何でもない朝のことだった。
食堂で一人、朝食をとっていた。
提督が現れた。
「おう、赤城。早いな」
「提督こそ。珍しいですね、この時間に」
「書類が溜まっててな」
提督が隣の椅子を引いて、座った。
それだけのことだった。
なのに——頬が、じわりと熱くなった。
(......え?)
私は味噌汁の椀に視線を落とした。
(なぜ)
(ただ、隣に座っただけなのに)
「赤城? 顔が赤いぞ。熱か?」
「——いいえ! なんでもありません!」
「そうか。無理するなよ」
提督はそれだけ言って、朝食に向かった。
私は椀を両手で持ったまま、動けなかった。
その夜。
自室の窓から、海を見ていた。
静かな夜だった。波の音だけが、遠く聞こえていた。
(この気持ちは、なんだろう)
提督のそばにいると——胸が、うるさくなる。
名前を呼ばれると——どきりとする。
お茶を一杯運んだだけで——なぜか、満たされた気持ちになる。
今まで、こんな感覚は知らなかった。
今まで提督に感じていたのは——「依存」だった。
見捨てられたくない。
認められたい。
必要とされたい。
それは恐怖から来る感情で、提督は「赤城を安全にする人」だった。
でも——今感じているこれは。
(怖くない)
ただ、温かい。
提督が笑っていると——嬉しい。
提督が疲れていると——心配になる。
提督のことを、もっと知りたいと思う。
提督の隣にいると——それだけで、いい。
私は気づいた。
これは、あの時とは違う。
あの頃の私は、提督を「失いたくないもの」として見ていた。
今の私は——提督を、「一人の人間」として見ている。
それが恐怖ではなく、ただ——好きだという気持ちから来ている。
窓ガラスに映った自分の顔を見た。
頬が赤かった。
(......困った)
でも——不思議と。
悪くなかった。
翌朝。
食堂に提督が現れた瞬間、金剛が立ち上がった。
「テートク——!!おはようございますデース!!」
「おう、金剛。今日も元気だな」
「テートクの顔を見たら元気になりますデース!!」
「そ、そうか、それはよかった」
提督が席に着いた。金剛が即座に隣に滑り込んだ。
腕を絡ませぐいぐいと行く金剛に若干困っている提督を気にせず
金剛は飄々と切り込んでいく。
「テートク、今日の朝食は私が——」
「金剛さん」
赤城が静かに割り込んだ。
「今日の訓練の件で、少し確認が」
「え? 今からデスか?」
「今でないとダメなんです」
金剛が渋々立ち上がった。
「くっ…テートク、少し席を外しますデース! また後で!!」
「ゆっくりでいいぞ」
金剛を廊下に連れ出した。
廊下で、金剛が頬を膨らませた。
「赤城、邪魔しましたネ!」
「...邪魔したのではなく、止めたんです」
「同じデショ!」
「金剛さん」
赤城が静かに言った。
「今、何を言おうとしていましたか」
「何って提督への愛のこもった朝ごはんを—」
「そういうことを聞きたかったわけでは...」
「好きな人には好きって伝えるべきデス!」
「わ、わたしだって...」
「私だって?」
「っ...! もう...なんでもないです」
廊下でのやり取りを終えて、赤城は食堂に戻った。
提督はすでに朝食を半分ほど片付けていた。
向かいに座りながら、気づかれないようにそっと横顔を盗み見た。
『好きな人には好きって伝えるべきデス!』
(...好き、か)
昨夜自覚したことが、金剛の言葉でまた胸の中でじわじわと増殖しているのを感じた。
(困ったものですね)
でも——悪くはない。
「赤城、金剛は?」
「少し野暮用が」
「そうか...なんだったんだ...」
提督がお茶を一口飲んだ。
それだけのことで、赤城の頬がまた熱くなった。
(...本当に困ります)
午前の訓練を終え、書類を届けに提督室の前を通りかかったときのことだった。
扉が少し開いていた。
中から、声が聞こえた。
「——提督、ちょっといい?」
時雨の声だった。
「どうした」
「資材の発注の件で、確認してほしくて」
書類をそっと差し出す気配がした。
「わかった。見ておく...ん? どうした、ほかにも用か?」
「...あの——その後、もし時間があれば...お茶でも、どうかと思って」
短い沈黙。
「お茶か。まあ、書類が片付いたらな」
「はい。待っています」
廊下で少し止まった。
(時雨さん...)
おっとりとした、静かな子だと思っていた。
まさかそういう形で——
(いえ。別に、驚くことではないでしょう)
書類を抱え直し、足を動かした。
昼食のあと格納庫の前を通ると、明石がいた。
提督と並んで、艦載機の整備状況を確認していた。
「——ここの部分、もう少し補強したほうがいいと思うんですけど。あの、提督はどう思いますか?」
「うーん...すまん、専門的なところは少し不得手でな...」
「あ、いえ!すみません!その...提督の意見も聞いてみたくて...なんて」
「ははっ! なんだそれ」
明石が少し頬を赤くしながら、提督の顔を覗き込んでいた。
(...明石さんまで)
格納庫の入り口から、そっと引き返した。
夕方。
厨房の前を通ると、龍田がいた。
「あら、提督。今夜は少し趣向を変えてみようかと思って」
「どんな趣向だ」
「ふふ、秘密。でも——提督のお口に合うといいんだけどね」
龍田が振り返った瞬間、目が合った。
「あら赤城さん。どうしたの?」
「...いいえ。何も」
龍田がくすりと笑った。
「そう?」
意味ありげな笑みだった。
会釈をして、その場を離れた。
夕暮れの廊下で、赤城は一人、壁にもたれた。
(...なるほど)
思いの外、頭の中が静かだった。
動揺しているかと思ったが——そうでもなかった。
怒りでもない。
焦りでもない。
ただ——何とも言えない、ふわふわとした困惑が、胸の中にあった。
赤城は小さくため息をついた。
(...私は、どうしたいのでしょう)
答えは出なかった。
ただ——さっき、格納庫の前で引き返したとき。
明石の隣で笑っていた提督の横顔を見て。
(あんな顔を、私にも向けてくれたら)
そう思ったのは——確かだった。
(...本当に、困りました)
廊下の窓の外、海が夕焼けに染まっていた。
しばらく、その色を見ていた。
金剛、時雨、明石...そして龍田まで。
提督の魅力に気づいてから鮮明に好意を色濃く感じる。
そして極めつけは...翌朝のことだった。
赤城が中庭を横切ろうとしたとき、声が聞こえた。
「べ、別に、あんたのために持ってきたわけじゃないから」
曙の声だった。
思わず足を止め、木の陰から、そっと覗く。
曙が——提督にお茶を差し出していた。
両手で。
顔を、完全に背けながら。
「...曙、顔がそっち向いてるとお茶が渡せないぞ」
「う、うるさい! 渡せてるでしょ!!」
「...その、俺の手に当たっていてだな...」
「当たってる!!」
「うん、危ないから、こっちを向いてくれないか」
「——もうっ、ほら!!」
ぐいっと向き直り、半ば押しつけるようにお茶を渡した。
「...ありがとう」
「べつに」
沈黙。
「...あんたさ」
「なんだ」
「...昨日、明石と格納庫にいたでしょ」
「ああ、整備の確認で」
「ふーん」
また沈黙。
「...あんなとこでうろうろしてると、邪魔になるんだから。整備中は危ないし」
「そうだな、気をつける」
「そういうこと言いたいわけじゃないけど」
「じゃあ何が言いたい」
「べっ、べつに! なんでもない」
曙が、ぷいと顔を背けた。
耳まで赤かった。
赤城は木の陰で、小さく息をついた。
(...曙さん...はまぁ予想通りですが)
そっと中庭を迂回した。
なんとなく——真正面から通る気になれなかった。
廊下に出て、少し歩いて、ふと立ち止まった。
(...おかしいですね)
嫌な気持ちは、しない。
曙のことも、時雨のことも——みんな、知っている子たちだ。大切な艦娘たちだ。
ただ——
(私は)
(あの人の隣で、何をしているのでしょう)
朝食を、ただ並んで食べている。
お茶を、ただ運んでいる。
書類を、ただ届けている。
(それだけで、頬が赤くなっていた)
(それだけで、満たされた気持ちになっていた)
(...私はずいぶん、地味ですね)
そう思ったら——なぜか、少し可笑しくなった。
声には出さず、そっと口元を押さえた。
(金剛さんに話したら、笑われそうです)
でも——それでいい、とも思った。
派手なアピールは、私には似合わない。
そばにいて、ただ——あの人の日常の一部でいられるなら。
それで、十分かもしれない。
(...いいえ)
赤城は廊下の先を見た。
(本当に十分かどうか——それは、まだわかりませんが)
胸の中で確かに、動いていた。
その日の夕方、提督室に書類を届けに行った。
ノックをすると、しばらく間があった。
「...どうぞ」
くぐもった声だった。
扉を開けると——提督が机に突っ伏していた。
書類の山の中に、顔を埋めるようにして。
「て、提督?」
「...ああ、赤城か」
動かない。
書類を脇に置いて、提督の顔を覗き込んだ。
目の下に、薄くクマがあった。
「...眠れてないんですね」
「...少しな」
「少し、というのは」
「三日ほど」
赤城は小さく息をついた。
「それは少し、ではありません」
「...そうだな」
提督がゆっくりと身を起こした。
髪が少し乱れていた。
赤城は何も言わず、部屋の隅の棚からブランケットを取り出した。
「...何をする気だ」
「少し休んでください」
「書類が——」
「提督」
私は静かに遮った。
「今夜の書類は私がやります。急ぎのものだけ残して、あとは明日でいい」
「...赤城」
「横になってください」
提督は少しの間、赤城の顔を見ていた。
それから——素直に、ソファに移った。
赤城はブランケットをそっとかけた。
(...こういうとき)
(金剛さんなら、もっと上手く言えるのでしょうね)
(時雨さんなら、もっと優しく笑えるのでしょうね)
でも——私にはこれしかできなかった。
ただそばにいてただ整えることしか。
「...赤城」
「はい」
「...ありがとう」
低い、疲れた声だった。
だが、返事をしなかった。...というかできなかった。
うまく声が出る気がしなかったから。
ただ——机に向かい、書類を一枚ずつ、静かに仕分けていった。
しばらくして、提督の寝息が聞こえ、手を止めた。
振り返ると、提督が目を閉じていた。
ブランケットから、少し手が出ていた。
(...相当疲れていたんですね)
ブランケットの端を、もう少しだけ上に引いた。
それだけのことをして——自分の頬が熱いことに気づいた。
(...また)
窓の外は、すっかり暗くなっていた。
波の音が、遠くに聞こえた。
赤城は机に戻り、書類の仕分けを続けた。
提督が目を覚ますまで、ずっと。
1時間ほどたったころ。
「...赤城」
「目が覚めましたか」
「...ああ。...まだいたのか」
「書類が終わっていませんでしたので」
提督がゆっくりと起き上がった。
少しだけ、顔色が戻っていた。
「...すまなかった」
「いいえ」
「助かった」
「...提督」
机の上に書類を揃えながら、言った。
「無理はしないで、私を使ってください」
「...どういう意味だ」
「...提督が倒れると、困ります」
短い沈黙。
「...お前も、倒れると困る」
「私は艦娘ですから」
「そういう問題じゃない」
手を止めた。
提督の顔を見た。
提督が、まっすぐ私を見ていた。
(...あ)
(この人は)
(こういうことを、さらりと言う人なんですね)
「...肝に銘じます」
やっとそれだけ言えた。
声が、少し上ずっていた気がした。
提督は何も言わなかった。
ただ——小さく、笑った。
私は書類を抱えて、早足で部屋を出た。
廊下に出た瞬間、壁にもたれた。
胸が——うるさかった。
(...本当に困りました)
でも——
(...でも、悪くないですね)
廊下の先、窓の向こうには星が出ていた。