「ほらもう9時だ、そろそろ寝る時間だ」
「まだ、おきてる……」
「いい子にしないとガリューが森に帰っちゃうぞ」
「ガリューは、いつでも私のそばにいるもん……」
「ならガリューがもう眠いってさ。一緒に寝てあげてくれ」
「んぅ……」
目をこしこしと擦るルーテシアは、兄に導かれるままよたよたと自室のベッドに向かう。ベッドでは既にガリューがシーツをきっちりと伸ばして布団の用意をしてくれている。
「サンキュ、ガリュー」
こくり、とガリューが頷く。
セルジオは軽くガリューの肩を叩くとベッドに入ったルーテシアに布団をかけてやる。
「ほーら、おやすみだ、いい夢をな」
「ねむくなるまで、お話しして」
「むかーしむかしルーテシアは眠りにつきました。これでいいな、おやすみ」
「むう……」
不満そうなルーテシアの頭をワシワシと撫で、側のガリューに「早めに寝せてくれよ」と声をかけておくのも忘れない。ルーテシアはガリューとある程度の意思疎通ができるので夜遅くまで話し込んでいたりするのだ。
最後に部屋の電気を豆電球に変え、扉をほんの少しだけ開けておく。まだ真っ暗だと怖がってしまうルーテシアへの気遣い。
リビングに戻ると一緒に見ていたアニメを止めて、ルーテシアのマグカップの中を覗き込む。
中には少し前に入れてやったココアが半分ほど残っていた。
やれやれと、頭をかいて生ぬるいココアを飲み干す。温度が低いのはわかるが、それ以外は味の違いはよくわからないが、生まれついてのことなのであまり気にしない。
空いたカップを持って台所へ行き、水につけておく。今日の洗い物は終わってしまったので、明日の朝食の後のものと一緒に洗うことにする。
「ん…………仕事、するかぁ」
軽く伸びをして凝り固まった筋肉をほぐすと、帰宅の時に小物入れに入れておいたゼファーへと手を伸ばして、ポーン、とインターフォンが鳴った。
「こんな時間に誰だ?」
回覧板ではないだろうし、特にこの時間に尋ねてくる知り合いに心当たりもないので、傍迷惑な宗教勧誘か何かだろうか。
「前来た夜天教は後輩が夜天の主ですって言ったらすげえ顔してたな」
探せば覇王とか聖王の子孫もいたりしないだろうか。
そんなくだらないことを考えながら玄関で反射的に軽く解析魔法を使おうとする。
「──とと、あんまし頼るなってシャマル先生に言われてたんだった」
いかんいかん、と独り言。
そして玄関の覗き窓に目を合わせて、ふっとセルジオの顔から色が消えた。
「……よりによって、お前か」
見知らぬ人だったからではない。親しくない人だったからではない。会うのが嫌な相手だったからでもない。
けれど、だからこそ、今まで関わるのを避けてきた相手でもあった。
「……わかってる。いつまでもこのままじゃいけない」
がちゃり、とセルジオが解錠して扉を開け、反身を乗り出すと、意を決したように扉の前に立っていた人物と顔を合わせる。
「ちゃんと会ってくれるんだな」
「……わざわざ来てくれたのを無下にはできんよ」
「そうか、ありがとう」
彼はいつのまにか随分と低くなった声で、けれど昔とほとんど変わらない様子で黒い髪の奥の群青の目を細めた。
「ま、入れよ、
「乾杯」
「乾杯」
こん、と缶をぶつけ合うと、どちらも薄く口をつけた。
「急に押しかけてきて悪かったな。少し君と酒が飲みたくなってしまった」
「別に構わんさ、俺とお前の仲だ。最も、俺は酒に弱いからあんまり付き合えないが」
「本当に酒を飲みたいだけなら飲み屋に行く。セルジオと、って部分が肝だ」
「左様で」
くいっとセルジオが缶の中身を傾ける。基本的にセルジオは酒などの嗜好品を買うことはない。眠気覚ましの為にコーヒーや栄養ドリンクを買うことはあるが、それだけだ。
だから今飲むのは全てクロノが買ってきてくれたものだったりする。
「最近どうだ、海の方は」
「管理世界、管理外世界にロストロギアと忙しくい。まあつまりいつも通りだ」
「そりゃ大変そうだな」
「自分で船を持つことがこんなに大変とは、母さんの下にいた頃は思いもしなかったよ」
「そういや昇進したんだっけか。提督って言ったら陸で言えば……佐官扱いか。敬語でも使った方がいいですか、ハラオウン提督」
「君の階級を追い抜いたのは最近の話じゃないと思うが?」
「言ってろ」
くく、とセルジオが頬を緩め────そうになるが、何かを思い出したように表情を陰らせた。
まるで、笑みを見せてはいけないことを思い出したかのように。
「……君とこうして話すのも随分と久しい。確か半年ぶりくらいになるんじゃないか」
「……だな」
「三人で集まったのに至っては、あいつの葬式以来一度もない。ヴァイスとは?」
「時々顔を合わせるくらいだな。あいつ、この前転属して今は機動五課所属だよ」
「それはまた大出世だ。相変わらず妹とは仲良くやってるだろうか」
「さあてな、そろそろ思春期だろうからな、案外『兄さん嫌い』とか言われてるかもな」
「泣きそうなヴァイスが眼に浮かぶ」
「はは、違いない」
そしてまた会話が止まる。
リビングに広がる静寂の中で、セルジオは手の中で缶を弄ぶ。結露した水が表面を滑り落ちながら周囲を巻き込み、大きな雫となって机を濡らす。
「あー、セルジオ、はやては、どうだ? 今は君の部下なんだろう」
「良い人だ。思いやりがあって、優秀で、人をよく見てる。ああいう人はなかなかいない」
「少し心配してたんだ、僕は」
「心配? 八神を?」
「君をだ。君はなのはがいなくなってから」
「クロノ」
すっと、底冷えするような低い声がクロノの言葉を遮った。セルジオ自身、自分の口からそんな声が出て些か驚いたくらいだった。
「……腹の探り合いみたいな会話は、やめろ。何か話したくて、わざわざ事前に予定を確かめずにきたんだろ」
な、と向けられた目線に、しばらくの間クロノは何も言わなかった。けれど、缶の中身を口の中に流し込み、酒精の力を借りて、口を軽くした。
そして、居住まいを正し、淀みのなく言葉を紡いだ。
「今日はこれを渡しにきた」
差し出されたのは綺麗に箔押しされた一通の手紙。裏返してみてみれば、そこにはクロノとエイミィの名前が書いてある。
「……これ、まさか」
ああ、とクロノが頷いた。
「来月結婚する、エイミィと」
セルジオが面をあげて、手紙からクロノへと視線を移す。そこにはもう、先ほどまで垣間見えていた迷いはない。
「酒の席の冗談、ってわけじゃなさそうだな」
「もう挨拶も式場の予約も、随分前に済ませた。披露宴の招待の手紙も、ほとんどの人に送ってる」
「それは、その、なんだろうな……」
視線がまた受け取った手紙に落ちる。なんと言うべきなのか、何を伝えれば良いのか、そんなことばかり考えてしまって、祝福の言葉が出てこない。
「納得できないって、顔だな」
「──そんなことッ」
「良いんだ、セルジオ。君がそう思うのも僕はわかる」
ふっと、クロノが表情を緩めた。
「今でも、ティーダのことを思い出すよ。あの日の無力と、後悔を」
「……ああ」
「ずっと考えてきた。迷ってきた。ティーダが死んで、僕は何をすべきなんだろう、何をなして行くべきなんだろうって」
きっと、彼らの関係はあの日に一度終わってしまった。『四人』が減って『三人』になる事はなく、彼らは一人と一人と一人に変わってしまった。
それだけ、ティーダの存在は、彼らにとって『当たり前』だった。
「でも現実を否定しても何も変わらない。僕たちは生きてるんだ。だから、生きて、精一杯生き抜いて『幸せ』になるべきだ」
クロノが、セルジオを真っ直ぐ見つめたまま言葉を続けた。
「月並みな言葉にはなるが、きっと、それをティーダも、死んでしまった僕の父も、望んでいると思うから」
「……でも、そんなのただの俺たちの勝手な予想だ。どれほどその人の為と言っても、死人が蘇る事はない。何が彼らの本当の幸いかなんてわからない」
「そうだ、わからない。きっといつまで考えても答えは出ない問題だ。だからこそ、僕たちは足掻く。何を人生の指標とするべきなのか、『幸せ』とは何なのか。
それについて考え続けることが、人であると言うことなんだと、僕は思う」
セルジオは、何も言わない。
それに対して、クロノはゆっくりと言葉を締めくくった。
「セルジオ、君は幸せになって良いんだ」
セルジオは何も言わない。言えない。何を言うべきかも、わからない。
「……まあ、結婚式まで時間もある。来るかどうかは、ゆっくり考えてくれ」
「ああ、悪いな」
「謝るなよ、何も悪い事はしてないだろう」
僅かに頬を緩めたクロノは缶に残っていた酒を飲み干すと、赤みがさした顔で手早く荷物をまとめる。
「帰るのか」
「家でエイミィが待っているんだ。あまり遅くなると家から締め出されかねない」
「結婚前から尻に敷かれてるじゃねえか」
「まあ、エイミィだしな。彼女に勝てる奴なんて僕らの中では一人もいなかっただろ」
「ならお前が勝てないのも道理、か?」
「残念な事にね。それにエイミィの尻に敷かれるのは存外悪くない気分でね」
「堂々と惚気るんじゃねえよ」
とんとん、と爪先で地面を叩いて靴を履いたクロノの背中を見送りに来ていたセルジオが軽く殴る。
クロノが扉に手をかけて部屋を出ようとして、わざとらしく「ああ、そうそう」と声を漏らした。
「実は友人代表のスピーチ、まだ決まっていなくてね。君さえ良ければ任せたいんだが」
セルジオが呆気にとられたように目を丸くして、力が抜けたように吐息を漏らす。
「わざわざ俺に頼まなくても良いだろ」
「共通の友人で考えれば君が適役なものでね」
「そこらへんはヴァイスとかに投げとけよ」
軽く言葉を交わして、小さく笑い合う。
「じゃあ、また」
「……ああ、また」
ぎい、と音を立てて扉が閉まると、先ほどとは打って変わった静寂が辺りを支配した。
しばらくなんとなく扉を見つめていたセルジオ。けれど、軽く頭をかくと扉に背を向けて、リビングに戻る。
その道すがら、ほんの少しだけ開けておいたルーテシアの部屋を除く。
「……ちゃんと寝てるな」
ガリューの腕を抱いてくうくうと寝息を立てる義妹に表情を緩め、部屋に滑り込むとベットの端に腰をかける。
きい、と小さくスプリングが軋む中、セルジオがルーテシアの顔にかかっていた紫の髪を指で払ってやると、頬の輪郭に指を滑らせる。
ルーテシアからんう、と小さな声が漏れた。
「人を好きになるって、どういうことなんだろうな」
ぽつりと、セルジオが呟く。
セルジオには恋がわからない。愛が分からない。
彼にとって『好き』の気持ちは共通のものであり、そこに恋という区別──言ってしまえば『好き』の優劣──を付けることができない。
「結婚すれば、恋をすれば、幸せなんだろうか。ゼストさんたちも────」
言いかけて、顔を覆って、自嘲気に顔を歪める。
「俺にそんなこと──」
その先の言葉を聞く相手も、彼の心を受け止める相手も、そこにはいなかった。