「ほら、早く起きろ」
誰かに体を揺すられている。
おかしいな、俺はずっと一人で暮らしているはずなのに。
俺を起こしてくれる人なんて、とうの昔にいなくなったはずなのに。
気だるい体に喝を入れて半身を起こして目を開くと、電灯の眩しい光が飛び込んできて思わずまた瞼を閉じそうになる。
「こら、寝るんじゃない。あたしは今日早いんだ。朝ごはんが一緒に食べられないだろう?」
朝ごはん? 誰と、誰が一緒に食べるんだ?
「ん? 誰って、あたしとセルジオだよ」
目を、開ける。すると、眩しい光の中に溶けるようにぼんやりと淡い金髪が踊っている。見慣れていて、けど、ずっと見れなかった髪の色。
「
あの人が、ふっと楽しそうに笑った。薄ぼんやりと見えるその笑顔は、どこか星とか、そういった美しさを持っているような気がした。
その人のその笑顔が堪らなく懐かしくて、腹が立つほど嬉しくて、そして同時に落胆する気持ちも現れる。
「ほら、さっさと行くよ。時間を無駄にするのは良くない」
言われるままにあの人の後ろをついていく。すると食卓にはスクランブルエッグとトマトのスープ、そして黄金色のトーストが並んでいる。どれもあの人の得意料理だったもの。
「ん、そう言えば今晩は███も来るぞ」
嗚呼、懐かしいな。そう言えば俺たちの、いやあの人の家には、███さんもよく来ていたんだっけ。そんな事も、最近は忘れかけていた。今思えば、あの二人は一体どんな関係だったんだろうか。そんなこと、今更考えたところでなんの意味もないのだけれど。
「何ぼーっとしてるんだ? サクッと食べるといい」
あの人が笑った。
ああ、これは夢だ。
だって、あの人が俺に笑いかけてくれることなんてもう無いんだから。
これはただの夢だ。
俺が死なせたんだから、もういないはずなんだよ、あの人は、セピア・アウディは。
──俺の母さんは。
だからこれは全部夢だ。なら、目覚めなきゃ駄目だ。
だって、俺はまだ全然あの人の代わりになれてないんだから。
そう心の中で呟く。すると、ぐんにゃりと視界が歪んで、周りが真っ赤に染まっていく。なんだかエクリプスを使ったときみたいだ、と何となく考えていると、頰に焼けるような熱が俺のことを取り囲んだ。
感じるのは風が運んでくる熱か、もしくは耳を塞ぎたくなるような悲痛な声だけだ。
そして目の前には紅く濡れたあの人が転がっている。何度も夢に見た光景だ。何度も目に焼き付けた思い出だ。
「セルジオ」
ぼうっとあの人を見ていると背後から声がかかった。
「……セピアは」
ひどい表情だな、███さん。
昔、俺はこの人になんて答えたんだっけ? 確か、こんな感じだっけ。
俺が昔の記憶を頼りに問いかけると、厳つい表情に悲痛の色が刻まれる。しばらく、彼は何も言わなかった。けれど、俺に見つめられているせいか、それとも赤いあの人の体を見たせいか、ゆっくりと口を開いた。
「████████████」
嗚呼、懐かしい。そんな事を言われたのだっけ。
ほんとうに、懐かしい思い出だ。
目の前で眠っている人の顔をちょい、とつついてみる。じっとりと汗が滲んでいる肌は青白く、自分のものよりかは弾力がなく堅めな感じがした。
「また、無理してたのかな」
多分そうだ、と心の中で結論づける。きっとまたなのはや、クイントやメガーヌ、ゼストの三課の仲間には悟られないように何か無茶をしていたのだろう。
「元気になったらたっぷり叱っちゃうからね」
なのはは布団をかけ直してやるとベッドの側から立ち上がって部屋の中の小さな台所へと向かう。
すると、その途中床に転がっていたアイロンに気づいて、足が止まる。
「……制服のために、かな」
ぼう、となのはが呟いて、今自分のいる場所──宿舎のセルジオの部屋を見渡す。
そこは、ただ広く、大きな部屋だった。以前仕事の為に女子寮に泊めてもらったことがあるが、その部屋よりも何倍も大きく見える。
それは決してセルジオが分隊長だから大きな部屋を与えられている、とかそういった理由ではない。
その部屋は、唯々空虚で、そのせいでだだっ広い印象を与えているのだ。
備え付けのクローゼットと、小さな台所と冷蔵庫。そしてそれ以外には
あるものといえば乱雑に積み上げられた教本と、部屋の隅に転がしてあるアイロンくらい。
おおよそセルジオがここで生活しているなど信じられないような生活感のなさ。
「なんだか、寂しい感じ」
それは小さな呟きだったが、だだっ広い部屋でその声はよく響いた。
倒れたセルジオをベットに運んでからもうすぐ一時間が経とうとしていた。
少し早めに仕事を抜けさせてもらったので、急いで家に帰らなければならない時間でもない。なのでしばらくの間、せめてセルジオが起きるぐらいまではここにいようと決めたなのは。
かといって何かする事があるわけでもない。できるのはせいぜいセルジオの近くにいてやることと、頭に乗せた濡れたタオルを変えてやることくらい。
有り体に言うと物凄く暇であった。
むむむ、となのはが腕を組んで唸る。
せっかく来たのだから看病のついでに何かセルジオのためになる事をして帰りたいと思ったのだ。けれど、なのはも男の部屋に来ることなど初めての経験である。何をしていけば喜ばれるかなど皆目見当もつかない。
「こういう時ドラマなんかだったら……」
なのはの脳裏に先週姉と母親とみた夜のドラマの記憶が呼び起こされる。ちょうど主人公が風邪をひいた恋人の見舞いに行く回だったのだ。
「たしか、ごはんを作って、体を拭いてあげてたような」
ご飯は無理だ。そもそも食材がないし、それに人にお出しできるような満足な料理が作れる腕ではない。
それに、体を拭いてあげるのも……普通に考えて無理だ。相手が女性や、恋人ならともかく、相手はセルジオだ。ただの上司で相棒。それ以上でも以下でもない。
「こ、恋人かぁ……」
もやもやとなのはの思考の中にまだ見ぬ未来の恋人の姿が現れる。まだ全然想像もできないがいつか自分にも現れる事があるのだろうか。
(できるなら優しい人がいいな。それに身長が高くて、お仕事とかも尊敬できる人で…………あれ)
言葉にしているうちに変な気分になってくる。イメージなんてなかったはずなのに、なんだか一人の青年の姿が浮かび上がりそうだったのだ。
「か、片付け! お部屋の片付けにしよう!」
なのはは茹だって来た思考を無理やりカットすると、むん、と腕に力を入れる。真剣な面持ちで片付けを始めた。
「終わっちゃった」
そして速攻で終わった。
セルジオの部屋にあるものは小さな冷蔵庫とアイロン、そして何かの教本くらいである。冷蔵庫は何かをする必要はないし、アイロンはコードをしまって部屋の隅に。残りの教本も本棚がないせいで邪魔にならないところに並べるくらいしかできる事がなかった。
所要時間、およそ五分。
「私物少なすぎるよセルジオくん……」
なのはかがっくりと肩を落とす。本当に生活感がなくて、正に寝て起きるためだけの部屋、といった様子だ。
「あれ?」
けれど、そんな中でふとなのはの目を引くものがあった。玄関の近くの戸棚の上に一つの写真立てが置かれているのだ。
伽藍堂の部屋の中で、まるでそれだけに色がついているようで、ことさら異色を放っている。
「誰の写真だろう」
百均にあるような安っぽい木の写真立てのなかでは、陸の制服を身に纏った女性が厳つい男性二人に挟まれてにっこりと笑っていた。
隣の男二人もどこか見覚えがあるが、そんな事よりも、写真の中の女性の瞳がセルジオのものとよく似た翠色である事が気にかかった。
「これって…………」
思わずなのはが写真に手を伸ばして、背後からがたり、という大きな物音が聞こえた。
「セルジオくん!」
弾かれるように振り返ると青白い顔のセルジオがベットから転がり落ちていた。なのはが慌てて駆け寄って抱き起こす。
「この声、高町か……めいわく、かけたな」
「もう風邪なんだから無茶しないで! 早く薬飲んで寝よう?」
「か、ぜ…………ああ、そういや、
セルジオから乾いた笑い声が漏れた。
「悪いな、高町。薬なら、そこの台所のところにあるから、取ってきてくれないか」
「う、うん。今日は早く飲んで寝てね」
「はは、たかまちには、かてないなぁ……」
ベットにもたれかかるように座らされたセルジオがまた乾いたように笑う。瞼は未だ開ききらず、ちゃんとなのはの顔が見えているのかも怪しい。
なのはは少しセルジオの様子に眉を寄せたが、ぱたぱたと台所へ薬を取りに走っていく。
セルジオはその様子をぼんやりと見つめる。
風邪をひいたセルジオの為にわざわざ見舞いに来てくれた後輩。
いつも自分の体のことを心配してくれる相棒。
その存在がとてもありがたくて、そしてたまらなく大切だなと感じる。
壊してみたらどんなに楽しいだろう。
本当に、高町なのははセルジオ・アウディにとって何物にも変えがたい。
「ほらとってきたよ、飲み物はお水でよかったかな」
「ああ、ありがとう。助かるよ」
教授謹製の薬を受け取ると手に5、6粒ほどの錠剤を乗せて覚束ない様子で口に入れる。
「ほら、口開けて、水飲んで」
「ん、ん……」
言われるがままに口を開けるとなのはが軽く頭を抑えてペットボトルを口に添えてくれた。どうやらセルジオの体を気遣って飲ませてくれるつもりらしい。
軽く入れらる水で錠剤を全てまとめて流し込んでいると、ゆっくりと目蓋が開いて、なのはの真剣な表情が視界に広がった。
栗色のツインテールは水に濡れたように艶やかで、いつもの薄紫の瞳は宝石のアメジストを思わせるようにきらきらと輝いている。
頰もやわっこそうで、肌なんか透き通るように白い。髪から目、頬、とだんだん視線が下がっていって、なのはの首元あたりで動きが止まった。
細くて、白くて、少し力を入れれ折れてしまいそうななのはの首。
試しに少し締めてみても良いだろうか。きっと、とても綺麗だと思うのだけれど。
熱に侵されたような赤い思考のままでなんとなく目の前の少女へと手を伸ばそうとする。
「あれセルジオくん目が赤い……?」
だが、滑り込んできたなのはの声に瞬時に正気に戻ると、上げかけていた手を思いっきり払った。
「───ッ!」
「きゃあっ」
がこん、とペットボトルに腕が当たって空を舞う。しばらくの間、水を撒き散らしながら回転していたボトルは数回転の後に、床へと落ちて、部屋の端へと転がっていく。
溢れた水が、押しのけられたなのはと、荒い息でベットに寄りかかっているセルジオとの間に流れて、一筋の小さな川を作った。
「セル、ジオくん……?」
なのはが戸惑った様に名前を呼んで、少しだけ身を引いた。
「あなたは、誰……」
「ーーーーー」
セルジオは自分の目元を強く抑えたまま何も言わない。ただ、荒い息のまま何かを繰り返し呟いているだけだ。
「悪い、高町、帰ってくれ」
「え、でも……」
「いいから! 帰れっていってるだろッ!」
珍しく荒げられた声になのはの体がびくり、と震えた。
「明日には、普通の俺に戻ってるから。だから…………」
──頼むから、今日は、帰ってくれ。
懇願するようにか細い声を絞り出すセルジオ。
なのはにはその姿はまるで、泣き続ける幼子のようにも見えた。
ミッドチルダから海鳴へと帰ってきたなのはがぼうっと空を見上げる。
がらんどうの部屋。
様子のおかしいセルジオ。
知らない女の人の写真。
一瞬、赤く見えた翠の瞳。
「私、セルジオくんのこと、何も知らない」
だからこそ、「待ってる」と彼にはそう伝えた。いつか話してくれたらいいと、そう思ったから。
けれど、そのいつかとは、いったいいつ訪れるのだろうか。
セルジオくん、という小さな呟きが澄んだ秋の空に吸い込まれるように消えていく。
もうすぐ、冬が訪れようとしていた。
好きな食べ物はなく、嫌いな食べ物もない。
人を嫌いもしなければ、嫌われても気にしない。
部屋に私物もなければ、それに気付く人もいない。
それが彼の定めた在り方。
・一定までの侵攻により章タイトルがアンロックされます。