龍田の体が——ぴたりと、止まった。
装備が、下がった。
静寂が、落ちた。
深海の色が——目から、薄れていった。
龍田の色が——戻ってきた。
「...時雨ちゃん」
声が——戻っていた。
龍田の声だった。
時雨の目の前まで来た。
「龍田...なのよね」
「おそらく...様子を見ます」
「時雨ちゃん...ごめんね、動けないのね」
静かだった。
でも——確かな声だった。
時雨が龍田を見つめる。
龍田の目が——時雨の頬を見ていた。
血が、流れていた。
龍田の顔が——歪んだ。
「龍田さん、すぐ——」
「時雨ちゃん」
龍田が静かに言った。
「あなたは本当に...優しい子ね」
時雨の時が止まった。
龍田の目が——揺れていた。
潤んでいた。
龍田が——ゆっくりと、時雨に近づいた。
曙たちが身構えた。
でも——龍田は、時雨だけを見ていた。
時雨の手を取り、おもむろに砲塔を——自分の頭に、向けた。
「また...意識が戻ったら——天龍が、みんなを傷つける」
龍田が続けた。
「...あなたを傷つける」
血の垂れた頬をさすり、悲しそうな顔をした。
声が——震えていた。
龍田の目から——涙が、落ちた。
止まらなかった。
「...お願い」
龍田が静かに言った。
「私を殺して」
時雨が——固まった。
引き金に、指がかかっていた。
でも。
動けなかった。
龍田さんが——泣いている。
いつも笑顔の裏に全てを隠していた人が。
今——泣いている。
隠さずに、泣いている。
(...優しいのは龍田さんの方だ)
この表情を見たことがある。
あの日、暴走した私を助けてくれたのはやはり龍田さんだった。
ごめんなさいと謝罪しながら、悲しそうにだが少し焦った表情で。
私を抱えながら泣いていた。
その時の顔が今目の前にある。
きっと彼女は元来強い人ではない。
だが、弱い感情は見せない。
絶対的な強さをみせ、可能な限り周りを安心させたがる。
そんな優しい人だ。
それもきっと、みんなを守るために。
時雨の目から——涙が、落ちた。
静かに。
首を——横に振った。
「...できません」
声が、かすれていた。
「打てるわけ...ないじゃないですか」
龍田が——時雨を見た。
その瞬間。
何かが——龍田の中で、崩れた。
「時間がないの!」
龍田が言った。
涙を流したまま——声が上がった。
「天龍はもう自分を制御できる状態じゃないの!」
声が——震えていた。
怒りではなかった。
恐怖だった。
大切な人たちが傷つくことへの——限界を超えた、恐怖だった。
「...お願いよ」
龍田が泣きながら言った。
「わかってる、わかってるけど——」
涙が、止まらなかった。
「最後くらい——わがままを、聞いてよ」
時雨が——動けなかった。
砲塔が、龍田に向いていた。
引き金に、指がかかっていた。
でも。
打てない。
龍田さんが泣いている。
龍田さんが泣きながら頼んでいる。
それでも——
「...打ちません」
時雨が言った。
声の震えは止まっていた。
「龍田さんがいなくなる選択肢は取れません」
二人とも——泣いていた。
波が、静かに揺れていた。
しかし、時は来た。
天龍が再び押し返してくる。
龍田の目が深海の色に変わり装備が展開する。
時雨が——動けなかった。
その場から、足が動かなかった。
天龍が——時雨を見た。
ゆっくりと。
砲塔が——時雨に向いた。
急がなかった。
ゆっくりと、確実に——向いた。
「時雨! 早く離れて!! くっ...」
赤城が動こうとした。
近すぎた。龍田を傷つける角度になる。打てなかった。
天龍が——静かに言った。
「ごめん...ね。しぐれ」
「時雨——っ!!」
その声が——まだ空気に残っている間に。
影が——走った。
誰よりも速く。
どこにいたのかも——わからなかった。
提督が——時雨の前に、滑り込んだ。
時雨の体を——抱えた。
そのまま——跳んだ。
天龍の砲塔から——遠ざかる方向へ。
ほんの一瞬の出来事だった。
呼吸一つ分にも満たないほどの。
そして、その瞬間を——待っていた者がいた。
明石だった。
提督が時雨を抱えて跳んだ瞬間——明石は既に腕を振っていた。
懐から——装置を取り出していた。
いつの間に構えていたのか、誰にもわからなかった。
提督が時雨を遠ざけた瞬間だけが——装置を投げられる唯一の瞬間だと、わかっていたから。
「——っ!」
明石が——投げた。
装置が——空を切った。
天龍の体に——直撃した。
光が——広がった。
眩しかった。
「なっ...なによこれ!」
全員が——目を細めた。
光の中で。
龍田の体から——何かが、引き剥がされていった。
抵抗するように。
でも——確かに剥がれていった。
龍田が——崩れるように、膝をついた。
誰も——動かなかった。
波の音だけが、聞こえていた。