんですかぁ…!?」
「なんでって……」
渡里は冷静に、今の状況を振り返ってみた。
いい年した成人男性。
その胸に抱き着いて泣いている女子高校生。
男性は女子の背中に手を回していて、女子の腕には凄い力が込められている。
渡里は脳内で、豆電球が点灯した。
「みほに……」
「あぁいや、ちょっと待ってくれ…これには深い事情があってだな…決して変なことをしてたわけじゃあ」
渡里は感心した。事実を言っているだけなのに、なんかすごいやましいことの言い訳をしているみたいになった。事実を言っているだけなのに。不思議ぃ。
「みほに、何したんですかーーーーーーーー!!」
怒号が10ポンド砲みたいな威力で渡里の身体に叩きつけられた。追撃するように、計八つの目から放たれたレーザービームが渡里の身体を射貫き、さらに冷風となって肉を裂いていく。
事案発生。この四文字が風穴だらけ傷だらけの身体に、シールみたく張り付けられたのを渡里は感じていた。
○
「えらいめにあった」
みほの隣を歩く渡里は、死んだ目で虚ろに呟いた。足取りは重く、まるでゾンビみたいな様である。高い背丈は猫みたいに曲がって、背中は煤けている。
そのあんまりな様にみほは苦笑した。自分が原因の一部であるため、励ますのもなんだか気が引けてしまったのだ。
あれから武部沙織の怒号で我に返ったみほは、あわてて事情を説明した。
神栖渡里は自分が幼い頃いっしょに住んでいた兄だったこと。
自分が小学生の時にイギリスに留学していって、それっきり連絡がつかなかったこと。
予期せぬ再会に感極まり、思わず抱き着いてしまったこと。
白い目だった四号戦車の乗員たちも、みほが嘘をついておらず、全てが事実だと理解したところで、「今度から紛らわしいことはしないように!」という注意だけをして帰っていった。
その頃にはすっかり日が落ちていて、辺りは真っ暗である。今歩いている道も、街灯が無ければ何も見えなくなってしまうだろう。
本当に危ない所だったと思う。あともう少し遅ければ、秋山優花里の右手に握られていた携帯電話が魔法の呪文を発信し、その威力を余すところなく発揮していただろう。
兄が明日の一面を飾ることになるのは(それも性犯罪)みほもごめんだった。
「はぁ……いきなり好感度がマイナスからスタートかぁ…やりにくくなったなぁ」
「だ、大丈夫だよ!もうみんな分かってるから!それに良い人ばかりだし、お兄ちゃんの好感度は限りなくニュートラルだよ!」
「それはそれでどうなの」
あう、とみほは唸った。どうにも人をフォローするのは苦手である。それこそ武部ならば花丸をつけられるくらいの言葉を掛けられるのだろうけど。
「せっかく身なりも整えたのに、何の意味もありゃしない。こんな窮屈な恰好するんじゃなかったな。箪笥の奥から引っ張り出して埃まで落としてやったのに」
「いつからそんなことできるようになったのお兄ちゃん」
みほの記憶の奥の方にある渡里の姿は、本と衣服が乱雑に置かれた部屋の真ん中で、妹達のプレゼントを枕とアイマスク代わりにして寝るような、デリカシーとか気遣いとかとは無縁のところにあった。それが社会人的なマナーを使いこなすようになるとは、これが留学の成果なのか。
「雑誌にも『女子高生はクールな男性に憧れを抱くもの!大人っぽさを強調するとグッド』って書いてあったから挨拶も短めにしたのに…本当は原稿用紙六枚分くらい話すつもりだったのになー」
「お兄ちゃんその雑誌すぐ捨てたほうがいいよ。でたらめだよ、それ」
「うそ」
留学しても中身の残念さがあんまり変わってない、と思うみほであった。というか2400字も話すつもりだったのか。模擬戦で疲れてるところにそんな長文の挨拶を聞かされては、それこそ好感度ダダ下がりだ。短めにしておいて、正解だったかもしれない。主に兄の残念っぷりが露呈する的な意味で。
この時点で、角谷と話している時の渡里の姿をみほは知らない。
「なるべき印象はよくしときたかったが、意味なしかぁ…うーん、女子高生は難しいな」
「そういうのが好きな人もいるかもだけど、誰だって愛想がいい人がいいに決まってるよ」
「そうか、じゃあ明日からはその路線で行こう。赤い蝶ネクタイと小粋なジョークをいくつか用意しておく」
「お兄ちゃん、愛想ってなにかな?」
エセ外国人みたいなキャラで来られたらどうしよう。みほは遠い目になった。著しく不安だ。愛想とひょうきんを勘違いしてないだろうか。
「女子高生なら目の前にいるんだから、私を参考にしたらいいんだよ」
「感性が一般人から200ヤードくらい離れてる人はちょっと」
カバンが渡里の腹を直撃し、くぐもった声がした。
「ごめんお兄ちゃん。手が滑っちゃった」
「……いやー、ドジっ子属性の妹は古き良き文化だけども。流石にリアルでやられるとちょっと引く――――」
「お兄ちゃん、それ以上言うとまた私の手が滑るかも」
「素直で正直な妹を持って幸せだなーお兄ちゃんは」
白々しい声だった。
兄妹。みほと渡里の関係を示す言葉は、それ以外にない。チラ、とみほは横目で兄の姿を伺った。
身長は目測でも180センチを超えており、みほの記憶の中にあるそれより明確に大きくなっている。声色も少し低くなっていて、大人を感じさせる。
見た目の変化は、寧ろそれくらいだった。そして中身は、誠に残念ながらあんまり変わっていない。
少し残念で、からかい癖があって、デリカシーがちょっと足りてない、そんな性格。
今のようなやり取りも、懐かしいが珍しいものではなかった。渡里が留学する直前の、精神がちょっと成熟してきた小学校六年生くらいからはあった気がする。流石に今ほどではなかったが。ちなみに今は遠慮のなさがランクアップしている。
「一応聞くけど学校でもそんな感じなのかお前。兄として忠告しとくけど、そういうキャラは諸刃の剣だぞ」
「そんなわけないでしょ。身内だから遠慮しないだけだよ」
「おかしい。さっき倉庫で六年振りの再会に涙してた可愛い妹どこいった?」
「そ、それはお兄ちゃんの気のせいじゃないかなぁ…?」
「目ぇ泳いでるぞ」
頬に熱が籠るのを感じて、みほは渡里から顔を隠すようにした。西住みほ、不覚。泣くつもりは決してなかったはずなのに。寧ろ今まで連絡一つも寄越さず何してたんだ、と怒ってやるつもりだったのに。でもダメだった。渡里の顔を見て、声を聞いて、香りを匂って、温もりを感じたら自然と泪が流れてしまったのだ。
「お兄ちゃんのせいだね……」
「あん?何か言ったか?」
自分が胸の奥に隠していたものを、周りに気づかせないように秘めていたものをあっさり見抜いてしまうから。
でもそれが、不思議と――――
「――――無理、してないよな」
会話が止まった僅かな間隙を突くように、渡里はそう切り出した。弾かれるように顔を上げ、みほは渡里の顔を見た。彼は此方を見ずに、ただ真っ直ぐに前を見ていた。
無理。渡里が何を言っているのか、その意味をみほは直ぐに理解した。
ほら、と思わず苦笑した。この兄はいつもそうだ。普段はそんな素振りを一切見せないくせに、人の心に敏感で、良く識っていて、みほや姉が少しでも弱ると、いつでも傍にいてくれた。忙しい父や母の代わりというわけではなかったが、みほが泣いているときに横にいるのは、決まって渡里が最初だった。
頭をなでて慰め、背中を押して励まし、一緒に笑う。たったそれだけのことで、みほは元気づけられていた。
「なんで大洗にいるかは知ってる。そのことに関して、俺は何も言わない。……言いたくなったら、聞いてやるけど」
あの時の光景が、鮮明にフラッシュバックした。青く染まった顔を、見られないように伏した。
「ただお前が今から歩こうとする道が、お前自身が選んだのか。それだけが心配だった。生徒会長の角谷は、『説得』したって言ってたけど、実際はどうか分からないし、昔はともかく今のお前じゃ、断るに断れなかったんじゃないかって、な」
昔のお前はマジで聞き分けが悪かった。苦笑しながら渡里はそう言った。
「でも模擬戦で戦車道をしているお前を見たらさ、大丈夫だな、とも思った。さっきの話を蒸し返すわけじゃないけど、友達に恵まれてるよ、お前。一人のために四人も集まって、大人相手に怒鳴ってくれるなんて、良い子ばかりだ。お前がまた戦車道をやろうって気になったのも、あいつらのお蔭かなってさ。どうだ?」
渡里の顔が、こちらを向く。
「……うん、そうだよ。武部さんと五十鈴さんが、手を握ってくれて、私の味方だって言ってくれたの。秋山さんと冷泉さんは、戦車道を通して出来た新しい友達なんだ」
一人一人の顔がみほの頭の中に浮かぶ。すると暗澹とした気持ちが、薄らいでいく。だからみほは、渡里の瞳をまっすぐにみて、言った。
「―――大丈夫。まだちょっと怖いけど、それでも私は自分で、自分の道を決めたから」
その笑みを見て、渡里は瞠目した。そしてすぐに、柔らかな笑みを浮かべた。
「そっか。なら良かった」
くしゃくしゃ、とみほの頭をなでる渡里の手を、みほは払いのけなかった。きっと今、自分はだらしない顔をしているだろう。高校生にもなってと思うが、しかしたまには甘えてもバチは当たるまい。なんたって、六年振りの温もりなのだから。文句があるやつは出てこい。私が相手になる。
自分を想い、護ってくれる人。それがどれだけ嬉しく、安らぎを与えてくれる存在なのか。みほはいるかもわからない神様に感謝した。
「そのふにゃふにゃした笑顔は変わらねぇな…」
「ふふーん、お兄ちゃんこそ妹に甘いのは変わらないね?」
「妹が甘えん坊だからなーー肩車でもしてやろうか?」
「そうゆうお兄ちゃんは、妹の膝枕いらないの?」
「昔と違って、今はお前の太ももより柔らかい枕があるんでな」
「私も身長が伸びたから、肩車はいらないかな」
「まだまだ小さいわ。しっかり飯食べてるか?」
「この前ハンバーグ作ったよ。そのままフリスビーに使えそうなやつ」
「何グラム買ったんだよ……」
街灯が僅かに道を照らす中、二人は横に並んで歩いていく。辺りはすっかり真っ暗だが、二人の表情は明るい。波の音が遠くで響き、潮の香が鼻腔を擽る。遥か彼方の陸地で別れた二人は、海の上で再会した。そのことがどれだけ確率の低いことであったか。しかし二人はこう思う、これは必然だったのだと。
神栖渡里と西住みほ。後に大洗女子学園を引っ張っていくことになる二人は、今はお互い笑いながら一緒の道を歩いていく。
共に戦車道をする。そのことに、何よりの喜びを感じながら。