鎮守府に戻った。
夜明けの光の中を、全員で歩いた。
誰も、多くを喋らなかった。
天龍の輪郭が龍田の隣を、ふわふわと漂っていた。
揺れていた。
でも、消えなかった。
医務室。
龍田はベッドに横になっていた。
時雨が包帯を巻きながら、黙っていた。
その手がいつもより丁寧だった。
傷に触れるたびに、少し息を止めていた。
天龍はベッドの脇で、じっと座っていた。
龍田から離れなかった。
龍田の手を小さな両手で、握っていた。
「...痛いですか?」
時雨が静かに聞いた。
「大丈夫よ」
「...嘘ですね」
「少しだけ」
天龍が龍田の手を、少し強く握った。
「たつた、いたい?」
「大丈夫よ」
「ほんとに?」
「ええ。ほんとに」
天龍は龍田の手を見た。
包帯が巻かれていた。
自分のせいだと、わかっていた。
「ごめんなさい」
「謝らなくていいわ」
「でも」
「いいの」龍田が静かに言った。「あなたも頑張ったんでしょ」
天龍は黙った。
でも龍田の手を、離さなかった。
時雨が包帯を巻き終えた。
「次からは言ってください。何かあったら...約束です」
龍田は答えなかった。
「僕にできることがあるかもしれない。それだけです」
時雨がまた、包帯の端を確認した。
手が少し、震えていた。
龍田はその手を、見ていた。
この子も、怖かったんだ。
「...ありがとう、時雨ちゃん」
時雨は顔を上げなかった。
でも少し、頷いた。
しばらくして。
提督が医務室に入ってきた。
龍田を見た。
包帯だらけの龍田を、静かに見た。
それから時雨を見た。
「...少し、席を外してくれるか」
時雨が立ち上がりかけた。
その時。
「提督っ!」
時雨が静かにだが力強く提督を見つめた。
「なんだ」
「...龍田さんがしたことはわかっています...でも」
提督が時雨を見た。
「...言及は明日でもいいんじゃないでしょうか」
静かな声だった。
でも引かなかった。
提督はしばらく、時雨を見た。
時雨は目を逸らさなかった。
「...わかった」
提督が静かに言った。
「龍田、時雨、今日はゆっくり休め。話は明日だ」
龍田が時雨を見た。
時雨が小さく、首を振った。
気にしなくていいです、と言っているようだった。
提督が扉に手をかけた。
振り返らずに言った。
「...今度は正直頼むぞ」
扉が静かに閉まった。
ー翌朝。
提督がまた、医務室に来た。
天龍が龍田の隣で、小さく丸まって眠っていた。
龍田の服の端を握ったまま。
提督はその様子を見た。
何も言わなかった。
ただ少し、目を細めた。
時雨がさりげなく、天龍の肩に薄い毛布をかけた。
それから静かに、部屋を出た。
扉が閉まった。
提督が椅子を引いた。
龍田のベッドの隣に、座った。
「...話せるか」
「ええ」
「最初から聞かせてくれ」
龍田が静かに、話し始めた。
天龍のこと。
記憶が飛び始めたこと。
資料室で見つけた記録のこと。
夢の中で天龍と話していたこと。
お母さんがどこかで、囚われていること。
一人で行こうとしたこと。
全部、話した。
話し終えた。
沈黙が流れた。
提督が口を開いた。
「...資料室に入ったのはいつ頃だ」
「二ヶ月ほど前だと思います」
「記憶が飛び始めたのは」
「もう少し前から...気づいていたのは一ヶ月半前くらいです」
「明石には相談しなかったのか」
「いえ...」
「なぜだ」
龍田は少しの間、黙った。
「わかりません。ただ、怖かったから...だと思います」
「怖い?」
龍田は視線を、自分の手に落とした。
包帯が巻かれていた。
「話したら終わりなきがして」
「...」
「この鎮守府にいられなくなる気がして」
提督が龍田を見た。
「深海棲艦と関わっていた。記憶が飛んでいた。仲間を巻き込んだ。...追い出されてもおかしくない。...いえ追い出されるべきです。私が逆の立場ならそうします」
提督はしばらく、黙った。
責めていなかった。
怒ってもいなかった。
ただ龍田の言葉を、受け止めていた。
「それは早計だったな」
提督が静かに言った。
「...たとえお前が自分の意志で深海棲艦と関わっていたとしても、追い出すという選択肢は考えられん」
龍田は答えられなかった。
「...考えられんが」
提督が続けた。
「...一人で抱えていたことは、提督として見過ごせない」
龍田が顔を上げた。
「申し訳...」
そう言いかけた私の言葉を遮り、提督は続ける
「今日のことのほとんどを...お前が消えそうになって、私は初めて知った。...それが一番悔しい」
提督の声が少し、低くなった。
「私がお前を見捨てるかもしれない、その疑念を抱かせたこと、その環境を作ってしまった自分が憎い」
「提督...そんなことは」
「そうか、なら、次からは言え。...それだけだ」
龍田はしばらく、黙った。
この人は怒っているのではなかった。
自分を、責めていた。
胸の奥で何かが、ほどけた。
ずっと、張っていた何かが。
「...わかりました」
「約束だ」
「はい」
天龍が目を開けた。
きょろきょろと、部屋を見渡した。
龍田を見た。
提督を見た。
「てとく」
「なんだ」
「たつた、おこられてた?」
「怒っていないわ」龍田が静かに言った。
「ほんとに?」
提督が天龍を見た。
しゃがんだ。
目線を、合わせた。
「怒っていない」
「うそじゃない?」
「うそじゃない」
天龍はしばらく、提督を見ていた。
それから龍田を見た。
龍田が小さく頷いた。
「うん」
天龍がまた、龍田の服を掴んだ。
提督が立ち上がった。
「お前のお母さんを探す。それは約束する」
天龍の光が少し、明るくなった。
「ほんとに?」
「ああ」
「ぜったい?」
「ぜったいだ」
天龍が龍田を見た。
「たつた、いっしょにいく?」
「もちろんよ」龍田が微笑んだ。「一緒に行くわよ」
天龍がまた、龍田の手を握った。
今度は少し、緩やかに。
安心したように。
窓の外が明るくなっていた。
朝が来ていた。
扉の外で時雨が、息を殺していた。
全部聞こえていた。
龍田さんはずっと、怖かったんだ。
時雨は扉に、そっと手を当てた。
もっと早く、気づけばよかった。
やがて扉が開いた。
提督が出てきた。
時雨を見た。
何も言わなかった。
ただ少し、頷いた。
「時雨ちゃん」
「はい」
時雨がベッドの隣に、静かに座った。
しばらく、二人とも黙っていた。
「時雨ちゃん」
「はい」
「提督に怒られると思っていた」
龍田が静かに言った。
「追い出されるとも」
「...」
「でもそうじゃなかった」
龍田は自分の手を見た。
包帯が巻かれていた。
「...ふふっ私も案外まだ提督のこと信用してなかったのかもね」
時雨は少し、黙った。
「次は言う。約束よ」
時雨が小さく頷いた。
天龍が二人を交互に見ていた。
それから龍田の隣に、ぴたりとくっついた。
「たつた」
「なに」
「たつたもいる」
「ええ」
「よかった」
三人はしばらく、黙っていた。
朝の光が医務室に差し込んでいた。