海は、穏やかだった。
それが——かえって不気味だった。
「索敵、異常なし」
時雨の声が通信に入る。
「引き続き警戒を」
前方を見据えたまま答えた。
出撃から二時間。
予定海域まであと少し。
空は晴れ、波は低く、風もない。
作戦通りに進んでいた。
なのに——胸の奥に、小さな違和感があった。
(静かすぎる)
「大鳳」
隣を並走する大鳳に、赤城は小声で呼びかけた。
「...私も、感じています」
大鳳が静かに答えた。
二人の間に、言葉にならない緊張が流れた。
「敵の偵察が、一度も来ていない」
「この海域に入ってから、ずっと...ですよね」
「ええ」
「向こうは——私たちの動きを、既に把握しているのかもしれない」
大鳳が頷いた。
その目が、鋭くなった。
「赤城さん、陣形を変えた方がいいと思います。今の隊形では——」
「第一波、接触!」
時雨の声が響いた。
敵の第一波は想定通りだった。
軽量の偵察部隊。
数は多いが、練度は低い。
「金剛、龍田、前衛を抑えて。大鳳艦隊は右翼から回り込みます」
「了解デース!」
「はーい♪」
作戦通りに動く。
陣形が噛み合い、敵の第一波が崩れていく。
「第一波、突破です」
明石の声に、艦隊に小さな安堵が流れた。
だが——赤城は前を向いたまま、その安堵を受け取らなかった。
(やはりおかしい...)
(手ごたえがなさすぎる)
「全艦、隊形を整えて。第二波に備えます」
が海図を確認した瞬間。
「——赤城さん!!」
大鳳の声が、鋭く響いた。
赤城が顔を上げた。
前方の海面に——影が現れた。
一つ、二つ、三つ——止まらない。
(多すぎる...!)
想定していた第二波の、倍以上。いや——それ以上かもしれない。
考えうる限りの最悪のシナリオを想定した。
でも、現実はそれをはるかに超える絶望だった。
「全艦、警戒!敵第二波——想定戦力を大幅に超えています!」
ただ声だけが海域に響いた。
私は頭を高速で回転し続ける。
ー撤退か、突破か。
撤退するには材料がたりない。
でも——突破を選べば、被害が出る可能性もある。
(全員を、生かして帰す)
その言葉が、胸の奥で響いた。
「大鳳、聞こえますか」
「聞こえています」
「様子を見て突破か撤退の選択をします。ただし——陣形をこう変える」
私は素早く指示を出した。
考えうる限りの最悪を更新し続け、それに対策を打つ。
「金剛と摩耶で前衛を厚くして敵の砲撃を分散させます。その隙に中央を割る。大鳳艦隊は私たちの左翼を守りながら前進を」
「...それだと赤城艦隊の右翼が薄くなります」
「曙と時雨で補います」
「二隻で?」
「できます」
赤城は言い切った。
一瞬の間があった。
「——わかりました。信じます」
大鳳が答えた。
その一言が——赤城の背中を、静かに押した。
陣形が変わった。
敵の砲撃が、金剛と摩耶に集中する。
「くぅっ、熱いデース!でも——まだまだァ!」
「おらぁ! そんなんで負けるかよぉ!」
二隻が前衛で踏ん張る。
その隙に、中央に穴が開く。
「今です——全艦、前進!」
艦隊が一斉に動いた。
赤城は前を見た。
大鳳が左翼を完璧に固めている。
翔鶴の艦載機が制空権を確保する。
夕立が敵の遊撃部隊を抑え込む。
噛み合っていた。
二つの艦隊が、一つの生命体のように動いていた。
(いける)
(このまま——)
その時だった。
「右翼、敵の増援——!!」
「右翼...」
時雨の声が、途切れた。
「時雨?」
「...おかしい」
時雨の声に、普段ない動揺がにじんでいた。
明らかな異常。
それだけで——赤城の背筋が凍った。
「時雨! 状況は!」
「索敵に——何も映っていない。...なのに」
その言葉の意味を理解した瞬間。
海面が——割れた。
影が現れた。
一つではない。二つでもない。
赤城の頭が、瞬時に数えた。
(六、七、八——)
(どこから)
(索敵に引っかからなかった...新型?)
「——敵、右舷真横より急速接近!!」
戦闘とは常に選択を強いられる。
時雨の叫びが響いた瞬間、既に砲撃が始まっていた。
索敵を潜り抜けた敵。
作戦に存在しなかった第三波。
しかも——真横から。
(まずい)
頭が動いた。
でも、体が追いつかなかった。
「曙、時雨——右に回避!今すぐ!!」
「——オソイ!!」
敵の砲撃が、一斉に右翼へ叩き込まれた。
時雨が反射的に回避する。
その動きは紙一重で、爆炎が時雨の真横を抉った。
でも——曙は。
(まずい! 曙はまだ、体の怪我が!)
回避が——わずかに、遅れた。
「曙——!!」
声はー届かなかった。
敵の砲撃が曙を直撃した瞬間、私には何も見えなかった。
爆炎。
煙。
そして——
「きゃあっ——!!」
曙の声が、海に溶けた。
煙が晴れた先に——曙の姿がなかった。
(曙は...!)
一秒にも満たない時間が、無限に引き伸ばされた。
海面に、曙が沈んでいた。
「曙!!」
赤城が動こうとした。
その瞬間——大鳳が既に動いていた。
左翼の陣形を完全に崩して、信じられない速さで右翼へ回り込む。
敵の第二射が大鳳に直撃した。
装備が損傷する。
それでも——速度を落とさなかった。
「——っ!!」
大鳳が曙の腕を掴んだ。
自らの体を盾にしながら、引き上げる。
「大鳳!!」
「——私は大丈夫です。曙さんは」
大鳳が曙の状態を確認する。
曙の体から、煙が上がっていた。
装備が大きく損傷している。
意識は——あるが、かすれていた。
その目が、赤城を探すように動いた。
「......赤城、さん」
「曙!しゃべらないで! すぐに応急処置を...」
曙が薄く目を開けた。
「ごめん...ね?」
赤城は、一瞬言葉を失った。
「...こんな時に何を!」
絞り出すように、ぽつりぽつりと曙は言葉を紡ぐ。
「私...また、赤城さんを困らせてる...」
曙が目を細め、私の手を握る。
「...どうして」
(引きづってでも戦闘に参加させるべきじゃなかった...私の判断ミスだ...)
泣きそうになりながら曙の手を握ると、消え入りそうな声が聞こえる。
「でも——来てよかった...」
「曙...」
「赤城さんが....ちゃんと指揮してるの、この目で見れたから...」
曙の声が、遠くなっていく。
「今日の...赤城さん..は...ちゃんと、私たちを見てた...うれしかっ...た」
それだけ言って——曙の意識が、落ちた。
(なぜ)
頭の中で、同じ問いが回り続けた。
こうなってしまった原因を必死に探している自分がいた。
(なぜ、索敵に引っかからなかった)
(なぜ、真横から)
(なぜ、想定できなかった)
最悪のシナリオが現実となった。
悪いことにその想定の外側から。
数や規模ではなかった。
方向が、手段が、全て——読めなかった。
(私は...また...)
「——赤城さん!!」
大鳳の声が、鋭く飛んだ。
「今は——指揮官でいてください!!」
赤城は——歯を食いしばった。
視界を前に向けた。
涙を飲み込んだ。
(曙は、大鳳が守っている)
(今の私にできることは——全員を、ここから生きて返すこと!)
「全艦——撤退!!」
赤城の声が、海域に響き渡った。
「任務より帰還を優先します!全艦、隊形を組んで撤退!!」
「了解!」
「了解デース!」
「わかりました!」
艦隊が動いた。
大鳳が曙を抱えたまま後退する。
金剛と摩耶が殿を務める。
赤城は最後尾で、全員が撤退するのを確認した。
一人、また一人。
全員が——いた。
(行くぞ)
「全艦、全速前進——帰投します!!」
鎮守府が見えた。
私は振り返った。
全員が、いた。
傷ついていた。損傷していた。
でも——全員が、いた。
曙だけが、意識を失っていた。
私は前を向いた。
これが、本当の戦場か。
これが——まだ、私には足りないものか。
鎮守府の港が、近づいてくる。
赤城は歯を食いしばったまま、前だけを見ていた。