プロローグ
雨が降っている。薄暗い空から、空気を凍らせて冷たい雨が降っている。それなのに、降り注ぐ雨は、不思議と温かいと感じた。湧き上がる虚無感。この虚無感を、この雨が満たしてくれるのではないか、そう思った。
左手をゆっくりと持ち上げる。暗い、寒い、息苦しい。そんな感覚をかき消すように、人差し指の先に、強く力を込めた。
一
三枝一成はガバリと起き上がった。寝ぼけ眼で部屋を見回し、少し落胆する。『目覚めたら、そこは異世界だった』などという展開を期待していたのだが。
それにしても、珍しく早い目覚めだ。一成は普段、目覚ましが鳴るまで爆睡なのだ。おかしな夢を見たせいだろうか。原因はわからないが、それよりも、一成にとっては、6時40分という、とても中途半端な時間に起きてしまったことの方がよっぽど重要なことだった。
「せっかくの平和な一日の始まりなんだけどなぁ」
もう少し寝たいが、この時間に二度寝しては遅刻してしまう。のそのそと起き出して、日課のトレーニングを終えて、制服に着替える。そして、遅刻ギリギリまで惰眠を貪っている弟を居間まで引っ張っていき、まとわりついてくる姉をかわし、顔を洗って、朝食を作る。早起きをした朝は気持ちがいい。
「遠くで目覚ましが鳴っているけど、気にしない」
「いや、気にしようよ?」
即座に突っ込みを入れてくるうるさい弟。
「元気いいねー」
頷きながら両親と静観を決め込んでいる姉たちとともに、三枝一成の、いつも通りの、平和な一日は、始まりを告げる。
二
制服に着替え外に出ると、そこにはよく知った顔が2つ、篠崎小春(しのざき こはる)と春宮つくし(はるみや ー)だ。
「ところで篠崎、君の名前ってさ」
開口一番、一成は前々から気になっていたことを尋ねてみた。
「おおう、いきなりだねぇ」
篠崎小春は大げさにのけぞり、驚きを表現した。わざとらしいリアクションだが、これが彼にとっての普通である。
「ほんと、女の子っぽいよね。あ、おはよう」
「小春って見た目からしてどっちつかずだからね。それと一成、挨拶のタイミングがおかしい」
見ての通り、一成はマイペースな男である。
そして、なぜ今更一成が篠崎の名前について質問したのかは不明だが、篠崎小春は女子のような名前と、これまた女子のような顔とは裏腹に、性別は男という性別不詳な一成の友人である。
さらに、一成に対してさりげなくツッコミを入れているのが春宮つくし、彼らの通う時雨学園高校にて新聞部が発行している情報誌、『サラマンダー』の常連コーナー『美少女ランキング』(根拠不明)で三年生の先輩と首位を争っている、正真正銘の美少女だ。この3人は、ひょんなことから知り合い、ひょんなことからいがみ合い、ひょんなことから親友と呼べる間柄になったのである。
「おはよう篠崎。君ってここから家って遠いし回り道だよね。なんでいるの?」
「いつも来てるだろう。どうした?今日はやけに俺への意見質問が多いな」
「きっとまた、『なんでここは異世界じゃないんだ〜』って拗ねてるんでしょう?いつものことじゃん」
そんなことを喋りながらバス停へと向かう。
三
時雨学園は、東京ドーム40個分ほどの敷地に建っている。小学、中学、高等で棟が分かれており、幼稚園は敷地内の別の建物にある。エスカレータ式に進学し、ここに入学した者は、だいたい高等部を卒業してゆくのである。
バスを降りて敷地内へ。春の心地よい風が吹き抜ける中を、三人で肩を並べて学校への道を歩くのだが。
はあぁ、とつくしがため息をついた。
「どうしたよ、ため息なんてついて」
「なんで高校の校舎って、こんなに遠いのよ」
「そうだねぇ。僕も入学した時はめげそうになった」
「俺はあんま感じないな。徐々に増えていけばどうということはない」
小春は幼稚園から在籍しているので、三人の中では一番の古株だ。中学から入学してきた一成は、つくしとは高校で初めて会った訳ではないが、きちんと話したのは高等科につくしが入学してきてからだ。
「おっと、案内図によるところの3kmを歩ききったぞ」
高校校舎までの道のりが、直線距離よりもかなり長くなっているのは、間に建っている小学校舎、中学校舎、そしてなぜか事務の棟があり、曲がりくねっているがゆえだ。
予鈴がなっている。もうすぐ授業が始まる。
四
今日は珍しく、小春とつくしは予定があり、一緒には下校できないらしい。折角なので街に出てみることにした。
一成達の住む町は小さな田舎町だが、すぐ隣には田園風景とは縁遠い巨大都市が広がっている。
「さてと、今日はどうしようか」
行きあたりばったりが一成のモットーだが、今回ばかりは失敗したと言えよう。
「君は…三枝くんじゃないか」
(まずい、捕まった!)
目の前に現れたのはスーツを着た長身の男だ。
「今日は君に時間についての楽しい話を聞かせてあげよう」
「いえ、結構です」
逃げようとするも、がっちりと腕を掴まれてしまう。
「いいかい、時間とは、この世の全てのものが持っている変化の歴史なんだ」
もう何度も聞いている話だ。前置きのあとは、淡々と楽しいお話が続くのだ。
「物だって、人だって、その空間でさえも時間を積み重ねている。だから、俗に言うタイムスリップはできないんだ。でも、それがもしそれ自身だったら、出来るかもしれない」
あまりにも馬鹿げた話の展開に、一成は苦笑した。
「もしそんなことができるとして、君は時を遡るんだろうか」
「愚問です。僕はそんなことに興味がない。それに、できたとしても、過去に戻ってやりたいことなんて、ないです」
言って一成は、いそいそと帰路につくのだった。
もう何度、あの男から同じ話を聞いたかわからない。あのスーツの男は、過去幾度となく一成に接触してきた。そして、会う度に同じ話を聞かせてくるのだった。そう、何度も何度も。
五
「本当、なんなんだろうあの人は」
帰宅して、自室にて、一成は布団に体を投げ出して呟いた。
「そう言えば、あの人はいつから僕にあんな事を話すようになったんだっけか」
確か、初めの方はそのような話はされていなかった気がする、と思う。そもそも、彼がはじめて一成の前に現れたのはいつなのか、それすらもわからない。だが、このわずかな違和感も、すぐに消え去った。一成は既に、夕飯のことしか頭にない。寝返りを打つ。微かなクッション性のある掛け布団が心地よい。大して何があった訳でもないが、横になっていまうと睡魔が襲ってくるものである。夕飯時までは、まだ時間がある。少し眠ってしまおう、と一成は静かに目を閉じた。
楽しめていただけましたでしょうか?ものすごく不安です。今回は平和な日常をお送りしました。しかし、彼、三枝一成の日常は、ガラガラと音をたてて崩れ去ってゆくのです。次回以降をお楽しみに!