あの日から時はたった。
私は絶望の淵から立ち上がるきっかけをくれた提督に強く尊敬の念を感じるとともに、
この人のために行きたいと願うようになった。
願いは気力となり、私は日々の鍛錬を全力でこなすようになった。
今日も訓練場に、艦載機の轟音が響いていた。
発艦、攻撃、帰還——全てが寸分の狂いもなく実行される。
「さすが赤城さん...」
見学していた若い艦娘たちから上がる声には感嘆が含まれていた。
あの日以降から今日に至るまでに赤城は見違えるほど強くなった。
戦術眼、判断力、統率力——全てにおいて、この鎮守府で最高の実力者となっていた。
参加した作戦は全て成功。その戦果から「無敗の女王」と呼ばれるようになった。
だが——自身では、その称号を誇りとは思っていなかった。
提督のために勝つ。
提督の期待に応える。
提督に認められ続ける。
それだけが、私の生きる理由だった。
訓練を終え、装備を整えていると——
「赤城、少しいいか」
司令官が訓練場に現れた。
「はい! 提督!」
赤城が即座に駆け寄る。
「共有だ。明日、客人が来る」
「客人、ですか?」
「ああ。俺の士官学校時代の同期でな。今は別の鎮守府で提督をしている」
提督は少し複雑な表情を浮かべた。
「その...模擬戦を申し込まれた。断る理由もないので、受けることにした」
「分かりました。必ず勝利してみせます」
赤城の目に、強い光が宿った。
「提督の顔に泥を塗るようなことは、決してしません」
翌日、港に一隻の艦が到着した。
降りてきたのは、三十代前半の女性司令官。
凛とした雰囲気を纏い、鋭い目つきをしている。
「久しぶりだな」
提督が迎えに出た。
「ええ、直接会うのは何年ぶりかしらね。にしても...相変わらず生真面目そうね」
その女性は軽い調子で笑った。
「で、こちらが噂の赤城さん?」
視線が、私に向けられた。
「はい。赤城です。本日はよろしくお願い申し上げます」
「あなたが無敗の女王ね。興味深いわ。ほら、こっちのエースも挨拶なさい」
提督の後ろから、一人の艦娘が姿を現した。
長い茶髪、整った顔立ち、そして——圧倒的な存在感。
その艦娘が一歩進み出ただけで、空気が変わった。
まるで、その場全体が彼女を中心に回り始めたかのような錯覚。
「...大鳳です。本日はよろしくお願いします」
その声は穏やかだったが、その奥に秘められた力を感じ取った。
この艦娘は——強い。
それも、自分とは次元が違うレベルで。
冷や汗が無意識に流れる。だが、負けるわけにはいかない。
「では、模擬戦の説明をしよう」
提督が海図を広げた。
「この海域を使用する。勝利条件は、相手の旗艦——つまり赤城と大鳳の撃破だ」
「了解しました」
「こちらの編成は、赤城、曙、時雨、金剛、明石、龍田の六隻」
「うちは大鳳、翔鶴、瑞鳳、摩耶、鳥海、夕立の六隻よ」
ー翔鶴
赤城の体が、一瞬震えた。
瑞鶴の姉。
だが、今は考えている余裕はない。
「では、配置についてくれ」
ー模擬戦開始
「全艦、配置完了」
曙から通信が入る。
いつも通り冷静に戦場を分析していた。
「敵艦隊、予想進路はこちら。時雨、索敵を」
「了解」
時雨が前方に進出する。
「金剛、龍田は中衛。曙は私の護衛に。明石は後方待機」
「了解デース!」
金剛が元気よく応答した。
序盤は順調だった。
敵の動きを先読みしながら有利なポジションを確保していく。
「さすが赤城さん」
明石が感心する。
だが——
「敵艦隊、接触!」
時雨の報告が入った瞬間、私の体が硬直した。
大鳳率いる艦隊が、視界に入る。
(...これは)
悪寒が走った。
六隻の艦娘が、完璧な陣形を組んでいる。
教科書通りではない、計算し尽くされた配置。
「全艦、展開」
大鳳の声が響いた瞬間、敵艦隊が動く。
まるで一つの生命体のように統制が取れている。
「翔鶴、制空権確保。瑞鳳、索敵継続」
「了解」
空母二隻が即座に艦載機を展開する。
その連携は完璧で隙がない。
「摩耶、鳥海、前衛を。夕立は遊撃」
「任せな!」
全ての動きが無駄なく、大鳳の戦術の一部として機能している。
(...なんて、完璧な)
私は自分の艦隊を見た。
曙、時雨、金剛、龍田、明石。
みんな、私の指示を待っている。
「時雨、回り込んで──」
私が指示を出した瞬間。
「夕立、そこ」
大鳳の簡潔な指示。
夕立が瞬時に動き、時雨の進路を塞いだ。
(読まれた!?)
「くっ!」
時雨が回避するが、その隙に摩耶と鳥海が挟撃の態勢に入る。
「金剛、援護を!」
「了解デース!」
金剛が砲撃するが──
「翔鶴」
大鳳の声。
翔鶴の艦載機が、金剛の砲撃を妨害する。
完璧なタイミングだった。
(全部...全部読まれてる!)
私の思考を、まるで見透かしているかのように、大鳳は動いていた。
次の手を考える。
しかし、その指示で動く前にすでにそれに対応される。
(どうして...)
私の額に、汗が流れた。
(どうすれば...)
大鳳の指示は最小限だった。
「そこ」「前」「待て」
ただそれだけで、艦隊全体が完璧に動く。
そして──大鳳自身の動きも、圧倒的だった。
私の艦載機が攻撃を仕掛ける。
だが、大鳳は最小限の動きでそれを回避し、カウンターを仕掛けてくる。
その反撃は正確無比で、私の防御態勢の隙を的確に突いてきた。
(圧倒的に...強い)
戦術、連携、個人技──全てにおいて、この人は私より上だ。
「赤城さん、指示を!」
曙の声が響く。
でも──
私の思考が、止まっていた。
どう動けば──
どうすれば──
相手の動きが読めない。
いや、読んでも対応できない。
こんな感覚、初めてだった。
瑞鶴を失った、あの時以来。
(負ける...?)
(私が...?)
「──そこ」
大鳳の声。
その瞬間、敵艦隊全体が一斉に動いた。
まるで、私の指揮系統が停止していることを見抜いたかのように。
「目標、敵旗艦」
大鳳の声は冷静だった。
「全艦、集中攻撃」
翔鶴と瑞鳳の艦載機が、私への進路を切り開く。
摩耶と鳥海が、援護に来ようとする金剛と龍田を牽制する。
夕立が、時雨を完全に抑え込む。
そして──大鳳自身が、私に向かって進んでくる。
「まずい!」
曙が叫んだ。
「赤城さん!」
曙が私の前に飛び出した。
「曙!? ダメ!」
敵の集中砲火が、曙に直撃する。
「きゃあっ!」
曙が大きく被弾し、体から煙が上がる。
「曙!」
私の叫びも、虚しく響くだけ。
「...へ、平気よ。これくらい」
だが、強がりなことはすぐわかった。
曙が膝をつき、うなだれる。
装備が大きく損傷し、もう戦闘不能だ。
「曙! もう無理だよ、そんな体じゃ...」
「赤城、時雨も私を庇って被弾しています。我が隊はもう限界です...」
時雨や明石の声に苦痛が混じる。
「金剛もダメージがひどいデス...」
味方艦隊が、次々と損傷していく。
一方、敵艦隊は──ほぼ無傷だった。
(もしかして負け...?)
「赤城さん」
明石が苦しそうに言った。
「相手との差は歴然です。もう、降伏しましょう。模擬戦ですし...」
「はあ、今回は相手の方が一枚上手だったってわけね。これ以上は意味ないわ」
龍田も同意する。
だが──
私の脳裏に、ある光景が浮かんだ。
提督が、失望した目で私を見ている最悪の光景だ。
ー使えない
ー期待外れだ
ーもういらない
前の司令官と同じ言葉を、今の提督が口にする──
それは私にとっては「死」よりも恐ろしいものだった。
(いや...)
心臓が、激しく鳴る。
(いやだ...)
息が苦しい。
(負けたら...)
(提督に見放される...私の存在意義がなくなる!)
「いや...」
私は呟いた。
「いやです...!」
「...赤城?」
「負けられない! 負けは許されないの!!」
私の声が震えていた。
恐怖で、体が震えていた。
「私は勝たなきゃいけない! 提督のために!」
「赤城さん! 落ち着いて──」
明石の声も、もう私には届いていなかった。
視界が狭くなる。
耳鳴りがする。
ただ一つ、「勝たなければならない」という恐怖だけが、私を支配していた。
「全艦、ここで待機!撤退でもいいわ!! 私一人で大鳳を討つ!」
「え!? 単独で!?」
「行く!」
私は単独で、敵艦隊に向かって突進した。
「大鳳! 赤城が、単独で来ています!」
「は!? 正気かよあいつ!」
敵艦隊が動揺する声が聞こえた。
でも、私にはもう何も見えていなかった。
ただ前へ。
大鳳を倒さなければ。
勝たなければ。
「...翔鶴、阻止して」
「了解──」
翔鶴の艦載機が私を狙う。
私の装備が損傷する。
痛い。
でも、止まれない。執念の前進が、その気迫が少しずづ大鳳を震えさせる。
「瑞鳳、迎撃なさい!」
瑞鳳の攻撃が、私を更に傷つける。
「摩耶、鳥海も!!」
二隻の重巡が、私に砲撃を浴びせる。
私の装備がボロボロになっていく。
体が痛む。視界が歪む。
それでも──私は進み続けた。
「赤城さん! もう無理です!」
明石の声が聞こえた。
でも、止まれない。
(勝ちこそがすべて!!)
「夕立!止めなさ-」
「あ、あれ!? 赤城は...」
だが、私は既に通過していた。
損傷した体で、無理な機動をして、強引に突破する。
血が流れている。意識も朦朧としている。
それでも──私は、大鳳の眼前にたどり着いた。
「あなた...」
大鳳が、信じられないという顔で私を見ていた。
その目に、一瞬の硬直が見えた。
(今だ!)
「そこぉぉぉっ!!」
私は最後の力を振り絞り、残された艦載機全てを放った──
「そこまで!! 全艦撤退せよ!これは命令だ!全艦撤退せよ! 模擬戦は終了だ!」
提督の声が、海域全体に響き渡った。
私の艦載機が、大鳳の直前で停止する。
「え...?」
私は呆然とした。
(どうして!あと少しで...)
(あと少しで、勝てたのに!)
「全艦、戦闘停止。直ちに帰投せよ」
提督の声は、厳しかった。
いつもの優しさは、そこにはなかった。
ー執務室
治療を受けている間も、私の頭の中はあの瞬間で止まっていた。
あと少しだった。
あと少しで、大鳳を倒せた。
勝てた──
(どうして提督は...)
私の回復には数日がかかった。
その間、私はずっと模擬戦のことを考えていた。
「赤城、入るぞ」
提督の声。
私は包帯を巻かれた体で、ベットから起き上がろうとしたが、提督は黙ってそれを制止した。
「体の具合はどうだ、楽になったか」
「...はい。問題ありません。数日もすればまた復帰できると思います」
「...そうか」
「...どうして止めたんですか。私あのまま行けば勝てました!」
心配してくれている提督を横目に、私はどうしても聞かずには入れなかった。
「あと一歩で、大鳳を倒せたのに!...提督に勝利を届けられたのに...」
「赤城」
提督の声は、冷たかった。
声色こそ落ち着いているが、静かな怒りがにじみ出ていた。
(...え?)
胸が、ざわついた。
「お前、自分の状態を見たか?」
「え...?」
明石が差し出した鏡に、私は自分の姿を見た。
体中に包帯。装備は完全に破損している。
当然だ、かなりの被弾をしたからだ。
「確かに、あの状況なら大鳳を倒せたかもしれない。だが...その後どうなる?」
「それは...」
「お前は確実に、敵艦隊の集中砲火を受けて沈んでいた」
提督が私を真っ直ぐ見つめた。
その目には、怒りがあった。
(提督が...怒ってる?)
(私に?)
「それを、勝利と呼ぶのか?」
「た、確かに私は沈んだかもしれません! でも、旗艦を倒せば──勝利条件は達成できます!」
私は必死に訴えた。
(わからない)
(何が間違ってるの?)
「模擬戦の目的は勝つことです! 私は勝とうとしただけです!」
「赤城!」
提督の声が、一段と厳しくなった。
私の体が震えた。
「勝利とは何だ?」
「...目的を、達成すること...です」
「違う。そもそもそこから間違っている」
提督が一歩、私に近づいた。
その目は、今まで見たことのない厳しさだった。
「あの時、曙が身を挺してお前を守った。時雨も金剛も、お前を信じて、お前のために傷ついた」
「それは...」
(仲間...)
ああ、そうだった。
私は、仲間のことを考えていなかった。
「だが、お前は仲間を置いて、単独で突っ込んだ。仲間の犠牲を無駄にして、そして最後、自分をも犠牲にしようとした」
提督の声が震えた。
「それが、お前の言う勝利か?」
私は──何も言い返せなかった。
胸が、苦しい。
息ができない。
「違います...私は、ただ..提督のために!──」
「俺のために?」
提督が私の手をぎゅっと握りしめた。
その手が、痛いほど強く。
「俺は、お前にそんなことを望んだことはない」
「...え?」
(望んでない...?)
ーでも、私は提督のために勝たなければ
ーそうしなければ、見捨てられる
提督が真っ直ぐ私を見つめた。
「お前が、仲間と共に、無事に帰ってくること、俺の望みはそれだけだ」
その言葉に、私の体が震えた。
(...え?)
(勝利じゃない?)
(じゃあ、私は...)
「本当の勝利とは、目的を達成し、なおかつ全員が生きて帰ることだ」
提督が静かに、しかし確固とした声で言った。
「お前が沈んで得た勝利なんて──俺は、絶対に認めない」
その瞬間、何かが崩れた。
私の中で、何かが音を立てて崩れ落ちた。
涙が、溢れてきた。
「でも...私が負けたら、提督は私を見捨てるんじゃ──」
「見捨てる?」
提督が首を横に振った。
「お前は、まだそう思っていたのか」
提督が私の頭に手を置いた。
その手は、温かかった。
「いいか、赤城。俺はお前を信じている。二度と前のような思いはさせない」
「...っ」
涙が止まらない。
「勝っても、負けても、それは変わらない。あくまで副産物だ。お前は俺の大切な仲間だ」
(仲間...)
(私は、仲間...)
「だが」
提督の声が、再び厳しくなった。
「お前が自分の命を粗末にするなら──それだけは、絶対に許さない」
私は──その場に崩れ落ちた。
涙が、止まらなかった。
「ごめんなさい...ごめんなさい...」
私は何を、していたんだろう。
提督のため、と思っていた。でも、本当は自分のためだった。
見捨てられたくない。
認められたい。
必要とされたい。
そのために、仲間を犠牲にした。
曙を、時雨を、金剛を。
みんなを、傷つけた。
「提督...私...」
「赤城、よく聞け」
提督が私の頭に手を置いたまま、静かに言った。
「はい...」
「『戦うため』に生きるな。『生きるため』に戦え、どんなにみじめだっていい、どんなに不甲斐なくたっていい、ただ、自分を生かし、周りを生かす、それだけに全力を注げ」
その言葉が──私の心の奥深くに、染み込んでいった。
「その順番だけは間違えるな。...いいな」
私は、泣き続けることしかできなかった。
提督の手が、私の頭を優しく撫でている。
(ああ...)
(私は、間違っていた)
(ずっと、間違っていた)
窓の外に、夕日が沈もうとしていた。
私の、長い一日が終わろうとしていた。